怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

すごいところからTB(改訂)

2007-10-11 23:31:16 | 戯言
前記事の「過履修」問題その6にTBがついた。
しかもとんでもないことに「幼児教育(特に英語)」の宣伝ページから。

無神経もいいところだけれど、せっかくさらし者になりに来たので、思いっきり叩いておきたくなった。
(意地の悪いこと)

初っ端からサブタイトルが、
>幼児英語教育・今の時代必要な幼児英語教育

はあ?必要なんですかぁ?必要性はどこにぃ?
そんなカンジ。

で、続くのが、
>幼児の英語教育において親が期待するものとはなんでしょう。
>英語力の土台作り?幼児に英語を学ばせたいと考える親は増えていますが、ほとんどの親は自分で教えられる程の英語力を持っていません。

前段の実態(「増えている」ってところ)はどこに数字があるんでしょうね?
ひどい煽り。
こんなのを読んで、私の子どもも英語を学ばせなければ時流に乗り遅れると感じる人がいたら不幸。

>幼児に対する英語教育は過熱の一途。

ひどい嘘。

>教材もさまざまなものが出回っています。

いい加減にしてください。

>幼児の頃から英語に慣れさせるのは、後の英語教育にいい影響を与えると言われています。
>小さい頃は単語を覚えさせようとするよりも、英文を聞かせて英語のリズム感をつける方が効果的なようです。

全然裏付けがない。
デマゴークと同様。

>幼児の英語教育において親が期待するものとはなんでしょう。
>英語力の土台作り?もちろんそれもあるとは思います。
>ですが多くの親は、我が子が幼い頃から英語に触れることで、日本以外の文化、価値観と意識せずに触れ合わせることを目的にしています。
>そのために決して安くはない教材にお金を払っているのです。
>幼児期の英語教育は、「教える」というよりは「刷り込む」という感じに近いもの。
>いわば胎教に近いものです。

英語の唄をうたっていれば、日本以外の文化、価値観と・・・って?
はあ?
教えるのではなくて「刷り込む」?
慣れさせるってのは刷り込みなのね?
無理無くといいつつ・・・。
はあ?

>ご存知ですか?子どもの「幼児英語教育」。
>まだ小さなうちから、特に2歳頃から英語を学ばせて、ネイティブと同じくらい英語で会話や読み書きができるくらいの能力を身につけさせる教育──それが「幼児英語教育」です。
>「幼児英語教育」は語学力だけでなく、

なんだいこのエスカレートしていく宣伝文句は。
リズムから始まってネイティヴ?
いったいどのくらい「刷り込み」をすると「ネイティブ様」に慣れるのでしょうね?
すごい論理の飛躍・跳躍。

>バブル崩壊後の学歴社会の終焉。
>後にやって来たゆとり教育と、その撤回。
>日本の社会全体が、教育に対して迷い始めています。
>親も教師も、以前ほど子供に「勉強しろ」とは言わなくなりましたよね。
>それなのに、幼児に対する英語教育は過熱の一途。
>教材もさまざまなものが出回っています。

時代認識の誤認(意図的だろうねぇ)だらけ。
しかも「過熱の一途」って、どんだけぇ?ってカンジ。
そんなのないでしょう?
煽り過ぎ。

なんだかバカらしいものを見て、脱力してしまった。
このページって、あやしいけれど、実はマルチの入り口だったりして!?

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こんなエントリを書いていたら、更に厚顔なTBを受けたので、それを公開しておいた。
見てもらえればナンボなんだねぇ。きっと。
これを見て買う人は阿呆だよ。ホント。

「過履修」問題その6

2007-10-11 06:01:22 | 教育
5.「英語活動」の可能性

中教審>教育内容や授業時数の扱いについては引き続き検討。
 というのが議論の現状なのだけれども、管理職の売名行為として、安易に「英語活動」の「過履修」が行われ、結果的に過密な時数としてしわ寄せが子どもたちに向いていく。
 これは新自由主義的な発想を重視してきた文科省や教委の責任だと言える。

今、学校を蝕んでいるものは、成果主義的な発想で、ポジティブリストへの体質転換を図られている学校現場だ。
有効な学校教育活動を無理矢理に短期、あるいは数値で評価しようというのだから、本来、じっくり構えてしかるべき育みが無視され、崩壊しつつある。
これに関しては組合活動云々の思想的なものはまったくない。
緊急に手を差し伸べたい子ども達が、外的な要因で増大していると感じる。

背景はさておき、
 では、本当に現行のままで低学年の「英語活動」は無理なのか?

