自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

久しぶりかな? ゲーテ

2015年06月29日 | Weblog

 「虚飾を捨てさえするならば、人間はなんとすばらしい生物であることか。」(『箴言と省察』より)

つまり、人間の諸悪の源は虚飾にある、ということなのだろうか。もっともなことであるとは思う。
だが、反面、人間を人間らしくしているのも、虚飾と言えよう。場合によっては、この虚飾が、人間の生き甲斐になっている事も大いにあるだろう。
虚飾がなければ、文化も貧弱なものになっていたかも知れない。
虚飾を捨て切れない人間!人間とは哀しくも、面白い存在である。
だが、過ぎたる虚飾は人間とその文化をつまらなくしてしまう。これも事実であろう。

死刑制度について考えさせられた

2015年06月28日 | Weblog

 加賀乙彦『宣告』上中下1500頁弱
 死刑囚の刑務所内での生活と心理を延々と細密に描いているこの長編を読み切るのには難儀した。
 独房の扉に付けてある番号札は黒塗りの板で、水で融かした白墨で六一〇番と書いてある。
 主人公の感慨:
 「おれは人間であることを許されていない。法律規則という人間が作った文章が、おれから人間の属性を一つ一つ剥ぎとっていった。
 しかし・・・しかし、それでもなおおれは考える、おれは死刑囚でも番号でも一枚の板でもなく、人間でありたいと。なぜならばおれは絶望することができるから、一枚の板のように従順に静かに平和に存在するのではなくて、おれには絶望する自由が残されているから。絶望する自由をもつかぎりにおいておれは人間であるのだから、おれは絶望しなくてはならぬ。絶望によってのみおれは人間に復帰できる。」
 監獄医の若い精神科医の自問:
 「お前、近木医官、善良で無邪気な青年よ。形而上学にひそむ苦しみを知らぬ若き科学者よ。死ぬまで悪人であらねばならぬ恐怖、それが本当の死の恐怖なんだ。いいかね、安らかに処刑台に上がるには、自分が処刑台に価する人間だと百パーセント納得していなくてはならないだろう。もし悔悟し改心し悪人であることをやめたら、信仰によって神の許しを得てしまったら、もはや自分は処刑台に価しないじゃないか。お前にこの矛盾が解けるかね。イエスと立場が正反対なんだよ。無垢なる人は殺されることに意義があった。しかし悪人は殺されることに意義がないことで、はじめて意義があるんだ。おれが死がこわいと言ったのはそのためさ。わかるかね、お医者さん。」

 六一〇番は最後に宣告されて従容として刑に服する。

 死刑制度反対を声高に叫んでいる小説ではない。読者に論理的思考を促している。
 さて、上の若い監獄医の自問にどう応えたらいいのか。それが問題だ。


歩く

2015年06月26日 | Weblog

 孫引きなんですが、ある旅人が、詩人ワーズワースのメイドに「ご主人の書斎を見せてください」と頼んだところ、彼女は「書庫ならここにありますが、書斎は戸外にあります」と応えたそうだ。詩人にとっては散策する野や森、風や光こそが書斎だったのであろう。
 『森の生活』を書いたH.ソローは、「僕は一日に少なくとも四時間、普通はそれ以上だが、あらゆる俗事から完全に解放されて、森の中や、丘、野を越えてさまよわなければ健康と生気を保つことは出来ない」と書いている。ソローにとっては、森や野を彷徨することは生きることと同義語であった。
 散策を人生の糧にしていたソローは、また次のようにも書いている。「僕はこれまでの人生において、歩く術、散歩の術を心得ている人には、一人か二人しか会ったことがない」。
 こんなことを記しながら、この2年余り、僕は歩くことを忘れているようだ。足腰が弱くなっている。その分、頭もずいぶん老化しているに違いない。

知の及ばぬところ( 改稿再掲 )

