自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

忠さんの美術館巡り④

2008年09月30日 | Weblog
 今回は手塩川歴史資料館、関 寛斎資料館、北海道立北方民族博物館等の雑感を記す。
 小樽から札幌に立ち寄れば、行きたい美術館もあったが、素通りして北を目指した。道の駅「森と湖の里ほろかない」から日本海側に進路を変え、国道232号線を走る。最終手塩町に、道の駅「てしお」がある。この道の駅にはギャラリーがあり、天塩町ゆかりの芸術家による、絵画や陶芸作品が展示されていた。小さいながらも憩いの場として、救われる。手塩川沿いの公園も立派で良く整備されていた。手塩川歴史資料館は、昭和26年赤レンガ建築の旧役場庁舎を再生し、平成元年開館したとある。かって、手塩町は、木材と漁業で繁栄した町の歴史が、よく解る展示物であった。
 関 寛斎は司馬良太郎の「街道をゆくオホーツク街道」に出てくる。徳島で医者として地域の貧者には優しく、金持ちには厳しく医療活動をした明治の赤ひげ医である。なぜ、71歳の時、北海道開拓民として移住したのか、興味があり、陸別町にある道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の関 寛斎資料館を観る。この資料館、閑散としている。道の駅も国鉄時代の駅を転用している。資料を見ても、なぜこの地に来たのかよく解らなかった。1830年千葉県に生まれ、18歳で医術の道に入り、蘭学を学び、開業医から長崎に留学、御殿医として徳島に移り、戊辰戦争で阿波藩医として活躍後、徳島で開業医、71歳で北海道開拓の理想に燃えて入植し、82歳の生涯を自ら閉じるとある。面白くもなんともない資料館だった。
 北海道立北方民族博物館は網走市にある。常設展示、東はグリ-ンランドのイヌイト、西はスカンディナビアのサミまで、北方の諸民族の文化を具体的な資料を通して、ハイテクを使って、解りやすく紹介してくれる。中でもオホ-ツク海沿岸で栄えた文化、様々な遺物が展示されていた。厳しい環境にもかかわらず、人間は生きていく事が出来ることを実感した。建物も立派であった。特別展環北太平洋の文化Ⅲ「トーテムの物語」が開催されていた。北西海岸インディアンの暮らしと美の副題があった。「トーテム」とは、自分達の祖先と特別な関わりを持つと信じられている特定の動植物や自然現象のこととある。ト―テムポールや版画や仮面にワシ、ワタリガラス、クマ、オオカミ、シャチなどを表現していた。アフリカ彫刻や仮面と共通する物を感じた展覧会だった。

「智に働けば角が立つ」

2008年09月29日 | Weblog
 漱石を余り好まない僕なのですが、昨晩はまた仕事が捗らないまま、手を伸ばして『草枕』をとって、斜め読みした。
 「・・・・・
  山路を登りながら、こう考えた。
  智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮 屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
  住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越 しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る。・・・」

 漱石の言わんとするところは、人の世で生きるためには、「智に働くな、情に棹さすな、意地を通すな」という精神論ではない。人は必ず智に働き、情に棹さし、意地を通すものだから住みにくい、だからといってどこへ行っても同じだ、ならば、安堵や喜びという精神的安定を得るために、詩や絵という芸術に親しむようにすればいい、と彼は言いたかったのだ。
 彼の言うところは智では分かるが、行うは難し、である。

