自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

「秘すれば花」(昨日の続き)

2008年02月29日 | Weblog
 世阿弥『風姿花伝』のキー・ワード。この「秘すれば花」の意味が分かり難いという人が居るが、僕は僕なりに理解できる。よく用いられる「初心忘るべからず」は、初めての時の心がけを忘れるな、という意味ではなく、初心者の未熟さを忘れるな、という意味だ。何でもいつでも学び続けなければならず、何か新しい事を学ぶ時は自分が未熟者だと自覚して謙虚に始めなければならない。このような姿勢で努力を欠かさない者だけが「秘すれば花」の持ち主になれる。
 為手(役者、俳優)が自分の演技の面白さ、珍しさを表に出せば、見手(観客)は直ぐにそれと気がつき、面白さ、珍しさは消える。だから、見手が気がつかないでいてこそ、為手の演技は効果的である。意外に面白いとだけ感じ、実は意図的表現だとさとられないのが、為手の魅力なのだ。そこで「秘すれば花」と言われる訳だ。
 僕などは効果を狙って事に当たる。僕の狙いは相手に筒抜け。隠れようも無い。ところが、「初心忘るべからず」を知らず知らずの間に心得ている人は「秘すれば花」を地で行っている訳で、若人たちの真摯な行いに自ずと表れる。若人の姿勢を保たなければ、心も老いる。が、これが難しい。

2008年02月28日 | Weblog
若人たちに在って 僕に無いのは
花 「秘すれば花」の花
更に無いのは 
花の発するオーラを感得する耳目
要するに 浪漫がないのだ
哀しいかな 
花を運ぶ風も無し
さすれば 荒野を流離おう
何処へ漂着するというのだ
現れいでしよ
花 花よ

雑木林

2008年02月26日 | Weblog
 冬枯れの雑木林の中は、葉が散って明るい。雑木林という名前から連想すると、いろんな木が雑然と立ち並んでいる林と思われがちだが、人の手がかなり加わらないと維持できない空間だそうだ。理想的には18~20年に一度、根元から伐採する必要があるんだそうだ。本にそう書いてある。
 昔は伐採した木を薪に使ったり、椎茸のホダ木に使ったり、枝葉は堆肥になったりしたが、だんだんとそういうエネルギーとして使われなくなったため、雑木林が放置されることになった。僕の育った山里の雑木林も荒れ放題になっている。
 雑木林の枝打ちや下草刈りによって、日当たりがよくなり、いろんな植物が芽を吹き出す。枝を払うことで幹はまっすぐに伸びる。人による管理がいきとどいた雑木林は、林床が広々としていて、開放感があるということになる。
 子供の頃に遊んだ雑木林の心地よさを思い出している。僕が棲んでいる近くにも小さな雑木林があり、時々散歩するとき、この歳になってもやはり開放感を味あう。この開放感はどこに由来するのだろうか。ずっとずっと昔の祖先が森で生活していた、その血が今に至るまで、知らず知らずの間に、受け継がれているからであろうか。
 経済文明の展開とともに、雑木林が荒れたり、無くなったりする一方だが、人間を含むすべての生物にとって雑木林はなくてはならない存在ではないかと思う。

水たまりなど気にすることもあるまいに・・・

2008年02月25日 | Weblog
 今日は都市ガスへの変換工事のためガーギーグーと音響効果が良くないため、何をするともなく過ごせる。夕方には終り風呂には入れるとのこと。
 ジョージ・オーウェルのエッセイに『絞首刑』という小文がある。雨季のビルマのある街で、「われわれ」は、一人のやせっぽちのヒンズー教徒の男を絞首刑にしようとしていた。「われわれ」は囚人を監房から引き出して絞首台の方に向かう。銃を持つ二人の衛兵が囚人の両側につき、別の二人が後ろから腕と肩をつかんで押すようにしながら行進していた。絞首台まであと40ヤードのところで、この囚人は、衛兵たちに両肩をつかまれているのに、途中の水たまりを避けようとして、ひょいと脇にのいた。その瞬間、オーウェルは「盛りにある生命を突然断ち切ってしまうことの不可解さを、その何とも言えぬ不正を悟った。」(ジョージ・オーウェル[川端康成訳])
 どうせすぐ死刑になるのだから、水たまりなど気にすることもあるまい。「われわれ」はまっすぐ水たまりを突っ走ろうとしたにちがいない。しかし、この男は水たまりをひょいとよけた。余計な、無意味な行為である。しかし、それでも、生への愛おしみに満ちた、人間の動物的な息ずかいが感じられる。この男の小さな動作に何か大きな、正体不明のものを感じる。

