怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

やまなし(宮澤賢治)

2007-10-07 01:11:56 | 教育
6年生の国語の定番教材「やまなし」。

先日、研究会でとりあげられて久しぶりに読んだ。

読み取りに際しては、実は大人が読む方が「ムズカシ」く捉えられるという話になった。
そういった意味では、小学生の時期にどうなんだろうという流れになり、それは逆に小学生だから「ムズカシ」さを自然に回避でき、イメージを拡げるという課題に純粋に取り組み安いのだよというところへ行き着いた。

小学校の物語文読解の大きなテーマの一つである「想像」は、ここが頂点であるかのような印象を覚える。
教員の教材観がどこまで小学生にすり寄って、さらに具体的に伝え、共感していけるのか、共感し合える関係を子ども達の中にも創りあげられるのかがポイントなのではないだろうかと思った。

音読の表現を互いに聞き取り合う中で、授業を創造するということもできるだろう。
言葉(語句)の解釈を話したり、書いたりして、イメージの相違を発見し合う活動もできるだろう。
絵を創造して見るのも手だろう。

宮澤賢治は自然を愛した。
彼の遍歴には鉱物などの観察・収集があったそうだ。
そういえば「やまなし」には無機質なものへの愛着を直接的に感じることができる表現が並ぶ。

「やまなし」のイメージは水中からの視点移動と、独特の光彩が織りなす雰囲気だ。
時間経過やミクロ的な光の変化を捉えつつ読んでいかなければ、作品中、宮澤の創造しようとした世界は読み手の解釈に偏重したものにならざるを得ないだろう。

「読み」は「読み手」のものだから、それでもいいのだが、より深く捉えるという意味では宮澤のそういった科学嗜好の人物像を背景にしなければならないだろう。
せめて文中に出て来るモノや景色を擬似的にでも子ども達に見せなければ、具体的なイメージ作りは難しそうな気がした。

夏のプールの底に沈み、周り見回したり、中から水面を見上げたり、水の中のものを手に取って光や色の様子を観察したことなど、水の中からの視点を理解するための体験が無ければ、宮澤の目には近づけないだろう。

そんな教材観をもった時間になった。

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ある先生が「宮澤賢治のこの作品は、彼特有の自閉的な世界だ。」と宣っていた。
一方、それを聞いた別の先生が「自閉症は頭の中に色彩が渦巻くのだそうだ。」と言っていた。
「自閉的と自閉症は違うだろう。」とつっこみをいれそうになったのだが、それよりも「自閉症ってのは色彩が渦巻くけれど、それを文学的な表現に転換することを好むのだろうか?」と別な疑問がわいてしまった。
ああ、思考の蛇足だ。