ピエタ

2008年09月28日 | Weblog
 美術の写真集を見ていたら目が釘付けになった。ミケランジェロの「ピエタ」。30年ほど前にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中で迷いながら殆ど極彩色の壁画などを眺めていた時、突然「ピエタ」に出会った。あの時も言うに言われぬ不思議な感情に駆られた。
 十字架から降ろされた死せるイエスを抱くマリアの悲哀(ピエタ)。実物を見るよりもリアルに接写された「ピエタ」像の皮膚や着衣の細部。その迫真性に心を奪われた。その美しさは言葉では表現しようがない。
 それにしてもマリアの何と若いことか。どう見ても20代だ。イエスが十字架に架けられたのは30歳代である。とすれば、マリアは50歳前後だろう。そして、このマリアが抱くイエスは50歳を超えているように見える。イエスの方が生母より老けている。しかし、そんな不合理は少しも気にならない。それほどにこの「ピエタ」は美しい。
 僕は思った。本当の悲哀というものは美しいのではないか。あるいは同じことだが、本当に美しいということは哀しいことなのではないか。死せる我が子を抱いてマリアは慟哭も号泣もしていない。哀しみを抑え、むしろ静かさと安堵に満ちている。これはどういうことなのだろうか。無信心の僕には分からない。しかし、ピエタに見られる美しさは、例えば聖林寺の十一面観音像にも見られるように思う。
 美について語る資格は無いが、美と悲哀とは表裏の間柄にあるように思われる。

テデコッケイ

2008年09月26日 | Weblog
 土岐朋貞氏によりますと、山鳩は「テデコッケイ テデコッケイ」と鳴くのだそうで、それには訳があります。秋田の山奥に伝わるお話です。
 昔々、テデ(父)と男の子が二人で暮らしていました。テデは懸命に働いて、とうとう病んで腰が立たなくなりました。正月、隣の人が餅をもってきてくれたので、テデは「後の畑で菜っ葉さ取ってきなさい、味噌汁餅にして食べよう」と言って、子供は喜んで畑に行きました。ところが、なんばたっても子供は帰ってきません。テデはもらった餅を食べてみると美味しいので、一生懸命食べていたら、餅が喉につかえてしまいました。「ギクギク」と騒いだけれど、子供も誰もいません。とうとう倒れてのびてしまいました。隣の人が訊ねてきたとき、テデは餅が喉につかえて死んでいました。隣の人は「粉を付けて食べれば死ななかったのに」と涙を流しました。子供が帰ってきてテデが死んだ訳を知り、おいおいと泣きました。村の人が来て騒いでいると、子供が見当たりません。皆で探していると、山の方から「テデコッケイ テデコッケイ」と子供の声がします。それは「テデに粉(コ)を付(ッ)けて食べさせれば良か(ケ)たのに(イ)」という意味で、とうとう子供は山鳩さなってしもうた、というお話です。今日はこれでおしまい。

秋風

2008年09月25日 | Weblog
 秋というと当然、紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。
 風に色があると留学生に話したことがある。

  石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。色があるからではないが、与謝野晶子に

  おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。風が見えるという感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
 風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。
 こんなことを徒然に思うのは、今朝の寒さを覚えるほどの涼しさに、無機質のパソコンに向かいながらも、秋の心象を抱いているからだろう。今年は秋の深まりが早いような気がする。

夏逝く

2008年09月24日 | Weblog
 このところ秋らしい大気に満ちている。九月について永井龍男が書いている。「九月に入ってからのある日、私は身辺を振り返る。少年期もそうであったし、若い時も老いた今もそうである。別にめずらしいことではあるまい。四季の変化にめぐまれた島国の人間の生理が、おのずとそうさせるのである。」
 僕にはこういう感慨はない。ただただ夏の暑さから脱した気分の良さに浸るだけだ。ただ、夏が逝く、という表現は他の季節については使わないのではないかと、ふと思った。春が逝く、とかと言わないのではないか。
 何故だろう。九月の風、九月の雲、日本列島から厳しい夏が去っていくと、日差しの勢いが日一日と秋めいていく。その清々しい移り行きに、夏逝くという表現がふさわしいのかもしれない。
 夏逝くと言うと、逆に逝った夏を懐かしむ心意気もあるのだろう。特に稲作農家の人々は、夏の農耕の厳しさに耐えた、その労苦を思い遣り、同時にその労苦が報われる秋の到来に安堵されていることだろう。

