自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

大飯再稼働―これでは不信ぬぐえぬ

2012年05月31日 | Weblog

(朝刊より)
 野田政権が関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を事実上、決めた。再稼働に反対してきた関西広域連合が30日、「限定的なものとして適切な判断」をするよう求めたことで、理解が得られたと判断した。
 私たちは、見切り発車のように原発を再稼働させることに反対してきた。原発の安全性確保をめぐる状況に、大きな変化があったわけではない。野田政権の判断に強い疑問を抱かざるをえない。
 私たちが再稼働の判断で最も重視したのは、福島の事故を踏まえた安全基準や防災対策の見直しであり、「想定外」のことが起きても減災をはかる危機対応の整備だった。
 なにより、脱原発への道筋を明確にし、「必要な数しか動かさない」政策への転換を示すことが不可欠だと指摘してきた。
 ところが、野田政権が進めたのは、ストレステストの後、付け焼き刃ともいえる暫定的な安全基準を原子力安全・保安院にまとめさせ、専門家の評価なしに政治判断で再稼働に踏み出すことだった。
 政権から脱原発依存に向けた具体策は示されていない。「なし崩し的に原発を動かそうとしているのではないか」。国民の不信はぬぐえないままだ。
 こうした問題点を厳しく指摘してきた関西広域連合が30日になって、姿勢を転換したのにも首をかしげる。
 関西広域連合の会合に出席した細野原発相は、原子力規制庁の設置法案が国会で審議入りしたことを踏まえ、「規制庁発足後、大飯を含め新たな安全基準で再度精査する」と説明した。
 であれば、大飯を稼働させるにしても、あくまでこの夏に限定した措置とし、電力需要が一段落したところで再度停止することを明言すべきだ。
 加えて、運転開始からすでに40年を超える敦賀1号機や美浜1号機をはじめとした老朽化原発や、大地震などのリスクが大きい原発の廃炉を早期に打ち出す必要がある。
 大飯原発の再稼働で、電力融通や節電対策の手が緩むことがあってはならない。
 発電所にトラブルが発生する可能性は十分にあるし、西日本全体では依然として電力は不足気味だ。今後の電力政策を考えるうえでも、送電網の広域運用や需要抑制策の実績を積み重ねていくことが重要である。
 第三者による電力需給見通しの検証を経て、国民は「原発ゼロの夏」への備えを整えつつあった。その意志を無視してはならない。

(「原発ゼロの夏」、いいなあ。ずーっとゼロでいい!!!)

植物の「鼻」と「耳」

2012年05月30日 | Weblog

 クチナシの花が独特の強い香りを放っている。
 20年ぐらい前の科学雑誌を見ていたら、興味深い記事に出会った。このクチナシの花を用いた実験がある。
 例えばバラに含まれるシトロネロールという香料成分をクチナシの葉に吹き付けると、特定の反応がある、というのだ。つまりクチナシは、匂いを「知る」機能を備えているということだ。クチナシに限らず、程度の差はあれ、それぞれの植物がそれぞれの匂いに反応した。しかも極めて微量の匂いをかぎわける力をもっていることが分かった。この力を応用すれば、植物による匂い感知器が実現する。果物や魚肉の生鮮度を見抜いてくれる測定器などが出来るかもしれないという。「まだ夢のような話なんですよ」と専門家は言う。
 植物は音にも反応する。騒音を流すと生体電位なるものに特定の反応があるし、音楽を流すと別の反応を示す。太鼓の音や雅楽のような音楽の時は反応が大きいが、モーツアルトの場合はむしろ少ないという。この差が何に依るのかは定かではない。
 ただ、植物には「鼻」も「耳」もあるということは確かなようだ。
 ポプラは虫に襲われると大気中に苦味をもったガスを出す。それを「知った」周りのポプラも苦味をもった物質を出して虫を防ごうとする。
 こういった研究は20年ぐらい前のものであるが、その後研究はどのように進んだのであろうか。いずれにせよ、僕らは植物のことをもっと知る方がいいし、植物の立場をもっと尊重する方がいいことは確実である。

