自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

ふるさと(改稿・再掲)

2011年08月31日 | Weblog

ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも

 この啄木の詩に初めて接した時のことを思い出す。あの頃は、啄木の山が有名な岩手山であるからこそ、彼はひとしおの感を抱いたのだと思った。だが、今はそうは思わない。他郷の人から見ればどんなにつまらない山であっても、ふるさとの山には幼い日の思い出が浸みついている。啄木の山がたまたま岩手山であって、汽車の窓から臨み見えたのであって、名もない山でも啄木は同じ気持ちで詠んだに違いない。僕もふるさとを離れて久しい今、そう思う。
 ふるさとは確かに実在するものに相違ないが、永く離れている者にとって、心の中で美化され育まれてきた一種観念的な存在でもある。永く離れていればいるほど、空想の部分が膨れあがり、ふるさとは温かみと輝きを増し、懐かしさに充ちたものへと変わっていく。子供の時の「山の神」行事が限りなく懐かしい。松明を掲げて夜の山を駆け巡った心地よさは、他に喩えるものがない。
 誰にでも在るふるさとを僕が今日いつもよりも愛おしく懐旧するのは何故だろう。 この何故だろうに応えるのは無粋かもしれないが、ふるさとの山河が荒れ、休耕田が増え、人口が減った現在、今一度往時の本来の姿が蘇える、そんな政治を昨日選ばれた新首相に期待したいからである。こう書いてみて、いかにも無粋だと再認してしまった。
 今年も四分の三が過ぎようとしている。
 大震災・原発大事故から半年近く経った。復旧・復興は本当に僅かに進んだように思われる。ただし、被災者の方々の辛抱に依存しているところ、大である。
 昨日だったか、放射線量がチェルノブイリの数百倍になった地域があると政府は発表した。嗚呼。その地域に住んでいた方々は、実在のふるさとを無くすのであろうか。

DDT――メダカからクジラまで

2011年08月30日 | Weblog

 1950-60年代に、ドジョウやメダカ、ホタルなどがどんどん姿を消した。しかし、社会の関心は、人の命に直接かかわる水俣病などに向かった。それは或る意味で当然のことであった。何故なら、環境問題の観点から農薬を問題視する風潮はなかったからである。曲がった手や足のしびれや不自由な身体活動を目の当たりにして、有機水銀中毒症の悪弊を糾弾するのは当然であったからである。僕も激しい憤慨を覚えたものであった。あった、ではなく、現在も係争中である。腹立たしいことに。
 この目の当たりに出来る悪弊とは別に、奇跡の物質DDTの殺虫効果は第二次大戦が始まった1939年、スイスの化学者によって発見され、直ぐに戦争に使われ、戦場でのマラリア退治に威力を発揮した。戦後、それが農薬になった。これで害虫との闘いに勝てると多くの人が思った。
 「違う。それどころか、DDTは鳥や益虫を殺し、さらに人の命まで脅かす恐ろしい毒物ではないのか」とレイチェル・カーソンは『沈黙の春』(1958年、出版は1962年。出版を農業団体などの業界が懸念したが、見かねたJ.F.ケネディが出版に尽力したというエピソードがある)で書いた。
 『沈黙の春』は20ヵ国語以上に翻訳され、環境問題の深刻さを伝えた。70年に『沈黙の春』が取り上げた残留性の高い有機塩素系農薬や、急性毒性の高い有機リン剤のほとんどは使用禁止になった。日本でも70年代に事実上相次いで禁止された。しかし、汚染は南極や北極にまで広がり、農薬が残留しやすいイルカやクジラからは、おそらく500年経っても消えないと言われている。メダカからクジラまで農薬の汚染は拡散したのだ。メダカは現在、絶滅危惧種に指定されている。
 以上の事どもを許してきた人の心まで汚染されてきたのではないか。今尚、別の農薬の使用は留まるところを知らないのだから。
 放射線汚染も、勿論、メダカからクジラまで、である。

良寛さん

2011年08月29日 | Weblog

 昨日は厳しい残暑のせいもあって一日ボーとしておりました(昨日に限りませんが)。例によって、そこいらにある本を斜め読みしておりました。中に、良寛さんについて記したところに目が行きました。良寛さんは子供の頃から名主の昼行灯と言われ、阿呆のように見られていたそうです。その阿呆の意味が良寛さんの場合、世間の人々が言う意味とは違うらしい。世間では、世間に通用しない者を阿呆と言い、通用する者を利口と言う。良寛さんにとっては世間から阿呆呼ばわりされることを寧ろ是認する気こそあれ、利口者などと言われると有り難くなかったそうです。詩がひとつ引用してありました。

