自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

藤沢周平『三屋清左衛門残日緑』

2008年12月31日 | Weblog
 (昨年の大晦日に徒然想で同様の文を書いたが、大晦日には何故か書きたくなる。)
 
 生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも秀逸な珠玉の一品だと思う。
 舞台は江戸時代、北国の藩。清左衛門は藩の重職を退き、隠居生活に入る。隠居生活では自由気ままな日々を送れると思っていたが、今までの世界から全く切り離されてしまったという孤独感にさいなまれる。しかし、彼はその孤独感から立ち直り、新しい人生を生きていく。表題の「残日」とは死に至る残りの日々という意味ではなく、新たな人生の日々という積極的な意味が込められている。「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」なのである。
 隠居したものの、現役から慕われる。だが、生々しい権力闘争から距離を置いて、藩の重大事に公正に対処することが可能となっている。ここには、隠居というものの積極的な役割が描かれ、そうした存在を大切にする組織のあり方が示されているようにも思える。
 江戸時代の藩や武士の家というものにのしかかるしがらみの中で、必死に生きている人々の誠実さに清左衛門は限り無い愛おしさをもって向き合い、それを嘲る人々に容赦の無い態度で接する。そうすることによって、妻を失い、人生の意味を疑っていた清左衛門自身が新たな生きる喜びを見出していく。薄幸の女性に対するこの上なく細やかな心づかい、藩の派閥闘争のために無残に犠牲にされる若い武士への配慮、中風で倒れた同僚が必死に立ち直ろうとする姿を見たときの大きな喜び。
 この作品は、世の中の残酷さを静かな筆致で描きながら、素晴らしい人の生きざまを語ってやまない。



 本ブログを一年間お読みいただいた方々に深甚の感謝の意を表します。来る年もご厚誼のほど、よろしくお願い申し上げます。ちなみに昨日の閲覧者数は271PV、訪問者数は64IPでした。ありがとうございます。

田毎の月

2008年12月30日 | Weblog
 平松純宏『写真集 棚田の四季』をゆっくりと観賞した。棚田(千枚田)に映る田毎の月に見ほれた。「田毎の月」という昔聞いたことのあるような言葉に惹かれて、調べてみた。この言葉は、江戸初期の「藻塩草」(1669年)に表れている。
 「信州更級(科)の田毎の月は姨捨山(冠着山、1252m)上より見下ろせば、・・・」
 姨捨山伝説からも推測されるように、棚田の一つひとつは、食べる米がないという現実から農民が止むを得ず山に登り耕していった労苦の所産である。にもかかわらず、田毎の月を映す棚田は美しい。それは、農民が厳しい自然に素直に従わざるを得なかった結果であろう。
 自然との深刻なかかわりこそが、人の心を打つ美しさを生むのだと思う。大型機械の入らない棚田での作業がどんなにか苛酷であったかと想像していたら、島根県柿木村・大井谷の棚田についての報告書に、当事者たちは「その苦労はなかった」「むしろ後から、動力脱穀機を田から田に担いだときのほうが大変だった、切なかった。」と、微笑む、と記されていた。
 棚田は43道府県の891市町村に残っているそうだ。晴れた夜にはそれぞれの棚田に田毎の月が凛然と存在しているのだろう。

島崎藤村

2008年12月29日 | Weblog
 明治以降の作家で最も大きな作家は島崎藤村だと思う。僕の好みも入っているが、これはかねてよりの僕の持論だ。抒情(『若菜集』)から社会問題(『破壊』『夜明け前』)まで、その一つひとつの作品において完成度が高い。
 どういう意味で高いのか。他の作家との比較は措く。思うに、詩、小説、随筆、紀行にいたるまで、藤村文学の底を流れるのは、回想という方法で人生を歴史の流れにおいて反芻し、凝集している点である。その事が、一方では自我の浪漫的な凝視と顕現となり、他方では自我の求道的な充実と社会的実現となっている。
 この二つの特色が藤村を、山また山の木曽に生いたった農山村の民として生活を営む、腰の坐った実生活者たらしめ、かつ理想主義者たらしめているのだと思う。 昨日一日、藤村をあれこれ読んだ。短文を二つ。

