自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

或る編輯後記 ④

2009年06月30日 | Weblog
○十一月号の編輯後記より
 敗戦の痛苦は、いまやっとはじまったばかりである。・・・
 一人の義人あるなし、戦いの直前にかく嘆じたわれわれは、この惨憺たる敗戦の今日、再び同じ嘆きを発せずにはおれない。到る所に見る頽然たる人心の荒廃と麻痺なり。
 われらは天下の声に和して、率然と「自由」に晏如(アンジョ)たるを得ない。あふれ出るわれらの涙で洗い清め上げられた「自由」を、幽かに光りと仰ぐものなり。

○十二月号の編輯後記より
 われら日本国民の忘れんとして忘れ得ざる昭和二十年を旬日のうちに送らんとするに当たり、読者諸氏の感懐や如何に!! 我等編輯同人等しく無限の悲愁と衷情を籠めてこの[註:昭和二十年の]最終号を諸氏の机辺に贈るものである。
 痛烈なる自己革新のなきところ、輝かしき前進はない。敗戦以来、我々は何処に痛恨骨を噛む如き残恨と贖罪の文章に接したであろうか。あるものは比比として表層的な民主主義への転身謳歌のみである。かくてわれらは真の民主主義に徹することなく、再び世界の舞台に乗り出し得ると思っているのであろうか。
 再建日本に近道はない。日本知識人の叡智と友愛を信じつつ、この新たなる苦難の歳をわれら自らの手によって切り拓くことを、相共に誓い度いと思う。


(戦前と戦後との編輯後記がいかに異質なものか!仕方がなかったとは言え、その変わり身の早さ!変わり身の早さが、戦後5年の朝鮮戦争特需で日本がぼろ儲けし金権体質を露呈しても、無反省につながったのではないか。それ以降、民主主義は日本に根を下ろしたのであろうか。)

或る編輯後記 ③

2009年06月29日 | Weblog
○十月号の編輯後記より
 三月号以後の空白、この間の感慨はことさらにこれを省略したい。四月号は編集終了直後五月二十三日印刷所で焼失、ただちに代行印刷所を選定しその再編輯もほとんど成ったところで終戦の御詔勅を拝受した。終戦と同時に急遽立上って作製されたものが本号である。
 「日本人の大半は一度として自由を拘束されざる出版というものを経験した事がないのである。従って厳重な監視下にあった出版が民主主義的な特権を享受する出版へと移行するのは容易な業ではなかろう。日本の編輯者は各自が印刷するものについて慎重に考慮し、熱狂の余り無意識のうちに自由の域を越えて放縦の世界へと足を踏入れることのないようにせねばならぬ」と、在る米週間時評家が述べているそうである。終戦直後の寄稿を掲載した本号を一読すれば、人々が次々にたぎる憤怒と反省を自ら制御し難きままに打(ブ)ちまけている荒い呼吸づかいを紙背(シハイ)に聞くのである。編輯者に止まらず、一際の日本人はただいま「自由」の風圧下に自失していると云うのがあらゆる面での真相である。
 昨日迄一億総決起、本土決戦を強調したアナウンサーがその口調と音声で今日は軍国主義を忌憚なく指弾し民主主義を高調している。アナウンサーは人格ではなかったのだ、機械なのだ、と市民は云う。耳を塞いでこの言葉を聞かずに過ごす資格を我々は持たぬ。我々の過去の道は実にジグザグであった。あらゆる強要に対して家畜の如く従順であった。従順である以上に番犬の役をかって出た者もあった。今日の侮過(ケカ)の激しさを役立てねばならない。

或る編輯後記 ②

2009年06月28日 | Weblog
○三月号の編輯後記より
 われわれは今こそ前線に繋がる悦びを持つ。グラマンの跳梁を抑えて大空を乱舞する友軍戦闘機群の爆音。校正室の窓ガラスをビリビリ震わせて咆哮する高射砲の轟き、そして異様なる音響をたてて落下する銃弾に破片――これが戦場でなくて何であろう。今まで銃後と前線との緊密さについて、しばしば口に叫ばれ筆に書かれたが、それらの言葉が真実であればあるだけ、それの伴う実感には時に空白なるもののあるのは否定し得べくもなかった。銃後国民の本当の肚(ハラ)の底から出るべき決意と行動が、いつの間にか空転し、空念仏に終わるの撼(ウラ)みさえ乏しくはなかった。しかるに一度硝煙が本土にわき上るに及んで、我等の衷心から覚える勇躍感はどうであろうか。遅疑すべく何物もなく、今や我等の全存在はこの大みいくさの戦場にしっかと立ちはだかっているのである。前線将士と同じ誇りに立ち同じ苦難と歓喜を頒(ワカ)ち合う今日の事態を、我等は敢闘一本に貫くことを誓い合おうではないか。


