自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

水俣病和解へ

2010年03月31日 | Weblog
(朝刊より) 
 「公害の原点」と言われる水俣病の未認定患者の救済問題が大きな節目を迎えた。
 水俣病と認められていない被害者が損害賠償を求めている訴訟で、熊本地裁が「所見」として示した和解案を、原告と被告の国、県、原因企業チッソが受け入れ、和解に向けた合意が成立した。
 有機水銀中毒の患者が公式に確認されてから54年。国が和解協議の席に着いたのは今回が初めて。日本社会に突き刺さったトゲを抜こうという思いがあるのだろう。とはいえ、被害者にとって、今回の受諾は苦渋の決断だった。1人当たり210万円という一時金は15年前の「政治決着」をも下回る。強く求めていた全員救済の保証もない。
 それでも受け入れに踏み切らざるを得なかったのは、被害者の高齢化が進み、ここで拒めば「生きているうちの救済」が遠のいてしまうからだ。
 今後は原告の一人ひとりについて、救済対象者かどうかの判定が始まる。それにしても、水俣病の混迷の歴史を振り返ると嘆息せざるを得ない。
 これまでも、公害健康被害保障法に基づく認定患者、1995年の「政治決着」を受け入れた被害者、2004年の関西訴訟の最高裁判決で勝訴した被害者と、症状の基準や補償額が異なる三つの被害者が存在している。そして今回、もう一つ新たな水俣病被害者の枠組みが生まれる。さらに、なお取り残されている人々が確実に存在する。
 こうした事態の根っこには、政府が77年につくった現行の認定基準を見直さず、被害を小さく捉えて、とりあえず眼前の紛争を解消できればいいという対症療法を繰り返してきたことがある。
 水俣病問題の解決には、被害者が求める恒久的な補償・救済が欠かせない。そのためには、汚染地域全体の被害調査と被害実態に応じた認定要件の見直しが必要だ。
 水俣病は高度成長期の典型的な企業公害で、世界の公害の歴史に残る大事件だ。政府はこの機会を、過去の行政責任を明確にし、悲劇を二度と繰り返さないための出発点にしてほしい。

「自分はいまこそ言はう」

2010年03月25日 | Weblog
なんであんなにいそぐのだろう
どこまでゆこうとするのだろう
どこで此の道がつきるのだろう
此の生の一本の道がどこかでつきたら
人間はそこでどうなるだろう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
渓間(たにま)を流れる泉のやうに
自分はいまこそ言はう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛のやうであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行かうと思ふと


 山村暮鳥の詩です。このところボーと暮鳥を読んでいます。あわてなくともいいと自分に言いきかせながら。

「シンドラーのリスト」売却へ

2010年03月24日 | Weblog
 【ニューヨーク時事】第2次世界大戦中にドイツ人実業家、故オスカー・シンドラー氏がナチスの強制収容所行きから救ったユダヤ人801人の名前を記した「シンドラーのリスト」が220万ドル(約2億円)で売りに出された。AFP通信などが23日までに報じた。
 リストには1945年4月18日の日付があり、13ページで構成。801人の名前はそれぞれの職業と誕生日とともに記されている。リストを扱う歴史文書売買業者のゲーリー・ジメット氏は「ほぼ間違いなく最も重要な第2次大戦関連の文書」としており、オークションではなく、最初の申し込み者に売却するという。 

(購入した人は大切に厳重に保管されたし! カビなどに注意されたし!)

 ちょっと古い記事ですが、もう一つ。
 【ベルリン時事】ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の舞台となったポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所が解放されてから65年となる27日、収容所跡地で追悼式典が開かれ、犠牲者の冥福を祈るとともに、悲劇を繰り返さないと改めて誓った。
 ポーランドのカチンスキ大統領は式典で「虐殺は将来も起こり得る。だからこそ忘れてはならないし真実を伝えていかなければならない」と訴えた。また、イスラエルのネタニヤフ首相は「ナチスがわれわれに行ったことを決して忘れない」と力を込めた。生存している元収容者は年々減っており、今年の参加者は約150人にとどまった。(2010/01/28-01:06)

(元収容者の証言で綴った超長編映画『ショア』を最後まで観ることが出来なかった。そうか、元収容者は年々減っているんだ。当然のことだけれど。生きている僕らは忘れまじ。)

