横浜映画サークル

サークルメンバーの交流ブログです。

メンバーの鑑賞感想や映画情報など気軽に記述しています。

なじみの映画館TOHOシネマ渋谷店と丸亀製麺

2013-10-16 18:14:20 | メンバーの投稿

TOHOシネマ渋谷店は東急田園都市線で直行できるので、重宝しています。

カード会員になると火曜日は1800円が1300円になるなど得点があるので、入会金が500円掛かりますが先日会員になりました。その日は火曜日だったのでさっそく500円引きで得した気分になった。

見たあとに近くの讃岐うどんの丸亀製麺で「梅おろしうどん」と「サツマイモのてんぷら」で昼食とした。私は関東育ち、関東はそば文化なので、以前はうどんの旨いのを食べたことがなかった。広島で仕事をしていた時に四国の讃岐へ行き、初めて「旨いうどん」があることを知った。関東に戻ってきて旨いところを探していたが、丸亀製麺はまさに探していた店。次回見に来た時は「釜揚げうどん」280円に挑戦しようと楽しみにしています。 テッシー。

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「許されざる者」観ました。久し振りに「本物」を感じました。

2013-10-03 16:05:22 | メンバーの投稿

深みがあり、緻密で、人間を捉え、迫力があり、見たあとの爽快感もある、見事な作品。いろいろな映画賞を、きっと総なめにする、と勝手に評価しています。本物の映画はストーリーを事前に聞いても、また繰り返し観ても同じように感動的。本作品はそのような「本物」を感じる。若干残念なところがあるので私が監督だったらと思うところを3点ほど、後で記しています。それでも今のところ今年一番のお薦め作品です。少し残酷な場面があるので、これから観る人はそのつもりで。下の写真は賞金が掛かった人を探しに出かける3人、馬の色もメンバーもそれぞれ個性的でかっこいいですね。

事前に内容や結末が分かっても充分楽しめるので、内容に触れて感想など下記6項目を述べておきます。全部読むと大変ですので、興味を持った項目を選んで読んでください

1、クリント・イーストウッドの「許されざる者」との比較

2、題名「許されざる者」とは何が許されないのか

3、本作品での先天的暴力性について

4、佐藤浩市の魅力と先天的暴力性の演技

5、アイヌ民族についての私見

6、私が監督だったら次の3点を加える。

1、クリント・イーストウッドの「許されざる者」との比較

ウッド作品とは似て非なる、別のもの。比較しても意味がありませんが、どこがどう違うのだろうかという点に興味を持つ人がいるかもしれないので、重要な点をまとめて置きました。また、比較すると本作品の深みのあるところが浮かび上がります。

1)ウッド作品:切り刻まれた娼婦は賞金を使い復習を果たすだけに終わる。

李作品(本作品):切り刻まれた娼婦(写真のなつめ)は最後に希望を託される重要な役割が与えられる。

 

2)ウッド作品:死んだ主人公の妻は先住民族ではない。

李作品:妻は主人公を追っ手から救ったアイヌ民族。主人公はアイヌの風習で亡き妻の首飾り(形見分け)を終盤でなつめに渡す。これはなつめに希望を託した場面だが、ウッド作品は希望を人に託す場面は皆無である。

3)ウッド作品:賞金目当ての若者は「もう殺しは嫌だ」と言って消えていく。

李作品:若者はアイヌ出身で、最後になつめと共に希望を託される重要な役割が与えられる。

4)ウッド作品虐げられた人に対する愛情はほとんど見られない

李作品:アイヌ民族が近代武器の銃により虐げられた生活を強いられているが、その虐げられた貧しい人々に愛情のある人間としての希望を託している。

5)ウッド作品:どうしてこうなのだろう?と思わせる飛躍、荒削なところがあった。

李作品:ウッド作品の荒削りの所をことごとく埋めて、繊細に仕上げている。

以下に重要と思う違いを3点比較表にした。

 

ウッド作品

李作品

主人公の昔の大量殺人の動機

金のために強盗殺人など。

・藩のために討幕派を殺害:金のための殺害ではない

・追ってから逃れるため追っ手関係者を殺害。

主人公と合流する若者

金のためと売名目的。李作品のような重要な役割は無い。

アイヌの出身。アイヌの誇りと和人に虐げられた恨み。金は貧困から逃れるため。虐げられた人が人間性を強く持つ象徴的な存在の1人として重要な役割を与えられている。

最後の場面

主人公は子供のところへ帰り、「カリフォルニアでビジネスに成功したとうわさが流れた」と言うテロップで終わる。

主人公は死んだかどうか分からない。物書きの弥三郎に最後の言葉「俺のことは書け。五郎となつめの二人のことは一切書くな、書けばどこまでも殺しに行く」を残して消えた。死んだことが分かれば物書きが二人のことを書くであろう、また大量殺害の罪で追っ手が出ることに対し自分だけのこととし、二人を守ろうとしたことは、二人に子供のところへ行くように頼んだことと重なる。追っ手が子供たちに及ばないよう、主人公1人だけの事件とし死んだことがわからないようにする必要があった。

