自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

森は海の恋人

2010年02月28日 | Weblog
 魚つき林という言葉が注目されているそうだ。海岸部に存在する森林ばかりでなく、生態系としての森と海のつながりという観点から森林の機能が再認識され、河川上流部の森林も広い意味で魚つき林と言われている。宮城県の「牡蠣の森を慕う会」の活動(漁民を中心とした人々が河川の上流域に植林をする活動)など、森と海のつながりを取り戻そうとする運動が、「森は海の恋人」を合言葉に各地で展開されている。
 海の生態系に好影響をもたらす森林の機能としては、(1)土砂の流出を防止して、河川水の汚濁化を防ぐ、(2)清澄な淡水を供給する、(3)栄養物質、餌料を河川・海洋の生物に提供する、等があると考えられている。
 僕はだいぶん前に本欄で「サクラエビ」と題して報告したことがある。
 静岡県の富士川河川敷には、毎年春になると、富士山を背景にピンクの絨毯が広がる。駿河湾で漁獲されたサクラエビを天日干しにしているのだ。写真で見るだけなのだが、見事だという他はない。
 体長4、5センチの海老で、干したものがせんべいやかき揚げなど様々な加工品に利用されるほか、生食もされる。カルシウムやリンを他の海老より比較にならないほど多く含む栄養価の高い海老である。
 このサクラエビが、昭和初期に激減して、環境問題に発展したことがある。生態が分かっておらず、対策の手立てがなかった。困った漁民たちは生物学者中沢毅一に支援を求めた。中沢は私財をなげうって「駿河湾水産生物研究所」を創立し、研究を開始した。
 中沢は、富士川河口の沖にサクラエビの産卵場があると考え、生まれた子エビの成長には、河川から流れてきた有機物が直接かかわり、狭い海域で大量のエビが成長できるのは、殻を形成するカルシウムを笛吹川とその流域の森林の石灰岩盤が供給していると考えた。
 中沢の研究成果は地元ぐるみの実践運動につながった。まず、貴重種サクラエビを天然記念物に指定するための意見書を作成し、同時に富士川の環境保全運動にも尽力した。また。当時設立された製紙工場が大井川に廃水を垂れ流していたが、中沢は漁民と共に排水停止の交渉にもあたった。中沢らの運動は、環境保全運動の先駆けとしても記憶されるに至った。
 まさに「森は海の恋人」「魚つき林」を実践した先駆けだと言ってよい。海と森林は生態系として繋がっているのだ。

モノ作りまち興し ④

2010年02月27日 | Weblog
  ▲地域に深い愛情を注ぐ人々
 活性化している地域には「地域に深い愛情」を傾け、活動している人々が居る。川井村の産業開発公社には、事務局長の藤田清氏(52年生まれ)が居た。川井村生まれの藤田氏は、高校卒業後大手の企業で工場・倉庫・市場調査・営業など、様々な分野を経験した。父が倒れ、Uターンした。
 今後の課題は何かという質問に、藤田氏は「特産品の多様化を図りたい」と答えた。
 これまで、中山間地域の産業興しの場合、三点セットと言われるものがあった。「味噌」「醤油」「漬物」とされている。中山間地域には材料があり、容易に製品化することができた。だが、意外に成功したケースは少ない。その最大の問題は、近年の材料供給不足、販路が狭い、本物志向にこだわり過ぎると消費者の口に合わない、という理由が指摘されている。
 川井村と藤田氏は、このような課題に実にうまく対応している。消費者の好みに機敏に対応し、製品を連鎖的に完成させ市場を確保するまでは委託生産に出し、その後、自社工場での生産につなげる、などは見事な手腕である。さらに、材料確保のために、休耕田に栽培を依頼し、農家所得を増加させ、産直施設を作り、女性や高齢者が希望をもつに至る。公社の従業者も若者から年配者まで、キビキビと働いている。地域の資源(人的資源も含む)を大切に、それに愛情を重ね、新たな可能性に向かおうとしている。(おわり)
 

 (人口減少と高齢化に悩む過疎地の進むべき一つの姿を川井村に見ることができると思う。現在、日本は、特に人口の少ない地域は経済苦境に陥っている。これを克服するには、川井村のような計画的な取り組みを起点にして、各地の独自性を加味した、モノ作りまち興しが必要だと思う。たまたま読んだ岩手県川井村の実例から、日本の将来をちょっと考えてみた。
 個人情報保護委員会の委員として僕が少し関係している市も現在、早期健全化団体に陥っている。心配である。)