(今日は久方ぶりの囲碁大会。8時には家を出ます。)

或る編輯後記 ①

2009年06月27日 | Weblog
(以前の徒然想に書いたが、徒然想がなくなったので再度。)

 『昭和二十年の「文藝春秋」』という新書版の本を買った。この年『文藝春秋』は4月から9月まで発行されていない。発行された分の編輯後記に関心をもったので、引用する。

 ○新年号の編輯後記より
 大東亜戦争の天王山といわれる比島の決戦が日日に熾烈さを加えている今日、敵機の空襲はようやく執拗さを増してゆく。晴れわたる祖国の空を仰いでB29の醜翼を見る者、誰かは烈々たる敵愾(ガイ)の情心中に滾(タギ)るのを感ぜぬ者があろうか。われら銃後の健闘が直ちに主戦場比島に繋がることを痛感せぬ者があろうか。事実はあらゆる形容詞を一蹴して、われら一億を真の野戦へ起(タ)たしたのである。戦わん哉。戦わん哉。

 ○二月号の編輯後記より
 今や全国民の熱願をこめて、比島戦は開始された。粛々として動かざるわが主力が、迅雷の行動を起こす時をわれ等は刮目(カツモク)して期待しているのである。米兵の鏖殺(オウサツ)、ただ鏖殺あるのみ。敵をして出血の夥大(カダイ)に悲鳴をあげさせるまで、われ等銃後の生産陣は一刻の懈怠(カイタイ)も許されないのだ。

読み書きの素晴らしさ

2009年06月26日 | Weblog
 10年ぐらい前から日本語の作法とか美しい日本語とかと言って、ちょっとした日本語ブームである。それはそれで大切なことだと思う。だが、作法とか美しいとかと言う前に、日本語の読み書きを一所懸命勉強している人たちが居ることも忘れてはならないと思う。以下に紹介するのは、在日の人々の文集からの一文である。
 「私が、この学校に来たのは、六十代でした。この学校に来るまでは、読む事も、書く事も、出来ませんでした。この学校に来て先生にいろんな文字を、教えてもらいましたが、忘れるのが多いです。でも本当に先生のおかげ様で文字も少し読み書きが出きます。外へ出歩きますと看板を見て読む事が出きますので本当に素晴らしいと思います。先生は私達のために雨の日も風の日も、毎週来て教えてくださいまして本当にありがとうございます。これからも、もっともっと勉強を教えてください。」
 戦後、日本に住まざるを得なくなり、日本語を話すことは出来ても読み書きが出来ず、六十代になって初めて日本語を学ぶ人々が居る。六十代になってというのは、困難な状況でやっと子供たちを育て上げ時間に余裕ができたからである。読み書きができる素晴らしさを僕は文集から教えられた。今引いた文章の字は手書きのもので、読み易いとは言い難いが、書き手の懸命さが伝わってくる。文中、先生と言われているのは、生徒からすると孫に当たるような、ヴォランティアで識字教育に携わっている若い人たちである。日本の今の世に、読み書きの素晴らしさを体得している人々が居る。その事に僕は心うたれる。

里山への憧憬

2009年06月25日 | Weblog
 昨日、画像掲示板にツリガネニンジンの花を「里山などに自生しています」という言葉とともに届けて頂いた。送り主は山野草を千鉢ほど育てている方で、今まで届けて頂いた山野草は貴重なものばかりである。ツリガネニンジンは僕でも知っていて、近所の野原に生えている。その野原は小さな小さな里山と呼べる環境である。近所には、子どもの頃よく遊んだ比較的大きな里山はない。
 都市の中あるいは都市に近接して、山林は無理でも、里山はある方がいいと思う。かつては日本の至る所にあった里山。
 先だって買った本によると、里山とは、比較的小規模な森林と草原と湿原という3つの要素から成り、人間の手によって緻密につくられ、比較的狭いところにある環境である。そんな環境で生きもの達がその間を行き来する。沢山の生きものを棲まわせる環境である。
 そんな里山を守ったり再生したりすることは、今となっては難しいことだろう。国立公園のように人の立ち入りを制限して管理することはできない。あるいは、住宅地によくある公園のように、ただ人がのんびりしたり、犬を散歩させたりするところでもない。里山には、人が暮らしていることが大前提である。多くの場合は稲作農家の人々である。人が暮らしているために、里山の維持が難しいとも言える。そこで暮らしている人は食べるために、もっと言えば戦後の経済成長に取り残されないでおこうと豊かな生活をするために、里山を放置せざるを得なかった。
 では、里山の環境を残すには、どうしたらいいのか。結局のところ、人々の意識が変わる他はないのではないかと思う。土地の地権者は、あたりまえのように眺めてきた景色を新しい眼で見直し、また、都会から里山を訪れる人々は地元の人たちと接し、これまた新しい視点で土地を理解していくことが必要だと思う。
 多様な自然と文化が入り混じった里山をかけがえのない場所として多くの人々が自覚する必要があると思う。