2015年06月25日 | Weblog

 近頃、とりわけ近頃思うんですが、僕(ら)の知はしれたものではないかと。しれたものだから、畏れる気持ちをもたねばならないのではないかと。

  「孔子曰く、君子に三畏有り。
  天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。
  小人は天命を知らずして、畏れざるなり。大人に狎れ、聖人の言を侮る。・・・・・」

 私見では、天命とは自然の摂理であり、大人とは弱者の味方であり、聖人の言とは市井の人の言である。

 この三者を畏れる心を僕はしばしば忘れる。大多数の政治家はもとよりであるが。まだまだ小人、これ忘るるべからず。

沖縄・翁長知事の「平和宣言」(全文)

2015年06月24日 | Weblog

 沖縄県の翁長雄志知事は糸満市で開かれた県主催の戦没者追悼式で、「平和宣言」を次のとおり、読み上げた(6月23日)。

 70年目の6月23日を迎えました。私たちの郷土沖縄では、かつて、史上稀に見る熾烈な地上戦が行われました。20万人余りの尊い命が犠牲となり、家族や友人など愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。それは、私たち沖縄県民がその目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。
 しかしながら、国土面積の0.6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73.8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0.7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。
 沖縄の米軍基地問題は我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、『その危険性除去のため辺野古に移設する』、『嫌なら沖縄が代替案を出しなさい』との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのです。
 政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。一方、私たちを取り巻く世界情勢は、地域紛争やテロ、差別や貧困がもととなり、多くの人が命を落としたり、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなど悲劇が今なお繰り返されています。
このような現実にしっかりと向き合い、平和を脅かす様々な問題を解決するには、一人一人が積極的に平和を求める強い意志を持つことが重要であります。戦後70年を迎え、アジアの国々をつなぐ架け橋として活躍した先人達の『万国津梁』の精神を胸に刻み、これからも私たちはアジア・太平洋地域の発展と、平和の実現に向けて努力してまいります。未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを創りあげ、時を超えて、いつまでも子ども達の笑顔が絶えない豊かな沖縄を目指します。慰霊の日に当たり、戦没者のみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、沖縄が恒久平和の発信地として輝かしい未来の構築に向けて、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。

(よくよく噛み締めなければならない。)

惨禍、もう二度と きょう沖縄慰霊の日

2015年06月23日 | Weblog

(新聞より)
 沖縄県は二十三日、太平洋戦争末期の沖縄戦が終結したとされる「慰霊の日」を迎えた。七十年前に最後の激戦地となった糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では二十二日、追悼式の前夜祭が開かれた。戦没者の遺族らが会場に詰め掛け、日本最大の地上戦で犠牲となった二十万人以上の冥福を祈った。
 戦後七十年を迎えても沖縄には在日米軍専用施設の約74%が集中しており、基地負担軽減は依然として進んでいない。
 国籍や軍民を問わず、沖縄戦の全犠牲者らの氏名が刻まれた石碑「平和の礎(いしじ)」には今年八十七人が追加され、合計で二十四万一千三百三十六人となった。
 公園内の平和祈念堂前では午後七時すぎ、「鎮魂の火」が燭台(しょくだい)にともされると、鐘が鳴り響く中で参列者が黙とう。公園には無数のろうそくが並べられ、戦後七十年にちなんで「平和70」の文字が浮かび上がった。
 「どうかこれからも家族を見守ってほしい」。沖縄戦で防衛隊として動員された父親ら家族七人を失った那覇市の宇地原雄孝(うちはらゆうこう)さん(80)は石碑に手を合わせた。
 沖縄戦では米軍が一九四五年春、沖縄本島や周辺諸島に上陸し、激しい地上戦で県民の四人に一人が犠牲になった。
 平和祈念公園では二十三日、安倍晋三首相と翁長雄志(おながたけし)知事が出席し、沖縄全戦没者追悼式が開かれる。

