自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

大晦日

2014年12月31日 | Weblog



 『キューポラのある街』で知られている作家の早船ちよさんが、ふるさと・飛騨の「年取り」のことを随想集(1970年)に書いている。年取りとは除夜の儀式である。一家そろって神だなの前で手をたたき、それから仏さまをおがんでご馳走をかこむ。
 「『ことしも、みんな、まめで暮らせてよござんしたなあ』。母がまず父の盃に酒をつぐ。父は、うなずいて、母の盃に酒をみたす。『そうじゃって、そうじゃって、ありがたいこっちゃなあ。来年も、みんな、まめで働こう』。父は、わたしや妹、弟の盃にも、ほんのすこし酒をついでくれる。」

 この父と母の会話がいい。第一次大戦後の不況風が吹きすさんでいた頃の話だ。年越しは容易ではなかったろう。でも、つつましく暮らしてまずまず除夜の鐘を聞けることになった。ほっと一息ついて、感謝の言葉を述べ合う。神仏への感謝だけではなく、そこには、お互いをねぎらう情愛がこもっている。なにやら、懐かしい光景である。
 工業化社会と情報化社会は、面と向かってお互いをねぎらう情愛の言葉を多くの家庭で過去のものにしてきたのではないか。僕は今年の除夜の鐘を心置きなく聞くことができるであろうか。
 しかし東日本大震災と原発大事故に遭われた方々および今年の大風水害に遭われた方々の事を思うと、僕のことなんぞどうでもいい。

系統樹

2014年12月29日 | Weblog


 裸木もピーンと張りつめて美しい。落葉樹は毎年葉を落とす訳だが、二ヶ月もすると芽吹く。一枚々々の葉の命は短いが、木は無数の葉を次々と生み出し実を落としながら何十年、何百年、ときには何千年も生きる。一つの個体でありながら、同時に種としての普遍を表現しているとも言える。
 アメーバから人間までの生物学的進化を示す、幾つにも枝分かれした「系統樹」という図があるのも、そうした木の命の相からヒントを得たからかもしれない。
 一枚の葉も、よく見れば、木全体の縮図にも見える。橡でも欅でも椿でも、よく見ると、その葉柄からのびる葉脈は、幹から分かれる枝に似ているようにも見える。一枚の葉が、緑の葉を繁らせた一本の木のように見えないだろうか。
 葉を水の中で腐らせて溶かして(子供の頃したように、あるいは運がよければ見つかるのだが)、葉脈だけを残した葉は、葉を残らず落とした冬の日の木の縮図のようで美しい。
 木は、自分の縮図である葉を無数に繁らせて、夥しいいわば小宇宙を身につけたいわば大宇宙といった風格で、悠然と佇む季節を心待ちにしている。
 かつて落葉照葉樹林の道がケルトから大陸を通り日本にまで続いていた時代が遠き昔あったそうだ。その一部の名残がレバノン杉として今も知られている。シルクロードと海路ともう一つの道があったそうだ。その木々の伐採を糧に人々は文明を築いてきた。これからは世界規模で木を育てる時代だ。

正月には寒波襲来かも・・・冬篭り

2014年12月28日 | Weblog

 正月には寒波が襲来するかもということで冬篭りとなるかも知れない。
 近頃は、特に都市生活では、冬の間の活動も他の季節とあまり変わらずに営まれているようだ。それだけ暖房器具の使用が普遍的になったということだ。
 二昔ほど前までは雪国などでは、殆ど活動を停止し、季語にもなっている「雪囲」、「北窓塞ぐ」などの「冬構え」をして、人々は家の中に引き籠った。これが雪国の人々にとっては宿命的なライフスタイルだった。
 ただし、冬籠もりとは、もともとは動植物が冬の間その活動を停止することを言ったそうだ。それが、人の営みについて言われるようになって、消極的、内省的、隠遁的という情緒を伴う季語となったそうだ。
 寺田寅彦に