出征の様子 (再掲)

2012年05月29日 | Weblog

 僕(ら?)の知識は殆どが受け売りだと言ってよい。受け売りなんだけれど、受け継ぐべき重い知識は記憶しておく方がよい。以下は今日の大新聞に挿まれたミニコミ紙からの抜粋である。

 昭和12・13年頃までの出征の様子はお祭りのようだった。出征兵士の名前を書いた幟を何本も立て、楽隊と提灯行列を従えた「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のこの兵」はまさに「歓呼の声に送られて」出征していった。・・・しかし戦争が激しくなり、出征していった人の数だけ白木の箱が還ってくるようになると、召集令状を渡す側と貰う側の、「おめでとうございます」「ありがとうございます」の挨拶も寒々しくなってくる。出征する者の知り合いは、街角に立って「千人針」を募るようになる。街行く女性たちに、晒(さらし)の布に赤い縫い糸で結び目を作ってもらうのだ。「千人の女性に縫ってもらった胴巻きを着ければ戦場で弾に当たらない」というおまじないである。・・・「千人針」には「五銭玉」を縫い付ける事が多く、「五銭は四銭(死線)を越える」という語呂を合わせてげんを担いだ。
 当時男子として生まれたからには、召集から免れるすべはなく、・・・大陸に送られ、南方に送られ、内地を恋しく思いながら、たまに送られてくる慰問袋を心待ちにしていつまでも続く行軍に耐えた。「敵の屍と共に寝て、泥水すすり草を喰む」こともあれば、「背も届かぬクリークに三日も浸かって」いることも・・・。いつ死ぬかも知れない恐怖と、残してきた両親や子供、家族など山ほどの「後顧の憂い」に兵士たちは苛まれた。

天安門事件遺族が自殺 中国当局への抗議か

2012年05月28日 | Weblog

(朝刊より)
 中国当局が学生らの民主化運動を武力弾圧した1989年の「天安門事件」で息子を亡くした男性、軋偉林さん(73)が25日に自殺したことが分かった。事件で子どもを亡くした親の会「天安門の母」が27日、ネット上で発表した。
 軋さんは以前「死をもって抗議することを決意した」と記した紙を持ち、自殺をほのめかしたことがあるという。武力弾圧を正当化し、事件の再評価をしない中国政府に対する抗議の自殺の可能性がある。
 同会は「父子の死はともに中国政府がもたらした悲劇だ」と指摘し「中国当局の冷酷で反人道的な行為を強く非難する」と訴えている。(共同)

(自然環境を汚してまでも経済大国にのしあがった中国。人権も汚したままなのか? 外国の事につれないことを言いたくはないのだが。)

ドイツの脱原発―素早い行動が生む果実

2012年05月27日 | Weblog

(朝刊より)
 ドイツが脱原発の道に回帰して、間もなく1年になる。
 10年後の22年までに17基の原発をすべて閉鎖する。そんなゴールを見すえて、産業界や社会が一斉に動き、新たな雇用やビジネスが生まれている。
 政府の明確な目標と計画のもと、素早い行動で果実を手にする――。脱原発に向けて、日本が学ぶべきことは多い。
 ドイツの変化を象徴しているのは産業界の動きだ。
 電力大手のエーオンとRWEは、英国の原発建設計画からの撤退を決めた。すでに合弁会社を設立していたが、今後の建設費増や原発事業のリスクを重視した判断だ。政府の電力自由化策に応じて、ドイツ国内の送電線部門も切り離した。
 電機大手シーメンス社も、原子力事業から完全撤退した。新しい送配電システムや蓄電の研究開発、洋上風力発電所への投資を進め、「グリーン企業」への変身を図りつつある。そこに新たな収益源を期待しているからだろう。
 注目したいのは、風力や太陽光、バイオマスなどの自然エネルギー普及による経済効果だ。ドイツ政府の推計では、ものづくりから流通サービス業まで約38万人の雇用が生まれた。
 ビルや住宅の断熱性を向上させて、エネルギー効率の高い街をつくる取り組みも広がっている。節電や省エネが生活に無理なくとけ込み、経済も活性化する好循環がそこに見える。
 福島第一原発の事故を受け、古い原発を中心に8基の運転が停止された。この結果、原発の発電量は昨年、全体の10%台に下落した。逆に約20%まで増えた自然エネルギーの比率を、20年までに35%水準に引き上げるのが政府の目標だ。
 ただ、予想以上の変化の早さは混乱も生んでいる。太陽光発電の買い取り価格の引き下げはその一例だ。
 自然エネルギーによる発電を固定価格で電力会社に買い取らせる仕組みは、その普及を支えてきた。しかし投資が過熱し、電気料金を通じて消費者の負担増を招いたため、買い取り価格を2割以上引き下げる予定だ。
 自然エネルギーを着実に広げるには、発電コストの変化をきめ細かく把握し、買い取り価格を点検していく必要がある。今年7月から買い取り制度が本格スタートする日本にとっても、他山の石となろう。
 脱原発への確固たる目標に自然エネルギーへの支援策をうまく組みあわせて、経済や社会の活性化につなげる。日本に必要なのはそんな発想と行動だ。

