ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも
この啄木の詩に初めて接した時のことを思い出す。あの頃は、啄木の山が有名な岩手山であるからこそ、彼はひとしおの感を抱いたのだと思った。だが、今はそうは思わない。他郷の人から見ればどんなにつまらない山であっても、ふるさとの山には幼い日の思い出が浸みついている。啄木の山がたまたま岩手山であって、汽車の窓から臨み見えたのであって、名もない山でも啄木は同じ気持ちで詠んだに違いない。僕もふるさとを離れて久しい今、そう思う。
ふるさとは確かに実在するものに相違ないが、永く離れている者にとって、心の中で美化され育まれてきた一種観念的な存在でもある。永く離れていればいるほど、空想の部分が膨れあがり、ふるさとは温かみと輝きを増し、懐かしさに充ちたものへと変わっていく。子供の時の「山の神」行事が限りなく懐かしい。松明を掲げて夜の山を駆け巡った心地よさは、他に喩えるものがない。
誰にでも在るふるさとを僕が今日いつもよりも愛おしく懐旧するのは何故だろう。 この何故だろうに応えるのは無粋かもしれないが、ふるさとの山河が荒れ、休耕田が増え、人口が減った現在、今一度往時の本来の姿が蘇える、そんな政治を昨日選ばれた新首相に期待したいからである。こう書いてみて、いかにも無粋だと再認してしまった。
今年も四分の三が過ぎようとしている。
大震災・原発大事故から半年近く経った。復旧・復興は本当に僅かに進んだように思われる。ただし、被災者の方々の辛抱に依存しているところ、大である。
昨日だったか、放射線量がチェルノブイリの数百倍になった地域があると政府は発表した。嗚呼。その地域に住んでいた方々は、実在のふるさとを無くすのであろうか。