人は不思議な者だと思う。不思議なのは当然と言えば当然なのであろうが。
二重人格、多重人格でない人が居るであろうか。無論、人格という理解困難な言葉の意味は措くとしてでのことだが。ときどき、人は不思議な者だと思わされる。長明『方丈記』を再読した。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し」と世の無常を嘆く美文で始まる『方丈記』は、序の部分が終わるや突如として、筆勢が変わり、彼の体験した世の不思議が記され、『方丈記』のほぼ半分にも及んでいる。
この部分は、60歳の老いを感じさせない程に活写されている。それは、冒頭の無常感を敷衍しようとしながらも、筆が無常感を離れ、真正の意味でリアリスティックである。過去の体験が単に過去のものとしてではなく、現在のものとして追体験されている、という趣である。この部分は、明らかに長明独特の無常の文学、隠者の文学ではない。
ところが、追体験の興奮から醒めてしまうと、再び「わが身と栖との、はかなく、あだなるさま」への感慨に落ち込んでしまう。短い作品での、この劇的とも言える変化をどう理解すればいいのだろうか。
長明を引いたが、人は一般に不思議な者だと思う。歩みゆく人の心根は絶えずして、しかも、もとの心根にあらず。