[太平洋・島サミット]環境分野で成果出そう

2012年05月26日 | Weblog

(朝刊より)
 太平洋の島・諸国を招いた第6回「日本・太平洋諸島フォーラム首脳会議」(太平洋・島サミット)が25、26の両日、名護市の万国津梁館などで開かれる。3年に1度の島サミットの沖縄開催は2006年以来3回目で、国内最多。太平洋に広がる島しょ国と地理的に近く人的、文化的な交流も深い沖縄が、サミットの舞台として定着していることを示している。
 初参加の野田佳彦首相のほか、パプアニューギニア、トンガなど16カ国・1地域の首脳らを歓迎したい。
 島・諸地域ならではの環境や資源確保の問題でも、沖縄と参加各国には多くの共通点がある。宮古島市では、参加国の高校生たちが地下水保全や海外への水供給事業に取り組む宮古島市の事例を学び、各国首脳への提言について議論している。
 宜野湾市で開かれたシンポジウムでは、島・諸地域の循環型社会の構築や環境ビジネスの可能性について政府関係者に加え、リサイクル事業の企業代表らが活発に意見交換するなど、幅広い分野の交流が始まっている。
 島サミットに参加する島しょ国は、国土が狭く、国際市場からも遠いなどの理由で経済的には恵まれていないが、カツオやマグロなど海洋資源は豊かで大きな可能性を秘めている。
 日本と各島しょ国の友好、協力は太平洋地域の安定と発展に不可欠で、沖縄の場の力を活用し未来志向の関係を築いてほしい。
 日本は、島サミットで海洋・漁業資源をめぐる問題を初めて取り上げる。周辺地域への影響を強める中国をにらんだもので、防衛交流についても協議する。
 野田首相は中国が太平洋地域で活動を活発化させている事態を踏まえ、周辺地域の平和と安全の重要性を提起する見通しだ。初参加の米国が、中国の活動を強く意識していることは間違いない。
 確かに近年、領有権問題などで中国と関係国の緊張が高まり、地域の安全保障に懸念が広がっている。国際社会が自制を求めることは重要だが、島サミットを新たな対中国包囲網形成に活用すべきではない。
 島サミットでは、島・諸国が直面する環境問題など具体的な課題について議論を深めるべきだろう。参加国が連携し、前向きなメッセージを世界に発信することが地域の安定と発展につながる。
 野田首相は、島サミットの開催前に参加国の主要新聞に「私たちをつなぐ太平洋の『キズナ』」と題するメッセージを投稿した。「困ったときの友人は真の友人」との格言を引用して、東日本大震災後に寄せられた各国の支援に深く感謝しつつ、友好と協力関係の強化を強調した。
 野田首相の意気込みは理解できるが、具体的な取り組みがいまひとつ分かりにくい。
 サミットでは、政府開発援助(ODA)の拠出など従来の枠組みにこだわるのではなく、各国の実情に即した柔軟な技術協力や資金援助など対等な協力関係を強化してほしい。

原子力委員会―この反省のなさは何だ!!!

