自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

独居死

2010年01月16日 | Weblog
 独居死。寂しい言葉だ。独居死された方々の心情や如何に。
(朝刊より)
 阪神大震災の被災者らが暮らす兵庫県内の災害復興住宅で、昨年1年間に誰にもみとられずに亡くなった「独居死者」が62人だったことが分った。仮設住宅が解消した2000年以降で、計630人(男性410人、女性220人)になった。
 昨年の独居死者は男性44人、女性18人で、平均年齢72.25歳。このうち65歳以上の高齢者は49人(79%)。遺体発見までの日数は1日以内が34人、2~10日が16人、11日以上が12人。
 独居死を調査した法医学者が62人の死因を分析したところ、心疾患28人、肝疾患7人、事故死6人、自殺5人、脳疾患4人、不明12人だった。持病の早期発見で独居死を防げるケースがあると法医学者が指摘。

 独居死を防ぐにはどうすれば良いのか。僕が少し関係している特養老人施設から昨日送られてきたパンフレットに「認知症予防6ヶ条」が掲載されていた。これは独居死防止にも役立つと思われる。
 1.活発な生活や運動をして筋力・体力を維持・増進しよう。
 2.しっかりした食事で活動に必要な栄養をしっかり摂ろう。
 3.栄養をしっかり摂るために「口の健康」を保とう。
 4.家にとじこもることなく外出し、気分転換をしよう。
 5.人と交流・会話して楽しく過ごそう。
 6.人と会うことで刺激を受け適度に緊張感を持とう。

問題は、この6ヶ条を実践できる環境づくりが充分かどうかであろう。

ハイチの大地震。死者の数が20万人に達する可能性。何ということだ。

再び、海鼠

2010年01月15日 | Weblog
 先日、海鼠という動物の名を挙げたので、海鼠とはどんな動物なのか、気になった。海の動物で姿形が奇妙だということは先刻承知なのだが、それ以上のことは知らない。姿形が奇妙だと言っても、海鼠から見れば人間の姿形こそが奇妙だろう。
 棘皮動物に属する海鼠のなかまはおよそ1100種を数えるそうで、棘皮動物の多くがヒトデのように放射状の体を持つのに対して、海鼠類は円筒形で口と肛門が端にあるのが変わっていると、ものの本にある。雌雄同体の種が多いそうだ。
 奇怪なその形から食欲をそそるとはいいかねるが、東アジア一帯で食用にしているところが少なくない。特に中国文化圏ではよく食されるが、日本でも酢のものとして好む人が多い。海鼠を好まない人でも中華料理で知らないままに海鼠を食べている場合もあるだろう。
 海鼠に関する故事というと、『古事記』に、アメノウズメノミコトが海の魚たちを集めて「天つ神の御子に仕えるか」と尋ねたとき、海鼠だけが返事をしなかったため、その口を小刀で裂いたという話がある。実際に海鼠の口は裂けているように見えるが、この口の周囲にある触手を使って海底の砂泥を取り入れ、その中の有機物を栄養源にしているそうだ。
 海鼠が旨いのは冬。僕は冬は好きだが、寒波は好きではない。海鼠は寒波など気にも留めないのだろう。今冬は世界的に寒波の当たり年だ。

15年前の1月16日の夜

2010年01月14日 | Weblog
 大部分の人々はおだやかな生活を営んでいたであろう。阪神・淡路の人々も明朝の大地震による大惨事など、露ほどにも考えず、老人は就寝する手はずを整え、商店の主は仕事の後片付けに勤しみ、受験生は試験の答を新聞で見て一喜一憂していたであろう。人々は夫々の一日の疲れを癒していたであろう。・・・あれから15年、再建、復興に汗だくになって夜を昼にして働いて来られた人々も多かったことであろう。彼の人々に思いついた歌を捧げる。

  ♪四季の歌  (荒木とよひさ作詞作曲)

 春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような ぼくの友達
 夏を愛する人は 心強き人 岩をくだく波のような ぼくの父親
 秋を愛する人は 心深き人 愛を語るハイネのような ぼくの恋人
 冬を愛する人は 心広き人 根雪をとかす大地ような ぼくの母親



(今日は京都へ行ってきます。)