モノ作りまち興し ③

2010年02月26日 | Weblog
  ▲川井村最大の産業に
 農山村の地域産業興しの場合、お土産品レベルから飛躍できず、次第に希望を失うことが少なくない。だが、川井村産業公社の場合、地元での直売に加え、生協・量販店、県外の漬物業者などとの取引を実現、事業基盤を強固なものにし、現在では直売以外の部分が90%を超えるほどに成長した。また、新商品を開発すると、まず外部に委託生産に出し、数年の経験を踏まえてから自社工場建設に踏み切るなど、「市場の確保から自社生産」という流れを無理なく実現している。
 その結果、公社の施設展開としては、レストラン・売店・休憩施設などから構成される「道の駅」、ジュース・塩蔵加工施設、キムチ加工施設の「特産品加工施設」、さらには、(後述する)レストランと直売施設「やまびこ産直館」の、大きく三つの施設を保有している。公社の事業は、従業員63人、2000年度売上高約5.9億円と村最大のものとなった。以降もこの水準を維持している。
 
  ▲直売施設「やまびこ産直館」の展開
 中山間地域では、特産物生産・直売店経営など、地域産業振興のための試行錯誤を重ねている。そのような一連の活動の中で、農協のルートに乗りにくい小口の野菜や不定期の山菜などの産直活動も大きな課題になっていく。この産直部分の運営は99年に設立された「川井村やまびこ産直組合」が行っている。
 産直組合の構成員の募集は、村の生活改善グループの女性の呼びかけで加入を促した。現在の加入者は三グループ(郷土食担当グループ三団体、30人)と個人加入98人である。加入者は農協ルートに乗らない小口の野菜・山菜などを出荷している。売上の15%は組合が天引きし、施設管理・謝金などに充当している。
 99年1月にスタートし、1年間で売上が6000万円に達するという予想以上の成果を獲得した。そのため、参加している農家の意欲は高まり、2000年度には9000万円を売り上げた。そこで、組合としては、一農家100万円を目標に掲げ「毎日出荷する」を推進している。この産直の試みは極めて効果的にはたらいた。現在、出荷している人は、女性・高齢者が多く、産直が生きがいになっている。村としては、生涯現役の農業者の育成を目指し、「休耕にして眠っている畑が耕され、山間地域の活性化の芽がすくすくと伸び始めている」と評価している。(続く)

モノ作りまち興し ②

2010年02月25日 | Weblog
  ▲川井村産業開発公社の展開
 昨日略記したような基本的な構図において、地域活性化の拠点として、86年、川井村産業開発公社が設立された。
 当時、岩手県の前沢牛などの黒毛和牛が注目されていた。北上山中には「短角牛」という特産の和牛が飼育されており、川井村も農家に増産を指導していく。だが、91年頃から牛肉の輸入自由化が段階的に施行されていったため、公社は牛肉に替わるものを模索した。その頃、川井村の「生活改善グループ」が健康飲料として、盛んに村民に「紫蘇ジュース」を奨励していた。これに着目した公社は、地元農家に、米の減反された土地に紫蘇栽培を要請していく。
 だが、栽培の拡大により、紫蘇が生産過剰になっていく。こうした事態に対し、公社は積極的に営業活動を展開、岐阜県の漬物屋の梅漬け用の紫蘇の受注に成功する。
 その後、紫蘇ジュースが定着し始めた頃、「黒豆ジュース」を知り、黒豆ジュースの開発にかかり、合わせて、現在では、この二つのジュースは健康飲料として生協・量販店ルートで一定の事業として成立している。
 また、80年代後半に、東京目黒の雅叙園が改築されたが、雅叙園にに保存されていた国宝級の漆器・螺鈿の修復が必要となり、韓国の全龍園氏が中心となり、廃校となっていた箱石小学校で修復作業が行われた。修復作業には韓国から職人が十数人来日、家族を含めると数十人が4~5年滞在した。川井村には高原野菜の大根・白菜・きゅうりがあり、韓国人の夫人たちはキムチ作りにいそしんだ。こうして人々と村民たちは次第に交流を重ね、全氏の夫人の指導の下「本場キムチ」を定着させていく。このキムチは「友情キムチ」のブランドで一定の評価を受けている。(続く)

(今日はちょっと遠出してきます。)

