メンバーが選ぶ2015年前半に観た映画で良かった、又は印象的な作品(その1)」の続き。(ブログの制限文字数を超えたので分けました。)
Aさん
先ず一作目は『アメリカン・スナイパー』(2015年米国、原題::American Sniper)クリント・イーストウッド監督。2月相鉄ムービルで鑑賞。良い映画であることは間違いない。いつものイーストウッドの、淡々とした中にじわっと押し寄せる静かな感動もある。が、私は何かが物足りないと思った。それは何か?イラク戦争に反対していたイーストウッドがイラク戦争の英雄を撮ったからか。だからどっちつかずの、言い換えればどっちとも取れる映画になったのか。それはある意味イーストウッドの上手さでもある。
主人公が平穏な家庭からイラク戦争に何度も参戦したモチベーションは何なのか。愛国心か、自己実現か、それとも職業的なものだけなのか。その辺がはっきりせず、戦争に対する思いがいかにもゲーム的な感じがしてしまった。戦場という特別な空間で精神の異常をきたすまでの恐怖を描いた『ディアハンター』や、平和な時間を捨てて革命のために戦場へ行ったチェ・ゲバラを描いた『チェ二部作』なんかと比べると。戦争の後遺症に悩む人間を描き、戦争の意味を問いかけるという同じようなテーマのイーストウッド作品では、私は『父親たちの星条旗』や『グラントリノ』の方が好きだ。
ちなみに戦場での携帯電話使用に関しては、原作を少し立ち読みしたところ、携帯電話ではなく衛星電話と書いてあった。映画で携帯に見えたものは衛星電話だったのかもしれない。あんなに小さい衛星電話があるのかわからないが、あのシーンにはちょっと緊迫感を削がれた。激しい戦場と平穏な家庭、それを繋ぐものはないはずなのに、今の時代がそれを可能にしてしまっていることに見ている側としては入っていきにくいものがあった。それも意図的だったのか、というのは考えすぎだろうか。
(画像上はイラクの戦場で狙撃銃を構えながら、電話(右ほほに当てている)で話をしている主人公クリス。イラクで敵と思われる160人を射殺した実在の英雄。下は米国内の電話相手の妻タヤ。右の画像は実際のクリス(Chris Kyle)と映画に登場するチームメイトの実際のライアン(Ryan C. Job)。クリスはアメリカ海軍の特殊部隊Navy SEALs(ネイビーシールズ)に所属した。実際のクリスは米国帰国後に退役軍人の一人と射撃訓練に出かけた先でその男に殺害されている。)
画像出典:映画.comイーストウッド&クーパーが「アメリカン・スナイパー」を語る特別映像公開 オノ・ヨーコ氏の絶賛コメントも.http://eiga.com/news/20150217/14/ (2015/7/11閲覧):右:MIL-FREAKSアメリカン・スナイパーhttp://www.mil-freaks.com/american_sniper.html(2015/7/11閲覧)
二作目は『繕い縫う人』(2015年日本)。三島有紀子監督。6月旅行先から帰るエールフランスの機内で鑑賞。
祖母の洋裁店を受け継ぐ二代目・南市江は、頑固な職人気質で、祖母のデザインを基にした服の仕立てとその直しだけを丁寧に行っている。そんな市江の評判を聞きつけたデパートの婦人服企画営業マンが、市江に彼女のデザインによる服のブランド化を提案する。しかし、あくまでも従来のやり方と一点ものにこだわる市江はその依頼を撥ね付ける。
南洋裁店のレトロな佇まいと遠景に海を臨む神戸の街並みがマッチして美しい。加えて主役の市江は私が大好きな中谷美紀。洋服を作る以外には何もできない、ある意味不器用な女性を実に魅力的に奥深く演じた。彼女が仕事場で古い足踏みミシンを踏む。窓辺からは柔らかい光が筋状に入ってきて、彼女のシルエットを浮き上がらせる。まさしくフェルメールの絵のようだ。このワンシーンだけで、この映画は成功していると言える。デパートの営業マン役の三浦貴大も、彼女を見守り尊重する男性の役を好演。衣装、美術が総じて品があり美しい。