(今日はまた今年一番の暑さだとか。汗をかきに京都へ行って来ます。)

病む事

2009年06月24日 | Weblog
 十三年前に大病というのか急病というのか、とにかく一歩間違えば彼岸にいく病を得た。それ以来、投薬を続けている。体調はいたって順調ではあるが、順調であるように思えるだけで、病んでいる事は事実のようだ。近頃思うのだが、病は生命のひとつの姿ではないかと。(当然だと言われれば返す言葉がないが。)病む事があるからこそ、生命のバランスを保っているのではないかと。一病息災とはよく言ったものだと。一病であればいいのだが。
 病んだとき、例えば風邪で寝たぐらいのときでも、風の音に耳を傾け、流れる雲を静視する自分に気がつく事があった。
 志賀直哉は交通事故の後養生に城崎温泉へ出かけ、蜂や鼠やイモリの死を見つめる事で死生観を問い直し、『城の崎にて』を書いた。梶井基次郎は肺結核の療養で滞在した伊豆の湯ヶ島で『闇の絵巻』や『交尾』などを書き、自然と生命を凝視する眼を澄ませた。島木健作は修善寺に病身を運び、そこで見た蛙の死に、小さな命に宿る崇高さを感得し、『赤蛙』を書いた。彼は敗戦の翌々日に病死するが、『赤蛙』には、四十二歳という若すぎる最期が未完でなかった事が窺える。
 病んで、場合によっては死ぬ事があっても、自然の本当の姿を垣間見る事が出来る。病む事は生を豊饒にするとも考えられる。僕の場合、問題は、「考えられる」という事だけで思考と感受性が停止するだろうという事である。

平和のいのり

2009年06月23日 | Weblog
 沖縄平和宣言が公表されたら転記すると今朝述べたが、新聞に公表されたのは要旨のみ。要旨では転記する気になれない。要旨をつくるのは難しいのだ。なぜ全文を載せないのか?代わりにと言ったら失礼にあたるが、式典で朗読された詩を転記する。小学6年生の比屋根憲太君の詩。

   平和のいのり(全文)
石に刻まれた家族の名に
涙を落とす祖母
なんの形見も残っていない石に
声にならない声で
石をさすり
石をだきしめる
小さな声でとても小さな声で
「本当は話したくないサー」
少し首をかしげて
空を見上げる
人さし指の大きさの大きな傷
あごと左腕に残る
戦争の傷あと

祖母は傷の手当てをするために
水くみに行った
防空ごうに姉を残し 母と二人で
そのあとすごい光と音が…
そのまま姉はもどらなかった
「いっしょに連れて行けばよかった」
「ごめんね ごめんね」
と何度も何度も
きたときよりも
石を強くさすり
石を強くだきしめる
ぼくはもう声を上げて泣いていた
そして祖母の背中をずっとさすった
こんな青い空に
こんなおだやかな沖縄に
戦争は似合わない
祖母のくしゃくしゃな涙も
似合わない

そんな祖母はもう今は歩くことが
できない
毎日毎日空を見て
きっと
生きている喜び
生き残った悲しみを感じて
いるのだろう
ぼくは車イスをおして
祖母のいのりを引きつぐ
戦争のない平和な国を

(この詩で「石」と言われているのは、言うまでもなく「平和の礎(いしじ)」。この石碑群には味方と敵の区別なく戦没者の名前が刻まれている。)

沖縄 慰霊の日

2009年06月23日 | Weblog
沖縄戦犠牲者鎮魂のため平和祈念像の前で奉納される琉球舞踊=沖縄県糸満市摩文仁で2009年6月22日、上入来尚撮影

 今日は沖縄戦での組織的戦闘が終わったとされる日。大本営にとって沖縄戦は、長期戦で米軍を消耗させ本土進攻を遅らせる意味があった。まさに沖縄は「捨て石」となった。組織的戦闘は終わったが、散発的な抵抗は続き、守備軍の降伏は日本が降伏文書に調印した5日後の9月7日だった。
 沖縄戦の死亡者は日本側18万8000人以上、米側1万2520人とされる。日本側の半数約9万4000人(推計)が住民だった。(毎日新聞より)

 沖縄平和宣言が公表されたら、今日中に転記する。

コマーシャルです。

2009年06月22日 | Weblog
(一昨日送られてきたユニセフ・リポートより)
 女の子が学校に通えるようになると、子どもの生存率が上がる! なぜ?