 (なお、ビルマであって軍政のミャンマーではない。最近不帰の人になった市川崑監督作品『ビルマの竪琴』をビデオでつい最近観た。)

ムカデミミズ(?)のたわごと

2008年02月24日 | Weblog
 最近、視力が衰えた。衰えた視力で新聞などを読んでいると、とんでもない誤読をしてしまう。ムカデミミズ?・・・アカデミズムをムカデミミズと誤読した。しかも、しばらくの間、その誤読に気がつかなかった。衰えた視力でボーッと読んでいたからだ。衰えたのは視力だけではない、ということだ。
 僕はムカデもミミズも嫌いではない。幼年期に知らずに触れたムカデに刺されて指がはれあがったが、蟻酸を塗ったら一晩ではれがひいた。痛い思いをしたが、日向ぼっこをしに縁の下から出てくるムカデを見ていると、何かしらかわいらしく感じた。ミミズには世話になった。ミミズをちぎって釣り針につけて川魚をよく釣ったものだ。痛かったであろう、ミミズよ。今更謝っても許してくれないだろうなあ。
 ところで、誤読されるぐらいだから、アカデミズムも地に堕ちたものだと考えるのは僕だけではないだろう。今は懐かしいアカデミズム。地に堕としたのは誰だ!
 アカデミズムにもムカデとミミズをたした程のいい所があったのに。いい所の一つは、静かだということ。静かな雰囲気で長期的計画を立てられること。幼年期のアカデミズムの復権を望みたい、無理を承知の上で。

他者

2008年02月23日 | Weblog
 妙な話を聞いたような気がする。昨日久しぶりに大阪へ出た機会に或る画廊に何気なしに入ると、新進の女性画家の女性を描いた絵ばかりが展示してあった。どの絵も多少とも現実ばなれした、画家の内なる女性像である。目録に次のような画家自身のコメントが載せてあった。
 「女が女を描くことは、ある意味では難しいことかもしれません。優しさも可愛らしさも、甘えることも、そしてちょっぴりの意地悪さも、みんな知ってのことですから。」
 「みんな知ってのことですから」何故に「難しいことかもしれ」ないのだろうか。みんな知っていたら、易しいことなのではないだろうか。どうも分からぬ。そこはそれ、人間の表象能力の錯綜したところかも知れない。
 ところで、「みんな知ってのこと」と言えるだろうか。女性同士の事は僕には分からぬ。しかし、男性同士の事でも、「みんな知ってのこと」なんていうことはあり得ない。異性の事はなおのこと分からぬ。概して言うと、他者の事を「みんな知ってのこと」と言うことは出来ないのではないか。「みんな知ってのこと」でないから、他者が他者たる所以なのだと思う。そこに誤解も共感も生じる源があるのだと思う。
 翻って、自分の事は自分が一番知っている、というのも怪しい。自分の何たるかを知ることを気にかけず平々凡々と暮らしている僕が、「みんな知ってのこと」という領分に立ち入れないのは当然な訳で、そうすると、先の画家自身のコメント「みんな知ってのこと」はその画家の内面では真実なのかも知れない。あくまでも<知れない>の領分である。
 同性異性を問わず、真実のコミュニケーションは可能なのだろうか。

思索

2008年02月22日 | Weblog
 思索とは、理路を追う考えである。理路とは?「索」は、漢和辞典によると、太い糸のことらしい。そうすると、理路とは太い糸を比喩的に表したものだろう。思索するとは、糸を辿るように考えることなのであろう。ちょうど、カジキマグロを狙い一人で海に出た老人のように、釣り糸を手繰る行為なのであろう。思索する(釣り糸を手繰る)値うちは、その糸の先に居るかもしれない獲物(答え)の値うちであり、運良くマグロ(特定の答え)が掛かれば、糸を手繰る(思索する)行為に大きな値うちがあることになる。何も掛からなければ、その行為は全く無駄だということになる。
 このように言うことが出来るだろうか。出来るとすると、僕は随分と無駄な行為をしてきたことになる。自己弁護する訳ではないが、結果として答えが出ない思索でも、別の糸につながるかもしれない。別の糸につながつても、答えが出ないかもしれない。あの老人も獲得したマグロをサメ(別の糸)に食べられ、得たものは骨と疲労感である。思索の褒美は、殆ど、あるいは全く役に立たない答えと疲労感だけかもしれない。「だけかもしれない」という事でもあるまい。それ以外に何かあるはずだ。思うに、先頃は答えとか成果とかを求め過ぎてはいないか。思索の場合は、釣り糸と違い、見えない糸を手繰り寄せなければならない。さて、これから先どんな見えない糸を手繰り寄せられるであろうか。(こんなことを考えている人(僕)を、人は閑人と言うらしい。)