   人間の海鼠となりて冬籠り

という句がある。寅彦は言うまでもなく、物理学者、随筆家であり、第五高等学校在学中に漱石に英語と俳句を学び、句作に熱中したことがあった。この句は、人間の様子を海鼠(なまこ)に喩えているだけなのだが、次第に動きが鈍くなっていく、その有り様はいかにも海鼠である。おそらくは寅彦の自嘲の句であろう。
 このところの僕も海鼠みたいに動こうとしない。自嘲しなければと思うのだが、思うだけで行動が伴わない。行動を伴わない自嘲は生産的ではない。そんなことは分かっているのだが、分かっていて動こうとしないのが、冬籠もりというものであろう。しかし、雪国ではないのだから、海鼠を続けている訳にもいくまい。

森への畏怖

2014年12月27日 | Weblog

 僕らの教わった知識では、自然は合理的な体系をなすものである。この点に自然科学の発展も起因する。
 ところが、僕の幼少時の体験からすると、森は合理的な因果関係だけで説明されないのではないかと素朴に思う。
 もしかすると、森の木々も草も苔も水も彼らの流儀で、生真面目に、あるいはランダムに生きているのかも知れない。
 森は様々な生命が交流する小宇宙だ。その様々な生命のあり方、言い換えると、生きている事の意味については、たとえ遺伝子の構造などが分かっても、分からないのではないか。そうだとすると、生命の社交場としての森について僕らは全く知らない面があるのではないか。合理的な思考では人間の生の意味が分からないのと同じように、生きている森の事も分からないのではないか。
 そうだとすると、僕らは森への一種の畏怖を持ち続けなければならないと思う。何故なら、決して理解できない生命の社交場としての森を、一時の人間の思いつきで、大きく変え台無しにしてしまうかもしれないから。熱帯林がその例である。
 幼少時の僕が味わったのは、社交場で遊ぶ楽しさと夕闇迫る森への畏怖だった。先入観かもしれないが、近世以降の人々が失いかけたのは、この怖れ、畏れの感覚かもしれない。この感覚を忘れかけた時、森を合理的にとらえ、合理的に利用しようとする時代が始まった。
 このように言って林業を批判しているのではない。ただ、少し懸念される事は、人工林の役目が規格品を大量に得る事であるからには、おそらく人工林は森の本来の生命力を低下させているのではないか、という事である。かといって、人工林の生産を止める訳にはいかない。難しい問題だと思う。難しく考えることもないのかも知れない。人工林は、森の生と人間の生との相互補完関係を保証するものだと考えられるのかも知れない。
 このように考えたとしても、森の生命への畏怖を忘れてはならないと思う。こう思う事が大袈裟にに言うと、本当の生き易い文化への道なのではないだろうか。

近代化ゆえの窮乏( 改稿再掲 )

2014年12月26日 | Weblog

 柳田国男の民俗学への発心の一つは、日本の近代化への批判的な視点にあると思う。
 農政学を専攻し農政家となった点にも、そこから転じて民俗学を興した点にも、そういう視点が貫かれている。近代化は人々の暮らしに不幸感を蓄積しつつあるという視点。『遠野物語』などの民族学研究にも、このような視点が色濃い。
 その不幸感の源は近代化ゆえに発生してきた窮乏にあった。柳田曰く「昔の貧乏と云えば放蕩その他自ら招いた貧乏か、又は自分の家に現はれて来た一時の大なる災害不幸の結果で稀に起こることでありましたが、現代では此外に真面目に働きつつ尚少しづつ足りないと云う一種の不幸が現はれて来ました」。
 こう述べて柳田は、「是は金銭経済時代の特色で」、「今日の貧乏は自覚しつつ防ぐに術の無い苦しい窮乏」と断定している(『時代ト農政』1901年)。
 100年以上前の警告ではあるが、現代の所謂ワーキングプアを予想していた感がある。「防ぐに術の無い苦しい窮乏」の時代が繰り返すということか。近代化、就中、工業化という事を考え直す時代も繰り返す方が良いと思う。
 自然界に根ざす第一次産業への立脚を重視すべきだと思う。

上手( じょうて )と下手( げて )