モノ作りまち興し ①

2010年02月24日 | Weblog
 今日から数回連載します。とは言うものの『書斎の窓』(有斐閣)からの孫引きです。「岩手県川井村――連鎖的な特産物開発と市場展開」(関 満博)より。

 岩手県中央部を南北に走る北上山地の中心部に位置する川井村は総面積約564平方キロ。面積では全国第四位。急峻な山間地域で、土地利用も難しい。JR山田線か高速バスを利用しても、盛岡へは一時間二十分、宮古へは四十分かかる。
 1955年には人口は1万人を超えていたが、木材産業の衰退で激減、2000年には3761人。最近も人口減少が続いており、中山間地域の一つの典型である。

  ▲林業の衰退と公共投資への依存
 人口の急減には基幹産業である木材産業の衰微の影響が強い。この間、高齢者比率(65歳以上人口比率)の増加も著しく、60年の5.3%から80年には高齢者社会と言われる14%、2000年には29.2%と岩手県第一位。
 広大な面積の森林を抱えながら、98年の第一次産業の比率は7.5%。しかも、22.3%の85年に比べ、この13年間で生産額は半分以下に低下。日本の森林は産業の対象というより国土保全などで議論される対象に変化した。
 この間、建設業が劇的に増加した。85年には生産額9.5億円、98年には20億円と二倍強にふくらみ、村内最大の産業に成長した。(続く)

想像について

2010年02月23日 | Weblog
 想像には三種類あるように思う。
 一つは再生的想像。これは過去の体験を思い出す想像で、連想と言ってもよく、経験の支配下にある。もう一つは産出的想像。これは過去の体験をもとにする場合もあれば、そうでない場合もある。前者の場合の産出的想像は過去の体験に導かれて何らかの新しい事柄を連想する。後者の場合の産出的想像は過去の体験に縛られないで、且つ人間の内面の深みから何らかの新しい事柄を想像の上で産出する。秀でた芸術家や科学者にインスピレーションとなって生じるような産出的想像である。もう一つの想像は単に空想と呼ばれる想像で、これは誰にでも備わっているが、発揮できるか否かは人による。この第三の想像が昂じると幻想という熱を帯びた想像になる。
 熱を帯びない空想を無為の空想と言うことにする。決して自画自賛する訳でもなく、お勧めする訳でもないが、僕はこの無為の空想をよくする者である。目的がないから熱を帯びることもなく、かといって睡魔に襲われることもなく、ただ何となく空想に浸る。無為だと意識することもない。こういう人も居るであろうか。居ると思う。居るから、抽象画のような、鑑賞者におもねる事が無く、目的意識の無い文化が生まれてきたのだと思う。こういう思いを手前味噌という。手前味噌であって、僕の空想が文化を造るとは断じて思わない。ただ、無為の空想に浸るという事はただ単にいい事だと思う。

激減する介護職員

2010年02月22日 | Weblog
(新聞より抜粋)
 介護の現場の人手不足は深刻さを増す一方だ。現在100万人あまりが働いているが、毎年20%が辞めていく。景気が回復しつつある都市部が特にひどい。介護保険が始まった2000年以来、増え続けてきた訪問介護の事業所も、人が集まらないのと経営難で、去年12月ごろから減少に転じている。
 介護職員の平均月収は20万円あまり。重労働なのに、他の仕事より10万円以上低い。介護保険制度研究会の調査では「賃金が低い」が退職理由の1位で、他を大きく引き離している。身分も不安定で半数近くが非正規社員だ。多くがワーキングプアのような状態に置かれて、将来の夢が描けない。
 介護職員の人件費を含め、介護サービスにかかる費用は政府が決める介護報酬でまかなわれている。
 介護保険の利用者が年々ふえ、介護報酬の総額がふくらみ続ける。それを抑えようと、厚労省は2度にわたって介護報酬を引き下げた。賃金が低いのは、それが原因の一つだ。財政面にばかり気を取られているうちに、担い手が次々に逃げ出している。
 現在410万人あまりいる要介護認定者が10年後には600万人を超える。少なくともあと50万人の介護職員が必要だ。このままでは、せっかくの介護保険制度が人材面から崩壊しかねない。
 問題は財源だ。介護報酬は、9割を保険料と税金から支出し、1割を利用者が負担する。保険料も自己負担も限界に近いので、ここは税金からの支出を考えざるをえない。そのために、予算配分を見直す必要がある。
 世界で例のないスピードで高齢化が進む。限られた予算をこれまでと同じ配分でダムや河川や道路などに使うのか、介護や医療、教育へ大胆に移すのか。政権が替わり後者の方へ向かいつつあるようだが、国民も選択を迫られている。