タイ情勢

2010年03月23日 | Weblog
 16日に記した、治安維持法発動下でのタクシン派「血の抗議」は未だ続いているそうだ。
 タイのタクシン元首相派組織「反独裁民主戦線」(UDD)による大規模反政府抗議行動で、同国のステープ副首相(治安担当)は22日、バンコク首都圏に23日までの予定で適用中の治安維持法を、30日まで延長する方針を示した。一方、軍は22日から、政府機関や軍施設、検問所などに武装兵士を配置すると明らかにした。
 アピシット政権はUDDに対し、政府との対話開始を呼びかけているが、UDDは「首相本人以外との協議には応じない」などと拒否し、抗議行動を継続する構え。
 既にUDDは支持者から採った血液を首相官邸や首相私邸にまいて、抗議デモを挙行している。現在のところ治安部隊も発砲などの強硬手段には出ていないもよう。
 外国の勢力が介入しない間に収拾のための方策を見出せないものか。

神さま 仏さま

2010年03月22日 | Weblog
 僕のような無心信者が宗教について云々するのは僭越である。僭越なんだけれど、ほんのちょっとだけ宗教について記すことにする。積極的に記す気はないんだけれど。
 思うに、日本人は、個々人の生き方に関しての平安や救いについて仏さまに期するところが大きいように思われる。一神教の国では、生活の繁栄も個々人の安心立命も自然の恵みも神に祈り、神に感謝する。
 古代インドの悠久の大地で成立した(と思われる)、途方も無い大きいスケールの輪廻の宇宙観は、小さな島国たる日本にはそれ程根づかなかったように思う。むしろ、西方浄土で現世の苦からの解脱を期待することが主要な関心事となったように思う。そして、願わくば現世での苦から少しでも解脱すること(この言い方は本来はおかしいのだが)を望む人々が日本の仏教を支えてきたように思われる。
 ところが、日本人の多様な信心は神さまにも向かった。五穀豊穣を祈るのは田の神さまに対してである。山には山の神さまがおられる。海には海の神さまがおられる。
 神仏習合は、それ程の褐藤もなく成立したのではないだろうか。それは、個々人の信のあり方としてだけではなく、境内に七福神を祭ったり、お稲荷さんを祭ったりしている寺院があることからも肯ける。仏壇と神棚をお祭りされている家々がある。(一神教の国の信心深い友人をかつて京都の神社仏閣にお連れした時、彼は手を合わせていた。仮に手を合わせたのだとは思われなかった。)
 僕は特別に宗教を意識することはないが、もって生まれた血の中に、そういう、苦からの解脱や平安を与えて欲しいと願う仏さまと、山の神さま、田の神さまが棲んでおられるのではないかと思う時がある。

古びた土塀

2010年03月20日 | Weblog
 僕んちの近くには写真のような古びた土塀が幾つもある。薬師寺という大寺に属する小寺の外壁である。たぶん江戸末のもの。骨董を扱う店も3、4軒ある。古いものが好きな人にとっては打って付けの土地柄かもしれない。

 それはそれとして、今日は僕としては早出の日であった。だいぶん前からの予定で一昨日までは確かに憶えていたのだが、昨日も憶えていたはずなのだが、今朝起きた時に忘却していた。あわてて身支度をして最寄りの駅に小走りで赴いた。こういう時に限って電車がなかなか来ない(ような気がする)。こうなったら慌てても仕方がない。目的地に着くのが遅れたら素直に謝ろうと覚悟した。約束を違えるに至って、いよいよ僕の脳味噌も土塀同様古びた。確かに。
 今日は暑いぐらいの暖かさ。まだ山笑うという時期ではないが、電車の窓から見える小高い山も所々淡い黄緑色。いつものことながら車窓から見える景色に見とれて、もう少しのところで乗り換えるのを間違えそうになった。
 というわけで、ブログをつけるのが今頃になってしまった。

水俣病和解案

2010年03月19日 | Weblog
 水俣病と認められていない被害者でつくる水俣病不知火(しらぬい)患者会(熊本県水俣市)の約2100人が国や熊本県、原因企業のチッソ(東京)に損害賠償を求めた集団訴訟について、鳩山首相は18日夜、熊本地裁が示した和解案(所見)を「国として受け入れる」と表明した。同会も受け入れに向け、検討を行っている。
 鳩山首相はまた、「裁判によらない方も、あわせて同じような結論を見いだせるようにしたい」と述べ、未提訴者も同じ条件で救済対象とする方針を示した。
 和解案は手や足先にしびれがあるなど、一定条件を満たした原告に1人当たり210万円の一時金を支払うなどの内容。政府は今月中にも、裁判外での救済を求めている水俣病出水の会(鹿児島県出水市)など被害者団体に和解案と同じ条件を正式に提示し、協議を進める。
 小沢環境相は18日夜、「5月1日には救済措置が開始されるよう最大限努力する」との談話を出した。


