怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

この日に

2012-07-08 07:15:32 | 教育
今までも私はそうしてきた。
自分の意思の表現は、ゆれながらも表出してきた。
間違ったこともある。
でも、言えなかった、伝えることを許されなかったことはある。

「デモ行進」というのは久しぶりになる。

ある行進の時に、ふと右翼の街宣車が横からがなっていたので立ち止まってみて見た。
(彼らはいくらもらってやっているんだろう。かわいそうに。)
それでも、立ち止まった私に対して諭すように、でも汚い言葉で、マイク越しでも大きな声で、話し(がなり)かけて来る人がいた。

私は、そのあんまりな姿に落胆の笑みを浮かべて立ち去ろうとすると、おそらく敏感な彼はそのことを感じ取り、うっかり車のステップを降りてしまった。

突撃する警察。
「あいつに訊きたいだけなんだ!」と叫ぶ、もみくちゃの彼。
かわいそうに。

ことの顛末を側で見ていたパートナーの手を握ったら、激しく震えていた。
ごめん。そう思った。
彼には悪いことをした。

そのとき以来の行進になるだろう。
例えばデモに参加しよう。
時流に対して、自分の意思を示そう。
やり方はいくらもあるハズだ。
署名をしよう。
ツイットしよう。
日記に書き込もう。
親しい人と手をつなごう。
報道や国やそれらに否定的な人々に対して、思いっきり懐疑の視線を送ってやろう。
直接行動に対してシニカルになることはだれでもできるが、その現場に立ち会うことは誰にでもできることではない。


「自分の感受性くらい」茨木のり子

 
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

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