 スーダンの少女リハナは小学4年生。学校が終わると急いで家に帰ります。水くみや山羊の世話をしなければならないからです。リハナは、忙しい家事の合間に弟や妹、近所の子どもたちに学校で習ったことを話してあげます。トイレの後は手を洗うこと、池の水は虫がいるから飲んではいけないことなど。時々村の大人たちも足をとめて聞いています。
 リハナや村の女の子たちが広める生きるための知識のおかげで、最近、病気になる子どもが減ってきています。
 学校へ通い、生きるために欠かせない知識を学んでいく女の子たち。その知識は、家族へ、社会へ、そして次世代の子どもたちへと受け継がれていきます。小学校を出た母親の子どもは、5歳の誕生日を迎えられる可能性が2倍になることが証明されています。(逆に言うと、現状では5歳になるまでに死ぬ子どもがどれほど多いことか!)
 ケニアでは数年前に小学校が無料化されましたが、貧しくて文房具を買えない家の女の子たちは、学費が無料になっても学校へ通えません。
 3000円のご支援が57人分のノートと鉛筆に変わります。

 UNICEF JAPANのホームページをご覧になりませんか。
    http://www.unicef.or.jp/

バルト三国

2009年06月21日 | Weblog
 15年ぐらい前からであろうか、ヴァイオリンのギドン・クレメル、チェロのミッシャ・マイスキーといった現代を代表する演奏家を輩出したバルト三国。その「合唱音楽選」を聞いて心動かされるところがあった。

  わが祖国 わが愛
  わたしの心はあなたのもの
  あなたのために歌うは、最高の幸せ
  花咲き誇るわたしのエストニア
  あなたの痛みに、わたしの心は煮えたぎる
  あなたの喜びと幸せに、わたしは歓喜する
  わが祖国、わが祖国、わが祖国
         (エストニア合唱曲「わが祖国、わが愛」より

 愛国主義と言うなかれ。13、4世紀以来外国に支配され、1990、1991年に独立を果たしたバルト三国の人々が祖国愛を歌い、そして冬の厳しさ、春の喜び、小鳥の声や花の彩りを美しく抒情的に歌っている。気負い無く、少しの激情をもって、自然や人間への愛を繊細に歌っている。ギドン・クレメルの繊細なヴァイオリンの音色を育てた風土が根付いているのであろう。
 もう三十数年も前、バルト三国に入り損ねた事を思い出した。体調が順調であれば、訪ねる事もあるだろうか。


(今日はちょっと遠出して来ます。)

1999年8月6日広島にて

2009年06月20日 | Weblog
 僕はこの年初めて原爆死没者慰霊式並びに平和記念式に臨んだ。遅きに失したが、学ぶところが多かった。平和については学ぶのみである。その時の「平和宣言」の冒頭部分を復習しておく。
 「戦争の世紀だった20世紀は、悪魔の武器、核兵器を生み、私たち人類はいまだにその呪縛から逃れることができません。しかしながら広島・長崎への原爆投下後54年間、私たちは、原爆によって非業の死を遂げられた数十万の皆さんに、そしてすべての戦争の犠牲者に思いを馳せながら、核兵器を廃絶するために闘ってきました。
 この闘いの先頭を切ったのは多くの被爆者であり、また自らを被爆者の魂と重ね合わせて生きてきた人々でした。なかんずく、多くの被爆者が世界のために残した足跡を顧みるとき、私たちは感謝の気持ちを表さざるにはいられません。
 大きな足跡は三つあります。
 一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。・・・家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々たる瓦礫の中、生死の間をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意志と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。・・・」
 このように始まる平和への祈りを僕は聴いていた。今年はどのような宣言が謳われるのであろうか。言葉は違っても主旨は同じであるはずだと想像している。

遺書

2009年06月19日 | Weblog
(最初のブログ「徒然想」(これはサーバーの倒産で消滅)で遺書を記したのは、8年ぐらい前のことだった。再度、紙に書いてある遺書をもう一度ブログに公開する。家人はイヤがると思うが。)

私、相良理方が死亡した後には、私の権利をすべて妻・○子に移譲する。なお、私の葬儀はできる限り簡素に近親者だけで執り行われることを希望する。
  2009年6月19日
                               相良理方 印

