自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

オスカー・シンドラー

2007年07月30日 | Weblog
 映画「シンドラーのリスト」のビデオを観た。多分4度目だと思う。その内容は周知のように、ナチス側のシンドラーがユダヤ人1200人を強制収容所送りから救ったというものである。スピルバーグがリアルに描いている。そのBGMがなんとも物悲しく、ヴァイオリンがむせび泣くように歌う。この曲を聴くだけでも、ある種のヒューマ二ティを感じる。
 この映画がアカデミー賞を得た後、その内容が真実であるかどうかが疑われた事があった。この疑いを打ち消す発見がなされたのは、1999年10月15日付けのシュツットガルター・ツァイトゥング紙であった。シンドラーの作成したリストの実物が発見されたと報じた。タイプライターで打たれたリストは、シンドラーの友人が住んでいたドイツ北部ヒルデスハイムの家の屋根裏部屋にあったスーツケースに、大量の手紙や写真、書類などと一緒に入っていた。スーツケースには「オスカー・シンドラー」と書かれた名札が付いており、ほこりまみれだったという。1974年にシンドラーが死去した後、友人が屋根裏部屋に保管したとみられる。  この発見によって映画の内容の真実が裏付けられたのである。真実が疑われたのは何故であろうか。ひとつには、あの苛酷な時代に1200人ものユダヤ人を救えるはずがないという思い込みがあった。もうひとつには、スピルバーグ自身がユダヤ人で、彼がユダヤ人を必要以上に賛美しているとのやっかみがあったと推測される。
 ある事業(この場合は映画)が成功すると、その成功をうとんじる人が出てくる。人間の心にはそういう側面がある。勿論こんな事を考えながらビデオを観たのではないが、観た後、こんな事を考えてしまった。

呆と保

2007年07月28日 | Weblog
 ものの本によると、保は、呆に人偏がついた字であるが、その呆とは、僕には何故か分からぬが、「おむつをした赤子」を意味するそうだ。そこで、保は赤子を守り養う人を表す字だそうだ。そうすると、呆だけでは、まだ赤子を守り養う資格がないことになる。だから、本欄と掲示板に出没される呆さんには、まだお孫さんがいない訳で、呆という字を名前にされたことは事実を示していると言える。
 もう一つの解釈はこうである。呆は木に口がついている姿を示している。ところが、木は口でものを言わない。だから、呆はものを言わない木を意味すると言える。事実、呆さんは山に入った時はものを言わない訳で、木と同じな訳だ。
 しかし、この呆、つまり木は、僕ら人間には分からないが、よくしゃべる木だ。一般に、この木のおしゃべり(木の心)が分かるようにならなければ、文化の本性は分からないと言ってよいと僕は思う。だから、呆さんやドクターや銀さんは文化の何たるかをご存知な訳だ。

理解せんとしよう

2007年07月27日 | Weblog
理解せんとしよう
世界の混沌を
理解せんとしよう
世の中の難事を
理解せんとしよう
人々の絆を
理解せんとしよう
アナタの心を
けれど どの理解も僕の理解を超えているのかも
それでも 理解に理解を重ねようと僕は決意した
なぜ決意したかって?
ムクゲの白い花がけなげにも一輪咲いたからさ
そして 次々と花開くからさ
次々と理解せよと僕に言っているからさ

蝉時雨

2007年07月26日 | Weblog
 僕ちの近くを秋篠川が流れている。何となく清冽な響きのする名前である。ただ、岸壁も川底もコンクリートで塗り固められた、その姿は痛々しい。この川の上流5キロほどの所に秋篠寺がある。今日も相当に暑かったが、伎芸天に会いたくなって出かけた。この寺は規模は小さいが、心休まる寺としては屈指の一つに入るだろう。
 伎芸天に会い、眺めていると、こちらが見られているような気がして恥ずかしくなった。こんな佇まいに、もしも仮に恋心を打ち明けられたら、目まいがするだろう。5分も対峙していただろうか。実際目まいがした。
 金堂を出て雑木林で汗を拭いていると、蝉時雨。古代の礎石に腰を下ろしてボーとしていたら、伎芸天の残像が蝉時雨をBGMにして慎ましく舞い出した。何?と不審に思って立ち上がった途端に立ち眩みをもよおした。そんな僕の心影を他所に、盛夏の朝が蝉時雨とともに過ぎ行った。

立派な行為を・・・

2007年07月25日 | Weblog
「立派な行為を心から誉めたたえることは、いわば自分もそれに一枚加わることである。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)

