自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

福島第一原発 80キロ圏内で放射線量20%減

2012年09月30日 | Weblog

(NHKウェブニュースより)
 東京電力福島第一原子力発電所から80キロ圏内の、地上1メートルの平均の放射線量は、ことし6月までの7か月余りで20%余り減少したことが、文部科学省の調査で分かりました。
 この調査結果は、文部科学省が地上で得られた放射線量の実測値と、ヘリコプターで調べた上空の値から計算して導き出したもので、今回の調査は、ことし6月下旬に行われました。
 それによりますと、原発から80キロ圏内にある14万か所余りの地上1メートルの平均の放射線量は、7か月余り前の去年11月上旬と比べて、およそ23%減少していることが分かりました。
 この期間に、自然に減少したとみられる放射線量は14%程度で、それより10%近く下がったことになります。
これについて、文部科学省は「雨で放射性物質が流れたことなどが考えられるが、計測の際の飛行経路などの影響も考えられるので、引き続き調査を続けたい」と話しています。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120929/k10015380481000.html

(真実であることを願わざるを得ません。)

興味がなくなれば・・・

2012年09月27日 | Weblog

  「興味がなくなれば、記憶もなくなる。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 記憶の要領は興味をもつこと、これは当然であろう。問題は、絶えずいろいろな事に関心をもつ事が難しい点にある。難しいが、老化防止には役立つに違いない。
 ゲーテが、短命な時代に八十三歳近くまで生きて、最後まで活躍できた原動力は、彼の多様で旺盛な関心にあったのであろう。
 しかし、物忘れを恐れない事も大事だと思う。コロッと忘れてしまったような事柄は、裏を返せば、関心をもつに値しない些事なのだ。
 しかし、些事かどうかをどうして決めるのか。忘れた事は些事と言っていいのだろうか。そうは言えまい。僕はしばしば大事な事を忘れる。後で、後悔する。後悔するのは、忘れていた事を思い出した時であるが、その時は後の祭りである。
 しかし、まあ、忘れたら、気にせず、自己嫌悪などに陥らず、さらっと生きる事に心がけようと、最近になり思っています。しかし、そうすると、老化が早くなるのでは・・・。矢張り、興味津々の日々を送らねばならないのではないかと、ゲーテの言葉に頼りない蘊蓄を傾けながら、思う次第です。

自由な考え方

2012年09月26日 | Weblog

 「本当に自由なものの考え方とは、他を認めることだ。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 人ひとりの考えなど、しれたもので、そこから生まれるかもしれない行動の規範は極めて狭い。井の中の蛙が自由であるはずがないではないか。
 自縄自縛という言葉があるが、その縄は「自分自身」であり、その縄の拘束力は比類ないほど強いばかりではなく、厄介なことに見つけにくい。
 自分の殻を脱いで他を認める時、初めて僕(ら)はその縄から解き放たれ、自由なものの考え方をすることができる。
 概略、このような意味であろう。しかし、言うは易しく行うは難しで、僕なんぞは自縄自縛の状態にある場合が多い。縄をほどき殻を脱ぐには、他の言を傾聴することが大事だと思う。たとえ、その言がつまらなく、愛想のよいものであっても。但し、その言が立て板に水を流すような言ならば、あるいは権威を傘にきた(つもり)の言ならば、僕は逃げることを良しとする。
 とかく、自由な考え方というものには達し得ないものだ。そしてまた、もの言えば唇寒し秋の風ということも時々はわきまえておかなければならない。

歳はとりたくないもの

2012年09月25日 | Weblog

 「そろそろ下り坂という年齢(とし)で、その肉体と精神の衰えを、はたの人に悟らせる人はめったにいない。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)

 僕はもうとっくに下り坂で、肉体と精神の衰えを自覚しているが、近隣の人に知られたくないと思っているふしがある。正直に知って頂ければいいものを、知られたくないという自負心みたいな感情に誘われる。何故だろう?電車の中で僕ぐらいの年齢の人を見ると、比較してしまう。ん?僕の方が若くみえる?なんてつい思ってしまう。だが、実際には歳相応に、あるいはそれ以上にくたびれているのだ。
 ロシュフコーにかかれば、自分の心理を即座に見抜かれてしまう。見抜かれて、確かに歳をとったと実感させられる。
 だが、まだまだこれからだ!という強引そのものの感情を抱く。負け犬根性とは言わないが、負け犬にならない為には実行が伴わなければならない。年に一度はお会いする呆さんやパンダさん(このところ掲示板への書き込みが少ない)には顔の色艶でも実行力でも明らかに負けるが、少しでも実行に向かって歳を隠そうと思う。
 なさけない文を記してしまった。