思い出の記――草を結ぶ

2010年01月13日 | Weblog
 僕の幼少時代の体験談を一つします。今と違って、田圃や畑への農道とか山へ入る道とかには草がノビノビと生えていた。その道をリヤカーとか大八車とかが通るものだから、ワダチの跡が残り、その二つの跡の両側に草が生えていた。悪ガキたちは、その道の草を両側から結んだ。僕も悪ガキだった、言うまでもなく。なぜ草を結ぶかというと、結ばれているとは知らない人が足をひっかけ躓くのを見るためだった。厳然たるイタズラである。
 ところで、「草を結ぶ」という言葉は辞書に載っている。その意味は「恩に報いる」という程のもの。大昔、晉と秦の戦いの時、娘の命を救ってくれた恩返しに、父親の霊魂が草を結んで敵を躓かせ、恩人を助けたという中国の故事から「恩に報いる」という意味が出て来たそうだ。
 勿論こんな故事は知らなかったが、少年の頃のイタズラの由来が遠大な教養につながっているのではないかと連想し、楽しくなった。無論、イタズラが教養だとは言いたくても言わない。
 学校や塾での勉強に費用が要るように、自然の中で学ぶ(遊ぶ)にも或る程度の「危険」という費用を払った方がいいと思う。僕の幼少時代の「危険」は、こっぴどく叱られることだった。イタズラをしたのだから叱られるのは当然である。チャンバラごっこで痛い目にあう「危険」も当然である。
 思うに、近頃の子供たちは、こういう類の他愛も無い(?)イタズラを知らないし、しないのではないか。体験するチャンスが極めて少ないのではないか。転んだ時の痛みも、自分の責任で叱られた時の心痛も体験するチャンスが極めて少ないのではないか。そんな子供たちが大人になって、云々と、僕にはそう思えるのだが。
 全国各地の農道が舗装されてしまった事にも問題がある。

素朴さ

2010年01月12日 | Weblog
 以前からちょっと気にしていることがある。素朴さとは一体どういう心持ちなのだろう。
 都会人より山里や海辺に住む人の方が素朴に生活されているだろうと推測される。この文脈での素朴さの意味には自然の摂理に逆らわないという側面があるのだろう。
 もう少し一般的に素朴さの意味を探索してみたい。素朴さの積極的な意味は、心を開いてありのままの自分を見せることだと思う。率直さと言い換えてもいい。この意味での素朴さとは、真実への愛、自己を偽ることへの嫌悪、自分の欠点を正直に打ち明けることなど、自他の関係において隠し所の余地がないことだと思う。
 このような意味での素朴さを僕は持ち合わせていない。私的な隠し所を大いに持っている。この歳で我ながらあきれはてたことだと思う。
 素朴さの消極的な意味、それは自然の摂理に逆らわないということであろう。消極的な、と言ったが、この形容詞は当てはまらないとも思う。自他の関係にも自然の摂理というものがあって、その自然の摂理に沿うことが素朴さなのであろう。生身の人間だから、他人に対する好き嫌いの感情を抱くのは自然なことであろう。その好き嫌いの感情を良い悪いの判断に転化してしまうところに、素朴さと対極をなすと考えられるエゴイズムが顔を見せる。
 そうすると、エゴイズムから自己浄化された状態が素朴さということになるのであろうか。素朴さの意味をまだまだ探索しなければならないが、探索すればするほど、僕には縁遠いもののようにも思われる。縁遠いのは死ぬまで、あるいは強度の認知症になるまで、残念ながら続くだろう。
 日頃の自我を少しだけ反省しています。

有機栽培の効用

2010年01月11日 | Weblog
(前の徒然想からの再掲)
 愛読書という程ではないが、暇にまかせて斜め読みする本に『地球白書』がある。この本は地球の未来への警告を発するために様々な分野における資料を収めている。そのひとつを抜粋する。

 化学物質使用量を減らして農地汚染を抑えることは、農地の生物多様性保護の基本である。イギリス土壌協会の報告によると、有機栽培農地では次のことが判明した。
 ・それぞれの種の個体数の多さと種の多様性はかなり高いレベルにあり、野生植物や希少種や減少種も五倍であった。
 ・農地の周辺の鳥類は二五%多く、秋から冬にかけての農地内の鳥類は四四%多い。
 ・鳥類が食べる虫の数は一.六倍。
 ・害虫ではない蝶の数は三倍。
 ・クモの数は一~五倍。
 ・ミミズを含め、土壌中の生物は著しく増加。

 化学物質を使わない有機栽培で、特に興味深かったのは、緑肥(マメ科作物を土にすき込む)が使われると、生物多様性にとって有利な状態になる、ということである。そういえば、蓮華もマメ科の植物ではなかっただろうか。蓮華畑が田圃に変わることによって稲作が営まれ、水田には様々な水生動植物が活動していた。近頃は蓮華畑を見る機会が随分と少なくなった。寂しい気がする。

