自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

蓑虫

2012年10月30日 | Weblog

   蓑虫の音を聞きに来よ草の庵(いほ)   芭蕉
 樹木の枝、または葉から細い糸をたらしたその先に蓑虫が下がっているのを見かける。蓑は三、四センチ、細枝や葉を噛み切って、口から吐いた糸で巻いてこしらえるものだが、よく見るとうまくできている。
 清少納言は、これを鬼の捨て子だといい、「風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、父よ母よとはかなげに鳴く、いみじうあはれなり」と書いた。あの姿から異形の鬼を連想したのであろうが、民俗学によるとミノは来臨する神人が身に着ける約束になっていたもので、秋田の「なまはげ」がその代表的な例だというから、鬼との連想が現代よりずっと容易であったのだろう。
 蓑虫はミノガの幼虫で、もちろん鳴くものではない。しかし、清少納言といい芭蕉といい、文学では秋風の中に侘しく儚げに鳴く虫ととらえたのは、あの姿にふさわしいのかもしれない。
 ただ、侘しく儚げにというだけではなく、あの蓑や糸には強風にも雨にも雪にも負けず冬を越す強靭さがある。自然の造物主の工夫がすぐ近くで見られるのが嬉しい。

他者

2012年10月29日 | Weblog

 妙な話を聞いたような気がする。昨日久しぶりに大阪へ出た機会に或る画廊に何気なしに入ると、新進の女性画家の女性を描いた絵ばかりが展示してあった。どの絵も多少とも現実ばなれした、画家の内なる女性像である。目録に次のような画家自身のコメントが載せてあった。
 「女が女を描くことは、ある意味では難しいことかもしれません。優しさも可愛らしさも、甘えることも、そしてちょっぴりの意地悪さも、みんな知ってのことですから。」
 「みんな知ってのことですから」何故に「難しいことかもしれ」ないのだろうか。みんな知っていたら、易しいことなのではないだろうか。どうも分からぬ。そこはそれ、人間の表象能力の錯綜したところかも知れない。
 ところで、「みんな知ってのこと」と言えるだろうか。女性同士の事は僕には分からぬ。しかし、男性同士の事でも、「みんな知ってのこと」なんていうことはあり得ない。異性の事はなおのこと分からぬ。総じて言うと、他者の事を「みんな知ってのこと」と言うことは出来ないのではないか。「みんな知ってのこと」でないから、他者が他者たる所以なのだと思う。そこに誤解も共感も生じる源があるのだと思う。
 翻って、自分の事は自分が一番知っている、というのも怪しい。自分の何たるかを知ることを気にかけず平々凡々と暮らしている僕が、「みんな知ってのこと」という領分に立ち入れないのは当然な訳で、そうすると、先の画家自身のコメント「みんな知ってのこと」はその画家の内面では真実なのかも知れない。あくまでも《知れない》の領分である。
 同性異性を問わず、真実のコミュニケーションは可能なのだろうか。

2012年10月27日 | Weblog

 近頃、僕んちの近くにある大小様々な柿の木が鈴なりの実をつけている。殆どは渋柿だが、美しいものだ。

   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

正岡子規のよく知られた代表作。柿と法隆寺の取り合わせは、いかにも無造作に感じられるが、言われてみれば成る程と思わせる組み合わせだ。ただ、法隆寺ではなく、実際には東大寺の鐘というのが事実のようだ。しかし、イメージや音からして、やはり法隆寺が似合う。
 柿は東アジアの温帯に固有の種で、日本でも(狭義の)有史以前から既に栽培されていたという。戦前までは最も多く栽培されていた果実だそうだ(最近は、蜜柑、林檎、梨に次ぐ四位)。砂糖の普及していなかった時代には貴重な甘味だったし、柿渋や木材としての用途も広い。そのため、極めて身近、悪く言えば卑近な木とされていたので、歌などには柿の紅葉などが僅かに詠われる程度だったが、俳句の時代になってさかんに取り上げられるようになった。
 柿の葉の紅葉も美しい。最寄の駅のホームに落ち葉が何枚も見られるのも、もう間もなくだ。それぞれがそれぞれなりの紅葉で、すべて美しい。
 柿の葉寿司も僕の好物だ。縦横無尽に枝分かれした柿の木のシルエットも日本の秋を代表する光景だろう。

原発事故 影響予測地図を公表

2012年10月25日 | Weblog

 全国に16ある各原発のサイトごとに、福島第一原発と同じような事故が起きて大量の放射性物質が一度に放出されるという条件で、去年1年間の実際の気象条件も考慮して行い、国際的な避難基準である1週間の積算の被ばく量が100ミリシーベルトに達する地点を地図上に示しています。
(NHKウェブニュースより)
 長文で画像も載っていますのでコメント欄にURLを貼っておきます。
 一応ここにも。
 http://www3.nhk.or.jp/news/1024map/