再び、無為な(?)テスト

2008年02月21日 | Weblog
 昨日の無為な(?)テストに応じて頂いた方が居られますでしょうか。昨日の文末に「ココロの本性が垣間見られるかも知れません」と書きましたが、不正確でした。応じられた人の性格が垣間見られるでしょう、というぐらいです。で、どんな風に垣間見られるかと言いますと、私見ですがだいたい次のようになります。だいたい、です。

 ①なんでこんな事をしなければならないのか、という不快感を覚える人⇒自己主張の強い人
 ②まあ、言われるままにしようと思う人⇒応じたは良いが、自分の消極性を自覚できる人
 ③規則性を求めてしまう人⇒デタラメにと言われてもデタラメを嫌う傾向の人で、苦痛を感じながらも、真面目な人
 ④テストに応じている時間内によそ事を考えてしまう人⇒大部分の人
     自分に好都合な事(楽しい思い出など)を考えてしまう人⇒楽観的な人
     自分に不都合な事(楽しくない思い出など)を考えてしまう人⇒楽観的ではない人

 自分にとってどうでも良いテスト、あるいは応じたくないテストに応じてしまったら、このような性格が垣間見られます。因みに僕には②と③と④が当てはまります。逆に応じるのが楽しいテストとか何らかの楽しい事とかに挑戦する時には、どんな性格が垣間見られるでしょうか?この場合は目だった性格は垣間見られないでしょう。

無為な(?)テスト

2008年02月20日 | Weblog
 ちょっとしたテストに応じてください。
 0から9までの一桁の数字を
(1)できるだけデタラメに
(2)できるだけたくさん
という条件の下で1分間書き並べてください。たとえば、
  3 5 2 2 6 1・・・・・・・・・・
というふうに。このような数字の列には規則性がありません。さて、よーい、どん、と合図をして、書き並べてください。1分間書き並べている間に、多分苦痛を感じられるはずです。どうか試みてください。できれば次の1分間同じ事をしてください。できればその次の1分間同じ事をしてください。多分苦痛を感じられない人は居られないでしょう。
 このような無為な(?)テストに応じて頂くと、何故苦痛を感じられるのでしょうか。この問いに答えようとしていると、ココロの本性が垣間見られるかも知れません。

猫騙し

2008年02月19日 | Weblog
 古い新聞を片付けようとしていたら、広告文が目に留まった。
 「携帯電話の電波のように、放射線は目で見ることはできませんが、測定器を使うとわずかな量でも測ることができます。原子力発電所の周辺では、こうした放射線の測定を電力会社と自治体とがそれぞれ24時間休みなく行い、データを公開しています。・・・その測定結果をみると、発電所からの放射線は1年間で、胸のX線検診1回で受ける量の50分の1以下となっています。」(日本原子力文化振興財団)
 1年間で、レントゲン検診1回の50分の1。本当だろうか?そんなに原発は厳重に管理されているのだろうか。されているとしたら、何故毎年のように重大な事故が生じるのだろうか。加えて、事故を隠蔽する体質がある。
 広告文が「携帯電話の電波のように」で始まっているのが気にくわない。故意に日常の常態を装って、原発も携帯電話と同様ですよ、と言いたいのだろうが、こういう言い方を猫騙しという。電力会社のテレビ・コマーシャルで小学生とおぼしき女の子を起用して原発を宣伝しているのも気にくわない。猫騙しをした後でさえ、事故が起きないことを願う。

クローン病

2008年02月18日 | Weblog
 年度末を控えて、若い若い後輩から年賀を兼ねた(つもりの)手紙をもらった。驚いた。
 「現在、クローン病という病気で入院中です。血液検査の結果などから、一応今のところ回復に向かっていると言ってもよさそうです」とある。
 クローン病とは、初めて聞く病名で、調べてみた。炎症性の腸疾患で、主に腸に炎症が発生するが、消化管すべてに炎症が発生する可能性もある。今のところ原因不明。10代後半から20代前半にかかりやすい。先進国に多くみられ、(食生活の欧米化によるのか?)日本でも増加中。具体的な症状は下痢、腹痛、下血、狭窄、膿瘍、発熱など。原因不明なので、決定的な治療法も薬もなく、再燃と緩解を繰り返す。治療法としては、食事をせずに、成分栄養剤(極めてまずい)で栄養補給する食事療法をすれば、再燃を防ぐことも可能・・・云々。
 「回復に向かっていると言ってよさそう」と書いてあるが、今年度の卒業は無理かもしれない。残念至極。養生をしっかりするよう、メールをうった。