最後に五郎と顔に傷が残るなつめの二人が一頭の馬に乗って主人公の帰りを待つ子供のところへ行く。人間の愛情に希望が持てる仕上げになっている。ウッド作品のビジネスの成功の最後とは差が大きい。(下の写真、馬に乗る二人)

2、題名「許されざる者」とは何が許されないのか

ウッド作品原題「Unforgiven」のGoogle翻訳では「許されざる者」と出てくる。

プログラムの寄稿者中条省平(学習院大学フランス語圏文化学科教授)は次の通り4種類の「許されざる者」としている。4種はテッシーが要約しているので中条さんの思いと異なるかもしれません。

1)主人公十兵衛:討幕派の追っ手を皆殺し=罪もない怨みもない人を殺した「許されざる者」

2)女郎たち:自分たちの人間としての誇りから、自分たちを虐げる人々を許せないとして、復習する:聖書「復習するは我(神)にあり」罰を下すのは神のみ:神に変わって罰を下す=「許されざる者」

3)警察署長大石一蔵:独立暴力支配地と個人の王国の野心:先天的暴力性による支配の「許されざる者」

4)若者の五郎:アイヌ出身。均質な民族国家を目指す明治政府から見たアイヌ民族自体が「許されざる者」、日本民族の和に亀裂を入れるとして。(後で見るように、「アイヌ民族は縄文文化の流れを持つ日本人の源流」。明治政府の発想は逆立ちしている。)

「許されざる者」=「殺人を行う者」と捉えるとわかりやすいテッシーは思う。

3、本作品での先天的暴力性について

この作品の二人、賞金を掛けられた堀田佐之助と警察署長大石一蔵は「生まれながらにして暴力性が強い人物」である。そこでこの作品を見る参考に、また他にも先天的暴力性を描き、残酷で刺激を強調した映画が多くあるので述べておく。

犯罪者精神鑑定医の権威マイケル・ストーンの先天的暴力性(凶悪殺人犯)についての見解を参考までに述べる。

マイケル・ストーンがどのような人かは「アフター・アース」(2013,7/1)の「恐怖心を完全に消し去ることが英雄の条件」で記しているので省略します。

マイケル・ストーンが凶悪殺人犯をその凶悪度で22ランクに分けている。凶悪度ランクが増すに従って先天的暴力性が増していく。最も凶悪な殺人者のランク22は、殺人そのものを快感しているもので、その中でも殺される側が命乞いをして泣き叫ぶのを楽しみ、一度に殺すのでなくじわじわと泣き叫ぶ時間を長く取って楽しむ殺人犯である。ストーンによれば、この凶悪殺人犯は知的レベルが高く、弁護士や看守が容易に騙される。監獄では模範囚としてじっと出獄を待つ。映画「羊たちの沈黙」の殺人犯ハンニバルを思わせる。ストーンは「このような凶悪殺人犯は決して監獄から出してはいけない」と述べて、出獄させれば、緻密な能力を使って誰にも分からないように殺人を繰り返すことになる、と警告している。ストーンは、先天的暴力性は生まれながらにして子供の頃からその特徴が出ており、社会環境が犯罪を生み出すこととは別の次元と考えるべきとしている。またこのような人にどう対処すべきか犯罪心理学と法医学の課題だと述べている。

先天的暴力性と死刑制度と絡めての私見:なぜそのような凶悪犯罪をするのかの病的な原因を掴まなければ本来の解決ができない。死刑制度を廃止して、凶悪犯罪精神構造の病的な原因を科学的に追究する対象として法的に整備すべきとテッシーは考える。「アフター・アース」で述べたとおりこのような凶悪犯は死ぬことが怖くないので、死刑が「見せしめ」のような抑制の意味を持たない。死刑は正常な人を押さえつけるには有効だが、先天的暴力性の強烈な病的な人を抑制することには無力。死刑廃止は道徳的な観点からだけではなく、脳神経医学的な観点からも廃止し、病的原因の追求を優先すべきと考える。暴力映画は人の凶暴性を一般化し助長するのでなく、極めて少数の人の属性であることを同時に表現するべきと思う。本映画李作品はこれにも応えてくれていると思う。尚、テッシーは異常に極端な先天的暴力性は認知欲求が病的に変質した面を含んでいると考えている。

