世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

現実と仮想

2007-09-30 23:54:12 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済

絵に描いた餅は食えないが、
えっを描いた餅なら食える

ブログのデザインに使用のビルは現実の形ある三次元存在です。
そのビルの窓の奥にある「生活空間」も、形は見えないが、存在感はあります。

そこに居る人間は三次元的物質存在でもありますが、その頭の中のノイロン組織の織り成すバーチャル空間、意識も見えないが存在しています。

およそ、科学は「客観的、物質的に観察、証明できること」がその存在価値でありますが、そのように証明できない現象は科学の対象になりにくいとなれば、そういう現象の研究は、なにが請け負うのか。

哲学です。

宗教は、研究もそこそこに、独断と偏見、直感、個人的体験などで「結論」を出してしまいます。証明する責任義務はありません。そういうものなのです。それでいいのです。

哲学は、物質的証明が出来てもよし、出来なくとも論理的に理屈が立てばそれでもよいという、いたってあいまいな人間的営みです。

人間は物質的現実存在(肉体)でありながら、その現実存在の脳=ノイロンでバーチャル・仮想もできる、二股存在です。

ところで、現実的認識も、元を糾せば「電気刺激」でそれは、いたって「二股あいまい」なものでした。

根源的存在の「電磁気波」は粒子性、波動性の両生具有の一見相反するような矛盾存在ですが、現に存在しています。

「無」の概念は「無い」ですが、その言葉、概念、意味の存在が前提のうえで「無い」のです。何よりも優先しているのが「存在感」ではあります。

それで予感するのは、
近い将来、人類は、最終的エネルギーシステム=電気の本質を解明、実用化し、ばら色の世界を実現してしまうことです。

もともと、現実と仮想は「表裏一体」のものとの直感がありますので、予感はいよいよ、現実味を感じるのです。




エサと生物

2007-09-30 00:53:34 | 自然・環境・生活

日本の大学が、年度変わりを「秋期」に移行させることを真剣に考え始めたらしい。動機が不純です。留学生の受け入れを増やすためというのが最大の理由だ。
不純とも言い切れないか。

そもそも、人類が目覚めたのは「秋期」という学説があります。その根拠は、エサ=生きるのに必要な食糧、が潤沢に供給される条件が整うとそれを食べて繁殖する生物の生殖、増殖活動が活発になり、「子」が生まれ育つようになります。
人類の主食は、秋に稔り収穫時期を迎える「穀物」が主でしたので、その穀物をあてにして、人類は秋に繁殖する生き物ということが云われるのです。

そのことにあやかって、大学、あるいは物事のスタートを「秋期」にするのは理にかなっていると思いますが、利にもかなえたいと思う大学関係者の本音を思うと、どこか寂しい。

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