(水俣病は、環境汚染による食物連鎖によりひきおこされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。
 今回の和解が成立すれば、半世紀以上を経てやっと全面解決となるのであろうか。永かったー。)

黄河は海まで流れるか。

2010年03月17日 | Weblog
 昨日、西日本各地で黄砂が観測されたそうだ。午後五時までの中部地方から九州までの27地点での観測によると、松江市や熊本市、佐賀市では視界が5~10キロ。大阪の視界は15キロ程度で、ビルがかすんで見えた。
 いつごろからか、もう10年前ごろからか、日本に飛んでくる大量の黄砂が一種の社会問題になっている。黄砂の源の黄河の状態はどうなっているのか。
 黄河は流域の1億4000万人の生活と、740万ヘクタールの農地を支えている。その黄河の水が、取水のし過ぎで1970年代から海まで達しないという現象を起こしている。黄河の干上がり現象が初めて観測されたのは1972年。近年の25年のうちの19年は干上がり現象が起こっている。黄河流域の水需要は、供給可能量より既に10%超えており、2030年には45%まで拡大すると予想されている。生活用水源に加えて、急速に発展している工業化にともなう大幅な取水が干上がりの原因と見られる。
 黄河だけではなく、ナイル川、ガンジス川やインダス川、それに北米のコロラド川でも水が海に達しない時期がある。
 言うまでもなく淡水は陸上の生物にとって不可欠。地表の水の97.2%は海水。淡水は2.8%。だが淡水の80%は固体。固体以外は河川を流れる水、湖水、地下水、水蒸気など。河川の水の量は地表の水の量の0.0001%にすぎず、人間はこのわずかな量に頼らなければ生きていけない。水の惑星という割には、使える水は少ない。心して使わなければならない。

タクシン派「血の抗議」

2010年03月16日 | Weblog
 治安維持法発動中のタイでの反政府集会が3日目に入った。
 共同通信によると、タイ国外に逃亡中のタクシン元首相の支持団体「反独裁民主統一戦線(UDD)」は16日も、下院解散・総選挙の即時実施を求めて首都バンコク中心部で約10万人規模の反政府集会を続行。夜を徹した抗議行動は3日目に入った。UDDは支持者の血液千リットルを集めて、同日夕にも首相府にまく作戦を行う方針。
 UDDは今回、国民の反感を抑えるため平和的なデモ集会を行うと強調しており、政府施設の占拠などではなく、血をまく作戦でアピシット首相に心理的な圧力をかける狙い。一方、首相は下院解散を拒否し続けており、反発が強まり暴徒化する懸念も出ている。
 UDDによると、16日朝からタクシン氏支持者から血を採取。首相が下院解散に応じない場合、さらに千リットルの血液を集めて首相が党首の民主党本部にもまく方針。それでも応じない場合、千リットルを首相の自宅にまくという。


(タイの内政や内情の現場を知る術をもたないが、千リットルの血を何度かまいての抗議活動というのは僕の理解を超える。非暴力による抵抗というものなのだろうか。話し合いによる収拾を強く求める。)

ソマリアの子ども支援

2010年03月15日 | Weblog
(新聞より) 
 ソマリアには国際社会から認められた政府がない。南部では戦闘が続く。人道危機に直面する子どもを支援するユニセフ(国連児童基金)の担当職員は230人。3分の1は安全上の問題で隣国ケニアの首都ナイロビの支援センターを拠点にする。
 師岡イマーン(Iman)さん(34)はその一人として、報道発表やニュースレターを出し、視察受け入れなどを調整する。援助現場と子どもたちの様子を取材するために危険な地域にも入る。
 訪ねた病院で栄養失調で骨と皮になった子どもに会い、衝撃を受けた。自分が発信しなければ、と思った。だが、南部で実施した予防接種活動を取り上げてもらおうとしたら、紛争報道に忙しい米国の大手新聞記者は「いいことだが」と言って取り合ってくれなかった。
 2月には自らの提案で日本ユニセフ協会大使のアグネス・チャンさんらの視察を実現させ、同行した。「日本の人たちに知ってもらいたい」。その一心だった。
 エジプト人の父と日本人の母をもつ。8歳まで日本で過ごし、その後エジプトへ。ルワンダの虐殺事件などの報道に接し「自分に何ができるのか」との思いを強くした。カイロ大学を首席で卒業、上智大学大学院などを経て2006年にユニセフへ。年に1回は母と姉がいる日本に帰る。
 昨年は南部のユニセフ事務所が武装勢力に占拠された。国連職員や外国人の誘拐も珍しくない。「何でも起こりうる。覚悟している」と笑顔で語る。


