自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

人間、生きている限り

2008年04月30日 | Weblog
 「人間、生きている限り、希望をもつべきだ。」(ゲーテ『ファウスト』より)
 余りにも平凡で、巨人ゲーテの言葉としては拍子抜けするではないか。しかし、作家として超一流の道を歩んだゲーテでさえも、涙せざるを得ない日は少なくなかったのだ。
 よほどの悪党でない限り、永い人生で、苦悩・苦難の日々を経験しなかった人は居ないだろう。特に年齢を重ねるごとに、親や友人との永久の別離を経験し、悲しみから立ち上がりにくい時もあるだろう。それでも、希望を捨ててはならない。そうすれば、いつの日か絶望の淵から戻れる。このことを体現したのがゲーテの生涯だと言えるのだろう。
 四月最後の日に当たり、「希望」という言葉を記す。しかし、僕はといえば、そう簡単には希望をもつ訳にはいかない。何故なら、希望をもつには、それだけの努力が必要な訳で、それだけの努力を僕がしているとは言えないから。

たまには普通の事を言うらしい?

2008年04月29日 | Weblog
 殆どが皮肉と思われもする揶揄から成るラ・ロシュフコー『箴言集』の真骨頂は、モノゴトを裏からもしくは逆から捉えるところにある。そこに反面教師の言としての真実が厳然としてある。痛快である。ところが、たまには普通の事を言うらしい。
 「われわれは生涯のさまざまな年齢にまったくの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら歳をとっていても、その年齢においては経験不足なのである。」

 この箴言は当たり前の事を言っていると思われる。だが、何歳になっても経験不足だと指摘されて初めて、自分の愚に気がつく。僕も時々、歳に似つかわしくない大言壮語を言って、後で気分が悪くなる。この箴言はごくごく自然な事を言っているに過ぎないと思われるが、やはり僕らが平素気に留めない真実を語っているのである。自制しなければならない。

John Wesley(1703-91)

2008年04月28日 | Weblog
或る文脈で、ウェズリーという名前の人が出てきたので、調べてみるとメソディスト教会の創始者だそうだ。教会の事はさて措き、極めて楽天的な詩を残している。
 Do all the good you can,
 By all the means you can,
 In all the ways you can,
 In all the places you can,
 At all the times you can,
 To all the people you can,
 As long as ever you can.

下手を承知で訳すと、
 君ができるすべての善を行え、
 君ができるすべての手段で、
 君ができるすべての方法で、
 君ができるすべての場所で、
 君ができるすべての時に、
 君ができるすべての人に、
 君ができる限り。

こういう文を読むと、刺激を受けるが恥ずかしくもなる。

「武器をおろそう。」

2008年04月27日 | Weblog
 4年前のアテネ五輪開幕が迫るなか、現地で「五輪休戦」を訴える声が盛んになった。古代オリンピックは、都市国家間の争いを停止する「平和の祭典」だった。大会が発祥の地に戻るのを契機にし、平和を目指す五輪に立ち返ろうと、そして「もう武器をおろそう」とアテネ市長は呼びかけた。平和を願って5大陸を回る聖火は、この時から始まった。
 五輪期間中の休戦は、93年の国連総会で賛同する決議がなされ、国際オリンピック協会(IOC)も以後、五輪のたびに訴えてきた。2000年には、IOCが国際オリンピック休戦センターを設立、アテネに事務局を置いた。
 アテネ市長や市民やIOCがどんなに訴えても、戦争屋は武器をおろさないであろう。
 今この瞬間にも戦争の犠牲者が出ていることであろう。愚かしいことだ。武器をおろして、綱引きでもして楽しんだらどうか。国のリーダーたる者たち、それぐらいの度量をもっていてもいいではないか。
 残念ながら、今年の北京五輪開催中も武器がおろされることはないだろう。

無題

2008年04月26日 | Weblog
 僕んちの近くの畑の一角にアヤメが咲いている。水辺ではないからカキツバタではないが、アヤメ(菖蒲)かショウブ(菖蒲)か、どちらかと思いながら、分からずじまいの内に通り過ぎた。
 夕刊に、堺市の大泉緑地公園でカキツバタが満開とあり、白や紫や赤紫など約1万株が来月中旬まで見頃だそうだ。大泉緑地公園には年に2、3回行った。僕が所属していた野球チームの試合があり、僕もベンチ入りできた。野球が目的だから、カキツバタは視野の外にあった。一つの目的一辺倒で見逃して惜しいことをしたものだと少し反省したが、野球が目的の場合は野球一辺倒になっていたのだろうとも思い返した。僕のチームは今季も成績不振に終わった。2年前の秋には優勝したが、年々メンバーが変わるから仕方がない。秋に向かって精進して欲しい。