2012年05月25日 | Weblog

(朝刊より)
 「原子力ムラ」は3・11後も何の反省もしていない。憤りと同時に、「やっぱり」との思いがつのる。
 原子力委員会の事務局(内閣府)が、電力会社など原発推進の側だけを集めた非公式な会合を20回以上も重ね、核燃料サイクル政策の見直しを議論する小委員会の審議前に情報を流していた。
 会合に小委員会から出席していたのは座長だけ。報告書案も事業者に有利になるよう書き換えられていた。
 原子力委員会への信用を根本から揺さぶる事態である。偏向したやり方が発覚した以上、組織は白紙から見直すべきだ。これまでの議論も不正な点がないか検証する必要がある。
 原子力委員会は、国の原子力政策の基本を決める役割を担ってきた。親委員会のもとに、いくつかの小委員会や専門部会が置かれている。原子力を推進する最高機関である。
 原発事故を受けて、原子力安全・保安院や原子力安全委員会など規制機関については改組が決まったが、原子力委員会は手つかずだ。
 今回の不祥事をみる限り、「原子力ムラ」の巣窟になっているとしか思えない。
 例えば、事務局には以前から電力会社や原子炉メーカーの出向社員が複数、常駐しているという。おかしな話だ。
 原子力に批判的な識者からは「意見が反映されない」との不満もあがっていた。
 別の委員会に属する浅岡美恵弁護士は、審議が事務局に誘導されたり、実際の議論と事務局がまとめる内容に隔たりがあったりすることを詳細な資料にして提出している。
 非公式会合はこうした中で明らかになった。浮かび上がるのは、事務局を通じて利害関係者が情報を入手し、委員を差し置いて政策を取り仕切ろうとする「ムラ」そのものの図式だ。
 原子力委員会は原子力政策大綱の改定も審議している。核燃サイクル問題とあわせて政府のエネルギー・環境会議に複数の改定案を示し、政府は他のエネルギー政策とともに「国民的議論」を経て決める段取りだ。
 だが、こんな行為が繰り返された末にできた「案」を、どうやって信用しろというのか。
 野田首相、細野原子力担当相は事態を深刻に受け止めるべきだ。実態の解明を急ぐ。委員長らの進退を含め、組織のあり方を抜本的に改める。
 そこからやり直さないまま、原子力政策を議論しても、誰も信用しない。

風呂敷

2012年05月24日 | Weblog

 学生の時、中国文学の若い先生・高橋和巳の講義に出た。三ヶ月と続かなかったが。(小説家・高橋和巳を知ったのは後である。)
 その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。

奈良県 再生エネ活用ビジョン策定へ 太陽光や中小水力など具体化

2012年05月23日 | Weblog

(朝刊より)
 奈良県は4月19日、“地産地消”のエネルギーの活用を進める「再生可能エネルギー等利活用の基本的な考え方」をまとめた。県全体の電力自給率は18.9%と、近畿2府4県で5位。県は省エネや節電に加え、太陽光発電や中小水力発電など多様なエネルギーを利用する方針で、今年度中にエネルギービジョンを策定し、施策として具体化していくという。
 考え方は、東京電力福島第1原子力発電所事故で電力需給が逼迫している事情を踏まえてまとめた。
 理論上、すべての住宅や公共施設に太陽光発電を設置したと仮定すると、発電量は172万kWに増えると試算。県は「潜在的に供給力がある」として今後、太陽光発電だけでなく、中小水力発電やバイオマス(生物資源)を中心に活用を進めたい考え。
 太陽光発電は、1000kW未満の中規模の装置を公共施設やため池に設置することを検討。家庭用装置の普及も目指す。
 バイオマス導入については、県土の8割を山林が占めるため、導入促進が山間地域の産業振興や雇用の確保につながると期待。一方で、コスト面課題なども指摘した。