「死」宮崎学写真集

2008年02月17日 | Weblog
 (以下は前に記したことがある。)
 この写真集に出会ったのは十五年ほど前である。一種の驚きを覚えた。今でも時々観る。自然死した鹿や狸、カモシカなどの動物の腐敗していく様子を撮った、他に例を見ない写真集である。
 僕らは死を単なる物質的な終息と考えがちである。「しかし」と宮崎さんは言う。
 「私が撮影した自然の死は、新たな生命に引き継がれていた。自然の死によって生命は終焉するものではなく、連続するものであるということを、私は自然から学んだ。(註:死体は生き物によって受け継がれる。)
 私たち日本人は、古来、死後は「その霊が家の裏山のような小高い山や森に昇る」と信じてきた。しかも、「山に昇った荒魂は時の経過とともに清められた祖霊となり、やがてカミの地位にまで上昇していく。そしてそれらのカミが里に降りてくるときには、田の神や歳の神としてあがめられ、またいつしか氏神や鎮守の神として祭られるようになった。日本人がこのように考えてきたほうが、私が自然の死を見てきたかぎり、無理のないことのように思える。」
 写真をじっと観て、宮崎さんの文を読んでいると、どう言えばいいのか、何かしら郷愁を覚える。

餅花

2008年02月16日 | Weblog
 北国に餅花という風習があるそうです。編んだ藁についたばかりの餅を一握りずつ巻きつけるように着けて、寒風に晒し、保存食にするそうです。晒された白い鈴なりの餅が花のように見えるそうです。今もこの風習が残っているかどうかは分かりません。(小奇麗な土産物、飾り物として売ってはいます。)稲作文化圏の僕らの祖先は五穀豊穣を旨とし、食を大事にしてきました。
 飽食の時代とも言われる現今において、一方では、国の内外を問わず、特には途上国で飢えに苦しんでいる人々が居ます。そのような人々の事を忘れてはならないと思います。世界市民が連帯して飢餓状態を無くさなければならないと思います。その一つの手立てが保存食の復興と工夫にあるのではないかと思います。
 想像してみてください。夕刻や朝明け時、軒下につなげて干してある餅花の美しさを。僕は本来が田舎者ですから、特にそんな美しさに惹かれるのかもしれません。食が美しければ、こんな贅沢はないでしょう。
 日本の食料自給率38パーセント。地に足が着かない国になりました。

那智の滝も凍る!

2008年02月15日 | Weblog
(朝刊より)
強い寒気のため厳しい冷え込みとなった14日朝、和歌山県那智勝浦町の「那智の滝」の滝つぼや、がけの壁面が今冬初めて凍りついた。朝日が当たり始めると、氷がバリバリと音を立てて滝つぼに落ちていた。

那智の滝は落差が133メートルあり、世界遺産・熊野三山の一つ、熊野那智大社の別宮「飛瀧(ひろう)神社」のご神体になっている。同大社によると、午前6時ごろの気温は零下2度だったという。

(去年の秋、訪れた時、滝は風で左右に揺れていた。)

誤読していたのかな?「月日は百代の過客・・・」

2008年02月14日 | Weblog
 中学か高校で必ず習う、芭蕉の『奥の細道』の有名な出だし「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」。月日というものは永久に過ぎ去っていく旅人のようなもので、行き交う年も又旅人か、芭蕉は実に上手い表現をしたものだと感心する。
 ただ、何故「ひゃくだい」ではなく、「はくたい」と読ませるのか。気がつくと、不思議である。
 それを、「ひゃくだい」でいいと教えてくれたのは、丸谷才一『輝く日の宮』である。この名文句は李白の「それ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」の引用だが、芭蕉が読んだと思われる和刻本にハクタイと仮名が振ってあったからだろう。しかし、中学生が読むときに強要するのはどうかなと思う。そんな難しいこと言ったんでは古典が嫌いになる。(要約)
 しかし、丸谷先生が「いい」と言ってくれても、凡人が「ひゃくだい」と読むと、あいつは無教養だと思われるに違いない。
 こういう先入見に基づく誤読?は、他にも沢山あるだろう。古典語の読みが難しいことは分かっているが、若いときに覚えた読みに疑問を抱かないまま、年月が過ぎると、旅先での方向音痴で間違えた道を正しい道だと思い込むみたいで、誤読?を誤読ではないと思い込んでしまう。
 頭にこびりついた先入見に気づく機会が舞い込んで欲しいものだ。

 ついでに。僕の「行きかふ年も又旅人なり」の旅人は何処へ向かっているのだろう。