自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

田中正造

2010年01月04日 | Weblog
 元日に今年の合言葉は「森の時代へ」だと記した。それで思い出したことがある。
 足尾銅山が多くの人々の手によって見事に回復し、熊や日本カモシカなどが棲息するにまで、緑豊かな森や山に蘇った事を数年前にテレビで見た。その時録ったビデオを久しぶりに見た。
 今回ビデオを見て、思い出した人物が田中正造である。若い名主、民権運動家、代議士の経歴をもつ彼は、五十歳になったころから足尾銅山問題に取り組み始め、残りの二十年余りの人生をそれに捧げた。彼の名前は現在では高校の日本史のすべての教科書に載っているそうだ。
 足尾鉱毒事件は歴史的経過としては二つの局面に分かれる。一つは渡良瀬川流域の鉱毒問題、もう一つは鉱毒問題を解決するために谷中村を遊水地にしようとした問題。田中の闘いは鉱毒の存在の指摘から始まり、帝国議会での相つぐ質問、被害民との共同行動、天皇への直訴などを経て、水没する谷中の住民となることに至る。
 当初は主として、古河鉱業の仕業や政府のそれとの癒着、田畑の荒廃による被害民の資産や収入の減少を指弾していた田中が、人の命が踏みにじられてしまった点にこそ問題の本質があると認識するに至ったのは、1896年の渡良瀬川の大洪水を契機にしてでのことであった。被害地を巡回した彼は、被害者が被害者であるにも拘わらず、被害を隠そうとする窮地に追い込まれている事を知った。また、鉱毒が母胎に影響して、死産が増えるとともに、乳幼児の命を侵している事も見聞した。
 それらを通じて彼は「所有権ヲ侵シ、生命ヲ侵シ、名誉権利ヲ侵シ、而テ之ヲ救フ方法ヲ為サズ」と述懐している。こういう発想の基本には、自然の中に生き、ものを育てる事、即ち生命を伸ばす事を職業とする「百姓」(彼の自伝は「予は下野の百姓なり」の一句で始まる)の感覚があったと思われる。
 生命をすり減らす開発という「文明」を告発してやまなかったのではないかと思われる。昭和の戦後、水俣病や薬害エイズをはじめ様々な酷に過ぎる公害が発生したことは周知のところである。田中正造の告発は現代においても活きていると思う。活きていないことを望むが。