育ちゆくもの

2015年06月22日 | Weblog

 ひとが、何かしら目的を持ったとき、現在の能力だけでそれを達成しようとすると、まもなく行き詰まってしまう。そんなとき、場合によっては自暴自棄になったり、あるいは方向転換を考えてしまう。
 見通しをつけて事に着手するのは大事だが、人間万事に完璧な見通しの分かるはずはなく、先のことは分からないが、このことは是非やり遂げたいと切に考えるときは、何を頼りに前に進めばよいのか。
 夢というか希望というか、そんなものを設定できたら、自分の中の「育ちゆくもの」を信頼して進む他はない。進む道に困難が立ちはだかれば、根気を奮い起こさねばならない。素朴に何の衒いもなく愛を込めて奮い起こさねばならない。「育ちゆくもの」に信頼を込めて、そして出来ることなら、情熱を傾けて、一歩一歩前に進むことだ。それが若人の特権というものだ。
 僕の中に未だ「育ちゆくもの」があるとすれば、もしあるとすれば、それに促されて、残された日々を歩み行かねばならない。

ヒトの厚み( 再掲 )

2015年06月21日 | Weblog

 生態学の本には興味深いことが一杯載っている。次はその一つ。
 地球という生態システムにおけるヒトの占める位置の量は極めて小さい。
 地球の半径は約6400km。その周囲に生物は貼りつくようにして生きている。生物が生存する範囲は、高さがせいぜい数千m、深さは最深の深海生物が棲む所でも10km。この範囲に生きている生物を全部集めて地球の表面に均等に並べると、その厚みは(驚くなかれ)1.5cmにしかならない。
 しかもその90%は植物で、動物だけの厚みは1.5mmにしかならない。動物の大部分は海の動物で、陸上動物はその250分の1、つまり0.006mmの厚みにしかならない。
 現在、陸上動物の中で量的に最も繁栄しているのはヒトである。勿論個体数だけをとれば、バクテリア、微生物などはヒトより遥かに多い。が、重さを含めて計算すると矢張りヒトが一番である。大雑把な計算によると、ヒトの総重量は約1億6000万トン。これは陸上動物のほぼ4分の1だと推定される。だから厚みにすれば0.0015mmぐらいになる。半径6400kmの地球に対して0.0015mmの厚み。
 この微小なヒトの存在が地球という生態システムに甚大な悪影響を及ぼしてきた。ヒトは生活するためにも様々な有害物質を排出してきた。このまま行けばこの生態システムはいつまでもつのだろう。

出来ますか?

2015年06月19日 | Weblog

 最近、気がついたこと。両手、両足指の動かし方。
まず、右手を開き(パー)同時に、
  左手を閉じる(グー)同時に、
  右足指をそのまま、同時に
  左足指をキュッと閉じる。
これは何度でも出来ます。

では、右手パー、同時に、
  左手グー、同時に、
  右足指キュッ、同時に、
  左足指そのまま。
これ、出来ますか?出来たら何度でも出来ますか?同時にですよ。同時に!力まずに!左足指をピクとも動かさずに!
 正直に言いまして僕は出来ません。僕だけなのかどうか、分りません。もしお出来になれない方が居られましたら、何故お出来になれないのか、その理由を教えて頂けませんか?

『老人と海』――老いの一つの姿( 再掲 )

2015年06月18日 | Weblog

 かつて読んだことのあるヘミングウェィ『老人と海』を思い出して、老いについて考えた。
 主人公の孤独がまず挙げられる。仮に家族や友人がいても、孤独を深めざるを得ないのが老境というものであろう。家族も身寄りもない主人公の設定は老人の孤独を際立たせている。
 しかもこの主人公の老人は不運にとりつかれ、漁に出てもさっぱり獲物にありつけない。飲み屋に出かけても、からかわれるだけである。
 だが、この老人はレッキとした現役の漁師だ。不運続きで、あるいは腕も鈍りかけているにも拘わらず、敢然と毎日の出漁をやめない。これは少しカッコよすぎる老年像かもしれないが、彼の負けん気の強さは、老いの一つの姿だと思う。
 しかし、老人は結局は敗れる。大マカジキとの3日間にわたる力闘、苦闘の末、相手をしとめたものの、鮫の群れに獲物を散々食い荒らされてしまう。
 老人は所詮敗れ去るものなのだ。だが、敗れ去った後、老人は不思議な安堵感を覚える。
 『老人と海』の老人は、孤独の中に居ながらも、死力を尽くし敗れた後、安らかに苦闘を回顧する。おそらく、ヘミングウェィ自身を主人公に重ねているのだと思う。
 孤独と負けん気の強さと、若者には分からない不思議な安堵感とが、老いの一つの姿なのかもしれない。僕にはまだ実感できないが。それに、この不思議な安堵感は、肉体労働をやり終えてこそ初めて得られるものではないか、とも思う。
 