(奈良県が脱原発推進に邁進することを切に願う。)

祭りの日の夜

2012年05月22日 | Weblog

 五月は日本三大祭りなど各地で大小様々な祭りが行われる月。僕は秋祭りの方に親近感を覚えるが、それでもやはり子供の頃の血が騒ぐ。

    宵に寝てまた醒めし祭かな   中村草田男

 子供の頃の思い出の句であろう。近くのお宮のお祭りで、笛太鼓の祭囃子が聞こえてくる。御神輿も出た。いつもはひっそりしている町並みも今日は賑やかだ。幼い日の作者は朝からはしゃいでいた。お兄ちゃんたちがかつぐ子供御輿の樽みこしの行列について歩いたり、神社の境内に並ぶ物売りの店をのぞいたり、一日中、遊びほうけた。
 日の暮れ、軒先の祭提灯に灯が入る頃にはすっかりくたびれている。「子供は早く寝るんですよ」と言われるとすぐ寝床に入った。気持ちはたかぶっているのだが、疲れでいつの間にかぐっすり眠ってしまったのだった。ふと目が覚めて、もう朝かと思ったのに、隣の茶の間にはあかあかと電灯がともり、外を通る人の声や足音が聞こえてくる。まだ宵の口なのだった。子供は祭りの賑わいが気になって仕方がない。大人たちは何をしているのだろう。起きて出たいのだが、親に叱られることが分かっているので、一所懸命、目を閉じてもう一度寝ようとするのだった。
 子供の頃の懐かしい思い出である。

金環日食

2012年05月21日 | Weblog


(朝刊より)
 太陽の中心部が月に隠される金環日食が21日午前7時半頃、九州南部から福島県南東部にかけての太平洋地域各地で起きた。
 これほど広範囲で観測できるのは平安時代以来の932年ぶり。
 金環日食が見えない地域でも、大きく欠ける部分日食は観測できる。国内の日食は午前9時半頃までにすべて終わる。

(殆どの人が大騒ぎ。ま、分からないでもない。次回は300年後とのこと。一応、記録として残しておく。)

生物時計

2012年05月20日 | Weblog

 昨日、畑違いの友人から面白いことを聴いた。アサガオは暗室に入れておいても約24時間毎に花を開くというのだ。やはり、どこかに生物時計を隠し持っているのだろうというのだ。高等動物の場合には、脳の中枢にある松果腺が生物時計の歯車の一つではないかと言われている。
 思うに、この生物時計を現代人は余りにも蔑ろにしているのではないか。腕時計に頼りすぎて、自然のリズムを体全体で感じ取る術を麻痺させているのではないか。僕も遅寝遅起きで、完全に生物時計に違反している。都市生活者の多くは生体のリズムを乱している。人生はマラソンなのに、息せききって百メートル競走を続けているような人も居るのだろう。このような状態が事故の元であり、あるいは自分の生活に疲労を感じる元である。生物時計のリズムにそむいて生活することは、それだけ電気使用量などが増える訳で、回りまわって自然の生態系にも悪影響を及ぼす。
 生物時計に従うことは、都市生活者にとって今はもう不可能なのかも知れないが、なぜ不可能なのか、その原因を探ってみるのも必要な時代に来ているのではないかと思われる。