4、佐藤浩市の魅力と先天的暴力性の演技

警察署長大石一蔵としての佐藤浩市の演技を見て天国の三国連太郎は「やっと本物の俳優らしくなってきた」と褒めるのではないかと思う。生前三国連太郎は息子佐藤浩市を一度もまともに褒めたことはない。息子佐藤浩市は三国連太郎を親と思わないで「彼」と呼んでいた『「彼」がどう思おうと私には関係ない』と佐藤浩市は言うかもしれないですが「俳優に人生のすべてをささげた三国連太郎」に少し近づいたように思える。とても魅力的な俳優になってきた。この最大の点は警察署長が作った、「刀や銃を持ち込んではいけない」という村の掟を破り、刀を持って入ってきた北大路(国村隼)をボコボコに殴り村から追い出すときと、馬場(柄本明)を殴り殺すときとで表情が違うことである。北大路(国村隼)の時はそれまでの生活環境が作り出した暴力性(後天的暴力性)で生きて追い出した。馬場(柄本明)の時には生まれながらの凶暴性(先天的暴力性)が溢れ出て別人になって、殺している。北大路と馬場に対する違い、後天性と先天性の違いが表情や目つきに出ていることである。佐藤浩市はプログラムの中で『後天的暴力性から先天的暴力性へ監督のこだわりが強まっていった』と述べているが、この違いは監督が求めただけでは表現できるものでない。佐藤浩市はこの変化をうまく表現した。この変化は本映画を見るときの重要な見所のひとつになる。主人公が大石を殺すクライマックスの場面の重要な要素。単なる復讐ではなく、先天的暴力性に対する復讐である。下の写真左は序盤の比較的正常な表情。右と下の写真は中盤の暴力性の冷酷な表情と目つき。終盤のすばらしい狂気の表情はネットにないので映画館で見てください。

 

5、アイヌ民族についての私見:アイヌ民族に興味を持つとこの映画の深さが味わえる。

映画と直接係わらないので跳ばして読んでもOKですがアイヌを知ることは本映画の深みを知るポイントです。

(1)アイヌ語は日本の多くの古い地名を説明できる

例1能登半島の珠洲(すず)市:「スッツ」アイヌ語の岸壁の意味。珠洲市は岸壁が有る。能登半島にはたくさんの同様にアイヌ語で説明できる地名がある。テッシーが金沢市を拠点に仕事をしていた時の入手情報。

例2広島県冠山遺跡周辺の地名:頓原(トンバラ)アイヌ語のト・ウン・パラ=沼・に入る・入口。その他多数有る。テッシーが広島市を拠点に仕事をしていた時に冠山遺跡群を調べようとして見つけたサイトhttp://yama-aruki.sakura.ne.jp/10/100123-kanmuri.htm に詳細がある。

(2)アイヌ語は日本語と同じ語順、中国語や欧米言語とは異なる。

言語の分類はSOVだけでなく形容詞の特徴で分けたり、学者によっていろいろ。SOVの語順分類は基本的な意味があるとテッシーは思う。

(3)日本の古文は中国語で書かれている。

古事記や日本書紀などの古文は中国語で書かれており中国人はそのまま読むことができる。日本人は返り点で順番をSOVに変換しないと意味が分からない。古文は中国文化を取り入れたのではなく、中国人が書いたと考えるとすっきりする。すなわち古代の日本の支配者たちは中国語をしゃべっていた。だが支配者はその土地の言語を変えることはできない。欲しい物を税として奪えばいいことで、言語を変える必要性は強くないローマ帝国は1000年以上に亘り地中海一体を支配したが、言語を変えることに成功した地域はひとつもない(「農耕起源の人類史」2008,pxピーター・ベルウッド、以下「人類史」)。すなわち、縄文言語を中国から来た支配者は変えることができなかったはず。縄文言語は文字を持っていた可能性はあるが、はっきりした文字遺跡は見つかっていないようである。縄文言語を、中国語の漢字を活用して文字化したのがカタカナ・ひらがなの発明と考えることができる。文字は支配者が登場して、税の取立ての記録、武器と兵士の数の記録、税の分配の記録の3種に使われた(紀元前8世紀のミケーネ文明のB文字はこの3種以外にない。インカ帝国の縄文字も同様)。支配者は文字を支配の道具に使った。アイヌ民族ばかりでなくアメリカ先住民、オーストラリア先住民、中国山岳部部族、台湾の高原部族、アフリカや南米の部族など文字を重要としない民族は世界の多数派だった

支配者の起源は農耕民族が豊かになったからではなく、遊牧民が拡大して襲撃し、漁民や農耕民を奴隷化したことに始まる。漁民や農民同士の殺し合いは生じても奴隷化は生じない。漁民を奴隷にしたものは海賊国家(地中海都市国家、古代ローマ帝国)を作り、農民を奴隷にしたのは欧州内陸国家である。これらの考え方は「国家論、F.オッペンハイマー」による。

