ヤマトの出雲王家がらみの四社を尋ねて 2016年1月11日
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記紀の歴史作り話の「神武東征」は 九州物部家が前後70年離れて行ったヤマトへの東征を 一つにまとめた
無理な作り話だ。もう少し本当らしく創ればいいのに。
今回はその東征の 一回目に 熊野に上陸した九州物部軍をヤマトへ道案内した立役者
「ヤタガラス」こと 出雲王家ヤマト分家の登美家当主の加茂建津之身(かもたてつのみ)」を祀るヤタガラス神社。
そして2回目に大和入りして 大和の大王となったイクメ大王(垂仁)を祀る往馬神社(いこまじんじゃ、
正式名は 往馬に坐イコマツ彦神社)。
それと正真正銘の出雲王である、出雲王国第八代副王(少彦)八重波津身(記紀では事代主と書き換えられたお方)
とその皇后美保津姫(沼川姫の事)を祀る村屋神社(正式名は村屋に坐弥富津比売神社 むらやにいますみふつひめ)を訪ねた。
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1.往馬神社 往馬に坐往馬津比古神社 奈良県生駒市壱分町
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西暦246年に第二次東征を開始した九州物部と宇佐豊王国連合王国のイクメ王は河内に上陸してヤマトへ向う。
しかし立ちはだかる「生駒山地」に阻まれて 山を越えることができなかったと言う。
山の東側 葛城地方には ヤマト磯城王朝第十代彦坐大王の皇子サホ彦が大軍を率いて陣取り
それを越えられなかったという。
そのためイクメ王は長期間生駒山地に留まざるを得ず、そのためこの山地が後世「イクメ山地」と呼ばれて
それが「生駒山地」になったらしい。
大和入りしてヤマトの大王となられたイクメ大王は出雲王家宗像家の市杵島姫と徐福の皇子「穂穂出見」が
はじめた「九州物部王家」の子孫である。
彼はこの往馬神社に往馬津彦として祭られている。
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広い駐車場の脇に鳥居が立ち ここから参道が始まる。「往馬大社」と書いてあり、神社より格が上らしい。
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沢山の人が階段を登っていくが、後で分かるが今年から この神社の恵比寿祭りの日にちが変更されたらしい。
なぜ イクメ大王の社に 恵比寿様こと事代主が 祭られているのも後で分かる。
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立派な神門を潜るとさらに石段が続く。
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立派な拝殿で沢山の人がお祓いの順番待ちをしていた。お正月の稼ぎ時だ。
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その奥に本殿があった。しかし七棟ある。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札があった。それを読んで驚いた。
往馬津彦(イクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)
は 分かる。しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)神功皇后
(オキナガタラシ比売)ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子ヒボコの子孫
オキナガタラシ姫のご両親まで祀られているのにはびっくりだ。
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それに二十柱もの末社があり、さまざまな人が祀られていて まるで神社のデパートだ。
たくさんの神々を祭り ご利益が沢山あるので どうか来て頂戴と言う感じなのだ。
あっけに取られた。
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広い境内ではトンドヤキの準備も行われていた。
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この神社の周りの森は 奈良県の文化財らしい。
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歩いて行くと 終に出ました「恵比寿神社」。事代主もびっくり、「なんでやねん」と言いたくなるほど
なんでもありの神社なのだ。毎年今日が 恵比寿祭りらしいのだ。それで人が多かったのだ。
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こういう石灯籠の字もあった。松江市生馬町の生馬神社を ヤマトに移住した出雲族が この地に
生馬神社を分祀したという説もある。(谷戸貞彦著 幸の神と竜 大元出版)
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この神社は お金儲けに忙しいのか「イクメ大王」の事が全く由緒書きに触れられていない。残念な事だ。
宮崎市でお生まれになったイクメ大王(垂仁)は宮崎の生目神社にちゃんと祀られていて 生目神社の由緒書きにも
「一説では生目入り彦イサチの命(垂仁大王)をおまつりしている」とちゃんと書いてあるのに。
イコマ山地由来のイクメ大王を説明せずして、縁もゆかりも無い八幡三柱セットを祀り しかも朝鮮半島
辰韓王子ヒボコの子孫のオキナガ姫のそのまたゆかりの無い両親までも祀り、その他事代主も含めて二十社
の末社を作り まるで神様の安売りデパートだ。見境が無いとはまさにこのことだ。
がっかりして この神社のデパートを後にした。
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2.村屋神社 村屋に坐弥富津比売神社(むらやにいますみふつひめ) 奈良県田原本町蔵堂426
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農村地帯の中ほどに こんもりとした森がある。
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鳥居を潜ると 想像も出来なかったほど広くて長い参道が続く。
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広い境内では トンド焼きの準備が行われていた。
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変わった注連縄だ。初めて見た。長い竹ざおにくくりつけられている。