秋風

2012年09月24日 | Weblog

 秋というと当然、紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。
 風に色があると留学生に話したことがある。

  石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。色があるからではないが、与謝野晶子に

  おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。風が見えるという感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
 風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。
 こんなことを徒然に思うのは、今朝の寒さを覚えるほどの涼しさに、無機質のパソコンに向かいながらも、本格的な秋の心象を抱いているからだろう。

人の不思議

2012年09月23日 | Weblog

 人は不思議な者だと思う。不思議なのは当然と言えば当然なのであろうが。二重人格、多重人格でない人が居るであろうか。無論、人格という理解困難な言葉の意味は措くとしてでのことだが。ときどき、人は不思議な者だと思わされる。長明『方丈記』を再読した。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し」と世の無常を嘆く美文で始まる『方丈記』は、序の部分が終わるや突如として、筆勢が変わり、彼の体験した世の不思議が記され、『方丈記』のほぼ半分にも及んでいる。
 この部分は、60歳の老いを感じさせない程に活写されている。それは、冒頭の無常感を敷衍しようとしながらも、筆が無常感を離れ、真正の意味でリアリスティックである。過去の体験が単に過去のものとしてではなく、現在のものとして追体験されている、という趣である。この部分は、明らかに長明独特の無常の文学、隠者の文学ではない。
 ところが、追体験の興奮から醒めてしまうと、再び「わが身と栖との、はかなく、あだなるさま」への感慨に落ち込んでしまう。短い作品での、この劇的とも言える変化をどう理解すればいいのだろうか。
 長明を引いたが、人は一般に不思議な者だと思う。歩みゆく人の心意気は絶えずして、しかも、もとの心意気にあらず。

思い出の記――鰹節

2012年09月22日 | Weblog

 小学1、2年生の時は4キロ近い道だった。在所の村から小学生が集まって歩く。冬、寒い時は集まって焚き火をし、小石を熱して、その小石を新聞紙で包んでポケットに入れて手を温めながら小学校まで歩いた。
 弁当が美味だった。白飯の上に削った鰹節を醤油でまぶしたのを敷きつめたもの。ただそれだけのもの。簡単この上ない弁当。いわば削り節丼。それが実に美味だった。醤油が白飯にしみこみ、香ばしい鰹節の味。この美味を一度味わって頂きたいものだ。何? そんな原始的な飯は食べられないって? ま、そう言わずに、食べてみて候。栄養分もたっぷりです。
 鰹節は自分で前晩に削った。削り方が人によって異なる。押して削るか引いて削るか。僕は引いて削る。近頃は削り器を持っている家は少ないかもしれない。最初から削り節を買ってくる場合が多い。だが、削り器で削った鰹節の方が明らかに旨い。削りにムラができ、ちょっと硬いのやら、粉のようなものやら、それぞれに味が違う。
 弁当でもうひとつ。これも実に簡単。油揚げを醤油で焼いて白飯に添えるだけのもの。持ち歩いている間に醤油が白飯に程よくしみこんで、油揚げの切り身と一緒に食べると、これがまた実に旨い。
 ま、要するに食料が乏しかったのである。が、乏しいなりに美味であった。
 話がそれるが、小学1、2年生の時にはノートがなく、石盤。そこに石木で書く。石盤については、それがどのようなものであったか、パンダさんと議論したことがある。今、考えると、石盤にも安価なものと高価なものがあったということだろう。
 2年生の終りに、家が火の不始末で全焼。町に引っ越した。引っ越す前に姉の嫁いだ寺に3ヶ月預けられた。全焼していなかったら別の人生を歩んでいたことだろう。

知里幸恵と『アイヌ神謡集』

2012年09月21日 | Weblog

 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。
 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」
 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