2014年12月25日 | Weblog

 焼き物の本を読んでいたら、上手(じょうて)と下手(げて)という言葉に出会った。普通の読み方ではない。いつの頃からか焼き物好きが言い出した読み方であろう。
 僕は焼き物が好きだ。何故好きかと問われても答えはない。焼き物についての本も読む。本に概略次のような戒めが載っていた。
 勿論、誰も好んで下手のものを買う人はいない。皆、その時はその品に魅力を感じ、懐具合と相談しながら、買う訳だから、それはそれでいい事だ。問題はその後六ヶ月、一年とその品を座辺に見続けて飽きがくるかどうかだ。研究、経験が進み美意識が昇華すれば下手のものには必ず飽きが来る筈だ。およそ、この世界でビギナーがいきなり下手から上手へジャンプする事は至難の事で、根本的に己の美感覚を研鑚する事が肝要だ。研鑚には次の三項目を目安とすべし。
 1、上手のものを扱う筋のよい店とつき合う。
 2、掘り出し根性は捨てる。
 3、よき先輩の忠告を虚心に聞く。
 この三項目は、焼き物鑑賞に限らず、他の分野でも言える事ではないかと思う。僕などは掘り出し根性丸出しで、外国の文献を漁り変てこな考えに肯き、後になって後悔した事も一度ならずある。「よき先輩の忠告を虚心に聞く。」この「虚心」という事が難物で、我欲が出てくる。よき先輩は幾らも居るのに、忠告を聞かず、我欲が出てくると上手のものにも出会わない。何事かに精通するという事は困難を極める事ではあるが、さりとて下手の領域に甘んじるのも気持ちが許さない。困った事だ。上手と下手の間ぐらいに居所を見つけねば。

2014年12月24日 | Weblog

 魚扁に雪と書いて鱈(たら)。文字通り雪の降る冬が最も美味で、魚食民族日本人が昔から好んできた魚の一つ。
 鱈には何種類もあるそうだが、食材として大量消費されるのはマダラとスケトウダラ。マダラは体長1メートルもある巨漢で、水深150~200メートルの岩礁などに棲んでいる。東北以北の北洋、北の日本海、アラスカ、北アメリカに分布。繁殖期が12月末から2月ごろまでで、産卵のため浅い海に群遊してくるころが漁期。味も旬。マダラに比べて細身のスケトウダラは、太平洋には少ないが、日本海では山口県以北、北洋、ベーリング海、北アメリカに多く分布。各国の二百カイリ経済水域決定後、双方の鱈とも漁獲高が減り、高価な魚になってしまった。
 日本人の鱈の食べ方には全く驚かされるとは、食の博士・小泉武夫氏の言。身はもちろん、皮も内臓も卵も、一匹全体の殆どを食べてしまう。肝臓は脂肪、タンパク質、ビタミン類に富み、白子には特殊なタンパク質や強壮源が多く含まれることから、肉以上に内臓を大切にする地方もある。
 胃袋、頭、骨、皮はアラ汁に、卵は煮付けにと、日本人はこの魚の持つ調理上の特性をよく知りぬいて、驚くほど多くの料理法で食べ切ってしまう。鱈ちり、寄せ鍋、吸い物などに向くのは、豆腐や昆布との味の調和が良いからである。
 また、白身で淡白な鱈は酒粕とも調和し、食通によると「鱈の粕漬けは鯛の粕漬けに勝る」のだそうだ。身をほぐして「そぼろ」や「でんぶ」も鱈の食べ方である。
 マダラの卵巣は、生鮮のまま「本タラコ」として市販され、煮付けや佃煮にして重宝される。スケトウダラの卵巣は塩漬けされ、赤く着色して「タラコ」として広く食用されている。これに唐辛子を添加した「明太子」も人気が高い。
 スケトウダラのすり身は、蒲鉾などの練り製品に欠かすことが出来ない。しかし最近は例の二百カイリで漁獲量が激減しているそうだ。明太子の高いこと、高いこと。