まことに言いえて妙である。
この「心」の持ち主に残念ながら未だ出会ったことがない。いや、ボクが鈍感なだけであるのかも知れない。

この「ココロ☆学院」で、自分の心を磨いてみたいと思う。

朝顔――「はかない恋」か「実存の淵」か

2007年07月24日 | Weblog
 猫の額に申し訳なさそうに小ぶりの朝顔が咲いている。

 「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」という千代女の句には、優しさを売り物にするようなイヤミがある、と評した人がいる。もっとも、朝顔の生命力の強さを詠んだという意味ではこの句の描写は正しい。朝顔のつるは、大袈裟に言えばあっという間にするすると伸び、つるとつるが絡み合いながら勢力圏を広げる。その花言葉「結束」はおそらく、つるの結束の強さを意味するのだろう。もう一つ花言葉がある。「はかない恋」。はかなさにこそ人々は惹かれてきたのであろう。朝顔の命のはかなさを、人の世のはかなさに重ねる人も多いのだろう。

 蕪村に「朝がほや一輪深き淵のいろ」という句がある。これは絶品だと思う。深い藍色の花の中に、蕪村は深い淵を見たのだ。蕪村の人柄が偲ばれる。千代女の句には無い、人間の定めのような実存とも言える淵を一輪の朝顔に見ている。鋭い観察力だ。こういう観察力が特に戦後、影を潜めたように思われる。経済成長に血眼になったからだ。 

今夜は爽やかに・・・?

2007年07月23日 | Weblog
  羅、これ何と読むとお思いですか?
  和服では女性の盛夏の外出着として、絽(ろ)、紗、明石、透綾(すきや)などの薄絹でつくった単衣(ひとえ)を用いる。これらを、羅という。羅は「うすもの」と読む。これは読めない字だ。俳句の本を斜め読みしていて、
   羅や人悲します恋をして    鈴木真砂女
という句に出会ったのだが、最初の字が読めなくて、巻末の解説で教えられた。
  いい句だと思う。女性が羅を着て恋をすると悲しむ男が居る。夏にはそんな事も起きる。遠き昔日の僕も悲しんだ一人であると言っても誰も信じないだろうが。今や羅は死語なんだろうか。
  顧みてみると、羅の女性に茶を点ててもらったのは紅顔の美青年だった。その青年が、信じられないことではあるが、何を隠そう僕である。本当に信じられないことではある。
  今夜は昨日と比べると過ごしやすい。だが、羅の女性を想い出して、老いたりと雖も爽やかな気分にはなれない。

昨年は観測史上3番目の高温

2007年07月21日 | Weblog
気象庁は世界と日本の気候の状況をまとめた「気候変動監視レポート2006」を発表。これによれば、世界の年間平均気温は1891年の統計開始以来、昨年は第3位。また世界全体の海氷域面積は統計開始以来最小であった。


温暖化は加速度的に進展している。例えばシベリアの永久凍土が溶けると(もう溶け始めているが)、強力な温暖化ガスのメタンが放出され、温暖化は一気に進む。
6月にドイツで行われたG8サミットでは40年後の二酸化炭素の半減の話がされていたが、これでは温暖化が随分先の問題であるかのような錯覚に陥りかねない。しかし、温暖化は一刻も待ってくれない。

日本プロ野球選手会は・・・(新聞記事より)

2007年07月20日 | Weblog
日本プロ野球選手会は20日、新潟県中越沖地震の被災者への義援金として、各球団ごとに100万円ずつを日本赤十字社を通じて寄付すると発表した。すでに楽天が100万円を寄付しており、他球団も追随した。また日本野球機構はオールスターで選手が着用したサイン入りユニホームをネットオークションに出し、売上金を被災地に寄付することを決めた。詳細は30日以降の日本野球機構のHPで。


(野球を愛するボクとしては、こういうニュースを読むとホッとします。額がもっと多くてもいいだろうと思うのは、ボクの身勝手というものだろう。)

ミル『自由論』

2007年07月19日 | Weblog
 僕が影響を受けた人物は多いが、その内の一人はジョン・スチュワート・ミルである。彼の『自由論』はもっと緻密に考察されてもよいと思う。幸い良い翻訳が出ているので興味のある高校生にも読んで欲しい本である。要点だけを。
 自由には哲学的な「意志の自由」と政治的・社会的な「思想・行為の自由」の二種がある。ミルが論じているのは社会の一員である個人が自らの幸福を追求する際に必要となる、政治的自由である。ポリティックスとはギリシア語「ポリス(都市)」に由来し、ポリティコスとは市民という意味である。つまり市民的自由が論じられているのである。特に第二章「思想と言論の自由について」、第四章「個人を支配する社会の権威の限界について」が必読の箇所だろう。
 もともとミルはベンサム主義者の父の影響のため政治的過激派だった。26歳の時に論理学を徹底的に研究し、その結果、政治哲学は理論科学ではあり得ず、実験科学でしかあり得ないことに気がつく。そこで、彼は一切のイデオロギーから脱却できた。彼は市民社会に見られる多数派の押し付けを一貫して批判し、この視点から自由の限界を指摘した。つまり多数派といえども、その自由に限界があるのである。
 ミルの自由論の核心を一言で表現するとすると、「自分が正しいと思うことを、他者に強制する権利は誰にもない」ということになるだろう。一方、他者の言論や行為を間違っていると判断した時には、言論による粘り強い説得や教育が必要であり、それには思想と言論の自由、出版の自由が不可欠なのである。

