怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

齟齬なのか?(不起立裁判と君が代・日の丸)

2006-09-23 23:02:05 | 戯言
ここ何日間は東京地裁のニュースで頭がグルグルしていた。
まとまりがつかない部分もふくめてメモして、またいずれ考え直したい。

まずは以下を引用したい。
「敗訴、1%も予想せず」 都教委は控訴の方針 asahi.com(2006年09月21日22時15分)より。

>敗訴判決が出た21日午後、(中略)ある職員は「敗訴なんて1%も予想してなかった。そうでなければ、こんなに混乱しません」。

へー。そんな余裕があったんだー。

>同日夕、都庁に戻った中村教育長は(中略)、「我々の主張が何も参酌されず残念だ。通達は、学習指導要領に沿った式典にするために必要かつ合理的なもので、教育基本法が禁じた不当な支配には当たらない。こんな判決が判例とならぬようにしたい」と控訴する方針を明らかにした。

「必要」かつ「合理的である」という判断は「正当」かつ「妥当」なのか?
児童や保護者と作り上げて来た伝統さえ霧散する卒業式を強制しておいて、なんの「必要」なのだろうか・・・。
それこそ「思想・信条の強制」ではないのだろうか?
合理的な卒業式であれば、君が代・日の丸の条項だけでなく、全てに渡って式を設計してほしいものだ。
作為に満ちた「合理性」こそが「強制」の温床であるとは言わないのか?


>通達の内容を改める考えはなく、近く都立学校長を集め、判決内容と都教委の対応を説明するという。
>中村教育長は「判決による学校現場の混乱は避けたい」と語り、

もし。確定判決になった場合、相当の責任をとれるのか?
また、東京裁の判決を保留したままやるという判断は「混乱」への防御策として妥当なのか?
この路線に先鞭をつけた石原・横山は、その結果が思惑通りに運ばなかった場合、どう出るのか。
今回、賠償額が一人頭3万円ということだが、抑圧された声なき声の分も含め、賠償の形を示す覚悟はあるのか?
破壊された伝統を戻す努力をする覚悟はあるのか?

>「個人の思想・信条の自由があるとはいえ、学校現場で学習指導要領に反する姿勢を生徒に見せることが教育なのか」と判決を批判した。
「公共」の名を借りてファッショ的に突き進む、そんな不合理な弱者切り捨てをする姿勢こそ問題ではないのか?
ちなみに、「学校現場で学習指導要領に反する姿勢を生徒に見せること」をさせた形にしたのは都教委側なのだし、なぜ、今まで問題にならなかったものが問題になったのか?
だれが、どういう目でみると問題なのか?
そこが問題の突端であるし、取りかかるべき部分のはずではないのだろうか?

>一方、石原慎太郎都知事はこの日、都庁に姿を見せず、報道陣が求めた判決へのコメントも出さなかった。
この答えは次の日にすぐ出た。

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石原都知事が控訴方針…国旗・国歌通達の違憲判断 (yahooニュース)。ニュース元は「読売新聞 - 9月22日20時54分更新」

>(前略)石原慎太郎都知事は22日の記者会見で「控訴しますよ。方針は変わらない」と述べ、控訴審で都側の主張を訴えていくことを明言した。

かたくなじゃあないか。喧嘩だぁな。

>石原知事は「式典で国旗・国歌に敬意を払う行為は(学校に)規律を取り戻すための統一行動の一つ。裁判官は実態を見ていない」と反論。
>通達は文部科学省の学習指導要領などに基づく適法なものだとして、「義務を怠った教師が懲戒処分を受けるのは当たり前」と述べ、正当性を強調した。

実態が問題ではなく、歴史認識の様相と法に抵触するかどうかが問題なのじゃないかな。
百歩ゆずっても、実態はとどこおりなくやってきた伝統をも破壊した都教組こそ浮き彫りになると思うのだが・・・。
石原の言う実態が問題なのであれば、きちんとした情報公開とそこに民主的な議論をもってくるのが筋であるし、都知事たるものの役目なのじゃないかな?

まあ、実行犯の横山は、そんな気はさらさらなく、校長達を呼びつけ、どう喝し、強制してきたのだから、そんな実態についての判決が出たとも言えるんじゃないか?
すでに石原の述べる反論は体を成していないと思う。

>一方、小坂文科相は、この日の閣議後会見で「これまでの判決と照らして予想外で、都教委の主張が認められなかったことは驚き」と話し、都の対応を見守る考えを示した。

信じられない。文科省が自治体の事情に干渉するなんてって思う。
「予想外」と述べているのだから、この都の事態を当然視しているととられかねない発言。というか、そうでしょう。
見識が問われるというか、同じ穴のムジナなのねぇ。


さて、そんなニュースが飛び交っていた週後半なのだが、
mixiやその他のブログなどで見る限り、結構な人数がこの判決に不服ないしは反意を述べている。

ネット界だがWeb2.0だが知らないけれど、毒を流す排水溝が1本なら因果関係も考えられるけれど、そうでない情報の砂漠から自分の求める真理のよりどころを探すのは容易じゃないよ。そう思う。
声が大きければWikipediaだって簡単に狂っていくもんだよ。
成熟はまだ遠いという視点をもっていても、答えを急ぎたくなるのが人情ってものじゃぁないかなぁ。
いきおい、みんな右に丸め込まれる要因はもっている。
なぜなら、日本は戦前戦後通して右社会だからだ。

愚痴はそれぐらいでおいておいて、
問題は彼等のいい分。
「君が代・日の丸」=「愛国心」という図式と「日本人は日本を愛す」という思想・信条の押しつけが当然であるという「自由を自分で制限してしまう」バイアス。
「公務員」=「マニュアルに従え」という図式と「教育は強制」だというイドラ的なバイアス。
「国旗・国歌問題」=「君が代・日の丸問題」という誤認と「嫌いなら出て行け」という暴力にのってしまう感情的なバイアス。
「君が代・日の丸」がないと教育が立ち行かなくなるという宗教的盲信のバイアス。

とても冷静に話せないと思ってしまう。
彼等は何か別な事に不安を覚えているのではないだろうか。
精神的に疾患とまでいかなくても、この問題以前に、何かを抱えていたり、感情がたかぶっていたりすると、「対話」は困難だ。

教育活動は、本来当事者に帰属し、当事者が対話的に協同する中で、それぞれ権利を行使し、義務と責任を果たす中でこそよりよく優れたものになっていくはずであるし、その精神は、教育基本法に書かれている。
指導要領は枠組みであって、実践の中身ではありえない。
ましてや、政治的な、あるいは偏見に裏打ちされた通達などは、教育現場において、民主的な手続きを踏む実践の前には無力であってほしいものだ。
今回の地裁の判決は、軌道を正しくするための礎だ。
と希望をもって今は息巻いておきたい。

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