自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

秋と言うには未だ未だ早いですが、

2008年08月31日 | Weblog
このところ涼しいせいか、収穫の秋がすぐそこまで来ているような、そんな気配を感じます。大和の秋は富有柿の実りの秋です。柿日和という言葉があるぐらいです。柿の大木の鈴なりの富有柿は、それは見事なんです。美しいんです。賑やかなんです。そんな季節が間もなく到来します。
 富有柿の実が少なくなった頃、秋は深まります。

  ゆく秋の大和の国の薬師寺の
       塔の上なるひとひらの雲   佐々木信綱

 僕んちから少し歩けばこんな光景が見られます。大きな景色から、しだいに視野を絞っていき、最後は「ひとひらの雲」を大きな構図にきっちりと定着させている詩だと思います。

 いよいよ秋。そして初冬。僕の一番好きな季節が毎年のことながらやってきます。この季節を待ち焦がれる余り、今は未だ夏なのに、秋止符を打ってしまいました。 

グリム兄弟

2008年08月30日 | Weblog
 僕はいろんなことを試みてみたいと思ってきたが、試みてもどうしても出来なかったことの一つがメルヘンの創作である。これをするには少々の博識では無理で各地の伝説などを収集する根気が不可欠である。
 グリム兄弟が多くの人々から聞き集めたメルヘンには民衆の心が生きていると言われる。
 兄ヤーコプ弟ヴィルヘルムは、苦学の末、良き師にも恵まれて文法学、歴史法学、比較言語学、神話学の世界的創始者になっただけではなく、言論の自由を訴えてゲッティンゲン大学教授の職を追われても国王の違憲を弾劾した実践的な正義の人であり、巨大な『グリム大辞典』の編集を始めた。後に東西分裂の最中にも旧東西ドイツの言語学者たちは協力して、この大辞典を完成させた。
 二十歳という若い日に、法律学徒の二人がメルヘンを集めるようになったのは、言葉と祖国への愛だったと言われている。時は1806年、ナポレオンの侵攻によって、八百年の歴史を誇る神聖ローマ帝国という名のドイツが崩壊した年。「ドイツの空が屈辱に暗く雲っていたとき、私たちはドイツの言葉にドイツの心を求めたのです」と、後にベルリン大学に招かれたときに語っている。メルヘンはお伽噺ではないのだ。
 話は変わるが、それから約130年後とんでもない人物が現れる。アドルフ・ヒットラー。グリム兄弟が築いたドイツの心を台無しにする野望を実現し、その後ドイツは混迷状態に入る。
 東西ドイツが統一されたのは1989年だったか、崩れるベルリンの壁の上で踊る若者たちを見て、当時の西ドイツ首相コールは「今は踊るのもよい。これからが問題だ」と言ったのを覚えている。
 何故グリム兄弟のことを記したかと言うと他意はないのだが、グリム童話選を読んでいて、メルヘンの奥にあるものを掴みたかったからである。 

ブナと文字

2008年08月29日 | Weblog
 家に居る間はPCで囲碁をしている以外は手当たりしだいに本を斜め読みしている。木に関する本が多い。
 昔々、ドイツ人やイギリス人の祖先ゲルマン民族やフランス人の先住民族ケルト人は文字を知らなかった。紀元直後の頃、アルプスの南から文字の存在を知ったらしく、24個のルーネ文字を作った。鋭い刃物の先で呪文のような記号文字を、滑らかなブナの樹皮や板に引っ掻くようにして記した。だが、ルーネ文字は不便なのでまもなくラテン文字に変わった。
 ところが、「書く」という言葉は残った。鋭い刃物などで「引っ掻く」ことをラテン語でスクリーベレというが、これをそのまま借用したのがドイツ語のシュラィベン(書く)、英語のスクライブ(掻く、書く)、スクリプチャー(文章、聖書)である。エジプト産のパピルス紙やギリシャ産の羊皮紙も持たない貧しいゲルマン民族は、もっぱら滑らかなブナの樹皮や板にルーネやラテン文字を引っ掻いて書いた。そこで、ドイツ語では「文字・字母」のことを今でも「ブナの枝」(ブーフシュターべ)という。「本・書物」を表す英語のbook、ドイツ語のBuchは、「ブナの木」Bucheの語そのままだとも言える。
 北ヨーロッパの文字文化は、ブナの木とともに始まった。ドイツ人にとっては大切な木なのだ。