 「屋根の石は、村はずれにある水車小屋の板屋根の上の石でした。この石は自分の載って居る板屋根の上から、毎日毎日水車の廻るのを眺めて居ました。
 「お前さんは毎日動いて居ますね。」
と石が言ひましたら、
 「さういふお前さんは又、毎日坐ったきりですね。」
と水車が答へました。この水車は物を言ふにも、じっとして居ないで、廻りながら返事をして居ました。(「ふるさと」屋根の石と水車より)
 「檜木、椹(さはら)、明檜(あすひ)、槇、ねず---を木曽の方では五木といひまして、さういふ木の生えた森や林があの深い谷間(たにあい)に茂って居るのです。五木とは、五つの主な木を指して言ふのですが、まだその他に栗の木、杉の木、松の木、桂の木、欅の木なぞが生えて居ります。樅の木、栂の木も生えて居ます。それから栃の木も生えています。」(「ふるさと」五木の林より)

或る山の歴史

2008年12月28日 | Weblog
 島崎藤村が生活していた所から遠くない所、木曽福島の一つ手前の駅がJR上松である。木曽福島では毎年音楽祭があったり、先輩が居たりして、行くことがあった。上松は木曽の樹木の寄せ場で賑わった所である。その近くに赤沢自然休養林がある。第一回森林浴大会が行われた所でもある。パンフレットを探し出し、木曽・赤沢の歴史を復習した。
 天正18年(1590)秀吉、木曽氏領有地を直轄領とする。
 慶弔 5年(1600)家康の直轄領となる。強度伐採始まる。
 天和元年(1615)尾張徳川領となる。築城、造船、土木用材伐採。
 明暦 3年(1657)江戸大火。復興材伐出。
 寛文 5年(1665)留山、巣山を設ける。赤沢檜木林留山。(当時は小川村小川入南山と称す。)
 元禄年間(1688-1703)小川入り赤沢留山檜木林の強度伐採。
 宝永 6年(1708)檜木、さわら、あすなろ、こうやまきの四木、停止木となる。後にねずこも停止木となる(木曽五木)。
 元文 3年(1738)かつら、けやきが留木となる。
 明治12年(1738)山林局設置。(官林)
 明治22年(1889)帝室林野局御料林となる。
 明治39年(1906)神宮備林設置。
 明治44年(1911)中央本線開通。
 大正 5年(1916)小川森林鉄道完成。神宮備林施設開始。(太平洋戦後の経済成長により樹木が大量に伐採。しかし、「檜木大径保存林」「学術保存林」に指定。)
 昭和22年(1947)林政統一。国有林となる。
 昭和44年(1969)全国初の自然保養林に指定される。
 昭和50年(1975)森林鉄道廃止。全線自動車輸送となる。
 昭和57年(1982)第一回森林浴大会開催。
 昭和58年(1983)「21世紀に残したい自然100選」に選ばれる。
 昭和62年(1987)森林鉄道復活(森林浴用)。
 
 何故こういう歴史を辿ったかというと、森林の重要性が焦眉の的であり、森林文化という発想を改めて強く考えて、訴えたからである。 しかし、この訴えが全国的に広がることなく、現在に至っている。