歩行者の交通事故死、6割が自宅500m以内

2014年12月22日 | Weblog

(新聞より)
 通り慣れた道こそ注意を。今年の香川県内の交通事故死者で最も多く犠牲となっている歩行者のうち、約6割が自宅から約500メートル以内の場所で事故に遭い、全員が高齢者だったことが県警のまとめで分かった。今年の事故死者数は48人(19日現在)で、前年同期と比べ5人少ない。60年ぶりの低水準だった昨年をさらに下回る可能性があり、達成に向けては「高齢歩行者対策」が鍵となりそうだ。
 県警交通企画課によると、今年の事故死者数48人のうち、歩行者は18人を占め、自動車16人や自転車8人などを上回って最多。
 18人のうち、自宅から500メートル以内で事故に遭ったのは11人で、11人全員が65歳以上の高齢者。11、12月に発生した4件の死亡事故も、全て「自宅近くで歩行中の高齢者」が犠牲となっている。
 この傾向は今年だけに限らない。2009~13年の歩行中の事故死者120人の中で、自宅から500メートル以内は71人に上り、うち9割強が高齢者だ。
 自転車乗車中の事故犠牲者も同じ傾向がみられ、同課は事故原因として、ドライバーの注意不足はもちろん、家の近くということからくる歩行者の気の緩みや安心感などを挙げる。
 この時季は日没時間が早まり、死亡事故が急増する危険性が高い。県警は「自宅近くだからといって安心せず、家を出た時から周囲の車に気を付けてほしい」と呼び掛けている。

(香川県に限ったことではないだろう。)

雪の結晶(再掲)

2014年12月21日 | Weblog

 僕んちの地方では年々降雪の機会が少なくなっているような気がする。地球温暖化も手伝っているのだろう。
 ところで、雪の結晶が六角形をしていることはよく知られている。昔、ジャジャウマやクモガクレの為に買った子供向けの『科学のアルバム』をめくっていたら、相当高度なことが書いてあった。
 2千年以上前の中国で、雪の結晶は六角形だと知られていたそうな。ヨーロッパでは13世紀ごろに、星型だと書かれていたそうな。17世紀にはケプラーが六角形であることに気づいていたそうな。日本では江戸時代に下総の国古河(今の茨城県古河市)の土井利位という殿様が、顕微鏡で見たスケッチ『雪華図説』という本を残しているそうな。
 雪の結晶の科学的な研究が本格的に始められたのは、中谷宇吉郎によってである。人工的に雪の結晶をつくる実験によって、自然の雪の結晶と同じ形のものをつくることに成功した。それだけではなく、決まった温度や湿度の時には、決まった形の結晶が出来ることを明らかにした。そこで、雪の結晶の形を調べれば、その結晶が出来た上空の気象も分かるというわけだ。このことを宇吉郎先生は「雪は天から送られた手紙」と呼んだ。しかし、実際に地上で観察される雪の結晶は、落ちてくるまでの間に風に流されてくるから、その結晶の形が、即座に上空の気象を表しているとは言えない。天からの手紙は、旅をしながら落ちてくる間に書き綴られたものだと言える。
 ところで、僕が思うに、なぜ六角形なのか?ということだ。この問いにはまだ答えが出ていないのではないか?結晶構造の多くが六角形をしているのは何故だろう。僕に分かるはずがないが、専門家が究明すれば、ひょっとしたらミクロの世界の謎が一つ解けるかもしれない。

憲法の「憲」

2014年12月20日 | Weblog

 憲法改定の是非を問うための国民投票法の改定が取り沙汰され、一部で憲法を巡る論議が盛んになっている。そもそも「憲」ってどういう意味なのか。
 憲法といえば、歴史的には聖徳太子の十七条憲法(604年)がよく知られているが、これは官吏らへの道徳的訓戒という意味が強く、近代憲法とは性格を異にしている。
 明治時代の法律家・穂積陳重(のぶしげ)の『続法窓夜話』によると、国家の組織や統治の原則を定めた根本法という意味で憲法という言葉が使われたのは、明治の初めからだそうだ。法学者の箕作麟祥(みつくり りんしょう)が‘constitution’の訳語として憲法を当てたのが最初とされる。当時は、ほかに「国憲」、「律例」、「根本律法」、「建国法」など、様々な訳語があふれていたようだ。
 数多い訳語の中で憲法が定着したのは、やはり十七条憲法の存在の影響だと推測される。
 『字通』(白川静)によると、「憲」は、目の上に入れ墨をした様子を表した字だそうだ。古代中国では、刑罰として顔に入れ墨をさせられた。それが変じて「おきて」を意味するようになったとのこと。最高法規にふさわしい厳しさをもった字と言える。