 こういう話を読むと、何故か嬉しくなる。僕らの文化というか生活が木ときってもきり離せないということが、とにかく嬉しい。何故かというと、僕は木の味方だからである。

2008年08月28日 | Weblog
 昨日電車で少し遠出したのですが、車窓から稲穂が見えました。まだ青い稲穂、もう黄色い稲穂、刈り取られる直前の田圃、様々でした。僕の子供の頃は11月中頃が収穫の時期だったように思うんですが。
 ところで、年中行事の多くは稲作に関係しているのが日本の文化の特徴であるかもしれない。季節感も稲作を軸に形成されているように思います。ものの本によると、縄文晩期に中国大陸南部から渡来したとされる稲作は、急速に広まり、鎌倉時代には本州最北端まで達したそうです。明治に入り、招聘外国人のホーレス・ケプロンは熱帯性の稲を寒冷地の北海道で栽培するのは無理だと進言するが、その意見が容れられることはなかったそうです。栽培に適さなかろうが、なにがなんでも稲を作ろうとする異常な執念を、北海道出身の文化人類学者・山口昌男は「コメディー」と言いました。伊勢神宮の外宮には稲魂が人格化した豊受大神が祭られているそうです。稲魂を国家の最高神に祭っているのは日本だけだそうです。稲作あるいは稲は、日本という国の、あるいは日本人のアイデンティティと深層でつながっていると思われます。
 僕は稲の刈り入れ時が最も好きな季節なんですが、早場米の普及のため、晩秋から初冬にかけての刈り入れの風物詩が体験できなくなったことには一抹の寂しさを覚えます。

2008年08月27日 | Weblog
 萩の季節。近所の大寺の垣根沿いに、こんもりと茂った萩の花木が1メートルぐらいの間隔で見事な花をつけている。萩は7月ごろから咲いているが、やはり秋の花である。萩という漢字からして秋の花である。よく見かける萩は枝垂れている。これは大抵が宮城野萩である。宮城野というところが仙台市内にあり、枝垂れた萩はこのあたりが原産であろうか。薄紫の小さな小さな花が小さな一枝に幾つも咲き、集まって早くも秋の情緒を誇らしげに醸している。
 昔々、大昔、花をつけた小さな枝を手折って、美しい女性の髪に挿したことがある。正確に言うと、挿そうとした。恥ずかしくて挿せなかった。手に持った小枝が髪に触れるところで、はい、そこまで、という声が内心から聞こえた。昔々、大昔の淡い思い出である。
 僕は花は白が好きなのだが、萩に白があっても、萩はやはり薄紫が似合う。薄紫のひとは今何処、なんちゃって。