長塚節『土』

2008年12月27日 | Weblog
 ん十年も前に読んだ長塚節の『土』を急に読みたくなって、ロッカーの中からやっとこさ探し出して、読んだ。漱石が娘を嫁がせる際に持たせた本がこの『土』であったというエピソードがある。
 「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ちつけては又ごうっと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひゅうひゅうと悲鳴の響を立てて泣いた。・・・」
 精緻な自然描写で始まる『土』には明治の終わりの貧農の暮らしが描かれている。楽しい読み物ではないこの小説は、自然と人間、農業と暮らしについて困憊を極めた生活を誠実に描いている。それだけではなく、民族史、農業史と読んでも興味深い。
 僕が感心するするのは、精緻に描写された身近にある豊饒な自然だ。家の周りには薪がいっぱい。稲刈りの後、田圃でドジョウをとる子供たち。木の実や草の根を焼いて食べる。鶏は自由に飛びまわり、ミミズや虫を食べる。垣根にはカボチャがはいあがって実をつけ、ナスや大根が育っている。冬、日溜りにムシロを敷いて切り干にする大根をきざむ包丁の音。俵を編む風景。極まった貧困の中で、自然に抱かれて生きる者の安堵感さえ感じられる。食べ物も粗末ではあるが、食品添加物も残留毒性もない安全食品である。肥料は落ち葉、青草、大豆粕。現代から見れば、贅沢だと言えなくもない。
 だが、基本は底辺に生きる貧農の悲哀である。こういう悲哀の上に、こういう悲哀を後にして、こういう悲哀を忘れ去って現代の贅沢がある。更に興味深いのは、老人問題という今日的課題も『土』は提示している。
 日本文学の古典の一つに挙げて然るべきである。

消えた画学生

2008年12月26日 | Weblog
 10年ぐらい前に訪れた信州上田の「無言館」で買った本をあらためて観て読んだ。あらためて、ではあるが、時々あらためて、である。
 自己流の油絵を描いた経験からすると、一枚の絵を仕上げる前に、何らかの都合で筆を擱かざるを得ないはめに陥ったときの心残りは後々まで続く。絵がたまらなく好きな画学生が徴兵されたがために筆を擱かざるを得なくなったときの断腸の思いは、僕の経験からは推察できない。そんな画学生を戦争で亡くした親の思いも推察できない。
 弘前の造り酒屋に生まれた千葉四郎は、昭和13年に東京美術学校を卒業した。千葉の徴兵検査の結果は、現役には適さないという丙種合格。「母の坐像」という陶彫を残している。そんな千葉が突然召集されるのは19年7月、30歳の時、物不足で革靴がなく、地下足袋での出征だったという。敗戦後、部隊は満州林口で解散、病院へ行くと言い山を下りた千葉の消息はそこで絶える。母は戦死公報を受け入れず、昭和28年に没するまで息子の還りを待ち続けた。その後、戦死公報を拒否する家が青森県内で千葉家だけになった時、遺族は仕方なく四郎の”死”を認めた。伯父のひとりは、現地で確かめるまでは甥の死を承認できないと言いつつ亡くなった。
 こういう話に現実味を感じ難くなっているのは僕だけではないかもしれない。過去が僕の内面で風化しつつあるのかもしれない。しかし、風化させてはならないと思う。忘れることをよくする人間にとって難しいことではあろうが。だが、記憶するという能力が備わっているのも人間である。

唐招提寺

2008年12月25日 | Weblog
 先日近くの唐招提寺を久方ぶりに訪れた。今この寺は改築中で金堂の内部などを拝することができず、訪れる観光客も少ない。少ない分、また小雨のせいもあって静謐な雰囲気が漂う。広い境内を歩いていて、気になったことがある。
 この寺は東大寺や薬師寺と同様の大寺であろうか。奈良時代唯一の堂々たる金堂、平城京の建物としては唯一の現存遺構である講堂、八世紀の校倉宝庫二棟などから成る伽藍は大寺の風格に欠けるところはいささかもない。しかし、この寺の創建の趣旨から言って、大寺の列に加えていいものかどうか。本来の大寺には官立寺院という意味が多分ある。とすれば、この寺が、759年に鑑真が隠棲の私寺として創建したのであるから、その創建の精神からして大寺とは対極にある。千里の波涛を越えて苦難の末に来日した盲目の鑑真にとって、この寺を「招提」(=寺)たらしめたのには、測り難い深い思いがあったと思わざるをえない。その深い思いの故にか、20世紀後半に興福寺の旧塔頭のひとつを移築して秘仏・鑑真和上の御影堂としたことだって、今では元々そこにあったような佇まいで落ち着いている。