三輪山

2008年09月23日 | Weblog
 春分の日、大和の太陽は三輪山の真後ろから登る。神奈備の稜線を黒々と浮かび上がらせる黄金の光背から忽然とまっ赤な光球が生まれ出て、ぐらぐらと揺れるように天空に上がる。大和の日出る地・三輪。そして、真西にそびえる二上山の雄岳雌岳の谷間に吸い込まれていくように、秋の彼岸の太陽を見送る地・三輪である。写真家などへのアンケートで日本の風景で残しておきたい風景として三輪山が上位にあった。
 山麓には古くから豪族が住いし、その豪族との融合なしには大和は治められなかったのだろう。記紀には、神武・崇神帝の、三輪祭祀を巡る悪戦苦闘ぶりが伝えられている。そんな大昔の事を知らなくても、この山には、その姿の美しさにも拘わらず、おどろおどろなるものがある。山自体が御神体であるが、何の謂れか蛇が祀られている。しかし檜原神社の池畔から眺めていると、現世のかしましさが嘘のようで、まさに異界で遊ぶ事ができた。昨日、比較的暑い半日をボーと過ごした。

再び、あかとんぼ

2008年09月22日 | Weblog
 日中はまだ暑いものの朝夕めっきり涼しくなった。季節が足早に移ろう徴だろう。今朝、郵便ポストに赤とんぼが羽を休めていた。色の取り合わせがよくないが、何かしら心が和んだ。
 三木露風の童謡「あかとんぼ」に歌われたアキアカネ、日本の秋の風物詩の代表だろう。露風は『三木露風詩集』のあとがきにこう記している。
 「十二歳の頃は、いろいろ擬古文を作って、其の文を綴じて、学校の先生に見て貰ったりした。その年か、翌くる年かに、私は左のような俳句を作った。
   赤蜻蛉とまっているよ竿の先
今、思うに、此句は私の童心をあらわしたものである。」
 童謡「あかとんぼ」の歌詞を引用しておく。

一、夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か
二、山の畑の くわの実を こかごに摘んだは まぼろしか
三、十五でねえやは 嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた
四、夕やけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおの先

 今頃の子供はどんな童謡を歌っているのだろう。懐古趣味かもしれないが、昔の童謡は心に響く。

芭蕉の秋

2008年09月21日 | Weblog
   此の道や行く人なしに秋の暮

 或る連句の席でこの句は詠まれたが、その時もう一句、

   人声や此の道かへる秋の暮

もつくり、「此二句の間、いづれをか」と門人らに示したという。良い方を発句にしようというのである。それで、前句の方が良いということになって、これを発句として半歌仙(十八句の連句)が巻かれた。
 しかし、この二句はどちらが良いというものではなく、芭蕉の内面では等量の重みをもっていたのではないか。人の群の中で生きることと、単独者として生きることは、芭蕉にとっては二者択一の問題ではなかったと思う。人の群の中で生きながら、なお単独者として己の道を追求したのが芭蕉だったと思う。
 芭蕉でなくても、秋には人の群の中で単独者でいる己を見出すこともあろう。

Made in the Andes

2008年09月20日 | Weblog
 先日送られてきた「ユニセフ・カードとギフト秋・冬号」を見ていたら欲しいものが幾つかあった。カードは以前買ったことがあるが、アフリカの子供が描いた可愛い素朴な絵のカードで、手放さずに引き出しの中にある。ユニセフ・ロゴが付いた簡単なショルダーバックも買ったが、これは軽くてよく使う。ロゴがあまり目立たないのがいい。今回はマフラーを買うことにした。僕は身だしなみを気にしない方だと自分では思っているが、時にはおしゃれもしたい。
 南米ペルーでは、アンデス山岳地帯に耕作限界地域の人々が多く暮らしている。貧困の軽減のために小規模な家内工業で、特産のアルパカ毛糸でいろんな物を織り上げて、土産物にしているそうな。軽くて保温性に優れているそうだ。今までマフラーなんて殆ど纏ったことがないが、今年の冬が楽しみである。女房殿に「珍しいものを買うことにしたぞ」と言うと、「アルパカ製のものはよく売ってる」との応え。「へー、そー」。まあ、いいや、デパートで買うのとは意味が違うんだと自分に言い聞かせた。