  余が郷に兄弟あり
  兄弟心各々殊なり
  一人は弁にして聰
  一人は訥にして且つ愚なり
  我れ其の愚なるものを見るに
  生涯余り有るが如し
  復其の聰なるものを見るに
  到るところ亡命して趨る

 この詩を読んでも、愚なるもの、阿呆には悠々たる余裕があると良寛さんは言っています。利口なるものについては推して知ることができます。万里さん、そんなに亡命して趨っちゃダメですよ。世界一に何度もなったやわらちゃん、一郎君にくっつくのはみっともないですよ。
 良寛さんの言う意味で、阿呆はめったに居るものではないと思いつつ、僕のあさはかさを知らされました。もの言うは唇寒しです。 

高線量地域/長期避難者への支援万全に

2011年08月28日 | Weblog

(朝刊より)
 福島第1原発の半径3キロ圏内から避難した住民の一時帰宅が始まった。政府が避難を指示したのは、大震災発生からわずか6時間半後。着の身着のまま自宅を離れた人たちにとって、これまでの日々はさぞ長かったことだろう。
 高い放射線量や原発の不測の事態への備えを理由に、警戒区域(20キロ圏内)の一時帰宅が始まってから、さらに3カ月待たされた。だが、本当に我慢を強いられるのはこれからだろう。
 政府は、警戒区域内で放射線量が極めて高い一部地域は、原子炉の冷温停止状態を目指す工程表の「ステップ2」が完了しても、区域の解除検討の対象としない方針を決めた。
 さらに政府は27日、汚染地域のうち年間の積算被ばく線量が150ミリシーベルトと推測される場所では、住民が帰宅できるまで20年程度かかる可能性があるとの試算結果を福島県に示した。
 住民の大半は少しでも早い帰宅実現を望んでいるはずだ。無念さは察して余りある。政府は現状の丁寧な説明と、長期化する避難生活への万全な支援を行わなければならない。
 3キロ圏は第1原発が立地する福島県双葉町と大熊町に広がる。大震災前は約400世帯、1100人が居住していた。その多くが警戒区域解除の対象外となるとみられる。
 放射線量は、確かに際立って高い。文部科学省が先に公表した震災発生から1年間の積算被ばく線量(屋外で8時間、屋内で16時間過ごしたと仮定)の推計値は、これまでの予想を大きく上回っていた。
 大熊町では原発から西南西に3キロ離れた地点で508ミリシーベルト、西に2.5キロの地点で393ミリシーベルトを超えている。
 一般人の年間被ばく線量は、国際的な指標である国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告によると緊急時の上限が20~100ミリシーベルトで、通常時は1ミリシーベルト。これをはるかに上回る。
 検出される主な放射性物質の半減期は、セシウム134が2年、セシウム137が30年と長い。同時にこれだけ線量が高いと、除染も容易ではない。
 さらに問題を複雑にしているのが原発からの距離にかかわらず、高線量の地域があることだ。浪江町の原発から北西に20キロ離れた地点では、推計値が223ミリシーベルトに上った。
 原子炉建屋の爆発などで大量の放射性物質が放出された時に風下だった所で、沢の湿地や付着する草木が多い地域などが高い傾向があるという。
 警戒区域の解除を見送る具体的な地域は、放射線モニタリングの今後の推移を見ながら決めることになるが、難しい判断を迫られることになろう。
 政府は警戒区域の除染は国が行うとしている。効率的な除染技術確立に向けた実証実験を行うモデル事業も、伊達市内の特定避難勧奨地点で始めた。
 除染に全力で取り組み、「希望を持って前に進んでもらえるよう努力したい」とも強調する。何より求められるのは、長期避難者の痛みを真摯に受け止めつつ、対策を進めることだ。


(こんなに高い放射線量を示し続けている理由は何か? 明らかである。それでも原発依存を変えない人々が居る。)

貝原益軒『養生訓』

2011年08月27日 | Weblog

 (本屋で立ち読みをしていましたら、欲しくなり買おうとしましたが、特に気に入った箇所をメモしてきました。)