   若葉して おん目のしずく 拭はばや

と詠んだ芭蕉の句碑の前でちょっと動けなくなった。盲目の鑑真像と芭蕉が見た若葉との対比が強烈で、「拭はばや」を繰り返していると、何か哀しくなった。

見るという事

2008年12月24日 | Weblog
 ボーとしているのが僕の本領なんですが、そのボーが一段落すると、不思議なことなのですが、しばしば教わることに出会います。そこいらにある本の頁をめくっているだけなのですが、ああ、そうだったと気がつくことがあります。
 ポール・ヴァレリーの『ドガに就いて』(吉田健一訳)の一章「見ることと描くこと」の冒頭は概略次のように始まります。鉛筆を持たないまま物を見ているときに目に映っている物の姿と、デッサンしようとして見る物の姿の間には天地雲泥の差がある。普段見慣れている物が、ガラリと様子を変える。物が物の用途から洗われて、物そのものとして目に見え始める。日常の目は、物と私達の間を仲介する役しかつとめていなかったが、いったんデッサンしようと鉛筆を持ちつつ物を見始めたとき、目は意志に支えられた指導権を握る。そして意志して見られた物は、普段見慣れていた物とはすっかり別の物に一変する。
 ヴァレリーの言う通りだと思う。その通りだと普段考えている僕を忘れてしまっている。手に鉛筆をもってデッサンするつもりで見なければ、物の姿は見えないのだ。「見る」は「看る」に通じるのだ。
 そうすると、ちょっと飛躍して考えると、見るという事は看るという事なのだ。看護の一歩手前の看るという事なのだ。そうして、やがて看護される時期が僕にも訪れるのであろう。それまでは看る事に心がけなければならない。

武という字

2008年12月23日 | Weblog
 字を手で書くことが少なくなった。現に今、字を打っている。手で書くことが少なくなればなるほど、字の意味を忘れるのではないか。意味を忘れる前に、字を忘れることもある。やはり字は書かれなければと思いながらも、この文の字を打っている。
 以前に気になったのは「武」という字である。或る辞書によると、「武」は「弋(ほこ)と、足の形の止とからできて、ほこをもって勇ましく進むこと」とある。僕はこの意味を直感的にいぶかった。
 そこで、図書館で『漢字学』という古い本を見つけ調べてみたことがある。それによると、「そもそも武(勇気)とは軍功をたてれば戦いを止めること。それが本当の勇気である。だからこそ「武」という字を見よ。それは止(やめる)と弋(武器、いくさ)とからできているではないか。」武という字の本義は、武器の使用の停止にある。これが本義だと思う。
 本義を忘れた世界の武器をもてる荒武者たちよ、もういいではないか、戦いを止めるがよい。 武器を持たせた者どもよ、もういいではないか、戦いを止めるがよい。

個人主義

2008年12月22日 | Weblog
 人は考える事をよくする。ロダンの「考える人」からはいかにも何かを考えているような印象を受ける。僕は物事について筋道を立てて深く掘り下げて考えているだろうか、と気になることがある。人の受け売りをしているだけではないのか?しかし、本当に受け売りではない知識というものがあるだろうか?あるとしても、余程の異質な経験を積んだ人か、考えに考えを重ねて、そこに偶然がはたらいて新しい事を考え付く人か、とにかく、受け売りではなく考える人は少ないのではないか。
 そうだとすると、僕の考えなどはすべて受け売りだと言わざるを得ない。受け売りで考えるにしても、僕の為だけになるようには考えたくない。普通思われているような個人主義には陥りたくない。
 思うに、個人主義は、自分の利益だけを排他的に考える立場ではない。そうではなくて、自分の意思を尊重するのであれば、他者の意思も尊重しなければならず、他者の意思を尊重するという枠の内で、自分の意思の実現に向けて考える事が、個人主義という立場なのだ。このような立場に果たして僕は常に居るだろうか。受け売りで考えているのであれ、他者の意思を尊重するという枠内で考えたいものだ。それがなかなかに難しい事なんだけれど。様々な分野に排他的な個人主義が居座っているように思われる。