あかとんぼ

2008年09月19日 | Weblog
 夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か
三木露風作詞の童謡、「あかとんぼ」、四番まであるんですが、全部歌えます?全部歌える人は多分少ないのではないでしょうか。人々が歌わないからか、あかとんぼが日本の秋空から激減しているそうです。
 夕刊に、八ヶ岳東山麓の美しの森で採集調査したところ、10匹足らずだった、97年までは100匹以上採れた、98年ごろから減り始め10分の1になった、大阪の金剛山や神戸の六甲山でもここ数年はっきり減った、との記事があった。
 「アキアカネは暑さが苦手。・・・南関東では6月下旬に羽化するが、この時期の気温の上昇のため暑さにやられてしまう個体が多いのでは・・・」と、温暖化や異常気象が原因と指摘する専門家も居る。あるいは、「コシヒカリやアキタコマチなど・・・早稲品種の田植えは4月ごろで、従来より1ヶ月早く、そのため一時田圃から水を抜く中干しも1ヶ月早く5月下旬ごろに。これがアキアカネのヤゴを直撃するのでは」と分析する専門家も居る。いずれにせよ、人間の都合があかとんぼの受難の原因であることに間違いはない。
 4番まで全部歌う人々が増えたら、あかとんぼも戻ってくるかもしれない。

半不稔

2008年09月18日 | Weblog
 僕んちから車だったら1時間もかからない地域の小学校で稲の収穫をしたという記事が目にとまった。以下は新聞記事より。
 学校近くの水田で刈り取りをしたところ、もみの中身は半分が空っぽ。子供たちは半世紀を超えてなおも続く放射能の影響の恐ろしさを実感したという。
 被爆直後に長崎の爆心地近くで九州大学農学部が稲を採取し、研究のために栽培を続けてきた。平和運動に取り組むNPOが13年前に譲り受け、口コミで全国に広がった。上記の小学校では今春、NPOからコップ一杯のもみを受け取り、子供たちが水田の一角に苗を植えた。
 刈り取った稲は一見すると普通だが、半分ぐらいは空のもみが混じる。「半不稔」という「原爆稲」特有の現象だ。食べても影響はないが、子供の一人は「稲が軽く、もみが空っぽなのには驚いた」と言う。校長先生は「放射能の影響は悲惨だが、なお実をつけようとする自然の力強さも分かってもらえたら」と話す。

 (貴重な体験を子供たちはしたものだと思う。放射能の影響の悲惨さと自然の力強さを体得したものと思う。僕はと言えば、「半不稔」という言葉を初めて知り、同時に「半不稔」現象がもっと広く知られることが大事なことではないかと思った。)

秋ですね。

2008年09月17日 | Weblog
   虫のこえ (文部省唱歌)

一 あれまつむしが 鳴いている
  チンチロチンチロ チンチロリン
  あれすずむしも 鳴き出した
  リンリンリンリン リーンリン
  あきの夜長を 鳴き通す
  ああおもしろい 虫のこえ

二 キリキリキリキリ きりぎりす
  ガチャガチャガチャガチャ くつわ虫
  あとからうまおい おいついて
  チョンチョンチョンチョン スイッチョン
  秋の夜長を 鳴き通す
  ああおもしろい 虫のこえ


(よくできた歌詞だと思われませんか?こういう、何と言うか、いやみの無い素朴な文が書けないんだなー。)

知里幸恵と『アイヌ神謡集』③

2008年09月16日 | Weblog
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚にまだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸が過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うのも当然であるが、『アイヌ神謡集』が読まれる機会は案外少ない。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。(終わり)

知里幸恵と『アイヌ神謡集』②

2008年09月15日 | Weblog
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えとが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」

近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。(続く)