この原作はコミックで、大人の女性に圧倒的な人気があるというのもうなずける。大きな展開は無いが、服と人生の関係を捉えつつ、全体にゆったりとした癒しの時間が流れる映画だ。上映館は全国的に少なかったようだが、できれば大きな画面で観たかった。
(下の画像は主人公市江(中谷美紀)がミシンで縫物をしている。フェルメールの絵のように右からの光が入る)
画像出典:『繕い裁つ人』予告編http://special.movies.yahoo.co.jp/detail/20141118372844/(2015/7/11閲覧)
Uさん
仕事を少なくしたので映画館には月に2、3回行けるようになりました。さて前半期の印象に残ったものを紹介します。
一番目は、『グローリー明日への行進』(2015年米国、原題:Selma〔セルマ。アラバマ州の工業都市の名前です〕)。1965年にアラバマ州セルマでキング牧師の指導の下に、選挙権取得のための有権者登録を求めて立ち上がった黒人のデモ隊を、白人警察官たちが暴力で鎮圧、それがテレビで放映されると、全米の関心事となり、白人を含めた大きな声となっていく映画です。50年も前に起きた事件を、事実をそのままに淡々と描いているのですが、久しぶりに映画の迫力を感じました。
キング牧師が使命感と家族の間で苦悩する姿、何度拒絶されても諦めずジョンソン大統領を説得し、さらに仲間に呼びかけていく迫力ある言葉が強く伝わってきました。そしてどんなに厳しい状況下でも冷静で的確な判断をしていくキング牧師の姿が、とても印象的でした。しかし50年後の現在でも、アメリカでは教会に白人青年が銃を乱射して黒人9人を殺害するということが起きています。まだまだ差別社会は根強く残っているのです。
(画像左は脅迫を受けるキング牧師の家族。画像右は実際のセラマSelmaからモントゴメリーまでの50マイル(約80Km)の行進の様子。最前列の右から2人目がキング牧師、手を繋いでいるのは妻〔Coretta Scott King〕)
画像出典:左:グローリー/明日への行進 本予告https://www.youtube.com/watch?v=-dvVAgIV_-I(2015/7/4閲覧):右:Selma cellmate of the Rev. Martin Luther King Jr. recalls civil rights leader who would be 86 http://www.al.com/living/index.ssf/2015/01/selma_cellmate_of_the_rev_mart.html(2015/7/4閲覧)
二番目は『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2015年台湾、原題:KANO。)
戦前、台湾がまだ日本の統治だった1929年に、台湾の農林学校野球部に新任監督として来た日本人監督と部員たちが、甲子園という目標に向かって力を合わせていくものです。このチームは、日本人、台湾人、先住民の混成チームで個人個人バラバラのチームだったのですが、監督がそれぞれの特異性を引き出して、混成チームの力をなん倍にもしていくのです。最初は回りからバカにされていたチームが甲子園て準優勝したときは、久しぶりにスボーツ映画で感動させられました。台湾で大ヒットしたというのも納得しました。
(下の画像左は甲子園でのチームと監督を引き受けた近藤兵太郎(永瀬正敏)中央。右は実際のKANO野球部)
画像出典:左:KOTOBANOHAKOhttp://kotohako.com/1703/(2015/7/4閲覧):右:File:1928臺灣嘉義農林棒球隊 KANO Baseball Team of TAIWAN.JPGhttps://commons.wikimedia._KANO_Baseball_Team_of_TAIWAN.JPG(2015/7/4閲覧)