恋について

2008年08月26日 | Weblog
 老骨を顧みず思い切って恋について書く。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、この今思うと恥じらいを覚える短編を僕は20歳の時に初めて読んだ。遅い方だそうだ。ませた人は中学ぐらいで読むそうだ。その後2回ぐらいは読んだと記憶している。
 ウェルテルはロッテに恋しながら、悩んだあげく、その女性と結婚できないからという理由で自殺をした。が、彼は独り悩んだだけだった。彼女の方は彼を嫌っていたのではなく、それどころか大いに気があった。女のたしなみとして、男が何かをしてくれるのをじっと待っていた。彼女は彼と誰も居ない部屋に入ることも辞さなかった。200年前の女性としてはすこぶる勇気のいる行動だった。男の方からの行動を辛抱強く待った。しかし彼は何もしなかった。彼がしたことは唯一つ、恋人が辛抱し切れず他の男のもとに嫁ぐのを見ていただけだった。嫁いだ後、やおらピストルをとりあげたのだった。
 グズな男、ダメ男。そう決め付けるのは容易である。だが、それだけであったなら、全ヨーロッパに流布する大ベストセラーにならなかったはずである。そして現代でも若い人の内には好んで読む人が少なからず居る。単純な物語のどこに魅力があるのか。新しい恋愛観が描かれていたからだと思う。それは、原理的に不幸な恋の発見である。不幸な恋は、何と幸福なことだろう、という発見である。これは殆ど瞬間的な熱情にほだされて、生涯生活を強いられる心配がない。不幸でいて、それだけに幸福な恋。そんな恋をゲーテは、あの大ゲーテは自分の体験に基づいて描いた。作者は得意満面だったろうが、若い読者は各様に悩んだ。この悩みは若人の特権である。
 この特権を若人だけの特権にしておいていいものだろうか。確実に言えることは、年寄りは思い出の中にこの特権をもっている、ということである。しかし、思い出の中だけにこの特権をもつということは何と悩ましいことであろうか。しかしそれでも、そういう思い出をもっていることは幸福なことである。

市場主義

2008年08月25日 | Weblog
 フランシスコ・ベイコンの四つの偶像の一つ「市場の偶像」は、市場で激しく飛び交う言葉の氾濫に由来する誤謬・偏見を鋭く指摘したものである。20世紀最後の発明と言われることもあった公衆電話カードに取って替わって、今世紀は携帯電話によるメール交換が氾濫している。
 このメール交換の社会的常識的な慣用は、その利便性の故に必ずしも悪いとは思わない。ただ、そこでの短文の常用が、長文で表現し考えるという文化の素養を軽視しているのではないか。この軽視の原因は、メールの打ち手にあるが、この原因を作り出したのは効率を追求する市場主義に浸る企業である。企業の市場主義が若者に伝染したとも言えよう。
 携帯電話は一例に過ぎず、全国一斉のマークシート形式のテストで選別された学生は、いわば短文寄せ集め文化の担い手となる。この場合も、何種類もの企業の市場主義がその背景にある。企業だけではない。文部(科学)省の掛け声の変節によって踊らされざるを得ない教育現場は、ますます差別化され、競争原理の下、いわば短縮された文化・教養で甘んじることとなる。せめて教育には市場主義を持ち込んでほしくない。
 つい最近のことであるが、東大の情報系大学院の学生が、「ドストエフスキーって誰なんですか?」と訊ねたそうだ。

水玉(再掲)

2008年08月24日 | Weblog
 集中豪雨は困るが、静かな雨は気持ちを整えてくれる。雨がつくる水玉は木の枝をつたってくる水でゆっくり大きくなり、きらめきながら枝先を離れて落ちていくが、しばらくすると再び水玉が同じ枝先に生まれ、光り始める。そんな水玉の様子をボーと眺めるのが好きだ。
 堀明子詩集『四季の色』の一編「水玉」が思い出される。詳しいことは知らないが、作者の堀さんは高校一年生で逝去された人で、小さい時から詩を書くのが好きだったようだ。ご両親がその遺稿を詩集にまとめられた。「水玉」は小学校三年生のときの作品。

   水玉いっぱい
   はぎの葉
   葉一面に
   かわいい水玉
   光ってる
   でもぬれないかな

   あれあれ水玉
   虫めがね?
   水玉をとおして
   葉みゃくが
   よく見える
   ふしぎだなあ?