追記1 葬儀ではベートーヴェンのピアノコンチェルト第5番の第二楽章を聴かせてください。
追記2 もしも仮に人工呼吸器を72時間以上装着する必要があるか否かが、その場の問題となるような状況が起これば、人工呼吸器の装着は止めてください。

(追記1に関して、当時、夏彦さんから、はっきりとは覚えていないのですが、5番の第二楽章ですか!というコメントを頂いた記憶があります。
追記2は今回、付け加えました。)

ベルリン・ヒロシマ通り (再掲)

2009年06月18日 | Weblog
 東西ドイツが統一された後、程ない1990年9月1日、ベルリンのティアガルテン区で或る通りと或る橋の改名式が行われた。旧名を海軍提督の名をとった「グラーフ・シュペー通り」、「グラーフ・シュペー橋」と言う。改名式で区の代表者が次のような演説をした。
 「・・・ヒロシマという新しい橋の名前により、私たちは、最初の原爆投下の影響により今なお苦しみを受忍している都市のことを思い起こすのであります。
 人間精神の比類なき倒錯である原爆は、ドイツ・ファシストたちによって始められた犯罪的戦争の最後に現れました。1933年リュツオフ橋をグラーフ・シュペー橋に改名したのもファシストたちでした。この時、この付近で多くの通りが旧国防軍(海軍)の将校の名前を付けられたことを私は思い起こします。・・・グラーフ・シュペー通りをヒロシマ通りと呼ぶことができるようになったことは、私の深く喜びとするところであります。・・・
 ヒロシマという名前は、世界の人々がナチスのテロにより受けた多くの犯罪と苦痛をも代弁するものとなるのであります。」

 忘れることをよくする僕らに忘れてはならないことがあることを、ベルリン市民の行動が教えてくれている。大戦に対する反省の度合いが、日本よりドイツの方が強いということは、しばしば聞くところである。ヒロシマという名前を通りと橋に付けることによって反省を明確に表す行動を他山の石にしてはならないと思う。


(今日は木曜日、運動のために京都へ行って来ます。暑さはまだまだこれからで、去年気がついたんですが、ビルに当たった陽光がプラタナスに反射したそのプラタナスは自ら葉を白く枯れたようにし、水分の蒸発を防いでいるようです。ビルからの反射光が当たっていないプラタナスの葉は青々しています。)

戦後64年、いつまで戦後なのか?

2009年06月17日 | Weblog
 戦後64年、いつまで戦後なのか、戦後という言葉が有名無実になるのはいつか、と考える。答えは当分出ないだろう。日本人ないし日本国のみで出せる答えではないから。
 (昨年8月14日の新聞記事「看看北京」より)
 日本の選手が転ぶと、その度に観客席から歓声と笑い声が上がった。
 遼寧省瀋陽で13日にあった北京五輪男子サッカーの日本―オランダ戦。中国人観客のほとんどがオランダを応援した。日本人サポーターの声援をかき消すような失礼なブーイングを激しくうならせる。
 スポーツじゃないか。なぜ、そこまで日本への嫌悪感をあらわにするのか。中国でサッカーの試合を見るたびに感じる不快さ。それが今回も繰り返されている。15日には、女子サッカーの日中戦が行われる。
 もちろん、少しはましになったとの見方もあるかもしれない。が、昨夏、瀋陽であったサッカー日中戦では、日本人サポーターに紙コップが投げつけられ、「日本人はとっとと帰れ」と罵声が飛んだ。
 瀋陽は「満州国」時代の中心都市、奉天。抗日ゲリラが弾圧された。「日本に親族を殺された」と話すお年寄りは少なくない。日中関係の改善が進んだ今、日本好きの若者もたくさんいる。それでも日本はまだ「悪者」の座から離れられない。
 数々の有力選手を生んだサッカー好きの地でもある。同じ遼寧省で1929年、日本の植民地支配下にあった大連のサッカーチームが日本に勝ち、地元の人々の気分をいかに晴らしたかが地域史の文献に記されている。普段は理性で感情にふたをしている人も、サッカーとなると抑えきれなくなるのだろうか。
 「以前なら日本人がここで試合をすること自体が無理だった。あと50年たてば、日本も普通に試合ができるようになるかもな」。昨夏、地元の警備当局者に厳しい口調で言われた言葉を思い出す。
 まだまだ時間はかかるのかもしれない。でも、いつかは・・・・・。平和の重みを感じつつ、その日が来ることを信じたい。

 こういう記事を読むと、戦後64年、いつまで戦後なのか、ではなく、戦前がまだ終わっていないのではないかと思わざるを得ない。戦前が終わっていない以上、戦後は続く。(中国国内での人権問題などは別の話である。)