三番目の映画は『リピーテッド』(2015年英仏スウェーデン合作、原題:Before I Go to Sleep)です。
過去に受けた頭への暴力で、前日までのことを次の朝には忘れてしまうという記憶障害を負い、夫と称する献身的な男と暮らしている妻が、過去をたどっていくうちに恐ろしい真実を知っていくというものがたりです。観ているときには、サスペンスホラーとしてよくできた映画だと思いました。誰を信じていいか、記憶ができない彼女には敵味方の判断ができないからです。しかし、そのあと思ったのは、人を信じること(愛すること)が過去の記憶によって、いかようにも変わってしまうという怖さでした。生まれて初めて見たものを親だと認識する鳥のように、人の判断基準も危ないものだということです。今の日韓関係なんかもそんなものかもしれませんね。
(誰かが私を殺そうとしたのか?画像左の夫だというベン(コリン・ファース)と右の医者だというナッシュ(マーク・ストロング)のふたりの言うことは全く合わない。中央は命が狙われているかもしれない主人公クリスティーン(ニコール・キッドマン)。真実を探る展開に息をのむ。)
画像出典:『リピーテッド』映画オリジナル予告https://www.youtube.com/watch?v=EqFwrEIwGig(2015/7/8閲覧)
S.Tさん
ベストは『あん』(2015年日本)です。
どら焼き屋『どら春』に老婦人(樹木希林)がアルバイトを申し出る。その人は「あん作り」にとても情熱を持っていた。その老婦人の人生を描く。いつまでも余韻が残るとても良い作品でした。プログラムを見ると一層味わい深くなるので、ポイントを以下にまとめておきます。ストリーが分かっても味わい深い本物です。「あん」作りのプロセスも興味深い。
1、河直美監督は俳優に役と同じ生活を要求し、表現のリアリズムを徹底的に追及している。以下その例。
(1)どら焼き屋「どら春」の店主千太郎(永瀬正敏)は撮影中「どら春」の2階の「小汚い部屋」(樹木希林談)で、コンビニ弁当を食べながら生活した。撮影現場のスタッフは『千太郎さん』と呼び永瀬さんと呼ぶことはなく、スタッフとの「おはようございます」や「お疲れ様」という役から離れた会話は一切ない。24時間役に成りきる。撮影していないときに、撮影とは知らずにどら焼きを買いに来た人には、『千さん』が実際に販売する。営業届を出していないので買ったお客さんをスタッフが追いかけて行き、料金の返金をしている。
(2)樹木希林も撮影中はハンセン病療養所(多摩の全生園)で実際に生活してほしいといわれたが、療養所の許可が出ずこれは実現しなかった。全生園の実際の内部が多くのシーンで使われている。
(3)「ワカナ」役の内田伽羅はハンセン病療養所全生園の近くのアパートに住みそこから自転車で撮影現場に通う。母親役の水野美紀がそのアパートに3日泊まり、ご飯を作ったり、一緒に遊園地に行ったりなど、一般的な母親と同じ様な時間を過ごしてから撮影の親子の場面になっている。
(4)「ワカナ」役で樹木希林の孫の内田伽羅は一般募集のオーディションで「自分の性格について」「台本を読んでワカナについてどう思ったか」などを監督が聞いて決めている。樹木希林の孫だから決めたという単純なものではない。樹木希林が演ずる徳江とは赤の他人の役なので、樹木希林とは必要な場面以外で顔を合わすことはなく、会話も台詞以外一切ない。なお、徳江さんが療養所に入った歳は14歳で「ワカナ」役の内田伽羅は同じ14歳である。ここにも河監督の狙いがあると思う。
2、徳江さん(樹木希林)のモデルになった人が鹿児島の療養所に実在、樹木希林によれば85歳。