『往生要集』中、死の看とり

2012年09月20日 | Weblog

 久しぶりに日本の古典を読んだ。大部の本だからほんの一部ではあるが。
 源信の『往生要集』(985年)。この本は後の浄土思想に大きな影響を与えたそうだが、その核心は「臨終行儀」である。それは往生のしかた、つまり死に方と死の看とり方についての考え方である。そこには、まず病人は無常院という建物に寝かせ、仏像から垂れ下がる五色の布の先を握らせ、仏に導かれて浄土に往く思いが生じるようにはからい、そして念仏の大切さを説き、とりわけ臨死者をケアする看病人の心得をこまごまと説いている。例えば看病人は「病人の気色をよくみて、その場に適した仕方でやりなさい。多くのことをしてはならない。ことばづかいにはとくに意を用い、病人の心をかき乱してはならない。・・・」と説いている。
 解説には13世紀の僧良忠による、死の看とりの決定版とも言える『看護用心抄』についての言及がある。この本は日本最初の看護学原論とも言え、臨死者の看護について19条にわたって、具体的・実践的な考えが述べられている。第一条には「病人の部屋は別に設けてきれいに飾り、病人が寝ながら拝めるところに仏を安置して、・・・」とある。続いて、病床の整え方、食事の与え方、大小便の取り方、念仏の唱え方に触れ、特に病人の心のケアについて細心の心配りをするように説いている。
 『往生要集』のことは前から少しは知っていたが、『看護用心抄』につては何も知らなかった。今日ターミナルケアとか緩和ケアと言われる死の看とりのあり方について、随分昔からよく思慮されていたのだ。
 どの分野でも古典と言われている本には、現在では忘れられていることや、現在における焦眉の課題やについて、現在の考えを先取りするようなことが書かれていると、改めて考えさせられた。

宮古島:自然エネ3割達成 「脱原発」離島にヒント

2012年09月18日 | Weblog

(朝刊より)
 そんなに長文の記事ではないのですが、正確を期すためにコメント欄にURLを貼っておきます。
 一応ここにも。
 http://mainichi.jp/select/news/20120917mog00m040003000c.html?fb_action_ids=227357844057360&fb_action_types=og.recommends&fb_ref=s%3DshowShareBarUI%3Ap%3Dfacebook-like&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=288381481237582

宮古島:自然エネ3割達成 「脱原発」離島にヒント

2012年09月18日 | Weblog

(朝刊より)
 そんなに長文の記事ではないのですが、正確を期すためにコメント欄にURLを貼っておきます。
 一応ここにも。
 http://mainichi.jp/select/news/20120917mog00m040003000c.html?fb_action_ids=227357844057360&fb_action_types=og.recommends&fb_ref=s%3DshowShareBarUI%3Ap%3Dfacebook-like&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=288381481237582

富士山の永久凍土 激減

2012年09月17日 | Weblog

 富士山頂(3776㍍)周辺に広がっていた永久凍土が激減していることが、静岡大と国立極地研究所の調査で分った。1976年には山頂から標高3100㍍付近まで連続して広がっていたが、98年には3200㍍以上しかなくなり、現在は山頂周辺に散在するだけになった。植生への影響が心配されている。
 永久凍土とは、2回の冬とその間の夏を合わせた期間より長く、0度以下の状態になっている土壌や岩石をさす。
 南斜面の標高2500㍍から山頂まで50~100㍍おきに約100地点で、地中に長い棒を突き刺して深さ50㌢の温度を測って、凍土の有無が調べられた。
 1976年8月の調査では、永久凍土は標高3100㍍以上に広がっていた。98年8月には、3200㍍以上に上昇。さらに、2007年8月には、連続した広がりは消え、部分的に確認できた最も低い地点でも、標高3600㍍まで上がっていた。07年からは山頂付近の地中温度を通年で測っており、昨年まで6地点確認できた凍土が、この1年で北側3地点に減っていた。
 気象庁によると、富士山頂の8月の平均気温は76年で4.2度、09年は6.6度と上がる傾向にある。
 極地研によると、「温暖化の影響は間違いないが、予想以上のスピードだ」とのこと。
 永久凍土の激減はシベリアなどで何年も前から確認されていた。富士山で確認されたことが、地球温暖化に関心がうすい日本人にとって警告となれば良い。