今回は手塩川歴史資料館、関 寛斎資料館、北海道立北方民族博物館等の雑感を記す。
小樽から札幌に立ち寄れば、行きたい美術館もあったが、素通りして北を目指した。道の駅「森と湖の里ほろかない」から日本海側に進路を変え、国道232号線を走る。最終手塩町に、道の駅「てしお」がある。この道の駅にはギャラリーがあり、天塩町ゆかりの芸術家による、絵画や陶芸作品が展示されていた。小さいながらも憩いの場として、救われる。手塩川沿いの公園も立派で良く整備されていた。手塩川歴史資料館は、昭和26年赤レンガ建築の旧役場庁舎を再生し、平成元年開館したとある。かって、手塩町は、木材と漁業で繁栄した町の歴史が、よく解る展示物であった。
関 寛斎は司馬良太郎の「街道をゆくオホーツク街道」に出てくる。徳島で医者として地域の貧者には優しく、金持ちには厳しく医療活動をした明治の赤ひげ医である。なぜ、71歳の時、北海道開拓民として移住したのか、興味があり、陸別町にある道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の関 寛斎資料館を観る。この資料館、閑散としている。道の駅も国鉄時代の駅を転用している。資料を見ても、なぜこの地に来たのかよく解らなかった。1830年千葉県に生まれ、18歳で医術の道に入り、蘭学を学び、開業医から長崎に留学、御殿医として徳島に移り、戊辰戦争で阿波藩医として活躍後、徳島で開業医、71歳で北海道開拓の理想に燃えて入植し、82歳の生涯を自ら閉じるとある。面白くもなんともない資料館だった。
北海道立北方民族博物館は網走市にある。常設展示、東はグリ-ンランドのイヌイト、西はスカンディナビアのサミまで、北方の諸民族の文化を具体的な資料を通して、ハイテクを使って、解りやすく紹介してくれる。中でもオホ-ツク海沿岸で栄えた文化、様々な遺物が展示されていた。厳しい環境にもかかわらず、人間は生きていく事が出来ることを実感した。建物も立派であった。特別展環北太平洋の文化Ⅲ「トーテムの物語」が開催されていた。北西海岸インディアンの暮らしと美の副題があった。「トーテム」とは、自分達の祖先と特別な関わりを持つと信じられている特定の動植物や自然現象のこととある。ト―テムポールや版画や仮面にワシ、ワタリガラス、クマ、オオカミ、シャチなどを表現していた。アフリカ彫刻や仮面と共通する物を感じた展覧会だった。
小樽から札幌に立ち寄れば、行きたい美術館もあったが、素通りして北を目指した。道の駅「森と湖の里ほろかない」から日本海側に進路を変え、国道232号線を走る。最終手塩町に、道の駅「てしお」がある。この道の駅にはギャラリーがあり、天塩町ゆかりの芸術家による、絵画や陶芸作品が展示されていた。小さいながらも憩いの場として、救われる。手塩川沿いの公園も立派で良く整備されていた。手塩川歴史資料館は、昭和26年赤レンガ建築の旧役場庁舎を再生し、平成元年開館したとある。かって、手塩町は、木材と漁業で繁栄した町の歴史が、よく解る展示物であった。
関 寛斎は司馬良太郎の「街道をゆくオホーツク街道」に出てくる。徳島で医者として地域の貧者には優しく、金持ちには厳しく医療活動をした明治の赤ひげ医である。なぜ、71歳の時、北海道開拓民として移住したのか、興味があり、陸別町にある道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の関 寛斎資料館を観る。この資料館、閑散としている。道の駅も国鉄時代の駅を転用している。資料を見ても、なぜこの地に来たのかよく解らなかった。1830年千葉県に生まれ、18歳で医術の道に入り、蘭学を学び、開業医から長崎に留学、御殿医として徳島に移り、戊辰戦争で阿波藩医として活躍後、徳島で開業医、71歳で北海道開拓の理想に燃えて入植し、82歳の生涯を自ら閉じるとある。面白くもなんともない資料館だった。
北海道立北方民族博物館は網走市にある。常設展示、東はグリ-ンランドのイヌイト、西はスカンディナビアのサミまで、北方の諸民族の文化を具体的な資料を通して、ハイテクを使って、解りやすく紹介してくれる。中でもオホ-ツク海沿岸で栄えた文化、様々な遺物が展示されていた。厳しい環境にもかかわらず、人間は生きていく事が出来ることを実感した。建物も立派であった。特別展環北太平洋の文化Ⅲ「トーテムの物語」が開催されていた。北西海岸インディアンの暮らしと美の副題があった。「トーテム」とは、自分達の祖先と特別な関わりを持つと信じられている特定の動植物や自然現象のこととある。ト―テムポールや版画や仮面にワシ、ワタリガラス、クマ、オオカミ、シャチなどを表現していた。アフリカ彫刻や仮面と共通する物を感じた展覧会だった。