文月(ふづき、ふみづき)

2007年07月18日 | Weblog
陰暦七月(現在の八月ごろ)は七夕月。七夕に文を添えるから文月という説もある。
織姫と彦星が愛で合ってめぐり逢うので愛逢月(めであいづき)とも。
陰暦では七月からが秋とされるので秋初月(あきはじめづき)とも。
オミナエシの咲く女郎花月の名もある。

今夜はいろいろ考えることがあり、ブログになりません。(何?今夜に限ったことではないって?)

昔の人は月の言い表し方にも情趣を込めたものだ。

地震の被災者の方々は、今という時をどう思っていられるのであろうか。少しでも心落ち着く時を過ごされることを願ってやまない。

この推論、変かなぁ。

2007年07月16日 | Weblog
次の推論の正当性は認められるでしょうか。

霊魂には形がない。
形がないものは滅びようがない、つまり不滅である。
ゆえに、霊魂は不滅である。

(霊魂には形がない、ということは先ず認めてください。他に空気なども形がないと言われるかも知れませんが、空気は大小様々な仕切りで区切られていますので、形があると考えられます。)

「霊魂は不滅である」という結論を疑うことなく認める人は、もしかしたら幸せな人かも知れません。
ボクは、どうもこの推論、胡散臭いと思っています。

「長崎の鐘」

2007年07月15日 | Weblog
 「長崎の鐘」の作詞でよく知られている永井隆は、放射線医学の専門家であった。昭和20年8月9日、浦上天主堂近くの病院勤務中被爆。自宅では妻・緑が殆ど骨盤と腰椎だけの姿で爆死。からくも生き残った永井は救護活動に骨身を削る。が、やがて危篤状態に陥る。病床で執筆活動を続ける。「・・・幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。・・・」(「この子を残して」)
 昭和23年如己堂(にょこどう)完成。このわずか二畳の部屋から、「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの名作が誕生。「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」(「この子を残して」)
 如己堂から発表される作品や言葉は、世界の人々の胸を打ち、ヘレン・ケラーやローマ法王特使をはじめ、多くの人々が如己堂を訪れた。
 昭和26年、かつての職場である長崎大学付属病院で静かに帰天(享年43歳)。
 言う言葉なし。今年もまた暑く物憂げな季節が来る。

随想

2007年07月14日 | Weblog
 故福永武彦の画文集『玩草亭百花譜』を気の向くままに見る。この作家が死の直前まで描き続けた野の花の写生集である。
 ナデシコ、オミナエシなどの絵がある。信濃追分を吹く風の音が聞こえてくるようだ。林道に咲くマツムシソウもクサアジサイも不思議なほどの清澄さを醸している。野の花を友にした著者は、スケッチに心を遊ばせ、小さなものの命を見つめることで肉体の苦痛を逃れることが出来たらしい。一枚一枚の絵には、野草の生命力に対する憧憬が感じられる。
 詩人・木下杢太郎にも『百花譜』という写生集がある。この木下作品に福永武彦が一文を寄せている。「木下さんは、ひそかにその命の焔の長くは燃え続きそうにないことを知って、最後の夢を写生に託し情熱の一切を傾けたのではないか」と。 野の花は二人を最後まで励ましたに違いない。僕んちの猫の額には、有り難いことに白いムクゲが咲いてくれている。朝咲いて夕方にはしぼむ一輪一輪の生命は儚くとも、台風にも負けない気丈さを醸成している。

頭の体操②

2007年07月13日 | Weblog
その筋ではかなり有名な問題です。

ナイル川に子供を取るワニがいた。ある日子供をつれた母親からその子供を奪った。母親が子供を返して欲しいと頼むと、ワニはこう答えた。「俺が子供を返すつもりか、つもりでないか、おまえが当てることが出来たら、子供を返してやる。」そこで、母親は「あなたは子供を返さないつもりだ。」と言うと、約束を守ることにかけては頑固なワニはディレンマに陥った。どんなディレンマでしょう?

(ディレンマとは場合によって意味が異なりますが、大抵の場合、思っているように行為できず、自ら困った状態に陥ることをディレンマにはまる、と言います。Aと思ってもAを行為に移すことが出来ず、AでないとおもってもAでないことを行為に移すことが出来ません。)