大飯原発―再稼働はあきらめよ

2012年05月19日 | Weblog

(朝刊より)
 野田首相がNHKの番組で、関西電力の大飯原発3、4号機(福井県)について「最後は私のリーダーシップで決めたい。判断の時期は近い」と話し、あらためて再稼働に前向きな姿勢を示した。
 野田さんは原発の安全策に対する国民の不信がぬぐえたと考えているのだろうか。状況は変わっていない。この夏の再稼働は見送るしかない。
 首相発言は、福井県から再稼働の同意が得られるとの見通しに基づくようだ。
 だが、福井県知事が政府に要望していた「消費地の理解」はどうなったのか。19日に関西広域連合の会合が予定されているが、京都、滋賀の両知事をはじめ周辺自治体は再稼働にきわめて慎重な姿勢だ。
 この1年余を振り返ろう。
 民主党政権は原発事故の反省に立って「脱・原発依存」への転換を掲げ、安全規制や核燃料サイクルについて、白紙に戻して見直すと表明した。
 ところが、メニューは示されたものの、緊急対策といった暫定的な措置を除けば、ほとんど実現していない。
 4月にできるはずだった原子力規制庁の設置や、原発の寿命を40年とする法律改正が、いまだに審議入りのめどさえ立っていないのはその象徴だ。
 原発規制は、信頼が地に落ちた原子力安全・保安院や原子力安全委員会にいまも委ねられている。ストレステストも、両者のもとで進められた。
 再稼働を判断する4閣僚会合の段階になって、保安院に付け焼き刃の安全基準をまとめさせるなど、政治主導の局面でも拙劣さばかりが目につき、かえって不信をあおる結果になった。
 もちろん電力不足の解消は、国民生活や経済にとって重要な課題である。
 ただ多くの国民は、この夏は節電努力で乗り切りたいと考えている。再稼働に反対する各種の世論調査を見ても、その意志が表れている。
 18日には、政府の節電対策が正式に決まった。7月から全国的に節電を求める。電力会社からデータを出させ、第三者の目で検証したことは評価する。
民意を意識して、政府として「原発ゼロの夏」への備えを整えた、ということだ。であれば賢い節電の徹底と定着に全力を注ぐのが筋である。
 そのうえで、早く脱・原発依存の具体策を示し、法律を通して抜本的な原子力規制の見直しを進める。それなしに再稼働に動こうとしても、国民の納得は得られない。

(再稼動に一般庶民の殆どは反対しています。民主主義国家ですよ、日本は。)

興味がなくなれば・・・

2012年05月18日 | Weblog

 「興味がなくなれば、記憶もなくなる。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 記憶の要領は興味をもつこと、これは当然であろう。問題は、絶えずいろいろな事に関心をもつ事が難しい点にある。難しいが、老化防止には役立つに違いない。
 ゲーテが、短命な時代に八十三歳近くまで生きて、最後まで活躍できた原動力は、彼の多様で旺盛な関心にあったのであろう。
 しかし、物忘れを恐れない事も大事だと思う。コロッと忘れてしまったような事柄は、裏を返せば、関心をもつに値しない些事なのだ。
 しかし、些事かどうかをどうして決めるのか。忘れた事は些事と言っていいのだろうか。そうは言えまい。僕はしばしば大事な事を忘れる。後で、後悔する。後悔するのは、忘れていた事を思い出した時であるが、その時は後の祭りである。
 しかし、まあ、忘れたら、気にせず、自己嫌悪などに陥らず、さらっと生きる事に心がけようと、最近になり思っています。しかし、そうすると、老化が早くなるのでは・・・。矢張り、興味津々の日々を送らねばならないのではないかと、ゲーテの言葉に頼りない蘊蓄を傾けながら、思う次第です。

坐る(再掲)

2012年05月17日 | Weblog

 坐るという字は、土の上に人が二人すわっていることだ、という解釈がある。その二人とは自分と自分である。土に坐って自分と自分が対話し、自分の内面を見つめる、それが瞑想や坐禅につながるのだという仏教家が居る。
 無信心の僕は、仏教のことは知らないが、坐るという字を見つめていると、何となくそんな解釈がもっともらしく思えてくる。
 土の上、石の上、草の上、畳の上に黙って坐っていると、自分自身の喜怒哀楽を見つめることが出来るように思える。思うに、これは、椅子に座ることでは出来ない。椅子に座って事務や読書は出来るが、自分との対話は出来ないのではないか。 ひょっとしたら、坐ることで自分との対話が可能になるということは、日本文化の特徴であるかもしれない。旅館の畳の上に坐って、窓越しに緑滴る山を見ているうちに自分と自分との対話が進む、そんな旅をしたいものだ。贅沢かなぁ。

(最近、こんな気分です。)