(「覚悟している」と言えても実行できる人は偉いと心の底から思う。僕を含めてアフリカ諸国の現状を知らない日本人が多いと思う。知る手立ての一つがユニセフの発信を受信することだ。日本ユニセフ協会のホームページがこのページの右欄の下方にリンクしてあります。ご覧になりませんか。)

春愁

2010年03月14日 | Weblog
 今日は朝から暖かい。陽光の色が違う。春です。
 今晩、東大寺・二月堂のお水取りのクライマックス。この後、本格的に春が来ると関西では言われています。
 この写真は昨年、友人からもらったものです。
 お水取り行事には2度行ったことがあるんですが、すごい人出。その中、大きな松明の火の粉に当たると一年間息災で過ごせるとのことで、人々が前へ前へ進もうとします。
 春。僕はボーっと春愁にひたります。

(今日はちょっと遠出してきます。)

コマーシャルです。

2010年03月13日 | Weblog
 アフリカ・ルワンダの保健センターに、また栄養不良の子どもが担ぎ込まれました。名前はアリアン、1歳3ヶ月になる女の子ですが、体重は4ヶ月の赤ちゃんほどしかありません。家が貧しく、何も食べさせてあげられない日が続いたと、お母さんがつらそうに打ち明けてくれました。幸い、すぐに栄養治療が開始され、アリアンは命をとりとめました。しかし、こうした生きるチャンスが届いているのは、実はごく一部の子どもたちに過ぎません。
 開発途上国では、今も10秒に1人、栄養不良で子どもが命を落としています。貧しさのなか、空腹で弱りきった子どもたちは、先進国なら簡単に防げるはずの病気に負けてしまいます。それだけではありません。栄養不良は身体や知能の発達を遅らせ、多くの子どもたちを一生抜け出すことのできない貧困のなかに閉じ込め、様々な可能性を奪っていくのです。
 
 ユニセフのホームページをご覧になりませんか。このページの右欄の下方にリンクしてあります。

温暖化対策基本法案

2010年03月12日 | Weblog
(新聞より。このところ「新聞より」が多いことを自覚しているが、記録に留めておきたい。)
 政府の閣僚委員会は今国会に提出する地球温暖化対策基本法案の内容について合意した。
 ◆基本法案の骨子◆
【目標】
 ▼中期目標(20年までに25%削減)は全主要国が公平な枠組みなどに合意時点で設定
 ▼中期目標設定までは長期目標(50年までに80%削減)達成に向け、基本的施策実施
 ▼世界全体の排出量を50年までに半減する目標を各国と共有するよう努める
 ▼再生可能エネルギー(太陽光や風力など)の供給を20年までに10%に
【基本的施策】
 ▼国内排出量取引制度を創設。企業の排出上限は総量を基本に効率目標も検討
 ▼地球温暖化対策税の11年度実施に向け検討
 ▼再生可能エネルギーを電力会社が高値で買い取る制度を創設
 ▼原子力発電は安全確保と国民理解を前提に推進

(「全主要国が公平な枠組みなどに合意」を前提にしているが、この前提が満たされなかった場合はどうするのか?米国、中国、インドなどが温暖化対策に前向きに取り組むよう世界世論を盛り上げなければならない。が、困難なのではないだろうか。排出量取引制度を国内に絞っていると読める。これは良いことで、京都議定書では他国との排出量取引制度を認めていた。これでは地球全体の温暖化ガスの排出が減らない。安全確保と国民理解を前提に原発の推進を容認しているが、安全をどう確保するのか。確保するのであれば、まずはこれまでのすべての原発事故とその原因の詳細なデータベースをつくって、いわば原発黒書を公表すべきだ。思うに、原発には事故と巨費がつきものだ。その巨費でソーラー発電などのコストダウンと拡大を図るべきだ。)