コマーシャルです。

2008年04月25日 | Weblog
 新聞やテレビで報道されることの少ない「忘れられた緊急事態」。世界のいくつもの国で、大勢の子どもたちが紛争、干ばつや洪水などにより命をおびやかされています。武力紛争によって家を焼かれ、残虐行為に震えながら暗闇の中を逃げ続ける子どもたち。水も食べ物もなく、飢えや病気に苦しみながら必死に生きようとしている子どもたち。混乱の中で、親や家族とはぐれてしまった子どもたち・・・そのほとんどがアフリカの諸国を初めとした、世界で最も貧しい地域の子どもたちです。今ここに、薬があれば、水や食べ物があれば、助かる命がたくさんあります。
 安全な水は、命を支える源です。ORS(経口補水塩)や栄養補助食にも、安全な水が必要です。給水タンクや井戸の設置が急がれています。
 緊急事態の下では、汚染された水によって下痢になり、脱水症で命を落とす子どもが急増しています。ORSを安全な水に溶かして飲ませるだけで、子どもたちを脱水症から守ることができます。
 3000円のご支援で、ORSを467袋子どもたちに届けることができます。
 日本ユニセフ協会のホームページをご覧になりませんか。
     www.unicef.or.jp

愚直

2008年04月24日 | Weblog
 愚直、ありあわせの辞書によると、「ばか正直」とある。それはそうなんだけれど、言葉の意味というものは、文脈によって様変わりする。
 碁をうつ者が愚直という言葉を、例えば「あんさんの石は愚直やのう。」と言うと、それは「足が遅い」を意味する。これは、大局的な構想で石を上手に離してうつのではなく、例えば取られそうになっている石を取られまいと逃げるときに石を離さずに一歩一歩うつ、そのようなうち方を愚直という。「へぼ」の典型である。が、そこはへぼの特権で、愚直の力が発揮するときがたまにある。「愚直やのう」と口撃されて、頭がカッカしつつも一歩一歩逃げながら、逆に、相手の石を取ってしまう。見事に愚直の力が効を奏した訳である。へぼはへぼなりのうち方があるのである、情けないが。
 しかし、足が遅い愚直でも、人生、それでいいではないか、と以前から思っている。

オリンピックについて一言

2008年04月23日 | Weblog
 1936年ナチス・ドイツで開催されたベルリン五輪マラソンの金メダリスト、孫基禎(ソン・ギジョン)さんが亡くなられて6年ぐらい経った。享年90歳だった。彼は日本の植民地支配の下「日本代表」であった。この時の五輪の記録映画「民族の祭典」を録画で見たのはいつだったか忘れたが、彼が本当は朝鮮人であることを、解説で知った。僕がまだ若い時だった。若いなりに民族とは何かと不審に思った。日本民族ではない孫さんが何故「日本代表」なのかと不審に思った。今考えると、国威発揚のためなら何でもあり、という事かと思う。
 孫さんにとって気がかりであったのは、ベルリン大会当時の「日本」の国籍が五輪公式記録として残ったままになっていることだろう。70年に韓国の国会議員がベルリン五輪スタジアム優勝者記念碑の「JAPAN」を「KOREA」と彫り直したがIOCの意向で「JAPAN」に復元される事件もあったそうだ。米国では、86年にカリフォルニア州にある歴代五輪マラソン優勝者記念碑をはじめ、五輪記録集などを直し、孫さんの国籍は日本から韓国に改められた。日本とJOCはまだ直していない。
 歪んだ国威発揚、過大な国威発揚は全く必要ではない。今更ながらに孫さんを悼む。
 今年の北京オリンピック開催準備セレモニーにも、一部強い国威発揚が見られる。反省して自制して欲しいものだ。

2008年04月22日 | Weblog
 燕の季節がやってきた。野鳥で燕ほど人間に愛される鳥は少ない。燕についての詩を探していたら、僕が名前しか知らない詩人・竹中郁に次のような詩があった。長い詩なので中ほどまで引用する。

  つ ば め(『竜骨』より)

燕はとび越える、
大きな海を
大きな陸を。

燕は今年も来た。
この町の
三等郵便局の梁に。

泥と藁とでできた巣の中から
燕は見ている、
電信や小為替や郵便貯金やの
さんざうるさい小さな事務を。

 (この詩人はこ難しい言葉を使わず、情景を的確に詠む。はったりがない。この詩人は燕にも愛されているのだろう。燕とは関係のないことではあるが、郵政改革とやらで小さな郵便局はどうなったのだろうか。いや、関係が出ているかもしれない。小さな郵便局が統合され無くなれば、燕も巣づくりに困るだろう。)