摂生の七養あり。是を守るべし。
一には言をすくなくして内気を養う。
二には色慾を戒めて精気を養う。
三には滋味を薄くして血気を養う。
四には津液(唾液の意)をのんで臓気を養う。
五には怒りをおさえて肝気を養う。
六には飲食を節にして胃気を養う。
七には思慮をすくなくして心気を養う。
是寿親養老書に出たり。(寿親養老書は明代の医者・劉純の医書)

七の「思慮」は思い煩う事。それぞれを自分なりに解釈しなければならないが、どれも養うには難し、だろうなあ。

【原発】東電が3年前に「10m超の津波」を試算

2011年08月25日 | Weblog

(ネットのニュースより。08/25 05:56)
 東京電力は、福島第一原発を襲った高さ10メートル以上の津波と同じ規模の津波を3年前に試算していましたが、対策を取っていなかったことが明らかになりました。
 東京電力の原子力・立地本部、松本純一本部長代理:「対策が当時取られていたとすれば、今回のものは防げたというのは、ある意味『あと出しじゃんけん』ではないですけれど、あとから『そういうことだ』と言われれば、そういうことになります」。
 東京電力が2008年4月に過去の地震や津波を参考に試算したところ、福島第一原発に高さ10メートル以上の津波到達の可能性が出ました。しかし、「あくまでも試算であり、改めて評価をする必要がある」と判断し、対策も取らないまま震災直前の3月7日に保安院へ口頭で報告しただけでした。東京電力は、「事故調査委員会の調査対象になっているため、これまで公表を控えていた」としています。

(部長代理の会見が他人事みたいに聞こえる。今回の原発大事故は、東電が資金を出してきちんと処置していれば防げたのだ!!!想定外と言ったのは誰だ!!!)

表記の仕方次第で・・・

2011年08月24日 | Weblog

 昨日、友人の病気見舞いでJRに乗ったが、その列車内に次のような英文表記がある事に気がついた。

These seats are reserved for passengers with special needs,including the elderly, the physically challenged, expectant mothers, and passengers carrying infants.

 かつてシルバーシートと、変な和製英語で呼ばれていた席の英文表記による説明である。
 この表記の中で特に、the physically challenged という言葉に注目されたい。意を汲んで訳すと、身体に障害をもちながらも(何事かに)挑戦している人、の意である。
 通常は身体障害者と言われる。身体障害者のことを英語でthe disabled と言われる場合が多かったと思う。僕はこの英語表記に不都合を感じていた。解釈次第では、無能力者の意味にもなる。
 身体障害者は断じて無能力者ではない。the physically challenged という表記が適切だと思う。
 ここ十年間ぐらいのことであろうか、身体障害者も納税者に!という考えが日本でも出てきた。身体障害者も仕事を身につけ、所得者になろう、という考えである。僕はこの考えが普及する事を望んでいる。仕事という場合、パソコンが道具となる場合が多い。身体障害者のためのパソコンの改良も進んでいる。

 表記の仕方次第で、与える意味合いが随分と異なるのだ。

「竹富方言辞典」

2011年08月23日 | Weblog

(朝刊より)
   前新(まえあら)透 さん(87)

 生まれ故郷の沖縄県竹富島は新種の気性に富むとされる。ところが、それが災いしてか、方言を使う家庭が消えかけていた。「言葉を忘れたら生まれ島も忘れる」という諺が島にはある。危機感を抱いて方言の記録を始めたのは、1985年に石垣島の小学校長を退職した3日後だった。
 以来26年。自宅のある石垣島からフェリーで竹富島に通い、お年寄りから聞き取った方言は大学ノート40冊に及んだ。教え子や沖縄県立芸大の言語研究者らが手伝いをかって出て、7年かけて音韻表記や文法の専門的解説を加えた。
 出版は石垣島の「南山舎」が引き受け、このほど完成した「竹富方言辞典」は1500ページを超す大著となった。1万7千語余りを収め、石垣島や首里の方言、日本の古語との関連や用例も収録。共通語を方言でどう言うかがわかるよう、逆引きの索引もつけた。その精密さを研究者たちも高く評価する。増刷も決まった。
 お年寄りを訪ねての方言聞き取りを「勉強会」と呼び、共通語は禁止した。お陰で、自身も「すっかり忘れていた方言がよく飛び出しました」。島の人々の高齢を気遣って日にちをあけると「励みになるから毎日来てもいいよ」と言われた。
 竹富島は「芸能の宝庫」と呼ばれる。「言葉の宝庫でもあることが立証されました」と満足げだ。

