(昨年の大晦日に徒然想で同様の文を書いたが、大晦日には何故か書きたくなる。)
生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも秀逸な珠玉の一品だと思う。
舞台は江戸時代、北国の藩。清左衛門は藩の重職を退き、隠居生活に入る。隠居生活では自由気ままな日々を送れると思っていたが、今までの世界から全く切り離されてしまったという孤独感にさいなまれる。しかし、彼はその孤独感から立ち直り、新しい人生を生きていく。表題の「残日」とは死に至る残りの日々という意味ではなく、新たな人生の日々という積極的な意味が込められている。「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」なのである。
隠居したものの、現役から慕われる。だが、生々しい権力闘争から距離を置いて、藩の重大事に公正に対処することが可能となっている。ここには、隠居というものの積極的な役割が描かれ、そうした存在を大切にする組織のあり方が示されているようにも思える。
江戸時代の藩や武士の家というものにのしかかるしがらみの中で、必死に生きている人々の誠実さに清左衛門は限り無い愛おしさをもって向き合い、それを嘲る人々に容赦の無い態度で接する。そうすることによって、妻を失い、人生の意味を疑っていた清左衛門自身が新たな生きる喜びを見出していく。薄幸の女性に対するこの上なく細やかな心づかい、藩の派閥闘争のために無残に犠牲にされる若い武士への配慮、中風で倒れた同僚が必死に立ち直ろうとする姿を見たときの大きな喜び。
この作品は、世の中の残酷さを静かな筆致で描きながら、素晴らしい人の生きざまを語ってやまない。
本ブログを一年間お読みいただいた方々に深甚の感謝の意を表します。来る年もご厚誼のほど、よろしくお願い申し上げます。ちなみに昨日の閲覧者数は271PV、訪問者数は64IPでした。ありがとうございます。
生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも秀逸な珠玉の一品だと思う。
舞台は江戸時代、北国の藩。清左衛門は藩の重職を退き、隠居生活に入る。隠居生活では自由気ままな日々を送れると思っていたが、今までの世界から全く切り離されてしまったという孤独感にさいなまれる。しかし、彼はその孤独感から立ち直り、新しい人生を生きていく。表題の「残日」とは死に至る残りの日々という意味ではなく、新たな人生の日々という積極的な意味が込められている。「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」なのである。
隠居したものの、現役から慕われる。だが、生々しい権力闘争から距離を置いて、藩の重大事に公正に対処することが可能となっている。ここには、隠居というものの積極的な役割が描かれ、そうした存在を大切にする組織のあり方が示されているようにも思える。
江戸時代の藩や武士の家というものにのしかかるしがらみの中で、必死に生きている人々の誠実さに清左衛門は限り無い愛おしさをもって向き合い、それを嘲る人々に容赦の無い態度で接する。そうすることによって、妻を失い、人生の意味を疑っていた清左衛門自身が新たな生きる喜びを見出していく。薄幸の女性に対するこの上なく細やかな心づかい、藩の派閥闘争のために無残に犠牲にされる若い武士への配慮、中風で倒れた同僚が必死に立ち直ろうとする姿を見たときの大きな喜び。
この作品は、世の中の残酷さを静かな筆致で描きながら、素晴らしい人の生きざまを語ってやまない。
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