韓国併合から100年

2010年01月10日 | Weblog
(朝刊より)
 ソウル中心部で昨年10月26日、一つの式典が盛大に開かれた。明治の元勲・伊藤博文を朝鮮の独立運動家、安重根が中国ハルビン駅で暗殺した事件から100年にあたる記念日だった。
 事件は韓国では「義挙」とたたえられている。この式典が政府主催だったことをみても、安重根の存在の大きさがわかる。鄭雲燦(チョン・ウンチャン)首相は式辞で「民族の魂の表象だ」と述べた。
 この日に合わせて、伊藤博文暗殺を題材にした新作ミュージカル「英雄」が開幕し、大みそかまで上演された。
 安重根は事件翌年の1910年3月に刑死する。5カ月後、日本は「大韓帝国」の国号を使っていた朝鮮に条約を強いた。韓国併合条約である。
 朝鮮と旧満州の支配をめぐる日露戦争に勝った日本は、この条約によって朝鮮半島を植民地にした。植民地支配は以後35年間続く。それがもたらした朝鮮の人たちの苦痛と憎しみは、戦後の日韓関係の底流を形づくる。
 韓国併合から1世紀。目の前の世界もアジアもいままったく異なる姿だ。これに目をこらせばなおのこと、歴史を顧みて、日韓関係の重要性を思い起こすことがこれほど重要な時はない。
 東西冷戦下の65年、日韓両国は米国の後押しもあって国交を結んだ。当初は自民党政権と韓国の軍事独裁政権との黒い癒着も抱え込んだ時代だった。
 今はどうか。国交正常化のころ年1万人だった日韓の往来は、日に1万人を優に超える。文化・芸術の交流は深まり、経済のパイプも巨大だ。この現実に政治の関係が追いつかなければならない。
 鳩山首相は8日、韓国の李明博大統領と日韓の新たな共同宣言を出す意向を明らかにした。そこに豊かな理念と連帯の精神を盛り込みたい。
 15年前、戦後50年の「村山首相談話」をはじめ、政府は過去への反省を語りはしたが、自民党や歴代政権内にそれを否定する人々もいて、不信の目を向けられ、率直な意思疎通が妨げられることもしばしばだった。
 鳩山首相は、日本が行った植民地支配とアジア侵略の歴史を直視し、それを踏まえ、いまや大変化をとげるアジアの中で、日本が平和と繁栄に貢献する構想を語ってほしい。
  鳩山政権は、戦時徴用されて日本企業で働きながら賃金をもらえなかった韓国人の資料を韓国政府に渡し、徴用被害者対策に協力する方針だ。一つ一つは目立たない方策でも、こうしたことを着実に積み重ねていけば、わだかまりを解くことにつながる。
 日韓ともに、互いに学び合う姿勢が大切だ。意見は一致しなくても、違いの背景や相手の立場を知る。単眼でなく複眼で見て、冷静に対応していく努力が必要だろう。
 冒頭に紹介したミュージカル「英雄」は、初代の韓国統監を務めた伊藤博文を単に朝鮮収奪を導いた悪者とはとらえていない。当時の日本が置かれた国際的な立場にも思いをめぐらし、彼の苦悩も描こうとした。演出した尹浩鎮さん(61)は「安重根も伊藤も、ともに祖国にとっては英雄であり、それぞれ東洋平和を思い描いていた。伊藤を侵略の元凶とだけ見ては全体はわからない」と語る。20年、30年前の韓国ではそんな描き方はできなかっただろうとも言う。
 韓国の経済発展と社会の成熟に伴う自信の表れでもあろう。ものごとを相対化して多様に見る。そんな姿勢を日本と韓国の両側で、もっと育てたい。(但し、相対化して多様に見ることの出来ない厳然たる加害事実を認める度量を日本人は持たねばならない。)

 
(日韓(韓日)関係の歴史を知ることが今もなお極めて重要である。ドキュメントではないが、一昨日読み終えた帚木蓬生『三たびの海峡』は、連行されてきた韓国・朝鮮の人々がなめた辛酸を描いて秀逸な作品である。ついでに、このところ帚木蓬生作品にはまっています。)

人口と自然資源 (再掲)