 ところで、最高法規の憲法を今、なぜ変えようとしているのか? 次代をになう小学生や中学生や高校生にも明瞭に分かるように説明する義務がエライ人にはあると思う。なにしろ「最高」を変えようとしているのだから。

若気の至り・・・

2014年12月19日 | Weblog

 二十歳代後半、僕はとんでもない問題に挑戦しかけた。
「任意の空間を合同な多面体で出来る限り隙間なく埋めるのは、どんな多面体か?」という数学の問題である。
 これは、数学者ヒルベルトが1900年に提唱した「未解決の問題23」の18番目の問題である。
 基本的には整数論と群論を駆使すれば解決できると参考書に載っていたので、教科書を買って、一から勉強した。
 若気の至りも過ぎたるは及ばざるが如しを地で行ったと言える。
 もう殆ど忘れたが群論のテクストは読み進めば進むほど理解できない。
 六角形の多面体であることが予想されていたので、それに近づくように懸命に理解を進めたつもりだが、一ヶ月も続いたであろうか、力尽きた。
 二つのテクストは今は戸外のロッカーの中で眠っている。
 蜂の巣がよく出来ていて、蜂の種類にもよるがアシナガ蜂の巣などは、その個々の巣穴が六角形をしている。ただし、隣接する個々の六角形の隙間は六角形ではない。六角形の巣穴をどんどん小さくしていけば(蜂にはわるいが)、隙間はどんどん小さな円に近づくだろう。
 その頃再読した中谷宇吉郎の「雪」についてのエッセイに、雪の結晶が六角形をしているものが圧倒的に多いと書いてあった。ミクロの結晶構造は六角形から成るのかもしれない。
 因みに、ヒルベルトのこの問題は未解決である。

『老人と海』――老いの一つの姿(再掲)

2014年12月18日 | Weblog

 かつて読んだことのあるヘミングウェィ『老人と海』を思い出して、老いについて考えた。
 主人公の孤独がまず挙げられる。仮に家族や友人がいても、孤独を深めざるを得ないのが老境というものであろう。家族も身寄りもない主人公の設定は老人の孤独を際立たせている。
 しかもこの主人公の老人は不運にとりつかれ、漁に出てもさっぱり獲物にありつけない。
 飲み屋に出かけても、からかわれるだけである。
 だが、この老人はレッキとした現役の漁師だ。不運続きで、あるいは腕も鈍りかけているにも拘わらず、敢然と毎日の出漁をやめない。これは少しカッコよすぎる老年像かもしれないが、彼の負けん気の強さは、老いの一つの姿だと思う。
 しかし、老人は結局は敗れる。大マカジキとの3日間にわたる力闘、苦闘の末、相手をしとめたものの、鮫の群れに獲物を散々食い荒らされてしまう。
 老人は所詮敗れ去るものなのだ。
 だが、敗れ去った後、老人は不思議な安堵感を覚える。
 『老人と海』の老人は、孤独の中に居ながらも、死力を尽くし敗れた後、安らかに苦闘を回顧する。
 おそらく、ヘミングウェィ自身を主人公に重ねているのだと思う。
 孤独と負けん気の強さと、若者には分からない不思議な安堵感とが、老いの一つの姿なのかもしれない。僕にはまだ実感できないが。それに、この不思議な安堵感は、肉体労働をやり終えてこそ初めて得られるものではないか、とも思う。

ナンテン(再掲)