理解せんとしよう

2015年06月15日 | Weblog


理解せんとしよう
世界の混沌を
理解せんとしよう
世の中の難事を
理解せんとしよう
人々の絆を
理解せんとしよう
アナタの心を
けれど どの理解も僕の理解を超えているのかも
それでも 理解に理解を重ねようと僕は決意した
なぜ決意したかって?
ムクゲの白い花がけなげにも一輪咲いたからさ
そして 次々と花開くからさ
次々と理解せよと僕に言っているからさ

ワルツ

2015年06月14日 | Weblog

 ある小説を読んでいて(まだ初めのところなんだけど)興味深い考えに行き当たった。この小説は音楽をテーマしているのではないが、ところどころにいわば音楽論が出てくる。ワルツについて作者の考えを要約しておく。
 ワルツってのは単なる優雅なダンス音楽ではない。激しくて情熱的で知的なんだ。
 ワルツは抵抗の音楽なんだ。むろんレントラーという舞曲が発展したもではあるが、この三拍子のリズムにモーツアルトもベートーヴェンもショパンもヨハン・シュトラウスも革命への思いというと過激だが少なくとも新時代への期待をこめて作曲したんだ。シュトラウスが『美しき青きドナウ』を作曲したのは1867年、チャイコフスキーが『花のワルツ』を作曲したのは1892年、つまりロシアはヨーロッパから二十五年遅れてワルツの名曲を手に入れたわけだけれど、革新派詩人プーシキンの原作であるオペラ『スペードの女王』を作曲したチャイコフスキーはさすがだ。ワルツのもっている危険思想をしっかりと理解していた。だからこの『花のワルツ』も一見したところ少女趣味的ロマンチックなものに聴こえるかもしれないが、実は違うんだ。チャイコフスキーは、自由に憧れたヨーロッパの先輩作曲家たちが発したメッセージへの返信としてこのワルツを書いている。

 うーーーん、と僕は思った。ショパンのワルツ集を改めて見て(今はもう弾けない)、楽譜を目で追うと、14番ホ短調遺稿などは完全に実用的舞踏曲ではない。この曲はブリリアント型ワルツの先駆だとの評価が定着しているが、そうかもしれないが、それだけではなく上で言われた自由への憧れを表しているとも思われる。ワルツ以外のショパンの作品の多くには祖国解放、自由思想が表現されていると通常言われる。ワルツもそうなのだ。14番ホ短調だけではなく、哀愁と激情が入り混じったワルツが多い。

 『花のワルツ』を今から聴いてみよう。

ベルリン ・ ヒロシマ通り (再掲)

2015年06月13日 | Weblog

 東西ドイツが統一された後、程ない1990年9月1日、ベルリンのティアガルテン区で或る通りと或る橋の改名式が行われた。旧名を海軍提督の名をとった「グラーフ・シュペー通り」、「グラーフ・シュペー橋」と言う。改名式で区の代表者が次のような演説をした。
 「・・・ヒロシマという新しい橋の名前により、私たちは、最初の原爆投下の影響により今なお苦しみを受忍している都市のことを思い起こすのであります。
 人間精神の比類なき倒錯である原爆は、ドイツ・ファシストたちによって始められた犯罪的戦争の最後に現れました。1933年リュツオフ橋をグラーフ・シュペー橋に改名したのもファシストたちでした。この時、この付近で多くの通りが旧国防軍(海軍)の将校の名前を付けられたことを私は思い起こします。・・・グラーフ・シュペー通りをヒロシマ通りと呼ぶことができるようになったことは、私の深く喜びとするところであります。・・・
 ヒロシマという名前は、世界の人々がナチスのテロにより受けた多くの犯罪と苦痛をも代弁するものとなるのであります。」