埋もれ木

2010年03月11日 | Weblog
(以下は概略、以前の徒然想で書いたことがある。)
 僕んちのすぐ近くに、歩いて5分とかからないところに鎮守の杜がある。人気が無く、常緑樹で覆われている杜の境内をそぞろ歩きしていると肌寒いが、樹々に風が遮られてそれ程冷たくはない。鎮守の杜とは鎮守の神を祭った森である。森は神の棲むところであり、非日常の世界である。子供の頃、山の神行事で、夜中に小高い山を松明を掲げて歩き回った記憶は僕の心象風景の原点と言ってよいかもしれない。グリムの『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』などの物語は森に踏み入って始まる。小さくとも鎮守の森(物語の世界)が近くにあることは有り難い。
 その鎮守の森の傍で水道工事をしていたが、その最中それほど大きくはない木が出てきた。長年地中に埋まっていた埋もれ木である。人気が少ないとはいえ、町の中での埋もれ木は珍しい。埋もれ木は、世間から顧みられない存在の喩えでもある。このところ僕は凹んでいて、どうせなら埋もれ木のようになれたらと弱気になっている。一日、ボーとしていることが多い。しかし、このボーは今に始まったことではなく、僕の持ち味ではある。
 大型の寒波も今日で一息だとか。
 一昨日、鎌倉の鶴岡八幡宮にある樹齢800~1000年の大銀杏が雪の重みと風で根元から折れたとか。
 昨日、佐渡で野生復帰のために訓練していたトキ9羽が、イタチのような小動物に襲われ死んだとか。

存在した核密約

2010年03月10日 | Weblog
 1960年の日米安保条約改定以来50年。ようやく核密約の存在が明白になった。
(朝刊より)
 民主主義国の政府が、国家の根幹にかかわる外交・安全保障政策をめぐり、何十年にもわたって国民を欺き続ける。あってはならない歴史に、ようやく大きな区切りがついた。
 1960年の日米安保条約改定と72年の沖縄返還をめぐる四つの日米密約について、岡田外相が設けた有識者委員会の調査報告書が公表された。
 今回、検証された密約は、いずれも米国側の情報公開や関係者の証言で、かなり以前から「公然の秘密」となっていた。にもかかわらず、歴代の自民党政権はその存在を否定し、国会でウソの説明を繰り返してきた。
 国民の生活や国益に直結する重大な政治判断は、長い時間が経過したり、局面が変わったりしたら、歴史の審判に付されなければならない。民主主義の大原則だ。検証の成果を評価し、外交への信頼の強化と民主主義の一層の成熟につなげていきたい。
 密約に対する報告書の認定には濃淡がある。
 第一に安保改定時の核持ち込み密約である。核兵器を積んだ米艦船の日本への寄港や領海通過については、事前協議が必要な核持ち込みには当たらないとする「暗黙の合意」があったとして、「広義の密約」と認定した。
 外務省の事前の内部調査では、単に日米間の「認識の不一致」とされた。しかし、歴代首相も外交当局から説明を受け、米側の解釈に異を唱えなかった。密約との認定は当然だろう。
 一方、沖縄返還後の核再持ち込みについて、当時の佐藤栄作首相とニクソン大統領が署名した文書の現存を確認しながら、「必ずしも密約とはいえない」とした。これには首をかしげざるをえない。
 有識者委員会は3カ月余りの短期間で報告書をまとめなければいけなかった。米国側の当事者からのヒアリングも十分とは言い難い。
 今回、政府は報告書作成の資料とした膨大な外交文書を、秘密指定を解除して公開した。政府の調査は一段落だが、学界などで米側資料との照合も含め、多角的な検証を期待したい。
 何より大事なのは国会の役割だ。衆院外務委員会は密約調査のための参考人招致を決めている。さらに真相に肉薄する使命がある。
 密約問題は、自民党長期政権が残した巨大な負の遺産である。自らの責任に正面から向き合ってもらいたい。
  国民の反核感情を考えれば、正面切って核搭載艦の寄港を認めることは政治的にできず、そうした見て見ぬふりが、結果的に日本の安全を守ることにつながったという密約擁護論もある。しかし、米国は冷戦終結後の90年代初め、水上艦艇からすべての戦術核兵器を撤去した。核持ち込みの可能性が事実上なくなった後も20年近くも国民にウソを繰り返してきたことは言い訳できまい。
 本来、民主主義国の外交に密約はあってはならない。万やむを得ず秘するなら、後世からの厳しい批判を覚悟しなければならない。政治家や外交官が常におのれに問うべきなのは、歴史に対する緊張感と謙虚さである。


(以上のような事は僕の思考の圏外にあるので、新聞記事に頼らざるを得なかった。思うに、この密約を被爆者やその子孫の方々はどんな気持ちで受け取っておられるであろうか。秘密を保ち続けてきた政治の責任者や外交の責任者で、なおかつ今も現役の者どもは真実を明言して辞職すべきだ。)