2014年12月17日 | Weblog

 冬の花や実は赤いものが多いような気がする。アオキの実、ナンテンの実など、椿や山茶花の花など。何故か分からないが、そんな気がする。
 子供の頃育った家の手洗いのすぐ近くにナンテンが植わっていた。真っ赤な実がまぶしかった。ものの本によると、手洗いは不浄の場所で魔が憑きやすく、そこで、難を転ずる縁起物、不浄除けのナンテンを魔除けとして手洗いの近くに植える習慣があった。
 ナンテンはドメスティンなどのアルカロイドを含み、薬用植物として用いられる。実や樹皮を煎じて飲めば、腎臓病や中風、腹痛に効く。乾燥させた実は南天実といい、喘息や百日咳の咳止めの漢方薬だそうだ。祝儀用の赤飯にナンテンの葉をのせるのは、縁起物の意味だけではなく、食毒を解し、食物の味を損なわないためだと伝えられている。
 薬効と魔除け、二つの意味がからみ合い、ナンテンは長きにわたって庭の片隅に植えられ続けた。さらにこの風習は、餌を求めて飛び回る冬の小鳥たちの胃袋も満足させるに違いない。
 冬の花や実は赤いものが多いような気がする。真冬を経て春に近づくにつれて赤がうすくなり、桃色になり、さらに辛夷などの白色になると早春となる。どうもそんな気がする。

命ある落ち葉

2014年12月16日 | Weblog


 夏の間、太陽の光を吸い、活発に働き続けてきた落葉樹の葉は、秋風に散って土を覆う。
 土を覆う落ち葉は、土壌内の生物との合作で肥料になり、その肥料はまた根から吸収される。自然界の循環作用である。
 一説に、原生林の林床を踏む場合、両足の靴底の面積を約400平方センチだとすると、両足で8万匹もの生きものを踏みつけていることになるそうだ。
 森の土には、土壌ダニなどの小さな生物がそれだけ沢山いるということだ。それらの生物が木の葉を食べ、肥料を生産する有り様はまさに精密工場なみだと言わなければならない。
 都市部ではアスファルトやなけなしの土の上に散った落ち葉もすぐに掻き集められ、捨てられる。木の葉という栄養分の補給がないから土壌内の微生物も死に絶える。都市部の土は死んだ土になりつつある。
 命のこもっている木の葉の恵が忘れられつつある。忘れずに、木の葉と微生物の合作活動を想像することがあっても良いのではないだろうか。

草履もしくは草鞋

2014年12月14日 | Weblog

 僕は小学1、2年生の頃、4キロ近い道のりを祖母が夜なべで編んでくれた草履で通学した。が、冬も草履であったかどうか。冷え込む中、草履ではなかっただろう。では、何を履いて通学したのか、憶えがない。足袋に草履ではなかったと思うが。
 草履(ぞうり、わらじ)と言えば芭蕉に

  年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

という句がある。『野ざらし紀行』の一句。芭蕉は貞享元年八月、江戸を発って伊賀へ帰郷の旅に出た。九月八日帰郷。その後、大和、吉野、山城と廻って名古屋、熱田で十二月末まで滞在し、正月は故郷で迎えた。そして、二月には奈良で東大寺二月堂のお水取りを見て、京都、近江から東海道を下って四月に江戸に戻った。あしかけ九ヶ月の長旅で、のちに紀行にまとめたのが『野ざらし紀行』である。芭蕉、四十一歳から二歳にかけての旅だった。
 この句は「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前書きがあって、名古屋から伊賀への旅の途中の句。漂白のうちに年が暮れてゆく。その漂白の旅のなかの自分の姿をありのまま描いた句。旅を続けること半年余り、笠をきて草履のままの姿で、年が暮れてしまうのかという感懐が一句になった。旅の寂しさとともに、故郷へ向かっての旅という気安さもあったのだろう。芭蕉の句にしては、何となく安らかな思いが感じられる句である。

 現代は草履の時代ではない。小学校からの下校途中、雨で濡れると草履が縮み、足の指に食い込んでくる。痛かった。裸足で帰った。そんな記憶が蘇えってくる師走の日である。