柳田国男もしくはワーキングプア

2012年10月24日 | Weblog

 柳田の民俗学への発心の一つは、日本の近代化への批判的な視点にあると思う。農政学を専攻し農政家となった点にも、そこから転じて民俗学を興した点にも、そういう視点が貫かれている。近代化は人々の暮らしに不幸感を蓄積しつつあるという視点。『遠野物語』などの民族学研究にも、このような視点が色濃い。
 その不幸感の源は近代化ゆえに発生してきた窮乏にあった。
 柳田曰く「昔の貧乏と云えば放蕩その他自ら招いた貧乏か、又は自分の家に現はれて来た一時の大なる災害不幸の結果で稀に起こることでありましたが、現代では此外に真面目に働きつつ尚少しづつ足りないと云う一種の不幸が現はれて来ました」。
 こう述べて柳田は、「是は金銭経済時代の特色で」、「今日の貧乏は自覚しつつ防ぐに術の無い苦しい窮乏」と断定している(『時代ト農政』1901年)。
 約100年前の警告ではあるが、現代の所謂ワーキングプアを予想していた感がある。「防ぐに術の無い苦しい窮乏」の時代が繰り返すということか。近代化という事を、その意味を考え直す時代も繰り返す方が良いと思う。

義務について

2012年10月23日 | Weblog

  「義務とは、
  自分みずから自分自身に命令する事を
  愛する事です。」( ゲーテ『箴言と省察』より)

 上司とか教師とか親とか、どこぞの権力者とかに「しかじかの事をすべし」と命じられて行うのが、義務だと心得ている人が多いかもしれない。しかじかの事が大切だからではなく、命令者が自分よりエライ、もしくは自分の生殺与奪の権力を握っている人の命令だから、やむなく行うのが義務だと思い込んでいる人が少なくない。例えば、官僚。
 しかしゲーテの言う義務は、自分が自分に「かくかくすべし」と命令し、それを喜んで行う、つまりその仕事を愛して行うものなのだ。ゲーテより少し前のカントの考えをゲーテは殆ど退けたが、僕らが生きる上で最も大事な義務についての考えについては、両者は奇しくも同意見だった。
 この二人の見解の一致からして、義務の真意がほぼ判明したと思われる、と僕は思う。
 例えばフクシマ原発事故で責任ある立場のエライ人物は、どんなふうに義務を果たしてきたのだろうか。今後どんなふうに果たすのだろうか。)

久方ぶりに、山村暮鳥

2012年10月22日 | Weblog

  自分はいまこそ言はう    山村暮鳥

なんであんなにいそぐのだらう
どこまでゆかうとするのだらう
どこで此の道がつきるのだらう
此の生の一本みちがどこかでつきたら
人間はどうなるのだらう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
渓間(たにま)をながれる泉のやうに
自分はいまこそ言はう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛のやうであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行かうと思ふと


(ころころと変わる僕の心情ですが、心の片隅に残っている詩です。)

寓話もしくは想像力

2012年10月21日 | Weblog

 よく知られた寓話の一つ、「オオカミとツル」を略述すると、
 「ご馳走を食べたい両者は互いに食事に招待した。招待されたツルはオオカミの出した平らな皿にうすく盛られたスープを長い嘴でつつくだけ。オオカミは舌で何杯もたいらげた。一方、招待されたオオカミはツルの用意した長い壷に入つたシチューに舌も届かず、よだれも涙に変わつてしまつた。」
 略述すると元の寓話表現のインパクトがおそろしく減るのであるが、この寓話の意味するところは、オオカミとツルは互いに相手の食べ方を忖度した心情的エゴイストだということだろう。
 ところで、寓話表現の面白さは、人や動物、ときには樹木さえもが共に会話をするという非日常を描きながらも、そこに、不自然さが感じられない、という点にある。不思議なのは、そのようなことを可能にする想像力、構想力という能力を僕たちの祖先が太古の昔から持っているという事実である。この能力をいかに使うかによつて、僕たちの未来の明暗がある程度決まると思われる。大国は貧しい小国のことを、政府は国民のことを、甲は乙のことを意を尽くして想像してみることだ。これをしなければ心情的エゴイズムが蔓延するだけだ。

東電株主代表訴訟の原告団事務局長を務める

2012年10月19日 | Weblog

(朝刊より)
   木村 結さん(60)

 5兆5045億円を、東京電力の現在と歴代の経営陣27人に対して請求している。
 訴えの内容は、対策を怠り、福島原発事故によって会社に損害を与えたというもの。勝訴しても金は会社が回収するので、自らには何の得もない。なのに、原告42人をまとめ、保険の仕事を休んでは記者会見や法廷に足を運ぶ。「責任を明確にするためです。」
 新潟から上京、結婚生活を送っていた1986年、チェルノブイリ事故が起こる。共同購入の茶から放射能が検出された。2歳の娘を抱え、食品汚染は切実だった。初めて原発の存在を意識した。
 株主運動を始めたのは89年。借金をして100株を59万円で購入、毎年、総会で脱原発を提案した。
 幼いころ、かつて特攻隊員だった父に聞いた。「なぜ戦争に反対しなかったの?」と。答えは「そんなこと言える時代じゃなかった」。それがずっと心に残っていた。戦争も原発も知らない間に進んでいく。異議を唱える「大人としての責任」が活動の原点だ。
 いまや株券は1万3千円余と暴落したが、「東電にもの申す手段だったから」と笑う。
 偉人の伝記を読み、「革命の時代に生きたかった」と思う少女だった。大学の卒論のテーマは百姓一揆。大好きな和服でデモや集会にも出かけ、現代の「革命」とも言うべき脱原発に挑んでいる。