徒然草第百三十一段

2008年12月21日 | Weblog
 「貧しき者は財をもて礼とし、老いたる者は力をもて礼とす。(しかしながら)己が分を知りて、及ばざる時は、速やかにやむを智といふべし。ゆるさざらんは人のあやまりなり。分を知らずして、しひて励むは己が誤りなり。貧しくて分を知らざれば、盗み、力衰へて分を知らざれば、病を受く。」

 何事も分相応を以って、是をよしとす。まずは足下を固むるを大事と心得るべし。とはいうものの、生身の人間、時には足下を軽んじ、分を弁えない事もある。問題は、その「時には」を出来る限り少なくする事だと思う。しかし、これも亦難事である事は僕の経験上確実であり、老いる事の難しさを覚える師走の日々である。

寒さについて

2008年12月20日 | Weblog
 このところ暖かい日が続いているが、これからが寒さの本番。僕んちの近くの小さな林が住宅開発のためにまたも失せた。もう何回こんな消失を見たことであろうか。林や森を失うことによって僕らは何を失ったのであろうか。一つの例を挙げよう。
 木炭は現代僕らの生活圏から殆ど姿を消した。農村において、薪を燃やした囲炉裏の火から別れて、炬燵や火鉢に木炭を入れて暖をとることは一つの革命であったと柳田国男が指摘し、「炭の流行は今や流行の絶頂に達したかとさえ思われる」と述べたのは、昭和二年のことである。この年からおよそ八十年余り、今や木炭の地位は全く一変してしまった。(ごくごく僅かの例外を除いて。)
 ガス、石油、電気による暖房が殆ど全家庭に普及して、木炭で手あぶりするなどは昔物語と化した。寒さは確かに屋内から一掃されてしまったが、同時に寒さに耐える心情も僕らは失ってしまった。暖房に限らず、すべての快楽を求めるために、あるいは労力を最小限にするために現代の家庭用品は科学技術を駆使している。
 寒さを屋内から無くすことが、それほど僕らにとって幸福だったのであろうか。暖かさは寒さの裏打ちがあって初めてその有り難味が身にしみるのではないだろうか。冷暖房がビルに完備されて夏冬の別なく、よく働き、よく働かされる時代になった。その代わり、寒さに対する抵抗は弱まり、それに耐えようとする心構えが消えていった。
 耐える心を失った僕らは心も体もしたたかな強さを失った。特に都市生活者は野生を失った。野生を失った文化・文明は、ひ弱な人間しか生まないであろう。取り越し苦労であれば、それに越したことはないのだが。寒風の中、水行までは出来ないが、寒さを体験することは恒温動物としての人間の本来の姿なのではないか。

冬田

2008年12月19日 | Weblog
 一昨日少し遠出をしてきました。車窓から見える紅葉は朽葉になりつつありました。朽葉も一枚一枚を近くで熟視すると趣があるのですが、遠望する朽葉の林は寂しさを引き立てます。その林の隣には冬田が横たわっています。
 冬田とは稲を刈り取った後をそのままにしてある冬の田のこと。稲の後、麦や菜種を播く二毛作の田ではない。今時はもうそういう二毛作の田はないだろう。とにかく何も作ってない田で、寒さが厳しくなると刈株も黒ずんで、荒涼とした風景となります。常緑樹の山を抜けると、一面の冬田。心なしか寂しい気持ちになります。
 思い出したのですが、小学校に上がるか上がらない頃、僕は冬田でよく遊びました。今で言う蹴球ですが、どんな球であったか覚えていません。ボールを蹴って遊ぶ訳ですが、刈株に当たり思う方向へ飛びません。刈株に当たるたびに、左方へ、右方へ、あるいは戻ってきたりします。それがまた面白く日が暮れるまで遊びました。冬田では何をしても叱られません。思う存分遊べる訳です。
 そんな事を思い出して僕の顔が緩みました。今はもうそんな素朴な遊びをする子供は居ないでしょう。自然に溶け込むという体験は貴重なものだと思います。
 故里は脳裡にあるのだと、何故かしみじみと思ってる内に、うつらうつらとしてしまいました。最寄の駅に着いて、歩き始めると冷たい小雨。冬の雨でした。