無駄な護岸工事

2008年04月21日 | Weblog
 僕の棲んでいる処は広く西ノ京(タウンガイドなどでは西の京)と呼ばれています。私鉄の最寄の駅は「西ノ京」です。その線路の西側に棲んでいます。線路の東側には世界遺産に登録されている唐招提寺と薬師寺という古名刹が二つあり、特にこの季節はおおいに賑わっています。その名刹のちょっと東側を秋篠川が流れています。まあ良い処だと思っています。
 「秋篠」という清冽な響きのある(と感じている)川を僕は好きなのですが、護岸と称してコンクリートで固められているのを見ると、いかにも無粋で、水生動植物の生活を疲弊させるだけではないかと、そんな怒りにも近い思いをもっています。洪水の心配が全く無いと言ってよい川の岸や、ところによっては底をもコンクリートで塗りつぶす必要が何故あるのでしょう。生息しているのは鯉、鮒ぐらいで、タガメやドジョウなどにはお目にかかれません。この川が、日本で汚染度1、2、3位を競う大和川に流れ込みます。

遅れましたが・・・

2008年04月20日 | Weblog
半月ほど前に撮った今年の桜です。
大池をはさんで、薬師寺の対岸に国立病院があり、そこに本数は少ないんですが、桜の古木があります。西ノ京の桜の名所だそうです。
雲っていましたので、桜の花が白っぽくなってしまいました。

呆さんに捧げようかな・・・?

2008年04月19日 | Weblog
 (ゲーテ『ファウスト』より)
お金も医者も魔法も使わないで済む方法があります。
すぐ畑に出て、鋤や鍬を握ることです。
身も心も限られた世界において、
わき見をしないで生活することです。
自然のままの物を食べ、
家畜と一緒に、家畜のように生活し、
自分が収穫する畑に自分で肥料をやることをいとわない。
これが一番良い方法なんです。
これなら、八十になっても、若さが保てること請け合いです。

(『ファウスト』第一部「魔女の料理場」における台詞。ローマに滞在中に書かれたものと推定されている。窮屈なワイマール宮殿を脱し、イタリアへ長期旅行に出かけたゲーテは、土に親しむ生活を経験した。自由な天地を旅して真に健康な生活を礼賛したくなったと思われる。思うに、農業を初めとする第一次産業の大切さと楽しさをあらためて直視しなければならない。)

またやってきた

2008年04月18日 | Weblog
きのうの人が
またやってきた
またボーッとしているのですね
と言うので
ええ またボーッとしています
と応えた
それでは わたしも
ボーッとさせてください
と言うので
はい どうぞ
と 肯いた
二人して ただボーッとしていた
しばらくして いつの間にか
その人が居なくなった
と思ったら
大きな屋久杉が
ぼくを抱いていた
ありがとう
と言うと
ボーッとしていていいよ
と応えてくれた
それで
またボーッとしていた

このことが事実であるかどうかは
わからない
ただボーッとしていただけなので

友だち

2008年04月17日 | Weblog
一仕事終えて
部屋で ボーッとしていた
ノックの音がして
屋久島で十年暮らした
という人が 一人入ってきて
ボーッとしているのですね
と訊ねるので
はい ボーッとしています
と応えると
ボーッとしているのは
怖くないですか
と訊ねるので
はい 怖くないです
と応えると
わたしもボーッとさせてください
と言うので
はい どうぞ
と 肯く
二人して ただボーッとしていた

どれぐらい時間がたったろうか
いつの間にか
彼は居なくなっていた
このことが夢であったのかどうか
わからない
ただボーッとしていたので

久しぶりに、ラ・ロシュフコー

2008年04月16日 | Weblog
 「節度は野心と闘ってこれを抑えつけることができるほど大したものではない。そもそもこの二つは決してあいまみえることがない。節度が魂の無気力であり怠惰であるのに対して、野心は魂の活力であり熱気だからである。」(『箴言集』より)

 ラ・ロシュフコーにかかれば、身も蓋も無い。だが、一面の真実を衝いて鋭い。鋭過ぎる。時々、『箴言集』を紐解くと、ハッと赤面させられる。
 節度にも野心にも上の意味とは異なる意味があることを願うが、大抵の人々に上の箴言は当てはまるのだろう。