怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

このブログがいったん停止したわけ

2007-06-20 08:52:36 | 戯言
いずれ書かなければならないなと感じていたのですが、一応、今の言葉でここに記します。

第一に、当時の精神状況が悪かった事。
すでに病的なのはわかっているので、自分自身に対してセーブをかける意味があった。
当時は、治療に集中する意味で、本気でやめるつもりでいた。

第二に、私事でいろいろあってつらかったこと。
これは上手に書けないのでここまで。

第三に、ブログを始めたころと比べ、ずいぶん濃い内容になってきたこと。
これは身の危険を感じたし、こうやってテキストとして仕事の話を残す事に躊躇するようになったこと。
また、そのこと自体がストレスになったこと。
教員という身分を明かしながら、自分の周囲にことを記述していくのは、実は疑心暗鬼の元。
恐怖と背中合わせだということ。
このディープになる実態から逃げようと思った。

第四。自分の表現の限界を感じたこと。
うまく書けない。
というか、この時期、自分の文章が嫌いになった。
おそらくブログというものがスクエアに思えたからだろう。

第五。この手のブログが増えてきた事。
あまり独自に言いたいことがなくなったと感じたこと。
同じようなことをいっていても、共同するわけではないし、できた対話は迎合的な感じがして嫌だった。
白河氏との対話はそれに反して刺激的ではあった。

第六。つながりがストレスに感じたこと。
これはまた表現し難い。
とにかくストレスに感じることが増えて、なんでもストレスを覚えるようになったとは言える。
ダウンスパイラル。

どの理由も有機的に絡み、にっちもさっちもいかない自分を感じ、心機一転という気持ちよりも、すっぱり世界から足を洗うかどうかを迷った。
少なくともブログ生活から離れるべきだと強く感じ、更新を手始めにやめる宣言をした。
自縛し、それがなくても不自由はしなかった生活を取り戻したかった。

復活したのは、そういったこんがらがった自分をそのまま受け入れる余裕をもてる外的要因と、それでも書かずにおれないという内的要因としての欲求があったからだ。
ましてや教育に関わる部分は日々大問題で、声をあげずにいること息苦しくてたまらなかったからだ。
でも、自分の役割ではないし、そういうものでもないとは強く感じている。

だから(という言い方はへんだが)、今でも「やめたい」という気持ちは残っている。
自分以外の自分か、自分と同じような発言のできるものが出てくるまではやめることはできないかもしれない。
でも、それは土台無理な話だということも分かっている。

これだけブログは増えても、どれも疑問の答えとは成り得ない。
答えはないのだろうが、共感するレベルさえ合わない。

もう一つ書いておきたい。
このブログの落としどころだ。
ブログを始めたなら、終わる責任もあるだろう。
はけ口として始まった部分があるから、はけ口として機能しなくなればよい。
飽きるまで、誰からの様々な形の要求もはねつけて書いてみる。
外的な要因もあって停止したならば、その要因が生んだ結果をはねのけて自分自身で納得して終えたい。

数字的に、アップ率を1日1回に戻したときが終わるメドの一つになるだろう。

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