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門松も本体が 砂に埋もれている。これも初めて見た。
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村屋神社の由緒であるが、残念な事にあまりにも記紀に迎合し過ぎている。
せっかく 出雲の神様というか 実在の王族、古代出雲王朝第八代副王(少彦)の八重波津身(事代主)と皇后の
美保津比売(別名沼川姫)を祀っているのに、とても残念だ。
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イクメ大王がサホ姫と手を組み、ようやく大和入りし、サホ姫は登美の霊畤(前回訪ねた場所)で三輪山の
太陽の女神を礼拝する。しかし遅れて大和入りした豊来入彦、豊来入姫たち豊国軍に 三輪山と登美山を
占領されてしまう。
その後出雲王家の向野見彦(野見の宿禰 )の子孫や登美家11代当主加茂田田彦たちにより 三輪山は奪還
されて、田田彦は三輪山に事代主を「大物主」の名前で祀るのである。
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秦国からの渡来人 徐福やその部下穂日親子(今の出雲大社宮司の先祖)、および沢山の秦国人海童たちにより
拉致幽閉殺害された大国主と 事代主。事代主の奥方、美保津比売(沼川姫)は皇子を連れて出身地の越へ戻られた。
屋敷のあった 松江市美保関町には 姫皇子の美保ススミ比売が事代主を祀る美保神社に残られた。
沼川姫の皇子、タテミナカタは 越の姫川から 沢山の越の人たちや出雲族を引き連れて更に諏訪湖へ進み
諏訪湖の開拓に成功された。諏訪大社の主祭神 の「タテミナカタ命」である。
沼川姫は 諏訪湖の中ほどに 銅像でたたずんでおられる。
そういう 出雲王家に由緒あるお二人のことを 記紀に毒されて 高皇産霊神(たかみむすび天孫降臨に出てくるわけのわからん神)
のむすめだとか 大物主と 大国主と 完全に勘違いしたり、非常に程度の低い由緒書きで残念だ。
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本殿の前にも鳥居がある。
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本殿は朱塗りで二連棟だ。事代主(大物主)と 美保津比売皇后だ。
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末社に恵比寿神社があり、驚いた。主祭神 の大物主が この恵比寿神社の祭神の事代主と
別の神様と思っている証拠だ。恐ろしや、記紀の呪縛。
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神社横に立派な社家の建物があり、大いに興味を引かれた。
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表札は「守屋」と書かれていた。この地域は「村屋」なので 守屋が村屋になったのだろうか。
守屋家はこの地の豪族だったのだろう。出雲王家の血を引く方なのか 興味が沸いた。
機会があれば お話を伺いたいものです。
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次は岐多志太神社とヤタガラス神社です。
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記紀の歴史作り話の「神武東征」は 九州物部家が前後70年離れて行ったヤマトへの東征を 一つにまとめた
無理な作り話だ。もう少し本当らしく創ればいいのに。
今回はその東征の 一回目に 熊野に上陸した九州物部軍をヤマトへ道案内した立役者
「ヤタガラス」こと 出雲王家ヤマト分家の登美家当主の加茂建津之身(かもたてつのみ)」を祀るヤタガラス神社。
そして2回目に大和入りして 大和の大王となったイクメ大王(垂仁)を祀る往馬神社(いこまじんじゃ、
正式名は 往馬に坐イコマツ彦神社)。
それと正真正銘の出雲王である、出雲王国第八代副王(少彦)八重波津身(記紀では事代主と書き換えられたお方)
とその皇后美保津姫(沼川姫の事)を祀る村屋神社(正式名は村屋に坐弥富津比売神社 むらやにいますみふつひめ)を訪ねた。
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1.往馬神社 往馬に坐往馬津比古神社 奈良県生駒市壱分町
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西暦246年に第二次東征を開始した九州物部と宇佐豊王国連合王国のイクメ王は河内に上陸してヤマトへ向う。
しかし立ちはだかる「生駒山地」に阻まれて 山を越えることができなかったと言う。
山の東側 葛城地方には ヤマト磯城王朝第十代彦坐大王の皇子サホ彦が大軍を率いて陣取り
それを越えられなかったという。
そのためイクメ王は長期間生駒山地に留まざるを得ず、そのためこの山地が後世「イクメ山地」と呼ばれて
それが「生駒山地」になったらしい。
大和入りしてヤマトの大王となられたイクメ大王は出雲王家宗像家の市杵島姫と徐福の皇子「穂穂出見」が
はじめた「九州物部王家」の子孫である。
彼はこの往馬神社に往馬津彦として祭られている。
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広い駐車場の脇に鳥居が立ち ここから参道が始まる。「往馬大社」と書いてあり、神社より格が上らしい。
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沢山の人が階段を登っていくが、後で分かるが今年から この神社の恵比寿祭りの日にちが変更されたらしい。
なぜ イクメ大王の社に 恵比寿様こと事代主が 祭られているのも後で分かる。
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立派な神門を潜るとさらに石段が続く。
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立派な拝殿で沢山の人がお祓いの順番待ちをしていた。お正月の稼ぎ時だ。
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その奥に本殿があった。しかし七棟ある。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札があった。それを読んで驚いた。
往馬津彦(イクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)