2010年01月09日 | Weblog
 『地球白書』によると、近未来の地球の危機が色々見えてくる。人口と自然資源の関係も相当の危機にある。
 〈淡水〉 現在、5億500万人が水ストレス状態か水不足状態にある。2025年までにこの数値は24億~34億になると見られる(現在の世界人口のほぼ半分に相当する)。
 〈耕地〉 1960年の一人当たりの平均耕地面積は0.44haだったが、現在では0.25ha未満である。不足に関する最も控え目な基準によれば、どのような国でも、食料の自給自足には最低でも0.07haの土地を要する。現在はおよそ4億2000万人が僅かな耕地で暮らしているが、2025年までに10億人に達するであろう。
 〈森林〉 現在、1人当たりの森林面積が0.1haに満たない40ヶ国に18億人が暮らしているが、この数値は2025年までに46億人とほぼ3倍になるであろう。途上国の女性は薪を集めるために更に遠くまで歩くことになる。また、依然として世界の情報の大半を伝えている紙は、すべての人が入手しづらくなるであろう。
 〈生物の多様性〉 世界25ヶ所の生物多様性の宝庫の内19ヶ所では、世界平均を上回る速さで人口が増えている。多様性に恵まれた地域の平均人口増加率は年1.8%で、世界平均を上回っている。

 これらの数値が示す危機を僕らは実感できるであろうか。不精者の僕には実感できない。あまりにも恵まれた生活をしているからであろう。だが、推測を逞しくして、これらの数値から見えてくる事態を想像してみるべきだ。

海鼠

2010年01月08日 | Weblog
 亡き兄は海鼠の酢のものが好きだった。聞くところによると父も好きだったらしい。僕はといえば、食べなくて済むものなら、食べたくない。偏食を殆どしないが、海鼠は食べる気になれない。あの姿形の海鼠を最初に食べた人が何処の誰かは知らないが、知る術も勿論ないが、エライ人だと思う。寒く冷たくなる程に美味になるらしい。
  
    人間の海鼠となりて冬籠   寺田寅彦(1878~1935)

 物理学者、随筆家としての寅彦は、漱石に英語と俳句を学び、熱心に句作した時期があった。この句、冬籠している人間の様子を海鼠に喩えただけなのだが、だんだん動きが鈍くなっていくその有様はいかにも海鼠である。この「人間」は寅彦本人で、おそらくは自嘲の句である。海鼠を食べることを好まない僕も「海鼠になりて」というところだけは寅彦に似てきた。
 海鼠のお好きな冬彦さんに叱られるだろう。寒くても犬のように外を駆け回ることを冬彦さんは僕に勧められるだろう。ところで、犬は海鼠を好んで食べるだろうか? 愚問の極みである。

二重被爆者・山口彊さん逝去

2010年01月07日 | Weblog
 昨年7月10日に記した、広島と長崎で二回被爆した山口彊さんが逝去された。
(新聞より)
 広島、長崎それぞれで直接被爆し、「二重被爆者」として初の公式認定を受けた山口彊(やまぐち・つとむ)さん(長崎市在住)が4日午前5時38分、胃がんのため長崎市の病院で死去した。93歳だった。密葬は近親者で済ませた。
 三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口さんは1945年8月6日、出張先の広島市(爆心地から3キロ地点)で被爆。列車で8日に長崎へ戻り、9日には再び爆心地から3キロ地点で被爆した。2回の被爆で左耳の聴力を失い、急性白血病や白内障などの原爆後遺症にも苦しめられた。
 非核や平和の思いを伝えようと、02年には短歌集「人間筏(にんげんいかだ)」を自費出版。05年、生後6カ月で被爆した次男をがんのため59歳で亡くしたことをきっかけに、それまで以上に積極的に被爆体験を語り始めた。06年8月には、米ニューヨークの国連本部を訪れ、自身が出演した記録映画「二重被爆」を上映し、核兵器廃絶をアピール。09年3月、長崎市から広島での被爆事実の認定を受けた。
 もう二度と被爆者を作らないで--。死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた。最期はその家族に見守られて、穏やかに旅立った。
 命の光が弱くなる中、12月7日には、病室でスイスのテレビ局の取材を受け、か細い声で必死に戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを訴えた。
 12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。

(御冥福をお祈り申し上げます。

今日はちょっと遠出してきます。)

