自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

「自分はいまこそ言はう」

2016年03月28日 | Weblog
  自分はいまこそ言はう     山村暮鳥

なんであんなにいそぐのだらう
どこまでゆかうとするのだらう
どこで此の道がつきるのだらう
此の生の一本みちがどこかでつきたら
人間はそこでどうなるのだらう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
谿間(たにま)をながれる泉のやうに
自分はいまこそ言はう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行かうと思ふと


(「一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで」というところが、いいですね。)

2016年03月27日 | Weblog
 花冷えだろうか。花冷えと言うにはまだ早いかな。
 僕は桜の花がそれ程好きではない。正確に言うと桜並木や桜山など、桜の花が大きな群れをなして咲いている光景を僕はあまり好きではない。しかし、ぽつんと一、二本咲いている桜は好きだ。なぜかと問われても理由をきちんと明らかにすることは出来ない。
 一般に人は桜をなぜこれ程まで愛でるのであろうか?この問いにも明確に応えることが出来ないであろう。事実でもって応える他はないだろう。桜の花の移ろいは様々に表現されてきた。
 つぼみの頃の「待つ花」に始まって、「初花」、「盛りの花」、「花明かり」、「花おぼろ」、「花の雲」、「花の幕」、「朝桜」、夜桜」、「桜月夜」、そして「花散る」、「花吹雪」、「落花」、流れに浮かぶ花は「花いかだ」、「名残の花」があって、ゆく春を告げる「遅桜」、「葉桜」。
 或る花の移ろいを、これほどまでに克明な表現で染め上げた例は他にはないのではないだろうか。多くの人が桜を心おきなく愛でる理由は、このような詳細な言の葉で表現されているところから自ずと理解できる。桜を愛でる人の心情には融通無碍の柔軟さがあるように思われる。よくは分からないが、或る花に寄せるこれ程までの融通無碍の柔軟な心情は日本人に特有のものかも知れない。こういう心情はいつまでも残って欲しいと思う。ただ、桜の下での素っ頓狂な宴会は見苦しい。

割り箸

2016年03月26日 | Weblog
 いつだったか、安価なラーメンを食べたとき、純日本産の素材は水だけだと聞いたことがある。当然、割り箸も外材ものである。ところが、純日本産の割り箸についての新聞記事を読んだ。
 奈良県のほぼ中央に位置する吉野の山並みはスギやヒノキの美林が濃い。吉野のスギの割り箸は最高級品として他の追随を許さない。その起源は、南北朝の時代に後醍醐天皇に献上したのが始まりだそうだ。木目が詰んだスギ箸の美と芳香が喜ばれ、一般に普及したらしい。
 「スギの箸は吉野でしか作れません。目が細くて木目がきれい。香りもいい。吉野は、夏は昼間は暑いけど夜はぐっと冷える。冬はそりゃさぶいでぇ。だからいいスギが育つ」と箸職人は自慢する。
 普及品は機械化されているが、高級品は今も熟練の職人が手作りしている。特に、赤身のスギ箸は高級品。かつて、千利休は茶会を催す際に赤スギの端材を取り寄せ、客の数だけ箸を作ったといわれる。
 材料は、原木の中心部を柱などの建材に挽いた端材を使う。製材した端材を野外で約3ヵ月自然乾燥させる。風雨に晒すことでアク抜きにもなる。箸の厚みに柾目割りしてから1本ずつ小割りする。それの両面をカンナで削り、縁を削って1本1本仕上げていく。最後に、天日に1日から3日干す。天日で干した箸は木肌のつやがいい。
 新聞氏曰く「料理に添えられる割り箸を割る時の心の豊かさと平穏さ。たなごころに馴染む柔らかな感触と、ほのかににおいたつ木の香。清潔で美しい日本の文化が一膳の箸に凝縮している。」
 同感である。現在では贅沢かも知れないが。木を上手に使うことに越したことはない。たかが割り箸、されど割り箸、というところであろうか。

ことば

2016年03月24日 | Weblog
  ことば

ことばが生まれるとき
こころの中に道が通ります
行き先はあなたが決めます
小山を越えるか 小川を渡るか
その時に 見つけることば
あなたのこころで結晶したことばは
あなたの勇気になります