(僕が思うに、福祉は文化だ、という考えが市町村で行き渡ることが必須ではないか。)

骨肉腫を越えて

2010年02月21日 | Weblog
(新聞より)
 「骨肉腫のサキ」。そうカミングアウトしたら、すっと気持ちが軽くなった。
 今利紗紀(いまり さき)さん(26)。一度は冬季五輪を目指したスキー選手だった。6年前、中京大体育学部2年のとき、左ひざに骨肉腫が見つかった。切断か人工関節か。切断すれば、義足でアスリートに復帰できる望みはある。一方、人工関節だと「運動できるようになった前例はない」。主治医に宣言された。
 迷った末、周囲の勧めで人工関節をひざに埋め込む手術を受けた。退院して自転車に乗ってみた。片足でしかこげなかったが、風を感じた。「運動できるじゃん!」。
 左ひざの再発。両肺への転移が見つかった。計4回の手術、リハビリを乗り越えた。ダンスとロッククライミングを始め、前例がないと言われたスキーも再開。体育の教員免許を取って2年前に卒業した。
 まだ再発の不安は消えない。3ヶ月に1度の検査結果が出る前は眠れない夜もある。
 昨夏、冒険家風間深志さんのチームに加わった。体にハンディがある仲間4人でオーストラリアを電動アシスト付き自転車で縦断した。
 21日(今日)から、風間さんが企画した「障がい者100人による日本縦断駅伝」に参加する。那覇から札幌までの約2300キロを自転車や車いすでリレー。計30日間の全行程を自転車で伴走する。「前例がないなら、わたしがつくる」。
 サキはアスリートに戻った。


(僕はこういう話に弱い。サキちゃん、応援してるよ。
今日はちょっと遠出してきます。)

猫騙し?

2010年02月20日 | Weblog
 新聞に次のような広告文が載っていた。
 「携帯電話の電波のように、放射線は目で見ることはできませんが、測定器を使うとわずかな量でも測ることができます。原子力発電所の周辺では、こうした放射線の測定を電力会社と自治体とがそれぞれ24時間休みなく行い、データを公開しています。・・・その測定結果をみると、発電所からの放射線は1年間で、胸のX線検診1回で受ける量の50分の1以下となっています。」(日本原子力文化振興財団)
 1年間で、レントゲン検診1回の50分の1。本当だろうか?そんなに原発は厳重に管理されているのだろうか。されているとしたら、なぜ毎年のように放射線漏れ(たとえ少量でも)事故が生じるのだろうか。広告文が「携帯電話の電波のように」で始まっているのが気にくわない。故意に日常の常態を装って、原発も携帯電話と同様ですよ、と言いたいのだろうが、こういう言い方を猫騙しという。新潟・柏崎の事故の後始末もまだ為されていない。「もんじゅ」を再運転するという。大丈夫だろうか?
 猫騙しをした後でさえ、事故が起きないことを願う。いっそうのこと、脱原発に方針転換したらどうだろう。
 中国・四川省の大地震の原発施設への影響はどうなっているのだろう。

お茶の効能 (再掲)

2010年02月19日 | Weblog
 14年近く前に(一過性の?)病を得てからできるだけ水分を摂るようにと言われ、そのように心がけている。近頃は色々なお茶が出回り、外出時に試飲している。お茶博士を自認する人からお茶の効能についての蘊蓄を聴いた。
 1.美容=ビタミンAと同じ働きをするカロチンとビタミンCが含まれ、カロチンは皮膚や粘膜の細胞の健康維持に役立ち、ビタミンCはメラニン色素の沈着を防ぐ。
 2.老化防止=老化物質の活性酸素の生成を抑えるカテキンが含まれ、ビタミンとの相乗効果で、その作用が高まる。更にアミノ酸の一種テア二ンはアルツハイマー型のボケを抑制する。 
 3.疲労回復とストレス解消=カフェインには疲労回復のほか、強心作用、利尿作用などがあり、またお茶を楽しむ事により気分に潤いをもたらす。
 4.整腸作用=カテキンには腸内のビフィズス菌の増殖を助ける効果がある。
 5.ガンの予防=カテキンには発ガン抑制効果がある。最近の研究では転移を抑える効果もある。
 6.コレステロール値を下げる=カテキンには悪玉コレステロールだけを減少させる効果がある。
 7.血糖値の上昇を抑える=カテキンには血液中の糖濃度を低下させる効果がある。
 その他、風邪の予防など諸々。僕の場合は特には血流をよくする為にお茶をよく飲むことにしている。皆様もお茶をどうぞ。