(4)アイヌ民族は支配者を持たない共同体・共産制構造であるために文字が重要でない。

青森県三内丸山遺跡は縄文文化の共同体・共産制構造で500人ぐらいの集落。世界的には共同体・共産制構造で数千人程度の人口となっている遺跡がある。トルコのチャタル・ヒュユク遺跡1万人、紀元前7000年頃。シリアのアブ・フレイラⅡ期遺跡4~6000人、紀元前8000年頃(「人類史」p78)など。住居がみな同じ形状で、支配者を示す大きな住居はない。日本の古代支配層が大陸からどのように来たのかを探るために壱岐と対馬へ行ったときに、最も驚いたのは縄文文化が壱岐、対馬にも広まっていたこと。沖縄を含む九州全域にも縄文人が暮らしていた。縄文人の共同体は新潟県糸魚川のヒスイが首飾りなどで九州から北海道まで発見されるように、広い範囲で交流し、支配層を持たない民族集団で、アイヌ民族と共通である。縄文人の民族集合体の一部に船を操り、海を移動するのを専門職とする集団がいて、日本各地の縄文人の物資の移動を担っていたと考えられる。同様に地域の村落ごとに特産物を生産する専門化した縄文人村落の間で分業が生じていたと考えられる。具体的には次の通り。船橋市高根木戸貝塚集落黒曜石の加工をする親子代々続く職人集団(おびただしい量の石族やそれを加工した原石や石くずが発見されている。猪・鹿などの獣骨が少なく、自分で狩をする村ではない。加曽利貝塚博物館)。銚子市金山貝塚集落貝殻の装飾品を作る職人集団(多量の腕輪装飾品が発掘されている)。千葉県加曽利貝塚集落や横浜市杉田貝塚集落貝の食品加工職人集団(貝塚の規模が巨大で、「むきみ」にし、それを保存食糧として「干し貝」に加工し、他の集落に供給していたと考えられている)。茨城県稲敷郡美浦村法堂遺跡製塩専用土器製造職人集団(縄文の模様がなく2~4ミリの薄い大型のつぼ。製塩専用と思われるおびただしい土器片)。茨城県桜川村(現稲敷市)前浦遺跡製塩職人集団(長い間なんども大規模に焚火した跡。塩がついた土器片から海水を煮詰めた跡だと考えられている)。伊豆半島河津町の見高段間遺跡や神奈川県原口遺跡黒曜石の配送専門職人の拠点(神津島産の黒曜石素材が数百キロからトン単位に多量に集積されている。ここの黒曜石は高根木戸貝塚集落にも供給されている。組成で分かる)。以上は千葉県加曽利貝塚博物館の展示やテッシーの見解を含む。

(5)「大陸の武装集団が来て縄文人と弥生人を支配した」とするとすっきりと雲が晴れる。いろいろの説があるので、とりあえずテッシーが納得できるとするものを以下に述べておきます。アイヌ民族を理解する基礎になる。

1)弥生人は大陸の戦争から生じた戦争難民で縄文人とは平和的に融合

放送大学の講座によれば最新の考古学の成果として弥生人は紀元前1000年ごろから日本に来ている。これは中国の周王朝から春秋戦国時代の戦乱の戦争難民というのがテッシーの見解。この弥生人(戦争難民)は縄文人と平和的に融合している。例:九州唐津市の菜畑遺跡:紀元前500年頃の日本で最古の稲作跡がある遺跡で現地の記念館に行くと縄文人と弥生人の融合を示す証拠がいくつか示されている。縄文系と弥生系の遺伝子の人が共同生活をしていることや、縄文を示す新潟県糸魚川のヒスイと弥生の特徴の石を交互に紐に通した首飾りが発見されている。このような漁民(縄文)と農民(弥生)との融合は世界でもよく見られる。ポルトガルの海岸周辺の遺跡でも、内陸から来た麦を耕作する農民と漁民の平和的な融合が1000年以上も続いた(「人類史」p118)。

2)紀元前400年頃から大陸から戦争に敗れた武装集団が逃げてくる

紀元前4百年頃から戦争難民だけでなく戦争をしていた武力集団が敗れて日本へ逃げてくるようになる。この複数の武装集団が日本の支配者集団を形成した、とするとすっきりする。縄文人は文字らしい文字を持たなかったが、武装集団は漢字文字を持っている。日本の古代の支配者が漢字を自在に使っている理由は中国人とすると納得できる。 

3)周王朝が秦に破れて逃げてきた武装集団(テッシー説)

中国の殷(商)王朝紀元前1046年頃に倒した周王朝の太公望を祀る寺院には今でも三つ巴のマーク下記図)が有る。

このマークは周王朝が3つの勢力の連合体であることを示しているのかもしれない。日本の八幡神社などにこの三つ巴のマークを使うところが多数ある。「中国の周王朝が倒され(紀元前770年)残党がついには日本まで逃げてきて、武力で縄文人と弥生人を支配した」と考えるとつじつまが合う。ヤマトタケルが九州の武力集団熊襲(クマソ)を倒す時に戦勝祈願をしたのが九州の八幡神社といわれている。戦いを勝利する神が八幡神社で、その後の戦勝祈願の神社として戦争があるたびに日本中で建設された。八幡神社の三つ巴のマークが共通していることからヤマトタケルの系統は周王朝の残党の可能性がある。これを指摘している学者は今のところ見たことがないので、都市伝説レベルのテッシー説です。