3、樹木希林は舞台となったハンセン病多摩療養所の人から、『面白い人が鹿児島の療養所にいる。』と聞いて、先方に連絡もせず一人でふらりと出かけて、会いに行った。樹木希林とその人との話は面白いが割愛、プログラムを見てください。ただ、「帰る時にそのおばさんが作った、油で揚げたお菓子を新聞紙に包んでくれるので『いらない』って言ったのに無理矢理持たせてくれ」た。「ひとりじゃ到底食べきれない」量だったことを記しておきます。樹木希林はそのおばさんがモデルの人ということは撮影が終わった後、原作者のドリアン助川さんから聞いて分かった。
4、樹木希林は「撮影が終われば台本はいつも処分しちゃうんだけど、初めて撮影が終わった後に読み直した。」
5、映画の中で、徳江さんがハンセン病であるといううわさが広がり、客が減ったある朝千太郎が「今日はもうこれで仕事終わりにしてください」と言った時、徳江がこれで「あん作り」は出来なくなると感じ取って静かにそっと「さようなら」と言って出ていくシーンのカットが終わった時千太郎の横にいた河直美監督が涙を流していた(永瀬談)。
プログラムに書いていないので、私の経験したことで少し解説を加えます。私が学生時代の友人Kのお姉さんが沖縄の愛楽園というハンセン病療養所のボランティアに参加していていろいろのことを聞きました。療養所は外部から閉ざされていたので、家の修理をする人、家具や日用品を作る人、衣服を作る人、食事を作る人など生活の多くが療養所内部の人の手で行われていた。映画『あん』の徳江さんも療養所内部の人のために50年間「あん」を作り続けた人だと思います。徳江さんは14歳でハンセン病を発症して家族から離されて以来療養所内部だけで生活した。子供を産むことが禁止され、多くの人に避妊手術が強制されていた時期があった。ハンセン病は近代医療で伝染性が全くないにもかかわらず最近の1996年(平成8年)にようやく「らい予防法の廃止に関する法律」が施行され、1世紀近く続いた隔離政策が終わり、徳江さんも外部に出られるようになった。徳江さんが『どら春』の求人広告を見て、「あん作り」の手伝いを申し出たのは、徳江さんが自由に外出できるようになったというこのような背景があったと思う。
友人Kのお姉さんの話で「昔のボランティアの人に、ハンセン病に感染した人がいて、その時にその人は『これでやっと患者の皆さんとの垣根がなくなったのでうれしい』と話した」とのことである。当時私はこの話を作り話と思っていたが、映画『あん』を見て、ひょっとしたら本当にこのような献身的な人がいたかもしれないと、思い出した。
ハンセン病の重たいテーマがありますが、私だけでなく、おそらく多くの人にも共通の「どう生きるか」に影響を与えてくれる後味のいい作品でした。また、ハンセン病のことは抜きにして徳江さんのあん作りも味わい深いものがありました。
(下の左の画像はあん作りをしている徳江。画像右6枚の左上角はどら焼を作る千太郎、右下角はどら焼を食べにくる14歳の女子中学生、箸が転んでもおかしいと言われる年代の屈託のない会話が徳江さんの人生と対比してこの映画の深みを出している。)
画像出典:左:河直美監督、最新作『あん』http://openers.jp/article/1065879(2015/7/7閲覧):右6枚もの:2015映画『あん』政策委員会http://an-movie.com/intro/(2015/7/7閲覧)
次は『蜩(ひぐらし)ノ記』(2014年日本)
良い映画でなく、印象的な映画として。「実はこうではなかった」として、追加編を作ってほしい。
黒澤明直系のスタッフ陣で同じ小泉監督の『雨あがる』(2000年)がいい出来だったので期待したが終盤だけが残念。終盤の5分ほどが拍子抜けになっている。そこで、実はこうではなかったという追加編を『野蛮なやつら』(原題: Savages。2012年オリバー・ストーン監督)の最後のように作ってほしい。後で、この説明をする。映画の終盤を含めた感想なので、これから観ようと思う人は、ネタバレになってしまうので観てから以下を読んでいただいた方がいいと思う。