(こういう地道な研究活動への憧憬を禁じ得ない。)

蝉時雨もしくは技芸天

2011年08月22日 | Weblog

 昨晩、ホームページの掲示板に「蝉時雨」と書き込んで頂いた。

 僕ちの近くを秋篠川が流れている。何となく清冽な響きのする名前である。ただ、岸壁も底もコンクリートで塗り固められた、その姿は痛々しい。この川の上流4キロほどの所に秋篠寺がある。時々、伎芸天に会いに行きたくなる。この寺は規模は小さいが、心やすまる寺としては屈指の一つに入るだろう。
 伎芸天に会い、眺めていると、こちらが見られているような気がして恥ずかしくなった。こんな佇まいに、もしも仮に恋心を打ち明けられたら、目まいがするだろう。5分も対峙していただろうか。実際目まいがした。
 金堂を出て雑木林で汗を拭いていると、蝉時雨。古代の礎石に腰を下ろしてボーとしていたら、伎芸天の残像が蝉時雨をBGMにして舞い出した。何?と不審に思って立ち上がった途端に立ち眩みをもよおした。
 この寺のすぐ脇に頭痛を治してくれるという伝説の祠がある。寄ってみた。そこでも蝉時雨。目まいも立ち眩みもした盛夏の午後が蝉時雨とともに過ぎ行った。

 (写真は借り物です。実際にはお顔がほのかに照らし出されています。)

ラクルネ――シューベルト「即興曲第二番」

2011年08月21日 | Weblog

(ラクルネとは楽流音で、音楽の意。僕の造語。)
 ピアノを弾いて初めて自己満足できた曲は、シューベルトの二番目の即興曲だった。この曲は殆ど右手だけで単純な三連音符の流れを弾けば、それだけで美しいメロディを醸すことができる。左手はごく簡単な伴奏ですむ。ただ、その三連音符の流れをレガートで、まるで真珠の玉が規則的に転がるように丹念に弾くには、それなりの練習を要する。
 昔々、ピアノにのめり込んだ頃は練習が苦にならなかった。右手の五指のどの指にも同じ力を入れて弾く練習をする。慣れてくると、メロディを口ずさみながら弾く。こうなれば楽しい。楽しいと左手も自然についてくる。技術が難しくない曲だから、楽想に浸ることができる。舞曲風のちょっと難しい中間部があるが、それとても、最後まで弾きたいという気持ちで練習すれば、なんとかなった。好きな事にチャレンジするのは、その頃は少しも苦にならなかった、その頃は。なんと軽やかな曲だろう。そう思った、その頃は。
 そうして自己満足して、聴いて虜になっていたベートーヴェンからちょっと距離をおくことができた。その意味では、この即興曲は僕の音楽遍歴(という程のものではないが)の一里塚だったと言える。しかし、シューベルトの、ベートーヴェンにひけを取らない奥深さを知らされたのは、ずっと後のことである。歌曲だけではなく、多くの室内楽に漂う普遍的な厭世感に馴染んだ。
 昨日、即興曲の楽譜を目で追うていたら、昔は気がつかなかった彼の厭世感が、この曲に既に潜んでいるのではないかと考えさせられた。

飛龍頭

2011年08月20日 | Weblog

 急に飛龍頭を食べたい気分になりました。
 僕は小学三年生の時に三ヵ月間姉の嫁ぎ先の寺にあずけられました。いえ、悪さをして修行の為にあずけられたのではありません。住んでいた家が焼失したので、僕だけが仕方なくあずけられたんです。
 その頃その寺では毎朝、本殿と客殿の仏様に供える精進料理を作っていました。家内の者も同じ精進料理を食していました。代表的な料理が飛龍頭と胡麻豆腐と野菜の炊き合わせでした。飛龍頭の中身には境内で採れる銀杏の実が入っていました。
 何故か急に飛龍頭が食べたくなりました。僕は時々ふと思い出すことがありますが、何故こんなことを思い出すのか自分でも理解できません。とにかく、飛龍頭が食べたくなりました。その寺では、とっくの昔に毎朝のそんな面倒なことは為されていません。銀杏の大木もとっくの昔に伐られてしまいました。
 今度、デパ地下で売っていたら買ってこよう。今度のついでに、なぜ飛龍頭と言うのか調べるとしようか。