(和服姿の写真の顔は柔和である。)

心の優しさ

2012年10月18日 | Weblog

 心の優しさは、
 正義がもっている領土よりも
 もっとずっと広い領土を持っている。
        (ゲーテ『箴言と省察』より)

 我こそは正義なりと声高に演説するのは、その人を支持する側から見ればすこぶる格好のいいものだと思う。
 しかし、その人に反対する側から見れば、とんでもないことで時としては許し難い行為である。それ故、「正義がもっている領土」なるものは、極めて限定されたものだと言わざるを得ない。
 これに反して、「心の優しさの領土」は、年齢、性別、国籍、民族、宗教、政治的立場などの相違を越えて、広大無辺だと言えよう。
 ゲーテの言う通りだと思う。しかし、現実には様々な分野で「正義」はもとより「心の優しさ」も現実離れしているようにも思われる。僕はかつて、「正義」について机上で熟慮したつもりであったが、それはやはり空論であった。僕は大抵の時、「心の優しさ」を持とうと思っているが、この思いと反対の行為に出たいと思う場合もある。それは、猜疑心の強い蛇蠍(だかつ)の如き輩が陰で僕に対して来る場合である。
 思うに、「正義」も「心の優しさ」も、もうひとつ奥深い所で「自然の摂理と合体した人間」としての「優しさ」に支えられていることに気がつかねばならないのだ。今年も後二カ月とちょっとでやって来るかもしれないトナカイのように。

半不稔

2012年10月17日 | Weblog

 稲の刈り入れ時です。僕んちから車だったら1時間もかからない地域の小学校で稲の収穫をしたという記事が目にとまった。以下は新聞記事より。
 学校近くの水田で刈り取りをしたところ、もみの中身は半分が空っぽ。子供たちは半世紀を超えてなおも続く放射能の影響の恐ろしさを実感したという。
 被爆直後に長崎の爆心地近くで九州大学農学部が稲を採取し、研究のために栽培を続けてきた。平和運動に取り組むNPOが13年前に譲り受け、口コミで全国に広がった。上記の小学校では今春、NPOからコップ一杯のもみを受け取り、子供たちが水田の一角に苗を植えた。
 刈り取った稲は一見すると普通だが、半分ぐらいは空のもみが混じる。「半不稔」という「原爆稲」特有の現象だ。食べても影響はないが、子供の一人は「稲が軽く、もみが空っぽなのには驚いた」と言う。校長先生は「放射能の影響は悲惨だが、なお実をつけようとする自然の力強さも分かってもらえたら」と話す。

(貴重な体験を子供たちはしたものだと思う。放射能の影響の悲惨さと自然の力強さを体得したものと思う。僕はと言えば、「半不稔」という言葉を初めて知り、同時に「半不稔」現象がもっと広く知られることが大事なことではないかと思った。)

元気なうちに家族と考えておきたい事柄(再掲)

2012年10月16日 | Weblog

 (決めた事を事前指示書として定期的に見直すと良い。)

★終末期の医療の場

    ●(自宅/○○病院/○○老人ホーム)を希望する。

★終末期になった時に受けたくない医療

    ●心臓マッサージなどの心肺蘇生は(して欲しい/して欲しくない)。
    ●延命のための人工呼吸器は(つけて欲しい/つけて欲しくない)。
    ●胃ろうや鼻チューブによる栄養補給は(して欲しい/して欲しくない)。

★食事を口から摂れなくなった時

    ●胃ろうや鼻チューブによる栄養補給は(して欲しい/して欲しくない)。

★痛みや苦痛を取る緩和治療

    ●鎮静剤、鎮痛剤、麻薬は(積極的に/消極的に使用して欲しい)。
    ●緩和治療に効果がない場合は(鎮静剤などの投与で意識を失わせて
    欲しい/このために死期が早まったとしても止むをえない/意識を保ち
    たいので我慢する)。

★延命治療の中止を望む場合

    ●余命(1ヶ月/2ヶ月/3ヶ月/4ヶ月/5ヶ月/6ヶ月)以下と診断された
    場合は、延命治療を拒否する。

★認知症について

    ●認知症になり、自分で希望する医療を判断できなくなった時、
    意識が清明な時に指示した内容に(従って欲しい/従わず、代理人と
    相談して欲しい)。
    ●自分で希望する医療を判断できなくなった時、
    主治医が相談すべき人を(○○氏に指定する/指定しない)。


(以上は折に触れて考えた事をまとめたもの。補って頂きたい。)