映画ストーリーのポイント:藩の内紛で主人公(役所広司)が襲われ逆に殺害した。内紛が江戸幕府にばれ、藩の取潰しを恐れるあまり主君(藩主)は主人公に不義密通を犯したことにして10年後の切腹を言い渡すとともに、その10年間で藩の歴史を書物にまとめることを命ずる。主人公は主君と藩の存続のために受け入れる。内紛の事実は主君と主人公の間の秘密となり、藩の歴史書にも記述されない。10年後に主君との約束通り切腹する。「信義を貫いた美しき人生」(プログラムp2)とプログラムでは述べている。映画の終盤、切腹する道具は妻(原田美枝子)が揃え、切腹用の小刀を”大丈夫かな“とチェックする(プログラムp13)。切腹に行く主人公を家族全員が揃って見送る。
「葉隠」武士道:佐藤忠男がプログラムで述べているような「この作品の核になっているのは、田舎の家で家族の食事や祝言の暮らしの美しさ」ではないと思う。原作者の葉室麟がプログラムで触れているように「葉隠」武士道が作品の核になっている。この映画を理解するために「葉隠」武士道について以下「日本の名著17葉隠、中央公論社、1969年、奈良本辰也著。以下奈良本」で基本を押さえておく。『 』内は江戸時代中期に鍋島藩士山本定朝の言葉を書いた原書「葉隠」の現代訳である。「日本の名著17葉隠」は武士道についてよくまとまっていると私は思う。読むのを勧めているわけではありません。
「『武士道とは死ぬことと見つけたり』『生か死かいずれか一つを選ぶとき、まず死をとることである。それ以上の意味はない。覚悟してただ突き進むのみである。』と言うのがそれである。つねに、死を念頭に置いて進む、それが武士道だというのである。」(奈良本p35)『武士道というものは本来、毎朝毎朝いかに死ぬべきかということのみを考えて、あの時に死ねば、この時に死ねばと、死の晴れ姿だけを想定して生に対する執着心を切り捨てておくことである。』(奈良本p38)「きびしい主君への献身を説」いている(奈良本p43)。
「葉隠」は太平洋戦争中の「戦意高揚のための推薦図書。市ヶ谷駐屯地で割腹した三島由紀夫の愛読書。」(「葉隠超入門」草思社、2011年、市川スガノ著、p3)となっていた。なぜこのような考え方が出てきたのか?人生をかけて取り組むべきことはいろいろあるにもかかわらず、なぜ「主君のために死ぬ」ことだけに人生を集中するのか?フランツ・オッペンハイマーの「国家論」(1920年、改造社、以下「国家論」)が参考になる。
国家論によれば、遊牧民部族は他のより強い部族に戦争で敗れたとき強い部族に命を預けて忠誠を誓う。「命を救われた見返りに命を懸けてお仕えする」という関係になる。これが「主君のために死ぬ」という武装遊牧民の兵士の精神、騎士道の精神の基礎になったというのである。日本の武士道も変わらないとして「サムライが騎士階級でもあれば、武士貴族でもあった。」(国家論p163)と述べている。
武装遊牧民の「酋長(部族長)のために兵士は軽々と死ぬことを選ぶ」「彼らの間では死を軽んずる勇気が最も美しい特質とみられていた」(国家論p81)「彼らは滑稽なほど戦争が好きで、正気の沙汰とも思われぬほどの名誉感を持っている。」(国家論p82)
国家論では国家形成を6段階に分け、第1段階は遊牧民が他の遊牧民や漁民や農民を皆殺しにして財産を奪う。第2段階で皆殺しにせず、奴隷として牧畜の世話をさせるなどに使う。この第2段階で生かされた者が「主君のために死ぬ」精神構造が発生したという考え方である(国家論pp45-66)。武装民族は根拠もなく他民族より優れていると思い込み、それぞれ独自の「神」を持っている。農民どうしなどは殺し合うことはあるが奴隷にすることはない。奴隷システムは遊牧民が発明した。「主君のために死ぬ」は以後封建制まで延々と従属するものの主要な精神構造として続く。