4)秦が敗れて逃げてきた武装集団(テッシー説)

中国全土をはじめて支配した秦の始皇帝の階級の最高位は「皇帝」であるがそこから5番目の位に「天皇」がある(スカパーの歴史チャンネル「秦の始皇帝」で出てくる)。この5番目の集団が日本へ来て「皇帝」とは名乗らずに「天皇」と名乗ったのは秦王朝で「天皇」という位置を占めていた武装集団の可能性がある。 秦は稲作の起源である長江上流を支配した稲作農耕を基盤とした武装民族で、他の騎馬民族系や海産物を基礎とした民族系の国家と違う。日本の天皇の文化が稲作農耕を基礎にしているところも秦系統の武力民族であることと整合する。また『天』の文字から雨ごいなどの気候を担当する神官であった可能性がある。日本書紀の天皇の系譜は紀元前660年頃からとあるが、日本で武力集団の考古学的痕跡が見られるのは紀元前300年頃(吉野ヶ里遺跡など)からである。少なくても紀元前500年頃の遺跡(例:九州唐津市菜畑遺跡など)には支配構造は見られない。系譜:紀元前660年頃-実際の武力集団の遺跡:紀元前300年頃≒300年ぐらいのギャップは日本書紀の天皇の系譜が大陸の時代も含むと考えるとすっきりする。もし大陸時代を含まない場合には多くの学者が指摘するように日本書紀の天皇系譜が怪しい。秦の始皇帝は漢字使用を中国全土に徹底し、税の徴収を確実に統一した。秦王朝の「天皇」の位の武装勢力が戦争に敗れた残党などとして日本に来て、この漢字使用を支配にそのまま使ったと考えると納得できる。日本の古代の支配層の税の納入を示す木簡記録はすべて漢字である。すなわち中国語である。

この項の以下は2016/4/11に追記したもの。国立博物館で「始皇帝と大兵馬俑」特別展が2016年に行われ、新しい考古学の情報があり追記しました。特別展の東京は2月に終わり、6月12日まで九州、7月5日~10月2日に大阪で開催です。

下の画像上段は1974年に発掘が始まった始皇帝の兵馬俑。下段左は1999年に発掘された、「でっぷり太って腹が突き出たタイプは、相撲の力士ではないかと考えられている(九州国立博物館の説明)」。「この陶俑と向かい合わせの位置にもやはりでっぷりとした俑がおり、両手で綱あるいは棒をもつ仕草であった。ほかにも左手で腰帯を握り、右手を高々と揚げる陶俑もおり、いずれも力を込めて何かをしている姿である(東京国立博物館特別展『始皇帝と大兵馬俑図録p105』)。」力士俑と言われ、細身の俑も含めて雑技俑とも言われる。筆者は細身の俑は行司役などではないかと考えている。下の画像右は2001年に発掘された楽士俑と言われているもので、楽器を演奏している姿ではないかと言われている。楽士俑は15体発掘された。宮内庁の雅楽を司る東儀家は秦氏の家系である(ウィキペディア「秦氏」)。日本の大相撲と雅楽の源が秦の始皇帝にあると筆者は考えている。

 

画像出典上段:ウィキペディア兵馬俑(2016/4/9閲覧)。画像出典下段左:「始皇帝と大兵馬俑展」東京国立博物館http://heibayou.jp/artwork (2016/03/26閲覧)。画像出典画像右:ドラムスコの正しい生活、目を見張る「彩色兵馬俑」の迫力!http://drumscotom.blog29.fc2.com/blog-entry-302.html (2016/4/9閲覧)

日本の仁徳天皇が係った記録が残る瀬戸内海の大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ。三島大明神)古図に相撲屋と楽屋がある。秦の始皇帝の5番目の位の天皇が大陸の戦争を逃れて日本に来るときに力士と楽士を連れて来たと考えるとつじつまが合う。下の画像左は古図の屋舎名である(『瀬戸内海水軍史』1966年瀬戸内海文化研究所松岡進p231)。図の下部の矢印部分を拡大したのが右の図。「武者所」「侍屋」とともに「相撲屋」と「楽屋」がある。現在の大山祇神社にも相撲場があり、一人相撲の神事が行われている。また、大山祇神社には天皇が田植え式を行った水田が残っている。

 

画像出典:『瀬戸内海水軍史』1966年瀬戸内海文化研究所 松岡進 p231を筆者がコピー

仁徳天皇との関係は「仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)」がある。仁徳天皇の在位年代は『古事記』に従えば、西暦394~427年(ウィキペディア仁徳天皇。2016/4/10閲覧)である。中国では唐の時代にも天皇と言う位があるが、秦の始皇帝時代の天皇との関係は不明。

