アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて 厳島神社神社

2013-06-28 23:36:28 | 歴史遺産を訪ね歩く
宗像三姉妹を祀る安芸の宮島厳島神社
以前訪れた広島県廿日市市宮島の「厳島神社」を再編集してみた。

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安芸の宮島を尋ねたのは、2009年11月21日で 「紅葉を尋ねる旅」だった。

神社の由来、縁起を読み 大変驚いたのを今でもはっきりと覚えている。

「この神社の主祭神は スサノオの三人娘の田心姫(たごりひめ)、

市杵島姫(いちきしまひめ)、多岐津姫(たぎつひめ)である。」

と書かれていたからである。

記紀にスサノオと書かれた 秦国人の徐福に 三人娘がいたなんて

今まで聞いたことがないからである。その後ずーっと心に引っかかっていた。

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この三人の姫方は 宗像三姉妹として有名な姫君たちである。

それがよりによって スサノオの娘だなんて。

記紀の出鱈目ぶりにも 程がある。


後で述べるが、この三姉妹は 古代出雲王朝ゆかりの方々なのである。


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フェリーが宮島に近づくと、大きな鳥居が海の中に見える。

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海から眺めた 厳島神社

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宮島には 鹿もいて、神の使いとされている。

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海に浮かぶ神社

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神社の本殿

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海に突き出した回廊が続く。

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この日はたまたま 「七五三のお祓い」も行われていた。

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朱塗りの部分だけではなく、渋い色の建屋もある。

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海上ステージのように張り出した回廊を沢山の観光客が行き来する。

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太鼓橋も海に架かっている。

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神社の全景。

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回廊から建屋の隙間に鳥居も見える。

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この日は夕方に 引き潮が来て、沢山の人が裸足で海の中を歩いていた。

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※ 「紅葉尋ねて 2009年」はここから入れます。

http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/momiji2009/

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  「三柱の姫君とは」

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古代出雲王朝第六代主王(役職名は大名持おおなもち)の臣津野

(おみつぬ)には 二人の皇子がいた。

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一人は「佐和気」

    この方から西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)が始まる。

もう一人が「吾田片隅(あたかたす)」

    この方が九州に移住して宗像家を造った。

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吾田片隅には三人の姫がいて 「田心姫(たごりひめ)」、「市杵島姫

(いちきしまひめ)」、そして「多岐津姫(たぎつひめ)」である。

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田心姫は出雲王家第七代主王の「天の冬衣」に嫁がれて、皇子の

「八重波津身(やえはつみ)ー後の第八代副王(役職名は少彦)となる方で

記紀では 言代主と書かれた」と 姫の「高照姫」を生まれた。

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秦の始皇帝の命で 和国に不老不死の薬を求めてやってきた秦国人の

徐福は記紀ではスサノオと書かれた。彼は石見(島根県西部)の五十猛

海岸に上陸して、「火明(ほあかり)」と名乗る。

そして出雲王家の「高照姫」と結婚し 長男「五十猛」(いそたけ)をもうける。

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そして一度 秦国へ帰国した徐福は、秦の始皇帝から追加の資金と多数の

技術者、青年男女(海童と呼ばれる)をもらい、今度は筑後平野に上陸し

饒速日(にぎはやひ)」と名乗る。

そして市杵島姫と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうけ、穂穂出見が

九州物部家を起こすのである。


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多岐津姫は 出雲王家第八代主王の八千矛(記紀では大国主と書かれた)

に嫁ぎ、皇子の「味鋤高彦」を生まれた。

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つまり徐福(スサノオ)は、宗像三姉妹のうち、長女の田心姫の生んだ

高照姫と結婚して 長男の五十猛をもうけ、次女の市杵島姫と結婚し

次男の 穂穂出見をもうけるのである。

しかも 長男の五十猛は 多岐津姫の孫の大屋姫と結婚し「高倉下

(たかくらじ)」をつくるのだから、徐福は宗像三姉妹のお三方とも

関係するのである。


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ということで、宗像三姉妹は 徐福(スサノオ)の娘では決してないのである。

つまり厳島神社の主祭神の三柱の女神は、いずれも出雲王朝第六代

大名持(主王)の孫娘なのである。

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市杵島姫は二度目の来日した 徐福(饒速日にぎはやひー記紀では

スサノオ)に嫁ぎ、生んだ穂穂出見が物部家を創り、その後の大和政権

の元となったのである。市杵島姫(いちきしま)から いつくしま(厳島)の

名前が出来たという。

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物部イニエ大王と豊王国豊玉姫トヨタマヒメ(ヒミコ)の連合王国軍は

イニエ大王亡き後、246年に 第二次 物部東征を開始した。

その途中 安芸の埃の宮(えのみや)で病没した豊玉姫(ヒミコ)の遺体は

宮島に仮安置され、その後宇佐神宮二ノ御殿に祀られたという。

東征は イニエ大王の長男 イクメ王が指揮をとり、河内に上陸後

生駒山での戦闘膠着の後、イクメ王は大和入りし、大和の大王となった。

イクメ王が長期間とどまった山中を「イコマ(イクメ)山」と呼ばれる

ようになったとか。  

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※ 以上は斎木雲州著 「古事記の編集室」、「出雲と大和のあけぼの」、「出雲と  蘇我王国」、「お伽話とそのモデル」 いずれも 大元出版  による。

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