は 分かる。しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)神功皇后
(オキナガタラシ比売)ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子ヒボコの子孫
オキナガタラシ姫のご両親まで祀られているのにはびっくりだ。
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それに二十柱もの末社があり、さまざまな人が祀られていて まるで神社のデパートだ。
たくさんの神々を祭り ご利益が沢山あるので どうか来て頂戴と言う感じなのだ。
あっけに取られた。
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広い境内ではトンドヤキの準備も行われていた。
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この神社の周りの森は 奈良県の文化財らしい。
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歩いて行くと 終に出ました「恵比寿神社」。事代主もびっくり、「なんでやねん」と言いたくなるほど
なんでもありの神社なのだ。毎年今日が 恵比寿祭りらしいのだ。それで人が多かったのだ。
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こういう石灯籠の字もあった。松江市生馬町の生馬神社を ヤマトに移住した出雲族が この地に
生馬神社を分祀したという説もある。(谷戸貞彦著 幸の神と竜 大元出版)
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この神社は お金儲けに忙しいのか「イクメ大王」の事が全く由緒書きに触れられていない。残念な事だ。
宮崎市でお生まれになったイクメ大王(垂仁)は宮崎の生目神社にちゃんと祀られていて 生目神社の由緒書きにも
「一説では生目入り彦イサチの命(垂仁大王)をおまつりしている」とちゃんと書いてあるのに。
イコマ山地由来のイクメ大王を説明せずして、縁もゆかりも無い八幡三柱セットを祀り しかも朝鮮半島
辰韓王子ヒボコの子孫のオキナガ姫のそのまたゆかりの無い両親までも祀り、その他事代主も含めて二十社
の末社を作り まるで神様の安売りデパートだ。見境が無いとはまさにこのことだ。
がっかりして この神社のデパートを後にした。
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2.村屋神社 村屋に坐弥富津比売神社(むらやにいますみふつひめ) 奈良県田原本町蔵堂426
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農村地帯の中ほどに こんもりとした森がある。
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鳥居を潜ると 想像も出来なかったほど広くて長い参道が続く。
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広い境内では トンド焼きの準備が行われていた。
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変わった注連縄だ。初めて見た。長い竹ざおにくくりつけられている。
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門松も本体が 砂に埋もれている。これも初めて見た。
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村屋神社の由緒であるが、残念な事にあまりにも記紀に迎合し過ぎている。
せっかく 出雲の神様というか 実在の王族、古代出雲王朝第八代副王(少彦)の八重波津身(事代主)と皇后の
美保津比売(別名沼川姫)を祀っているのに、とても残念だ。
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イクメ大王がサホ姫と手を組み、ようやく大和入りし、サホ姫は登美の霊畤(前回訪ねた場所)で三輪山の
太陽の女神を礼拝する。しかし遅れて大和入りした豊来入彦、豊来入姫たち豊国軍に 三輪山と登美山を
占領されてしまう。
その後出雲王家の向野見彦(野見の宿禰 )の子孫や登美家11代当主加茂田田彦たちにより 三輪山は奪還
されて、田田彦は三輪山に事代主を「大物主」の名前で祀るのである。
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秦国からの渡来人 徐福やその部下穂日親子(今の出雲大社宮司の先祖)、および沢山の秦国人海童たちにより
拉致幽閉殺害された大国主と 事代主。事代主の奥方、美保津比売(沼川姫)は皇子を連れて出身地の越へ戻られた。
屋敷のあった 松江市美保関町には 姫皇子の美保ススミ比売が事代主を祀る美保神社に残られた。
沼川姫の皇子、タテミナカタは 越の姫川から 沢山の越の人たちや出雲族を引き連れて更に諏訪湖へ進み
諏訪湖の開拓に成功された。諏訪大社の主祭神 の「タテミナカタ命」である。
沼川姫は 諏訪湖の中ほどに 銅像でたたずんでおられる。
そういう 出雲王家に由緒あるお二人のことを 記紀に毒されて 高皇産霊神(たかみむすび天孫降臨に出てくるわけのわからん神)
のむすめだとか 大物主と 大国主と 完全に勘違いしたり、非常に程度の低い由緒書きで残念だ。
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本殿の前にも鳥居がある。
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本殿は朱塗りで二連棟だ。事代主(大物主)と 美保津比売皇后だ。
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末社に恵比寿神社があり、驚いた。主祭神 の大物主が この恵比寿神社の祭神の事代主と
別の神様と思っている証拠だ。恐ろしや、記紀の呪縛。
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神社横に立派な社家の建物があり、大いに興味を引かれた。
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表札は「守屋」と書かれていた。この地域は「村屋」なので 守屋が村屋になったのだろうか。
守屋家はこの地の豪族だったのだろう。出雲王家の血を引く方なのか 興味が沸いた。
機会があれば お話を伺いたいものです。
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次は岐多志太神社とヤタガラス神社です。