下の左は鳥居であるが、筆者は、これは「天」の字を示し、天皇領地や天皇神事支配下を示すシンボルだったのではないかと考えている。大山祇神社の古図にも鳥居のマークが記されている。鳥居の起源はウィキペディア鳥居によれば、その起源はいろいろ説があるが、「日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もある。」としている。長江流域は秦が国を興した地域で、この説は整合性がある。下画像右は出雲大社のしめ縄。出雲大社の説明員から筆者が聞いた話では横に太いねじった部分は雲、そこから下に下がっている3つの円錐形は雨、白い紙でできたギザギザ(紙垂、しで)は雷を意味している。稲は川べりなどの湿地帯に生息していた植物で、大雨による川の氾濫や日照りによる渇水が稲作の最大の脅威。天皇は長江稲作地帯の天候をつかさどる神として、季節を予測する(星や太陽や月の動きの予測)や大雨・洪水を鎮めるためや渇水時の雨ごいなどの祈祷を行うと同時に、戦争の吉凶を占う神の役割をしていたと筆者は考えている。

 

鳥居イラスト出典:無料イラストサイトILLUST BOX ,http://www.illust-box.jp/sozai/44757/ (2016/4/9閲覧)。画像出典右:ウィキペディア注連縄(しめなわ)(2016/4/9閲覧)

筆者は神社の祭りが好きで、屋台が並ぶ雰囲気を毎年楽しみにしている。神社が秦の始皇帝に起源があるとしても何も失うものはない。事実を知りそれを味わい深いものにすることが重要と思う。このことは、先住民族としての縄文人やその流れを持つアイヌ民族と大陸から来た武装民族との関係を理解する重要な基礎になると思う。明治政府とアイヌ民族の人情を表現しているこの映画『許されざる者』の理解を深めるのにも有効と思う。また、以上は古代社会を描いた映画や、天皇をめぐるいろいろな映画を見るときの基礎知識になるのではないかと思う。

5)大陸から少なくても10以上の有力武装集団が日本に逃げてきた。 

中国の春秋戦国時代(周王朝が倒れた紀元前770年から秦の始皇帝が中国全土を支配する221年までの約550年)や秦の始皇帝が亡くなった紀元前210年以降の戦乱で多数の武装集団が中国や朝鮮半島を舞台に激しく戦っているが、日本には少なくても10以上の有力武装集団が繰り返し逃げてきた、あるいは命は救われて大陸を追い出されて来たと考えられる。騎馬民族の馬具を納める古墳、や馬具ではなく武器を納めた遺跡など多様に遺跡が存在する。たとえば春秋戦国時代の7雄の「斉」は朝鮮半島から西方の遊牧民が遊牧民を支配した騎馬民族武装集団(遊牧国家)。「趙」は朝鮮半島の向かい側の山東半島沿岸の漁民を遊牧民が支配した海洋武装集団(海賊国家、海洋国家)。「秦」は農民を支配した農耕系武装集団(山賊国家、内陸国家)など中国大陸の武装集団の多様性を反映して日本の遺跡の多様性が生じている。武装集団間の戦いは強烈なもので、たとえば「秦」が「趙」を破った紀元前260年の長平の戦いでは「趙」の兵40万人が埋め殺されている。1995年にその多量の人骨が出土している(ウイキペディア)。それらの多様な武装集団が日本に来て日本国内でさらに戦いを繰り返す。出雲大社の「神の総まとめ役」というのは武装集団間の戦争を回避するまとめ役と考えると辻褄が合う。 

以上の通り中国大陸から来た武装集団が縄文人を支配したのが日本における支配構造の始まりと考えるとすっきりする。

アイヌ民族は縄文時代からの共同体文化を引き継いでいる人々。「許されざる者」の主人公が、心の安らぎをアイヌ民族の妻の中に見出し、最後にアイヌ出身の若者に希望を託すことに李監督のアイヌ民族に対する理解の深さを感じる。縄文人の共同体文化まで考えずに単に「虐げられ、苦労した人々が人間らしい気持ちを深く理解する」と言うことからアイヌ民族を映画の背景に使っただけかもしれないが、的を射た全体構成に出来上がっている。  

6)皇位継承「男系男子」の起源を古代社会支配構造から考えてみた:2018/11/29追記 

アイヌ民族や弥生時代、飛鳥時代などの古代日本を扱う映画を見る参考になればと思い追記した。前の項に書かれていることとダブル所があるがご容赦。 

(1)古代支配層は中国語を話し、女性を献上させていた

 神奈川県川崎市の官衙遺跡の説明会2017年で説明者が、「古代の木簡に女性を献上していることが記されたものが発見されている」と話していた。男性も支配層に隷属しなければ虐殺されたに違いない。