ことばはある日 突然やってきます
驚かないように 推敲する勇気
勇気をもたなければならないのは
あなた つまり ぼくなのです
あなたは ぼくが発見した人です
ことばを記すことで
あなたとぼくは 同体になります

「想定外」ということ

2016年03月22日 | Weblog

▼「想定外」は炉心溶融した原子炉の封じ込めや住民避難についての対策をも思考の外に置くことだ。

「想定外」ということに関して改めてまとめておきたい。
▲2011年3月11日に起きた東日本大震災は、一か所の震源で起きたのではなく、岩手・宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の三か所の海底断層のはね上がりが次々と連続して起きた地震で、そのエネルギーの大きさは M 9.0だと言われている。そして、災害規模の巨大さ。この地震と大津波による(とされる)原発大事故によるとてつもない大災害。
▲この大地震・大津波・原発大事故は「想定外」だったのか? 「想定外」の意味を考えたい。
  A. 本当に想定できなかったケース。
  B. ある程度想定できたが、データ不足のために除外されたケース。
  C. 発生が予測されたが、その事態の対策に本気で取り組むと投資額が巨大になるので、そんなことは当面起こらないだろうと楽観するケース。
 ケースAは極めて少ない。BかC、あるいはBとCの中間あたりのケースが大半を占めてきたように思われる。
▲「想定外」の二重構造
 歴史に残っている地震などから東北地方の太平洋側沖合の地震を予測する地震学の専門家は、かねてから東電の津波想定は甘いと警告していたし、古い原発の耐震性を再検討する経済産業省審議会でも警告していた。しかし、原発の安全対策基準に責任をもつ原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、そうした警告を無視するかのようにして、東電の甘い津波予想を了承していた。理由は、可能性の小さいものまで考えていたら、経済的に見合う設計ができないということであった。
 そこで、もうひとつ問題なのは「想定外」という線引き主義がもたらす思考停止は、二重の構造になっていて、そのことが被害の構造まで二重にしたという点である。
 第一の局面は、原発建設の地震・津波対策について、現実主義による最大の想定値を決めた途端に、万一「想定外」の巨大地震・津波が発生した場合に、どんな事態になるかということについて思考停止してしまったこと。
 第二の局面は、全電源と冷却水の喪失による炉心溶融が生じた場合の、原子炉の封じ込めや住民避難について対策を立てておくことまで、思考停止してしまったこと。
 「想定外」という思考停止の二重構造は、大失敗の二重構造でもあった。

昔、堺に老舗菓子店があった。

2016年03月19日 | Weblog
 君死にたまふことなかれ     与謝野晶子
         (旅順の攻囲軍にある弟宗七を嘆きて)
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生まれし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せしと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
 (以下略)

 (以下略)の手前四行は、明治11年(1878)、堺の菓子商人の三女として生まれた与謝野晶子の述懐であり、弟がその老舗菓子店を継ぐことを表す。この詩は明治37年9月の『明星』に発表された。当時、晶子は『明星』でめざましい活躍をしていたが、この年、日露戦争が勃発し、弟の寿三郎も戦争に駆り出された。晶子は弟の安否を想い、詩を発表した。国の為には死をも辞さないという時世で、この詩を掲げた晶子の勇気には測り知れないものがある。実際「乱臣賊子」と非難された。
 晶子の勇気のような気概が要らない次代を望むばかりである。

森林の力

2016年03月18日 | Weblog
 林野庁のホームページによると次の等式が成り立つそうだ。
   国内の森林≒443億リッポーメートル
 この等式は、国内の生活用水の3年分に相当する約443億リッポーメートルの水を保つ力が、国内の森林にある、という事を表す。こう言われても実感できないが、保水力が森林に備わっているとい事は周知のところである。
 森林に降った雨水は、スポンジのように柔らかい森林の地面に染み込み、地層によって濾過されて徐々に河川へ流れる。森林が保水に優れ、「緑のダム」と呼ばれるのも故ある事である。
 森林の木々は根から水を吸い上げ、葉から水蒸気として大気に戻す。森林が気温を下げているのはこの時の気化熱のおかげである。この他にも、土の中に張り巡らされた根が土砂崩れを防いだり、微生物から動物まで様々な生物を育んだり、また言うまでもないことだが、二酸化炭素の吸収に大きな役割を果たしている。
 森林の重要性をもっともっと認識する必要がある、と強調したことがあったが、都会の若い人は怪訝な顔をしていた。森林浴でも体験すれば、森林の恵に気が付いてくれるのだろうか。それにしても、大阪市内には森林が少ない。今夏もヒートアイランド現象に襲われるのであろう。