 忘れることをよくする僕らに忘れてはならないことがあることを、ベルリン市民の行動が教えてくれている。大戦に対する反省の度合いが、日本よりドイツの方が強いということは、しばしば聞くところである。ヒロシマという名前を通りと橋に付けることによって反省を明確に表す行動を他山の石にしてはならないと思う。

作家・半藤一利氏に聞く

2015年06月11日 | Weblog

(6月8日新聞より)
 この国はどこへ行こうとしているのか?「平和」の名の下に。

 ◇「非国民」にされる空気

 1年前と同じ喫茶店の同じ席で、作家、半藤一利さん(85)は「あれから、まだ1年しかたっていないんですね」と小さく笑った。

 この人の指を何度思い返しただろう。昨年5月のインタビューで、安倍晋三政権が集団的自衛権を行使可能にする憲法解釈の変更に踏み出したのを受けて「私たちにできること」を問うた時、半藤さんは何度も指で空をつまむ仕草を繰り返し、言った。「戦争の芽を一つ一つつぶしてかかるしかない。こんなふうに、自分の手で」

 あの日、この指の力強さを忘れまい、と思ったのだった。

 「この1年で国は随分変わりましたね。『戦争の芽』は指ではもうつぶせないくらいに育ってしまったようだ。戦後70年の間で、今ほど国会で『戦争』が論じられた日が過去にあったでしょうか。70年間、常に平和を論じてきたはずなのに」

 再び会いたくなったのには理由がある。海外での自衛隊の活動の拡大を図る安全保障関連法案が閣議決定された5月14日夜、安倍首相は記者会見で「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にない」と断言した。迷いのない言葉を聞いて、ふと、「絶対」という言葉を使わない作家の存在を思い出したのだ。

 東京大空襲の焼け跡で14歳だった半藤少年は「絶対に日本は正しいとか、絶対に神風は吹くとか、すべてうそだ」と思い知った。それ以来「絶対」という言葉を使わないと決めた。そんな半藤さんは安倍首相の「絶対」をどう聞いたのだろう。

 「絶対、などとなぜ言い切れるのか。あの言葉に心から安心できた人がいたのでしょうか」。そう言いながら小さな紙切れを見せてくれた。国会で審議中の自衛隊法改正案など11の安保関連法案の一覧や、武力行使できる新旧「3要件」の相違点が書かれていた。「要点がわかりにくいのでメモを持ち歩いているんです。国会中継を見ていても、武力行使と武器使用は違うとか、後方支援は武力行使に当たらないとか議論がよく分からない」

 「分かりにくさ」は意図されたものだ、という。「安倍さんが語るのは理念だけ。集団的自衛権の行使が可能となる『存立危機事態』を説明するのにも、具体的な『仮想敵国』一つ挙げない」。確かに、国会で議論になっている具体的な地域といえば「中東のホルムズ海峡」や「南シナ海」しか思い出せない。

 「朝鮮半島や日本近海での有事を語らない。国民が戦争を具体的にイメージし、恐怖や不安を感じ始めるのを巧妙に避けているかのようじゃないですか」

 分かりにくい理由のもう一つは、安保法案の一括審議だ。

 「麻生太郎副総理が2年前、改憲について『ナチスの手口に学んだら』と発言したことで、立法権を国会が政府に委任した『全権委任法』が話題になりました。しかし実は、同法より前、ヒトラーは国会決議を経ない閣議決定で大統領緊急令を発令させ、ワイマール憲法を空洞化し、幾つかの法を一束にしてまとめて変え、国民の自由を制限しました」