 古代支配層の天皇家は、中国大陸で紀元前207年に秦王朝が楚国(項羽)との戦争に敗れ滅ぼされた時に、秦王朝の上から5位にいた天皇家武装集団が日本に逃げてきて日本先住民を支配したのが日本古代支配構造の可能性が大きい(前の項も参照)。このため古代日本支配層は一貫して中国語を話す集団で、朝廷へ献上された日本先住民族女性は中国語が話せず支配層を構成する一員とは成り得なかった。このことが皇位継承「男系男子」の起源と考える。古代の女性天皇が存在するが大陸から来た女性、又はその直系で、献上された日本先住民族女性ではないと考えられる。

 ウィキペディア【采女(うねめ)】には「発祥ははっきりしないが、『日本書紀』によると、既に飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった」と記されており、木簡の記録を考えると飛鳥時代以前から、天皇家武装集団が日本に来て支配し始めた時から女性の献上は広く行われていたと考えるのが妥当。新たに中国語を話す女性の供給がないので、中国女性系統は数百年程度あれば少数、あるいは立ち消え、朝廷内の女性は日本先住民が多数を占めるようになったと考えられる。日本先住民族に権力を渡さないというのが皇位継承「男系男子」の原点と考えられる。現在の象徴天皇制を直接問題にしているわけではありません

(2)「日本書紀」「古事記」は中国語、従属した日本先住民は中国語の代わりに万葉仮名を使った

秦の始皇帝は中国全土を統一した時に、漢字を共通言語に統一した。天皇家も日本で中国語漢字を使用した。

朝廷内で中国語に代わり古代日本語(先住民言語)が万葉仮名として最初に現れるのは天皇家が日本に来た時期から約700年後の、下の画像の国宝となっている鉄剣で、「獲加多支鹵(わかたける)大王」などの115文字の万葉仮名が記されたものである。文字に「辛亥年」と記載がありこれは471年とも531年とも言われている(埼玉古墳群稲荷山古墳から出土)。万葉仮名は万葉集で使われたので名付けられたが、万葉集は7世紀後半からで、鉄剣より150年ぐらい後のことである。

画像出典:720 行田②(埼玉県)サキタマに蘇るなり獲加多支鹵 (ワカタケル)https://blog.goo.ne.jp/machi-1/e/9a21365a089f86554b584e897c32c2f9 (閲覧2018/11/28)

万葉仮名は中国語の主語述語の語順でなく、現在の日本語と同じ語順で、アイヌ語の語順と同じである。語順は下記表の通り。万葉仮名は一音に漢字一文字を当てているので、後にひらがなに変化した。

万葉仮名の語順、日本語、アイヌ語と同じ

中国語の語順

英語の語順は中国語と同じ

S、O、V

S、V、O

S、V、O

日本語語順例:私は、日本語を、話す

中国語:我說日語:私は、話す、日本語を

I speak Japanese

中国語漢文に返り点(レ点、一二の日本語に対応した順を中国語に小さくつけた符号)で順番を変えなければ日本人には理解できないのはこの語順のせいである。中国人が日本人より早く英語をマスターでき、日本人はいつまでもマスターできないのはこの語順が関係する可能性がある。

画像下の上は「日本書紀」(720年)と画像下の下は「古事記」(712年)の最古の写本で 中国語と言える。他の日本にある漢字古代文献も現代の中国人は容易に読める。(放送大学の講座「漢字と中国文化」「アジアと漢字文化」での東京大学大西克也教授の話)。古代社会の壬申の乱(672年)などは大陸から来た複数の武装集団間の争いと観ることができる。日本先住民族遺跡(1万3千年以上続いた縄文遺跡)には戦争の跡も武器もない

画像出典:ウィキペディア:『日本書紀』(平安時代の写本)及びウィキペディア:『古事記』(信瑜の弟子の賢瑜による写本)国宝、真福寺収蔵

(3)海外の古代支配層でも被支配民族の言語を変えることに成功した例はない

ピーター・ベルウッドが『農耕起源の人類史』(2008、京都大学学実出版会、日本語版への序文pⅩ)で述べているように古代階級社会で他民族を支配しても、言語を変えることに成功した支配者はいない。例として地中海世界を1000年以上支配した古代ローマ帝国でも被支配民族の言語を変えることができた場所は一カ所もない。アレキサンダー大王やアケメネス朝ペルシャ帝国でも同様。アラビア語を使う民族が支配した地域でも被支配民族の言語がアラビア語に変わった地域はない、と述べている。被支配民族言語を変えるのではなく、乗込んできた支配層が、被支配民族言語をおぼえて支配するのが現実。日本においても中国大陸から来た天皇家武装集団は日本先住民の言語を中国語に変えることはできず、簡単な日本先住民言語を身に着けた。秦の始皇帝が滅びた要因の一つに広大な中国大陸を強制的に漢字言語に統一し、結果として、各民族言語を奪うことになり、各民族の強い反感を生んだことがあると考えられる。言語まで変えるのに成功したのは子供から言語教育をする学校制度を設けたポルトガル、スペインなどによる植民地政策からである。