 水玉が凸レンズの役割をする、などとの説明は無用だ。自然の「ふしぎ」に出会うことが一番大切なことだろう。僕は「水玉をとおして 葉みゃく」を見たことがあっただろうか。

原始、森の生活

2008年08月23日 | Weblog
 史説によると、縄文時代の人々は、森という豊かな自然の恵みを受けて生活していた。日本列島は森の列島だから、人々はほどよい規模に森を開いて住居をつくり、まわりの森から衣食住のすべてを得ていた。
 人々は十数戸から二十戸ぐらいの竪穴住居をひとまとまりにして住んでいた。周辺は栗の木の多い落葉広葉樹林である。住居をつくるための木や屋根をふくカヤ類はこの森に幾らでもある。木の樹皮とか草は衣服の材料にもなり、いろいろな紐にもなる。栗をはじめとして食用になる木の実が沢山ある。若芽や若葉の美味しい木もある。
 落葉広葉樹林の森は食べ物に満ちているから、鳥や獣もたくさん棲んでいる。それら鳥や獣をほんの少し獲れば、栄養たっぷりの食肉にもなり、獣皮は衣服や敷物にもなる。
 人々は煮炊きに使う土器や、木を伐ったりする石器を念入りに楽しみながら作っていた。狩猟採集での労働時間が少ないので、土器づくりも石器づくりも、遊びに近いものだっただろう。
 高原の澄んだ空気のなかで、石斧を磨く男と樹皮の繊維をほぐす女が、はればれとした顔で話し、朗らかに笑う光景が想像される。
 僕らの先祖はこんな生活をしていたのだろう。戻ることは勿論できないが、想像すると郷愁に近い感慨を抱く。物質文明に慣れてしまった僕らのDNAには原始の森の民の痕跡が残っているのだろう。

急に・・・

2008年08月22日 | Weblog
 飛龍頭が食べたくなりました。
 僕は小学三年生の時に三ヵ月姉の嫁ぎ先の寺にあずけられました。いえ、悪さをして修行の為にあずけられたのではありません。住んでいた家が焼失したので、僕だけが仕方なくあずけられたんです。
 その頃その寺では毎朝、本殿と客殿の仏様に供える精進料理を作っていました。家内の者も同じ精進料理を食していました。代表的な料理が飛龍頭と胡麻豆腐と野菜の炊き合わせでした。飛龍頭の中身には境内で獲れる銀杏が入っていました。何故か急に飛龍頭が食べたくなりました。僕は時々ふと思い出すことがありますが、何故こんなことを思い出すのか自分でも理解できません。とにかく、飛龍頭が食べたくなりました。その寺では、とっくの昔に毎朝のそんな面倒なことは為されていません。今度、デパ地下で売っていたら買ってこよう。今度のついでに、なぜ飛龍頭と言うのか調べるとしようか。

2008年08月21日 | Weblog
 まだ遠くにいる台風12号のせいか、どんよりとした雲の流れが速い。
 普通だと、夏の入道雲から秋の絹雲へ移行する時期だ。入道雲は上へ上へ背を伸ばす。つまり縦に変化する。秋は、横に流れる雲が多くなる。高い空で舞う絹雲は秋の便りだ。
 ヘルマン・ヘッセに「雲は、あらゆる漂泊と探求と、渇望と郷愁との、永遠の象徴だ」という言葉がある。
 自然現象とは言え、雲は不思議な動きをする。気象予報の専門家なら、雲の動きを予想できるのだろうが、素人には雲の変化は不思議である。ヘッセのように情緒豊かに表現することは出来ないが、雲の動きをボーっと見ていると、眼が雲の動きにただただ引き込まれる。僕の能動性は微塵もない。こういう時がもっとあってもよいと思う。
 雲はどんな思いで流れ行くのだろう。

素朴さ

2008年08月20日 | Weblog
 素朴さというものは生身の人間にとって大切な性格の一つだと思う。では、素朴さとは一体どういう心意気なのだろう。
 都会人より山里や海辺に住む人の方が素朴に生活されているだろうと推測される。この文脈での素朴さの意味には自然の摂理に逆らわないという側面があるのであろう。
 もう少し一般的に素朴さの意味を探索してみたい。素朴さの積極的な意味は、心を開いてありのままの自分を見せることだと思う。率直さと言い換えてもいい。この意味での素朴さとは、真実への愛、自己を偽ることへの嫌悪、自分の欠点を正直に打ち明けることなど、自他の関係において隠し所の余地がないことだと思う。
 このような意味での素朴さを僕は持ち合わせていない。隠し所を大いに持っている。この歳で我ながらあきれはてたことだと思う。
 素朴さの消極的な意味、それは自然の摂理に逆らわないということであろう。消極的な、と言ったが、この形容詞は当てはまらないとも思う。自他の関係にも自然の摂理というものがあって、その自然の摂理に沿うことが素朴さなのであろう。生身の人間だから、他人に対する好き嫌いの感情を抱くのは自然なことであろう。その好き嫌いの感情を良い悪いの判断に転化してしまうところに、素朴さと対極をなすエゴイズムが顔を見せる。
 そうすると、エゴイズムから自己浄化された状態が素朴さということになるのであろうか。素朴さの意味をまだまだ探索しなければならないが、探索すればするほど、僕には縁遠いもののようにも思われる。