まだ早いのですが・・・

2008年12月18日 | Weblog
 大晦日まで未だ日があるのですが、思い出したので記しておきます。作家の早船ちよさんが、ふるさと・飛騨の「年取り」のことを随筆に書いている。年取りとは除夜の儀式である。一家そろって神だなの前で手をたたき、それから仏さまをおがんでご馳走をかこむ。
 「『ことしも、みんな、まめで暮らせてよござんしたなあ』。母がまず父の盃に酒をつぐ。父は、うなずいて、母の盃に酒をみたす。『そうじゃって、そうじゃって、ありがたいこっちゃなあ。来年も、みんな、まめで働こう』。父は、わたしや妹、弟の盃にも、ほんのすこし酒をついでくれる。」
 この父と母の会話がいい。第一次大戦後の不況風が吹きすさんでいた頃の話だ。年越しは容易ではなかったろう。でも、つつましく暮らしてまずまず除夜の鐘を聞けることになった。ほっと一息ついて、感謝の言葉を述べ合う。神仏への感謝だけではなく、そこには、お互いをねぎらう情愛がこもっている。なにやら懐かしい光景である。
 工業化社会と情報化社会は、面と向かってお互いをねぎらう情愛を過去のものにしてきたのではないか。僕は今年の除夜の鐘を心置きなく聞くことができるであろうか。

 テレビや新聞で見聞するところでは、このところの不景気はすさまじい。派遣社員の首切りの嵐。思うに、今の日本には会社はあっても社会がない。相互扶助する社会が貧弱になっている。棄民社会が到来した。派遣社員制度を法的に認めた時(小泉政権の時)に予想されたことではないのか。除夜の鐘を心置きなく聞くことの出来ない人々が増えるだろう。

エネルギーについて

2008年12月17日 | Weblog
 エネルギーと物質が同じものであることを発見・説明したのがアインシュタインである。
 エネルギーとは、物質の質量と光速度の二乗との積であるとの等式で表される。
 宇宙はその昔、「ビッグバン」と呼ばれる大爆発を起こし、その時のエネルギーが物質化することによって出来上がったと考えられている。人類はその物質を利用することによって近代文明を謳歌してきたが、今、その文明が危機に瀕している。
 4大エネルギー資源である石油、石炭、天然ガス、ウランの採取可能年数は、それぞれ約40年(約1兆バレル)、約200年(約1兆トン)、約60年(約150兆立方㍍、約60年(約400万トン)と言われる。特に日本は消費エネルギー資源の80%を海外に依存しており、事態は深刻である。
 4大エネルギーに代るものとして水力、風力、太陽光発電などがある。これらを大いに利用すべきであるが、最終的には物質をエネルギーに変える方法の発見が人類の存亡を決めると思われる。
 その走りとして原発があるが、これは物質をエネルギーに変えた後に危険極まりない放射能を出す。
 質量を可能な限りエネルギー化すれば放射能問題も発生しない。ところが、この方法については解決の糸口すら見つかっていない。ただ、目の前に太陽という見事なサンプルがあるだけである。
 ビッグバンの冷却過程で人類は生まれた。人類は今、冷却とは逆の過程を人為的に歩もうとしている。
 2005年2月15日、米国の参加しない京都議定書が発効した。各国はこの議定書に従って温室効果ガスを減らす義務がある。とてつもない努力が必要である。「とてつもない」ということに気がついているのだろうか。気がついているとしても、ほんの一部を除いて、えらく悠長な議論をしている。