杞憂

2016年03月16日 | Weblog
 杞は古代中国にあった国の名。杞憂とは、その国の人が天が落ちてきたらどうしようかしらと寝食を忘れる程心配したという故事に由来する言葉らしい。
 近頃僕は、第三次世界大戦が起こりはしないかと、明確な理由もなしに心配している。もちろん杞憂に終わるであろう。しかし、前世紀が戦争の世紀であったとの見方があるが、(事実、そうなのだが、)戦争の世紀が今世紀にも持ち越された事は、現在のところ確実なのではないか。それとともに、地球環境が悪化していることは確実である。愚かな事だと思う。愚かな事だとの思いが杞憂に終わる事を切望する。
 どんな心配も杞憂に終われば良いのだが、すべての心配が杞憂に終わるということはないだろう。
 

新基準への不信あらわ=福島事故の反映「不十分」―高浜差し止め・大津地裁

2016年03月10日 | Weblog

(時事通信より)
 大津地裁は9日、関西電力高浜3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを命じた。
 稼働中の原発の停止を命じた初の司法判断。地裁は仮処分決定の中で、関電が再稼働の根拠に据えた原子力規制委員会の新規制基準が、東京電力福島第1原発事故の教訓を十分に反映していないと指摘し、不信感をあらわにした。
 決定は、新規制基準の策定の契機となった福島原発事故について、「原因究明は道半ばの状況だ」と指摘。電力会社だけでなく、原因究明が不十分な中で策定された新基準を「世界最高水準」(田中俊一委員長)と誇る規制委の姿勢にも「非常に不安を覚える」と厳しい目を向けた。
 特に、想定外とされていた津波などが福島第1原発事故の甚大な被害を引き起こしたことを踏まえ、「過ちに真摯(しんし)に向き合うならば、十二分の余裕を持つことを念頭に置き、見落としがあっても致命的な事態に陥らない思想で基準を策定すべきだ」と強調した。
 非常用電源の確保など過酷事故対策や、地震想定に用いる断層の評価、使用済み燃料プールの耐震性や事故時の冷却方法など、規制委が審査で「基準を満たす」と判断した具体的内容にも踏み込み、「裁判所に対し(安全だとする)十分な資料が提供されていない」と軒並み疑問符を付けた。

 (安全神話の復活を許してはならない !! !! !! ) 

「人生は短く、一日は長い。」

2016年03月09日 | Weblog
 僕は十八世紀ドイツ(プロシャ)の思想を学んできました。何と言っても、ゲーテです。僕はゲーテを専門に学んできたのではありませんが、若い頃から暇を見つけては、ゲーテを読んできました。ひとつ、学んだ事を披露します。
  「人生は短く、一日は長い。」(『西東詩集』より)
 これを反対にしてみる。人生は長く、一日は短い。こう言うと、多分若い人たちの感想となるだろう。しかし、所詮、どちらも主観的な感想だ。歳をとると、する事が無く一日を無為に過ごすから、一日を長く感じ、先が短いと思うから、人生の短さを嘆くのだろう。若者たちはその反対という訳だ。
 どちらにせよ、主観的な感想だから、若者たちのように、好奇心のおもむくままに仕事なり、趣味を精一杯味わい一日を短く感じ、前途など予測できないのだから、前途の予測などという無駄な事は考えないで、人生を長いものと考え、一刻一刻を楽しもうではないか。
 ゲーテは、短い詩句でこのような事を言いたかったのだと思う。さて、一日一日を楽しむ事ができるであろうか。歳をとると、楽しむ事さえも苦行である場合がある。しかし、ゲーテの詩句の意味するところを脳裡においておけば、坂道をゆっくり下る事ができるかもしれない。