封建制下で戦争に敗れた国王は殺されることを逃れた場合に、勝者の大国王のためにその地域の徴税官になり、伯爵(はくしゃく)、公爵や男爵などの爵位(階位)が与えられる。国家論によれば西欧や中国などのすべての爵位(階位)は国王や独立領主が姿を変えて徴税官になったことを意味する。戦争に敗れた場合だけでなく、敗れることが分かった時点で自ら率先して国王の名を捨て大国王の徴税官として爵位を受け入れて生き延びる。もし、逆らえば殺され、大国王の直属の徴税官がその地域に派遣されて支配することになる。爵位徴税官は「主君のために死ぬ」という精神構造を持つことが多い。
映画『蜩ノ記』が描く「葉隠」武士道は封建制とその以前の戦争を繰り返すどの国にでも生じた精神構造で、日本独自のものではない。各国の若干の違いは自然環境や歴史上の偶然によるものと考えられる。
新渡戸稲造が「武士道」の中で「武士道の源には、仏教の教え(運命に対する信頼と服従)、神道の教え(愛国心と忠誠心、孝心)、孔子・孟子の教え(礼、思いやり)がある。」(「要約版武士道」2008年、三笠書房、新渡戸稲造博士と武士道に学ぶ会 (編集)p18)と述べている。これらの「教え」は「主君のために死ぬ」ことを各国の自然環境や歴史上の偶然の違いにより、いろいろ付け加えて分かりにくくしているだけと思う。
また、「武士道とは死に物狂いそのものである。死に物狂いになっている武士は、ただの一人でも、数十人が寄ってたかってもこれを殺すことは難しい」(奈良本p38)『正気では大仕事は出来ない。気違いになって死に物狂いで立ち働くまでだ』(奈良本p39)と述べている。「死にもの狂い」が効果的なのは、武器が刀のように道具レベルの場合に当てはまるが、機械レベルのたとえば銃の場合には当てはまらない。「死に物狂い」の武士は銃の前に簡単に殺される。武士道は武器が高度化している近代戦では通用しないと思う。また、中東などの自爆テロは武士道とは別の精神状態を考える必要があると思うが、これについては別の映画で別の機会に考えたい。
そこで、最初に述べた『野蛮なやつら』のように追加編を作ってほしい。オリバー・ストーンにしてはB級映画と思うが、最後が次のように2つのストーリーになっている。
大麻栽培で成功した主人公グループとメキシコの麻薬密売組織の抗争で最後は波止場で撃ち合いになり両組織とも死亡全滅する。これで一度終わる。終わって映画館から出ようかと思うあたりで、「実はこうではなかった」とテロップが流れ、波止場の撃ち合いが始まる前の場面に戻る。撃ち合いが始まる前に警察が来て逃げ回るが両組織とも結局全員が捕まってしまうという全く別の展開で終わる。この追加編でほんとの終わりになる。
『蜩ノ記』に以下のような追加編の基本を2つ考えてみた。
基本1:「いかにして不義密通の汚名を晴らし、しかも藩の取潰しを防ぐか」を考えた場合
1、もともと主君に内紛を生じるような状態にした責任があるので、主君に責任を取らせる。藩の歴史書には内紛の真実を書く。要するに隠し事で取り繕うのをやめ、「正義」の筋を通す。家臣に冤罪をかぶせる「不義な主君のために死ぬ」と言うばかばかしいことをやめる。切腹すべきは主君。江戸幕府へ内紛の事実を明らかにして、主君が切腹するので許してほしいと藩の存続を申し出る。江戸幕府から「お目付け役」を受け入れてもやむを得ない。
2、主君が切腹しても藩の存続を江戸幕府が簡単に許さないと思われる場合。江戸幕府責任者の懐柔策を展開する。懐柔策の展開は江戸幕府の内部を明らかにして、理解者を探し出す過程を描く。
基本2:「藩の取潰しを甘んじて受け、不義密通の汚名を晴らす。」を考えた場合