闇について

2010年01月06日 | Weblog
 僕んちの近くに世界遺産に登録された大寺が二つあり、寒い日でも賑わっているが、夜7時ともなると街灯も少なく相当に暗くなる。最寄の駅から僕んちの方へ、僕んちを越えて歩いて行くとだんだん暗くなる。すぐに鎮守の森。漆黒の闇に入る。
 幼年期僕は山里で育った。冬にはすぐ近くの山が黄昏から闇へと姿を次第に消していく、その情景が今も思い起こされる。手前味噌になるが、そんな情景を知らない生まれながらの都市の人々は,人工の光や明るさに慣れっこになって、闇の情緒に気が行かないのではないだろうか。都市では闇は危険なところというイメージが強い。実際に危険な場合もあるが、実際に危険でなくとも、そこには明るさに反比例するとの思いが輪をかけて、危険度が増えているとの思い込みがあるように思う。
 だが、言うまでもなく、明るさは闇があってこその明るさである。闇の情緒に浸ることがなければ、明るさの有り難味も半減することであろう。
 自然界の夕闇、宵闇、暁闇などの闇の情趣豊かな体験は昔のものになったのであろうか。
 無明の闇という言葉がある。仏教で、真理を離れ煩悩の世界に迷うことを意味する。無信心の僕はもちろん体験していないが、僧が修行するのは厳然と存在する無明の闇から脱するためなのであろう。
 恋という闇もある。恋のために心が乱れ、分別を失った状態を意味する。若い時に恋の闇を多少とも経験してこそ、穏やかな生活が出来るのかも知れない。一応穏やかな生活をしているつもりの僕も若気の至りで恋という闇を経験したことが・・・。

河豚

2010年01月05日 | Weblog
 河豚のセリの様子や河豚料理の色々がテレビで放映されていた。
 中国宋代の蘇東坡の詩に「竹林の間から桃の花がほころび、水辺に浮かぶ鴨の足先の水もぬるむ。葦も芽吹いて、いよいよ河豚のやってくる季節になった」と、春の到来を遡上してくるフグに託して詠ったものがある。中国ではフグは千年も前から食されていたらしい。ところが、ちょっと不思議なことに現在の中国では、一般に食用が禁じられているそうだ。他の国ではどうなんだろう。
 日本では、フグはその毒性にもかかわらず、命に替えてでも食べようとする人があとを立たない程美味な魚として知られてきた。貝原益軒が「身を慎む人、食ふべからず」と言っているにもかかわらず。
 一説に、青酸カリの千倍の猛毒をもつという。呼吸麻痺を起こす毒の生成がいかにして行われるかについては、内因説と外因説とがあるらしいが、決定的なことは未解明だと聞く。
 フグはそんなに美味い魚なのだろうか。僕は2、3回食べたことがあるが、それほど美味だという記憶がない。もっとも、僕が食べたフグ料理が安価だったからではあろうが。
 いずれにせよ、春の到来を告げるフグは、彼岸の頃が美味だとして珍重されているそうだ。彼岸まではまだまだ寒さ厳しい日がある。今朝は西ノ京も霙が降った。寒うございます。温かで美味なフグ料理は口に入りそうにない。

田中正造

2010年01月04日 | Weblog
 元日に今年の合言葉は「森の時代へ」だと記した。それで思い出したことがある。
 足尾銅山が多くの人々の手によって見事に回復し、熊や日本カモシカなどが棲息するにまで、緑豊かな森や山に蘇った事を数年前にテレビで見た。その時録ったビデオを久しぶりに見た。
 今回ビデオを見て、思い出した人物が田中正造である。若い名主、民権運動家、代議士の経歴をもつ彼は、五十歳になったころから足尾銅山問題に取り組み始め、残りの二十年余りの人生をそれに捧げた。彼の名前は現在では高校の日本史のすべての教科書に載っているそうだ。
 足尾鉱毒事件は歴史的経過としては二つの局面に分かれる。一つは渡良瀬川流域の鉱毒問題、もう一つは鉱毒問題を解決するために谷中村を遊水地にしようとした問題。田中の闘いは鉱毒の存在の指摘から始まり、帝国議会での相つぐ質問、被害民との共同行動、天皇への直訴などを経て、水没する谷中の住民となることに至る。
 当初は主として、古河鉱業の仕業や政府のそれとの癒着、田畑の荒廃による被害民の資産や収入の減少を指弾していた田中が、人の命が踏みにじられてしまった点にこそ問題の本質があると認識するに至ったのは、1896年の渡良瀬川の大洪水を契機にしてでのことであった。被害地を巡回した彼は、被害者が被害者であるにも拘わらず、被害を隠そうとする窮地に追い込まれている事を知った。また、鉱毒が母胎に影響して、死産が増えるとともに、乳幼児の命を侵している事も見聞した。
 それらを通じて彼は「所有権ヲ侵シ、生命ヲ侵シ、名誉権利ヲ侵シ、而テ之ヲ救フ方法ヲ為サズ」と述懐している。こういう発想の基本には、自然の中に生き、ものを育てる事、即ち生命を伸ばす事を職業とする「百姓」(彼の自伝は「予は下野の百姓なり」の一句で始まる)の感覚があったと思われる。
 生命をすり減らす開発という「文明」を告発してやまなかったのではないかと思われる。昭和の戦後、水俣病や薬害エイズをはじめ様々な酷に過ぎる公害が発生したことは周知のところである。田中正造の告発は現代においても活きていると思う。活きていないことを望むが。

