怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

引っ込みがつかない小学校英語

2011-05-15 17:27:42 | 教育
教えて!ウォッチャー…小学生から英語は身につけるべき?(教えて!ウォッチャー) - goo ニュース

文科省がどう取り繕うとしても『小学校英語』が、
1.現場教員、児童双方の無用な時間&精神的、発達段階的負担増であり、
2.御用学者以外のアカデミックな裏付けもまったくなく、
3.社会的な要請を反映しておらず、
4.必要な予算、人材などを充当せず、
5.現場の意見などまったく聴かず、
6.英語活動なのか国際理解なのかコミュニケーションなのか、全てを混同するような論理で、
進められているのであって、
これまでに導入、推進で扇動役を果たした、某政党、英語教室などの業界、御用学者、などの思う壷になっている。

冷静に考えれば、小学校英語なんてものは導入できないのであって、今、そこで英語嫌いを発生させているだけでも悪としかいいようがない。

百歩譲って、英語活動の体験が、将来の高等教育における英語コミュニケーションのハードルを少しでも下げるとして、その恩恵を享受できるものがいかに少ないかを考えるべきであろう。
対費用効果としてなっていない。

最も効果があがるのが、英会話教室の繁栄である。

英語を話すことに慣れたからといって、「生きる力」だというのは片腹いたい。
また、学習材としての英語を主張するのであれば、なぜ小学校からなのかをはっきりと説明してほしいものだ。

更に言おう。

5、6年生の英語活動が必修になったのは、他でもない、もうなし崩しである。
しかし、1~4年生の英語活動はどうだ。
総合的な学習の時間の無駄遣いか、特別活動の無駄遣い。
はたまた余剰時数という、本来は計画的に事前運用など設定してはならないものに手を出す始末においては、未履修問題と同等に過(剰)履修問題といってよい。
これが許されるならば、余剰時数を計画的に運用して、他教科にも傾斜配分すべきであろう。
台風で登校できない日があっても、インフルエンザで閉鎖時期があっても、冬や春休みなどを潰してでもそういった時数は確保される?そんなばかなことがあるわけがないだろう。

せめてネット上では「英語」という引き金を引いた連中を糾弾すべし。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
feeling (noga)
2011-05-24 15:14:34
日本人に関する '有ること' と '無いこと'。

感性があって、理性がない。
感想を述べるが、理想を語らない。

現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
事実は受け入れるが、真理は受け入れない。

実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。

現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
模倣力はあるが、創造力がない。

「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
歌詠みは多いが、哲学者は少ない。

丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
学歴はあるが、教養はない。
序列判断はあるが、理性判断はできない。

学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。

民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。

理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。

恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。

「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。

この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
この国には、現実はあるが、非現実がない。
日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
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コメントどうも (yo)
2011-05-24 23:54:43
今の「英語教育」(政策)に関しては、理念、理想などというものはないと断じたい現実的な問題があります。
単純に小学校に「英語活動」を入れたからといって意味はないのです。
(あるなら説明してほしいものですが、誰も適切な説明をし得た人はいません。)
なぜならば、「教育は食い物」だからです。
そういった意味では、私はペシミストな立場ですが、現場人であるので、実践をもって地道に切り返すことで前向きになることができると思ってもいます。
「教育の目的」を人格形成ににおく立場を崩さず、下手な国家政策に教育を巻き込まない理想はおろしたくないです。
今の「小学校英語」は反対するに足る対象です。
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