1、主君の責任のがれや、跡目相続の内紛が生じるような藩に未練を残さず、真実を江戸幕府に伝え、藩の取潰しを主君に申し出させる。自らは武士を捨て、農民などの生きる道を探す。切腹という軽々しく死を選ぶことをやらない。この方が、はるかに勇気があることと思う。
2、武士を捨てた後の生活を、重厚に描き出す。主君(藩主)が武士を捨てた人生を含めてもよい。以下のネット情報によれば江戸時代に120の藩が取潰しになり、多くが貧困であるが武士階級を捨てた人生を送っている。
「赤穂以外にお取り潰しになった藩はどれくらい」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117912010 (2015/7/4閲覧)「取り潰しになった藩の家臣たちの処遇」http://okwave.jp/qa/q986983.html (2015/7/4閲覧)ウィキペディア「改易」(2015/7/4閲覧)
追加編は、日本映画大学(佐藤忠男学長)などの卒業脚本作成や卒業映画作成のテーマにして、その中で出来のいい作品は商業ベースの映画として製作してほしいと思う。5分ぐらいの短編でも、もう少し長くてもいい。
会員のMさんが「メンバーが選ぶ昨年(2014年)後半に観た映画で良かった、又は印象的な作品」で「テレビから時代劇が少なくなった反面、映画での作品は増え続けているようで期待しています。」と述べていましたが,『蜩ノ記』は終盤を除けば重厚な日本映画となっているので「実はこうではなかった」追加編をぜひ作ってほしい映画です。
〔画像左は妻(原田美枝子)が切腹の道具をそろえている場面、小刀を抜き刃が大丈夫か確認する。画像中は切腹に行く主人公(別所広司)を送り出す場面、右端に妻が揃えた切腹用の装束を着て左手に小刀を持っている。その左で話しているのは、主人公の見張り役として派遣された檀野 庄三郎(岡田 准一)。画像右は切腹に行く時に振り返り家族を見ている場面。左の黒い服の二人は切腹のために派遣された随行者。〕
画像出典:左と中:筆者がプログラムからコピー。右:ニュースウォーカー:役所広司、『蜩ノ記』でこれまでの時代劇とは違った礼儀作法を体験!http://news.walkerplus.com/article/50920/image275612.html (2015/7/20閲覧)
次は『母べえ』(2008年日本)
野上照代(黒澤明監督の『羅生門』以来ほぼ全作品の「記録係」)の幼少期の自伝的作品を山田洋次が監督した。野上さんは現在88歳でご健在。母親のことを『かあべえ』(母べえ)、父親を『とうべえ』と呼び、戦争当時の野上照代が歩んだ幼少期を母親と取り巻く人々を中心に描き出す。母親役は吉永小百合で、水泳が得意の吉永がその腕前を浅野忠信演ずる泳げない学生を救う場面で披露している。戦時中の様子を知る人は少なくなっているが、実在の野上さんの人生であることからリアルに淡々と描いている。尚、映画では父親は戦時中の特高警察に捕まり長期に投獄され獄中で死亡したことになっているが、実際は投獄されたが戦後まで生き延びた。多くの人が獄中死した時代なので、映画ではそうしたと思う。
「記録係」と言う仕事は、ネットで調べると「スクリプター(記録係):映画の撮影の詳細を記録するのが主な仕事。撮影されたたくさんの素材に、1つずつマークをつけて、わかりやすく混乱が起きないように管理。」http://www.ohtu4.net/sigoto/1489.html (2015/07/04閲覧)
山田洋次が今の日本が再び戦前に向かう危機感を持ってこの映画を作ったような気がするが、そのようなことを意識せずとも人生をじっくり考えさせる秀作と思います。
(下の写真、左の少女が野上照代(てるべえ)役の佐藤未来、右が姉の野上初子(はつべえ)役の志田未来。中央は母べえの吉永小百合。)
画像出典:映画.com http://eiga.com/movie/53247/ (2015/7/4閲覧)
以上。