ヒマラヤスギ

2008年08月19日 | Weblog
 僕は小学校を三回代わっている。三番目の小学校の校庭に大きなヒマラヤスギがあった。他の木を圧する大きさに、今から思うと、尊敬の念を抱いた。子供だから、樹に尊敬ということはないが、心惹かれるものがあった。
 あちこちの公園にはヒマラヤスギが植えられている。手元にある本によれば、この樹がヨーロッパに植栽されたのは1800年代の初め頃で、やがてアメリカに渡り、その後、日本に入ってきたのは明治12(1879)年だとのこと。ヒマラヤスギはその名の通りヒマラヤの産である。詳しく言うと、アフガニスタンから中国・西安に至るまでの、海抜1000メートルから3000メートルの地域に分布するという。
 ヒマラヤスギの特徴は、その大きさもさることながら、樹形にある。全体として美しい円錐形をしている。直立した主幹から伸びる枝はやや垂れ下がり気味であるが、この水平ないし垂れ下がり気味の枝に雪が積もると、枝がバネのように揺れ、雪をはねのけるのだ。寒冷地で生きる知恵を自ずと身につけたのだ。立派な生き様だと思う。
 この知恵をもつのはメタセコイヤも同様である。メタセコイヤの発見者・命名者は僕の大大先輩で、この樹についてはいつか記すことにする。

ゲーテ『箴言と省察』より

2008年08月18日 | Weblog
(前にも引いたかも知れないがもう一度)

 「本当に自由なものの考え方というのは、他を認めることだ。」

 自省を込めて、井の中の蛙が自由であるはずがない、と言わざるを得ない。
 自縄自縛という熟語の、その縄が自分自身である場合、その縄の拘束力は比類ないほど強く、しかも厄介なことに見つけにくい。このような状態が日々の常態だとすれば、その可能性は高いのだが、自分の殻を脱いで、他を認めるとき初めて僕らは、その縄から解き放たれ、自由なものの考え方を身につけることができると思われる。だが、これがなかなかに困難なことであることを僕もよく知るところである。ただし、この困難を放置することが老いの一徹と同じだとは思わない。

クマを撃退

2008年08月17日 | Weblog
 数年前に東北地方で同様の出来事があったのを覚えているが、朝刊に「72歳クマ殴り撃退」とある。
 16日午前6時ごろ、広島県安芸太田町小板の民家で、同町津浪の城根光則さん(72歳)が納屋でクマと遭遇し、押し倒された。城根さんは抵抗し、クマの胸を拳で殴ったところ、退散した。城根さんは頬や鼻などに切り傷を負ったが命に別状はないという。
 城根さんによると、クマは城根さんを押し倒すと前脚で3回ほど顔を殴ってきた。城根さんは3、4回殴り返した。体長は165センチ以上とみられる。

 こういう記事を読むと僕は文句なしに痛快さを覚える。城根さん、さぞかし驚愕されたことだろう。が、よくぞ殴り返されました。城根さんの心根の強さと頑健な身体に乾杯! それにしても、クマは弱気だったのだろうか? そんなに空腹ではなかったから、逃げることに逡巡しなかったのだろうか?
 おそらくクマに遭遇したことのある畏友・パンダさんはクマの気持ち、分りますか?