不確実性を隠さないという事あるいはベートーヴェン小論

2011年08月19日 | Weblog

 僕は昔のあるいは現代に近い時期の思想家の本を読むことがかつてあった。もうだいぶん前から気がついている事なんだけれど、一人の思想家が若い時と成熟期とで、その考えが変わる、そういう思想家の方が、或る思想を後生大事にする思想家より魅力がある。あまり多くは知らないが、カントがそうであり、ラッセルがそうである。この二人について言える事は、考えが変わったという事を隠さないという事だ。変わる途中での不確実性を隠さないという事だ。
 話を例えばベートーヴェンに移そう。月光ソナタ、悲愴ソナタ、第五交響曲、皇帝協奏曲など、音楽史上稀に見る熟練の境地に立った彼は、それでも、それまでの仕事に安住せず、遥かな未踏の道へと歩み出した。それは、最高の成果から新しい疑問と課題へ、成熟した様式の具象性から瞑想的とでも言うのか、新しい真理探究者の立場へ至る道だった。しかもその道は危なげで不確実な道だった。彼はその不確実性を隠そうとはしていない。例えばハンマークラフィール・ソナタなどには明らかに変遷の不確実性がある。曲想にも作曲技法にも迷いがある。その迷いをあるがままに出している。そしてその後に、揺るぎない精神世界が開けた(最晩年のピアノソナタや弦楽四重奏曲など)。
 今日挙げた人物に共通している事は、自分の仕事の変化に伴う不確実性を隠さないという事だ。他にもそういう人物は幾らも居るだろう。話は飛ぶが、不確実性を隠すのが戦争屋であり政治屋である。

四人の人間(再掲)

2011年08月18日 | Weblog

 もう四年以上になるのか。作家の城山三郎が逝ってから。
 公正公平でぶれない人間の代表のように評価された。経済小説という分野を開拓した作家だが、この分野のみならず戦時中の上官たちの無様な姿を描き、足尾鉱毒事件を指弾した田中正造の最晩年を優しく描いたり、弱い者や使われる人の立場を常に擁護した。その城山が若い頃、アメリカ人の作家から受けた印象に残る一文を思い出している。それは、一人の人間の中に四人の人間が生きているべきだというもの。
 一つ目は探検家。自分の中に探検家は健在ですかと問う。探検家の意味は人それぞれが解釈していい。
 二つ目は芸術家。夢を見る力、芸術的とも言える構想力、そういう才能はちゃんと生きていますかと問う。
 三つ目は判事。管理者と言ってもいいんだけど、そういう判断力はしっかりしてますかと問う。
 四つ目はソルジャー。命がけで闘うことができますかと問う。
 この四人が一人の人間の中でしっかり確立していないとだめなんですよ、と城山は言う。

 むつかしいと思う。企業の責任者や政治の指導者は言うに及ばず、むつかしいことだが誰でもがこの四人の人間を自分の中に備えているのが望ましいとは思う。言うは易しく・・・。


(今日はちょっと遠出してきます。)

ラクルネ――『花のワルツ』

2011年08月17日 | Weblog

(ラクルネとは楽流音で、音楽の意。僕の造語。)
 ある小説を読んでいて(まだ初めのところなんだけど)興味深い考えに行き当たった。この小説は音楽をテーマしているのではないが、ところどころにいわば音楽論が出てくる。ワルツについて作者の考えを要約しておく。
 ワルツってのは単なる優雅なダンス音楽ではない。激しくて情熱的で知的なんだ。
 ワルツは抵抗の音楽なんだ。むろんレントラーという舞曲が発展したもではあるが、この三拍子のリズムにモーツアルトもベートーヴェンもショパンもヨハン・シュトラウスも革命への思いというと過激だが少なくとも新時代への期待をこめて作曲したんだ。シュトラウスが『美しき青きドナウ』を作曲したのは1867年、チャイコフスキーが『花のワルツ』を作曲したのは1892年、つまりロシアはヨーロッパから二十五年遅れてワルツの名曲を手に入れたわけだけれど、革新派詩人プーシキンの原作であるオペラ『スペードの女王』を作曲したチャイコフスキーはさすがだ。ワルツのもっている危険思想をしっかりと理解していた。だからこの『花のワルツ』も一見したところ少女趣味的ロマンチックなものに聴こえるかもしれないが、実は違うんだ。チャイコフスキーは、自由に憧れたヨーロッパの先輩作曲家たちが発したメッセージへの返信としてこのワルツを書いている。