(4)古代日本の文字は漢字に置き換わった、それが万葉仮名

下の画像は北海道で発見されたアイヌ文字、これだけなので真偽に疑問があるが本物であれば日本先住民が既に独自の文字を持っていたことになる。古代天皇家武装集団支配層は日本語を中国語に変えることはできなかったが文字は漢字に変えることに成功した。それが万葉仮名。現在の漢字に音読み(中国語系)と訓読み(日本語系)があるのは中国語支配の名残。

画像出典:ウィキペディア「北海道異体文字」

(5)「源氏物語」に出てくる女性は献上された女性たちの姿と考えるとすっきり状況が理解できる

「日本書記」から約300年、天皇家が日本に来て約1200年たち、『源氏物語』(初出は1008年)や「春はあけぼの」で始まる『枕草子』(996年頃)は漢字とひらがなが混ざった日本語で書かれている。作者の紫式部や清少納言などの女性は支配階級に献上された日本先住女性か、その子孫と考えられ、中国語を自由に操ることはできなかった。支配層(貴族)は日本に同化して日本先住民と簡単な会話はできるようになっていたと考えるが、支配層内部では依然として中国語を話していた。『源氏物語』で女性たちは貴族の光源氏が来るのを離れの小屋で、今夜は来るか明日は来るかと待っている姿が描かれているが、献上された先住女性たちの姿と考えられる。彼女たちは中国語を話せず、光源氏とはあいさつ程度で込み入った会話らしい会話はない。

6、私が監督だったら次の3点を加える。

1)先天的暴力性の人、警察署長の大石は、他者に危害を加える時に、目が血走っており微笑さえ浮かべる。正常で健全な人である主人公が、殺人を決意した時には、警察署長大石とは異なる形で表情が変わるはずだ。悲しい顔と決意した厳しい顔が融合したような顔、狂気の顔とは違う。難しいが渡辺謙ならできる。その顔を李監督の力で、メイクも工夫して引き出してほしかった。渡辺謙はどんな苦しいことでも受け入れるような優しい目(下の写真)をしているので、この変化が表現できれば特に効果が大きかったはずだ。残念だができていない。

2)また、殺人に向かう時に、それまで絶っていた酒を飲むが、これだけでは殺人に行く決意を示すには不十分だ。ウッド作品がこれだけだったので踏襲したのであろうが、殺人の決意が軽く表現され過ぎている。私が監督であったら、武士が戦いに行く時の準備を加える。たとえば腹の周りに厚手のものを巻きつけ、いつもの防寒コートのような長半天の下の服が激しい動きでばたばたしないようにタスキをし、その上から防寒コートを羽織る。このようなことで殺人を決意したことを表現すると共に主人公がスーパーマンではなく、切られれば死ぬ普通の人であることを示す。正常な人が行う殺人が日常的なことではない異常なことであることを、日常とは違う装いにすることで示す。この例はさり気なく、大げさにならないよう自然に行う。この例でなくても決意したことを示す象徴的な振る舞いがあればそれでよい。また、このことで主人公が異常な精神の下で突発的に殺人をしたのでなく、冷静な中でやむを得ず殺人にいたる必然的な流れであることを示す。このことは1)で述べた表情の変化と一体となってはじめて有効性がある。下の写真は普段の服装のままに来て警察署長大石(右)と対面している様子。この後大石を殺害する。

 

3)同様のことが若造の五郎が殺人へ向かう場面でも言える。賞金が掛かった堀田佐之助の家の近くで、主人公が「これはお前の仕事だ」と言い、殺人へ向かわせる。ウッド作品と同じであるが、私が監督であれば、五郎の肩まで伸びた髪の毛を「頭の後ろで縛っておけ」と主人公に言わせる。必死の戦いでは、僅かなことでも勝敗に影響が出る。髪の毛が目の前でふらふらするようでは必死の戦いへ向かう武士の姿ではない。既に五郎は頭のてっぺんで前髪が垂れないように縛っている(下の写真)ので、その紐で髪全体を頭の後ろでまとめさせれば良い。これで、戦いへ行く時の繊細な心理状況が示せる。また、主人公が殺人に繊細な配慮をすることで、五郎が後で「あんたの様に人を殺すのはもう嫌だ」と言うせりふが生きてくることになる。

以上3点が加われば、今のままでも充分すばらしい作品ですが、さらに歴史に輝く娯楽作品として際立ったと思う。

7、その他

小池栄子はほっそりとした感じになっている(下の写真左)。役作りのために大幅に減量したかもしれない。

                                                                         以上テッシー

 




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