「今はアフガン」

2010年02月18日 | Weblog
(新聞より)
 世界の紛争地で看護に当たってきた。アフガニスタン南部カンダハルにある地域唯一の国立病院が、昨年9月からの職場だ。海外派遣10回目になる。反政府組織タリバーンの勢力が強く、中心街でも時折、銃声が聞こえる。栄養失調や感染症のほか、テロの負傷者が担ぎ込まれ、365ある病床に空きがない。
 伊藤明子さん(51)。地元の名古屋から現地に飛び、看護部長として看護師に消毒の仕方を一から教えた。「薬をいっぱいくれるのが良い医師だ」と思い込んでいる患者には食事の大切さを説き、現地の言葉でダジャレを飛ばす。「笑いは免疫力を高めるんですよ」。
 コミュニケーション能力を買われ、1月下旬、日本人の看護師としては初めて、赤十字国際委員会(ICRC)の現場責任者になった。11カ国から集まったスタッフ17人を束ね、手狭になった病院の改築予算や医師・看護師の配置を検討し、勤務評価も任された。
 初の海外派遣は22年前。故郷の島根県からベトナム難民の救援へ。以来、東ティモールや同時多発テロ後のアフガン、インドネシア・スマトラ沖地震の現場に入った。
 今年初め、一人の幼児が退院した。入院時は骨が浮くほどやせ、泣く元気もなかった子が笑って。「あの笑いに癒される。どこで見た笑顔も忘れられないんです」。今回の任期は5月まで。少しでも多くの笑顔に会うため、1月の一時帰国もそこそこに、アフガンに戻った。


(笑顔のステキな肝っ玉看護師さん。心底から立派だと脱帽。今日はちょっと遠出してきます。)

魯迅もしくは事実について

2010年02月17日 | Weblog
 チベットのラサで反中国の動きが表面化して2年になる。中国政府は事実を「事実」として認めた上で、政府に好都合な報道をしているようだ。日本に核を持ち込ませないという米国との条約にも裏の事実があることが判明した。判明するまでは、政府はそういう「事実」はないと断言していた。
 事実とは何か?ひとたび事が起こると、如何に情報が錯綜したものになり、事実が捏造されることか。魯迅は1933年(昭和8年)に発表した『事実の尊重』のなかで書いている。「事実はつねに字ずらのようにきれいではない。」ペン一本でねばり強く軍部と外国資本との結託を描き、ひそかな事実を暴露した魯迅の言葉には重みがある。
 事実が如何にして「事実」として報道されるに至ったのか、その報道の根拠を明らかにする事こそが報道の役目ではないのだろうか。時の外交交渉には必ず裏がある。その裏が根拠になって事実が生じる。事実と言われる「事実」が正味その通りの事実になるには、まだまだ時間がかかると思われる。(こういう問題は僕の思考の圏外にある事を承知の上で一言もの申した。僕の心配が杞憂で終われば、それが一番いいのは言うまでもない。)

 追伸: 昨日、何十年ぶりか、映画館に入り、映画『オーシャンズ』を観てきました。海の生物の生態の記録映画で、迫力満点でした。迫力満点でしたと僕が言うのは映画館で映画を観ない年月が永かったという事実のせいかも知れません。