 「ワルツのもっている危険思想」、うーーーん、と僕は唸った。ショパンのワルツ集を改めて見て(今はもう弾けない)、楽譜を目で追うと、14番ホ短調遺稿などは完全に実用的舞踏曲ではない。この曲はブリリアント型ワルツの先駆だとの評価が定着しているが、そうかもしれないが、それだけではなく上で言われた自由への憧れを表しているとも思われる。ワルツ以外のショパンの作品の多くには祖国解放、自由思想が表現されていると通常言われる。ワルツもそうなのだ。14番ホ短調だけではなく、哀愁と激情が入り混じったワルツが多い。

 『花のワルツ』を今から聴いてみよう。

猫騙し的「原発安全神話」を改めて問う!

2011年08月16日 | Weblog

(次は2010年2月20日の本ブログより)
 新聞に次のような広告文が載っていた。
 「携帯電話の電波のように、放射線は目で見ることはできませんが、測定器を使うとわずかな量でも測ることができます。原子力発電所の周辺では、こうした放射線の測定を電力会社と自治体とがそれぞれ24時間休みなく行い、データを公開しています。・・・その測定結果をみると、発電所からの放射線は1年間で、胸のX線検診1回で受ける量の50分の1以下となっています。」(日本原子力文化振興財団)
 1年間で、レントゲン検診1回の50分の1。本当だろうか?そんなに原発は厳重に管理されているのだろうか。されているとしたら、なぜ毎年のように放射線漏れ(たとえ少量でも)事故が生じるのだろうか。広告文が「携帯電話の電波のように」で始まっているのが気にくわない。故意に日常の常態を装って、原発も携帯電話と同様ですよ、と言いたいのだろうが、こういう言い方を猫騙しという。新潟・柏崎の事故の後始末もまだ為されていない。「もんじゅ」を再運転するという。大丈夫だろうか?
 猫騙しをした後でさえ、事故が起きないことを願う。いっそうのこと、脱原発に方針転換したらどうだろう。
 中国・四川省の大地震の原発施設への影響はどうなっているのだろう。

(これに対して一つのコメントをもらった。)
脱原発に賛成されていますが、原発に頼らなければ日本の現在の文明は崩壊します。それでも脱原発に賛成ですか?

(これに対して僕は次のように応答した。)
貴方が言われている文明って、どんな文明ですか?
理方なりに理解すると物質文明だと思います。精神文明とは言わないからです。
では、物質文明とは?
20世紀100年間に世界人口は約4倍増え、その間に消費エネルギーは約18倍増えました。人口増の4倍以上です。増えたのは主には先進国においてです。エネルギー源は主に化石燃料、特には石油です。
物質文明と言うとき、化石燃料をエネルギー源とする先進国の急に過ぎる、結果よければすべてよしという効率を狙った便利な生活を享受できるということでしょう。
理方が思うに、この効率主義からの脱皮が必要ではないかと。そのための一つの手立ては、【消費の制限】ではないかと。【消費の制限】というのは、配給制にせよ、とかいうのではなく、消費者が自発的に必要なものを必要なだけ買うということです。で、ゴミを減らします。
そうしますと、化石燃料への依存度が下がると思います。下げるには他にも様々な手立てがあると思います。
原発に関してですが、原発を事故無しに扱う科学技術がまだ確立していないと考えています。確立しているのであれば、辺鄙な田舎に原発を設置する必要はなく、大都市に設置してもいいわけです。
原発には余りに巨額のお金がかかります。そして原発の稼動から出る高レベル放射性廃棄物の処理の仕方がまだ決まっていません。この処理にも天文学的な費用がかかると言われています。
原発の設置と稼動にかかる莫大な費用を太陽光発電の拡大とコストダウンに使うべきだと思っています。

(以上のようであった。現在、まだ原発維持にこだわる人々が居る。一旦事故を起こせば(今の技術では必ず起きる)放射能は県境を越え国境を越え拡散する。除染に数十年数十兆円かかる。被爆者が出る。それでも、原発維持にこだわるのか。)