草花

2016年03月08日 | Weblog
 道端の草が一斉に萌え、花を咲かせている。律儀に去年と同じところにナズナが咲き、ハコベが咲いている。
 山の花、野の花の多くは、人の目にふれることなく咲き、そして散る。「それもよからう草が咲いている」という山頭火の、定型を破った句がある。名誉利己を望まず、雑草のように野辺に散る、それもよかろう、と自分に言い聞かせているようだ。
 山頭火の句をもう二つ。

  雑草よこだわりなく私もいきている
  生きられるだけは生きよう草萌ゆる

 山頭火のように、生涯、漂白の旅を続けることは出来ないが、気持ちは彼の様でありたいと思う。

良寛さん

2016年03月06日 | Weblog
 ボーとしておりました。例によって、そこいらにある本を斜め読みしておりました。中に、良寛さんについて記したところに目が行きました。良寛さんは子供の頃から名主の昼行灯と言われ、阿呆のように見られていたそうです。その阿呆の意味が良寛さんの場合、世間の人々が謂う意味とは違うらしい。世間では、世間に通用しない者を阿呆と謂い、通用する者を利口と謂う。良寛さんにとっては世間から阿呆呼ばわりされることを寧ろ是認する気こそあれ、利口者などと言われると有り難くなかったそうです。詩がひとつ引用してありました。
  余が郷に兄弟あり
  兄弟心各々殊なり
  一人は弁にして聰
  一人は訥にして且つ愚なり
  我れ其の愚なるものを見るに
  生涯余り有るが如し
  復其の聰なるものを見るに
  到るところ亡命して趨る

 この詩を読んでも、愚なるもの、阿呆には悠々たる余裕があると良寛さんは言っています。利口なるものについては推して測ることができます。良寛さんの謂う意味で、阿呆はめったに居るものではないと思いつつ、僕のあさはかさを知らされました。

空気

2016年03月05日 | Weblog
 毎月送られてくる、或る老人ホームからの便りに、空気について分かりやすい説明が載っていたので、引用させて頂く。
 「私たちは、酸素がなくては生きていけません。そのため、寝ているときでも休みなく酸素を取り入れています。その酸素を含んでいるものが空気です。
 空気のような存在というたとえのように、私たちは普段、空気のことをあまり意識しません。でも、体調が優れないときや、汚れた空気の場所にいるとき、何か息苦しい感じがする経験はあります。それは、私たちの体がよどんだ空気を敏感にとらえて、きれいな空気をほしがっているためです。
 ナイチンゲールは、公害や犯罪、病気が多発する産業革命の時代に生き、環境と健康の関係を強調しました。そして、呼吸する空気の条件を整えることが看護婦の役目だと述べています。時代は越えても、新鮮な空気の必要性は変わりません。
 まだストーブの入っているこの時期は、窓を開ける機会も少ないですが、時々空気を入れ換えましょう。また、木の香りのするものや、空気をきれいにするという観葉植物などを置いて、森林浴効果を試してみてもいいですね。」

 生きていく上で空気の必要性を僕自身が重く感じたことはない。ただ、僕の兄は片肺がなく、65歳で亡くなったが、晩年酸素ボンベを側に置いていた状況を思い出すと、空気の存在を重く感じていたことであろうと追憶する。日常生活において現実に息苦しいという体験は、いかほどに苦しい思いをするのであろうか。便りを読んで、思わず兄のことを思い出した。

ナスニン

2016年03月03日 | Weblog
ナスニンって何だと思われますか?
野菜の茄子の紫色の皮に含まれている物質で、強い抗酸化力をもつポリフェノールの一種。コレステロール値を下げ、動脈硬化やガンの予防効果があるそうです。血圧上昇予防、利尿作用も期待できるそうです。
茄子は水分が約90%で、栄養価が高くないと思われています。ニンジンやオクラなど他の野菜と比べ、確かに栄養価が高いとは言えませんが、茄子には茄子なりに固有の栄養があるのです。
だから、皮を剥かずに皮ごと食べるのがよろしいようです。
ボクの茄子の料理法。極めて簡単です。よく水洗いした茄子を一口大に切り、よく水洗いしたビニール袋にごく少量の塩とともに入れ、3分間軽くもみます。取り出して、これで終わり。美味いです。