 これは私案に過ぎないが、現行のひどい発想による「英語活動」の対案として最後に提起しておきたい。

 「生活科」には「身近な生活」がテーマとして入っているのは先に述べた。
 そう設定したときに、私たちの生活の中になんと「英語」起源や関連のものの多いことか。
 「外来語」「カタカナ表記」だけでなく、具体的にローマ字が巷にあふれ、子どもたちも英単語を会話の中で無理無く使用し、覚える事が出来る環境にある。

 私としては、そういった中にこそ「生活科」で設定できる「英語活動」が秘められていると想像している。

 例えば、生活環境の中に「英語由来」のものを探してみる活動などは低学年でもできると思う。
 カタカナの学習を平行して行うこともできそうだ。
 探してきた英単語ならば、体験的に覚えるのだから、定着も愛着もありそうだ。

 また、英語に使われている文字の「アルファベット」は低学年の生活にも想像以上に浸透している。
 ローマ字入力のパソコンのように、身近なアイテムにもローマ字は利用されている。
 そういった文字に親しみ、身近な英単語や英語語句の利用などは低学年でも設定できるだろうし、中学年以降の英語のみならず他教科への活動を考えても有益だろう。

 やはり、ネックになるのは、文字を教えてはならないことやローマ字と英語は違うだとか、本来の探求的な学びにおいては要らない制限の問題があることかと思う。
 そこを解消していく方が自然であるし、無理が無い。
 つまり、もっと「英語活動」を自由にしていく方向であっていいのではないだろうか?

 現行の小学校「英語活動」に感じる匂いというのは、なんとなく「英会話」「コミュニケーション」に偏重し、それが小学校段階でできないと「マズイ」みたいな捉え方だと感じる。
 それでは必然性としては弱いのではないだろうか?とモチベーションの問題として感じる。
 子どもは英語であるかどうかに関わらず、活動的なものは楽しいだろうけれど、「英語」である必然性は感じられない。
 「英語」を声高に主張しているのは大人の論理だと思うのだが・・・?どうだろうか。

 また、評価の視点からも考えたい。
 「元気に歌えた」だとか「笑顔で発声できた」だとかが目的になる、似非生活科内英語活動(とでも呼びたい内容)などは、現行の枠組みを逸脱していないかに見せかけて無理くりやっているお為ごかしに過ぎない。

 「英語」を学習させているのであれば、もっと指導的な内容に踏み込んだ評価にならなくていいのか?と思ってしまう。
 言語習得を目的としない言語活動というのは、文化を学習するのでなければ、斜めに見てもヘンではないだろうか?

 「英語教育」に関わる人に聞いてみたい。
 そんなことで効果はベストなのか?と。


 こう見ていくと、やはり中高の英語のカリキュラムを下にも伸ばした包括的な小学校英語の必要性も浮かんで来ると思う。
(それがポジティブリストに対する批判をもつ私としてはいいことだとは思わないけれど。)
 「英語教育」推進派でさえ(否、ならば)、この方が合理的で賛成できるのではないだろうか?

 ここまで書いてきて。私自身も「英語活動」の内容について、実践的な内容の学びが不足しているかもしれないと感じるが、それでも・・・という気持ちも押さえきれない。

 次回は再び時数の問題を振り返り、長かったウダウダの思考過程を終末へ向かわせたい。
 ようやく怒りの熱も冷めつつあるから・・・。(反対の意思が変わるわけではない)

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