アロマテラピー

2010年02月16日 | Weblog
 僕のような無粋な野郎がアロマテラピーなんていう言葉を知っているのは、我ながら変だと思う。この言葉、いつごろから流行り出したのか。
 食の博士・小泉武夫さんによると、芳香療法のことで、薬を飲まず、匂いを嗅がせるだけで病を治そうというもの。この方法だと副作用もなく、治療費も安い。夢のような話である。この療法はロシアやドイツで活発に研究されてきたが、日本での研究は少ないそうだ。様々な化学成分、薬草、香料を嗅がせることによって呼吸器系、循環器系、消化器系、神経系などが刺激され、これを繰り返すことによって治療するというものである。
 この療法の歴史は古く、古代エジプトや古代中国で盛んに行われていたものが、現代に復活したのだそうだ。当時は、木の香りや芳香性植物の匂いを嗅がせたり、舐めさせたり、匂いに触れさせたり(今では森林浴が好例)など、様々な方法が試されていたが、これを医学的に確立しようとしたのがアロマテラピーだとのこと。
 複雑化した現代社会ではストレスの発現は当たり前のようになった。半健康人が多くなった。そこでアロマテラピーの有効性が注目されだしたというわけ。
 アロマテラピーの原理を説明するのにちょうどよい身近な例では、疲労したときに優雅な香りを紅茶などで嗅ぐと精神的にその疲労がいやされたり(精神の安定)、鰻屋や焼き鳥屋の前で旨そうな匂いを嗅ぐと消化器系が刺激され空腹感を覚える(食欲増進)など。
 僕が最近気がついたのは蓬餅。蓬(ヨモギ)はキク科の多年草で、特有の強い香りがある。この香りの成分は森林浴にも共通する香りの成分で、気持ちを快適にする作用がある。
 蓬餅は美味い。うん。気持ちが快適になったかどうかは分らない。
 森林浴の効果はずっと前から体験している。

三寒四温

2010年02月15日 | Weblog
 数日前から陽の光が春めいた。水ぬるむとまでは未だだが。今朝の雨は冷たい。しかし寒威は去ったのであろうか。いや、また寒い日が到来するだろう。この時期、三寒四温と言うのだろう。
 早春というにはまだ早いのであろうが、裸木の上に舞うちぎれ雲が何故か馥郁たる感じになる。春浅し、春寒し。やがて春淡しと季節は移り行く。「淡し」というのは春に固有の表現だろうか。夏淡しとか秋淡しとは言わないと思う。
 僕の感覚では、立春から雨水にかけての今頃の季節は冬でもなく、春でもないという微妙な時期だ。季節と季節の間だと言える。だが、三寒四温という言葉が示すように、次第に温かくなる。
 ビデオテープに録った『夢千代日記』で、死を宣告されている原爆症の夢千代が、「春になれば、春になれば、春になれば」と繰り返す台詞に心を動かされたことがある。日本海側の雪国の話である。
 大地震に見舞われ、未だその後遺症が残り、加えて豪雪に襲われた新潟県中越地方の皆様は如何お過ごしであろうか。白い魔物と憎んで居られるのであろうか。大地震がなかったら、豪雪との共存に慣れて居られたのであろうが。春遠からじと僕が言っても、通用しないことは分っているのだが。

選手1人

2010年02月14日 | Weblog
(新聞より)
 史上最多の82カ国・地域が出場するバンクーバー五輪。このうち15カ国・地域が選手1人だ。
 ●「旗を持つ練習はしたけど、スーツとタイを着けるのは初めて。みんな見ているから緊張する」。アルジェリア唯一の代表でスキーのクロスカントリーに出場するヘリフィ・メディフィ選手(17)は笑顔で周りを見渡し、旗を振った。
 フランス南部の山岳地帯ピレネーで生まれ育った。アルジェリアに住んだことはない。父はアルジェリア人、母がフランス人で、双方の市民権を持つ。「フランス代表になりたいと思ったことはない。アルジェリアの人たちがサポートしてくれるから」。
 幼い頃からアルペンスキーをしていたが、クロスカントリーに惹かれ、7年前に本格的に始めた。目標は「良い結果が必要なんだけど、本当を言うとビリじゃなくて完走すること」。
 ●ガーナは冬季五輪に初参加。ただ1人の代表でアルペンスキーのクワメ・ヌクルマ選手(35)は、黒い肌をヒョウ柄が袖に入ったウェアに包み、母国の旗を持った。
 英国生まれで、ガーナで育った。大学でツーリズムを学ぶために2000年に英国に戻り、スキーに出会った。
 04年に母国でスキー連盟を立ち上げた。自分が会長でただ1人の選手。コーチとトレーナーと資金調達係を兼ねる。「メダルは取れないかもしれない。でも自分が6年で切り拓いたことを知ってほしい」。
 ●ネパールからは2大会連続でクロスカントリーのダチヒリ・シェルパ選手(40)。ネパールは組織委の資料では2人参加になっているが、直前になって別の1人が来られなくなり、今回もたった1人の代表選手。
 ネパールではスキーはまだまだマイナー競技。経済的に貧しい子どもたちも多い。「僕の姿からオリンピックという夢を届けたい」。

 健闘を熱烈に祈る。