 メモや資料を順々に示していた細く長い指が急に止まる。半藤さんは視線を上げると静かに言った。「安保法制の進め方にも似ていませんか?」

 昨夏から新しい連載を書いている。隔月刊雑誌「こころ」(平凡社)の「B面昭和史」だ。「政治家や軍人が刻んだ歴史がA面だとすれば、人々の暮らしや風俗から読み取れるのがB面の歴史。私たち民衆がかつてどんなふうに政府にだまされ、あるいは同調し、戦争に向かったのかをどうしても書き残しておきたいのです」と話す。

 戦前の民衆の暮らしがじわりじわりと変わる様子が描かれる。昭和2、3年ごろは盛り場をモダンガールと歩いた男性が、7、8年後には官憲から「非常時にイチャイチャするとは何事だ」と批判される。軍縮や対中国強硬論反対をぶっていたはずの新聞が読者の期待に沿うように<勝利につぐ勝利の報道>へとかじを切り、これがさらに読者の熱狂をあおる。「銃後」の言葉の下、女たちが自主的に兵士の見送りや慰問を始める……。<決して流されているつもりはなくて、いつか流されていた>。そんな一文にドキリとした。

 「昭和の最初、米英批判は極端な意見に過ぎなかった。ところが人々がそれに慣れ、受け入れるうちに主流になった。リベラリストが排除され、打倒米英を本気で唱える社会となっていった。国定教科書改訂で『修身』が忠君愛国の精神を強調した数年後には『日本臣民』が続々と世に増えました」

 あのころだって日本には、ヒトラーのような圧倒的な独裁者がいたわけではなかった。

 「むしろ政治家は、民衆のうちにある感情を受容し、反映する形で民衆を左右した。最初は政治家が世論を先導しているようでも、途中から民衆の方が熱くなり、時に世論が政治家を駆り立てたんです」

 では私たちはどうすれば、と問うたら、半藤さん、「隣組を作らないこと、でしょうか」。意外な答えに不意を突かれた。

 「この国に今すぐ戦前のような隣組ができるとは思いません。でも今回の安保法案が成立すれば『非常時だ、存立危機事態だ』と人々の暮らしが規制され、できるかもしれませんよ、隣組」と笑顔のまま、怖いことを言う。

 こんな例を挙げた。「仮に自衛隊が海外派遣されるとする。『私たちのために戦いに行く彼らを見送ろう』と声が上がる。見送りすることは悪いことではないから批判しづらい。しかし見送りに参加しなければ『非国民』呼ばわりされかねない空気が段々と醸成されていく。ありえると思いませんか」

 やっと分かった。だから“歴史探偵”はB面の歴史をつづり始めたのではないか。私たちが同じ失敗を繰り返さないように。当事者として歴史から学べるように−−。

 半藤さんは今、異なる言論に対する許容度が極端に落ちていることも深く懸念する。「閉鎖的同調社会になりつつあるのではないでしょうか。似た考えの仲間だけで同調し合い、集団化し、その外側にいる者に圧力をかける。外側にいる者は集団からの圧力を感じ取り、無意識に自分の価値観を変化させ、集団の意見と同調していく。その方が楽に生きられるから」。隣組はすぐその先だ。

 「今はまだ大丈夫。こうして私たちが好き勝手なことを話し、書けているうちはね」。半藤さんは朗らかな声で私を励ました後、ゆっくりと言い添えた。

 「だから異なる考えを持つ人と語り合い、意見が違っても語り合えるだけの人間関係を築きましょう。物言えば唇寒し、と自分を縛らず、率直に意見を述べ合い、書いていきましょう」

 テーブルの上に置かれた半藤さんの手を再び見つめた。言葉を紡ぐことを諦めないこの手こそが、戦争の芽をつむのだ、きっと。【小国綾子】