ヤブツバキ

2010年01月03日 | Weblog
 猫の額にツバキが咲いている。種類は分からないが、ヤブツバキの変種であることには相違ない。日本の山野に自生するツバキには、ヤブツバキ、リンゴツバキ、ユキツバキの三変種がある。後の二種もヤブツバキの変種だと本に書いてある。ユキツバキは多雪地帯に多く、それこそ雪のような白い花が美しいそうだ。大きな果実をつけるリンゴツバキは屋久島から報告されているそうだ。
 ヤブツバキは暖帯林の植物だから、宮城県と山形県が北限のはずだが、何故か津軽半島に至るまでツバキ林が点在する。植栽されたのであろう。ヨーロッパ各地でも植栽されている。
 ツバキは花を愛でるだけではない。堅い幹は建築用に、実から絞った油は整髪に、薬に、食用に、燃料にと生活の必需品だった。ツバキ林を営んでいる村も多かったらしい。
 花を愛でるほうのツバキは、ヤブツバキとユキツバキをもとにして数多くの品種がつくられた。花の色は、赤、白、桃、暗紅など。花弁は一重から八重、牡丹咲き、千重咲き、大きさは三センチから二十センチを超えるものまで。現在では、日本で一三〇〇品種を見ることができるそうだ。
 近くの小さな鎮守の森にもヤブツバキがある。常緑の葉陰に楚々と小さな赤い花が見える。この花は決してでしゃばらない。だから、余計に人目を引くのかも知れない。厳冬に赤い実は、アオキ、南天、千両、万両などが見られるが、赤い花はツバキぐらいのものかも知れない。
 もうだいぶ以前に、侘び助を描いたことがある。あの清楚だが艶のある花の肌を描くのに苦労した。見るだけと違って、描くと無性に好きになるものだ。しかし、いかんせん、侘び助に最近はお目にかかっていない。

新年にあたって『きけわだつみのこえ』

2010年01月02日 | Weblog
 太平洋戦争下の軍隊という特殊な環境で、国家のために否応無く「死ぬ」運命に投げ込まれた学生たちの、不合理かつ非人間的な現実との葛藤と苦悩を、残された手記から再現したのが、『きけわだつみのこえ――日本戦没学生の手記』。
 学生たちは「遂に全ての人から人間性を奪ってしまう」軍隊で、上官や古参兵からしばしば奴隷や機械のように扱われ、「気持ちも死人同様」となる。「一層の事自殺でもしたら」と思う。しかし、「母がいる」、「年老いた御両親がある」からこそ生き続けた。
 或る者は「肉体的・・・精神的苦痛」から逃れるため、こうした時代に生きた自らの運命を呪い、迫り来る死を静かに見つめる。残酷な運命よりも、残される両親、兄弟姉妹、恋人に感謝し、彼ら彼女らの幸福を祈った。
 学生たちの多くは強く勉学を志しながら、途中で断念せざるを得なかった者たちである。だから、軍隊内での「前頭葉の脱落症状」、「人間の獣性」、「中枢神経をなくした人間」という異常性から脱するために、わずかな時間をぬすんで読む書物が唯一の清涼剤であり、それさえ出来ない文字に飢えた者は、古新聞や薬の効能書を繰り返し読み、人間回復を図ろうとした。
 死を前にした一人は「日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死にきれないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬと思えば、腹も立たない。笑って死んで行ける」と語った。
 苦悩に満ちた彼らの想いを共有することができれば、本書には単なる反戦の書というだけではなく、平和と戦争、生と死の奥深い意味を問い直す、人生の書という性格がある。
 新年にあたって、襟を正して本書を読んでいる。

(今日はちょっと遠出してきます。)