自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

たきび~さざんか~こがらし

2013年11月30日 | Weblog

一 かきねの かきねの まがりかど
  たきびだ たきびだ おちばたき
  「あたろうか」「あたろうよ」
  きたかぜぴいぷう ふいている

二 さざんか さざんか さいたみち
  たきびだ たきびだ おちばたき
  「あたろうか」「あたろうよ」
  しもやけ おててが もうかゆい

三 こがらし こがらし さむいみち
  たきびだ たきびだ おちばたき
  「あたろうか」「あたろうよ」
  そうだん しながら あるいてく


(四季ごとに童謡があって、いいですね。猫の額に一輪二輪、山茶花が。
今朝はさぶっていう感じ。昼間は少しは暖かくなるとか。)

感じの良さ

2013年11月29日 | Weblog

 『ラ・ロシュフコー箴言集』より
 美しさとは別個の、感じのよさなるものについて語るとすれば、それはわれわれの知らない法則にかなったある調和である。顔立ち全体の、そして顔立ちと色つや、さらにはその人の風情とのあいだにある、ひとつのえも知れぬ釣り合いである、と言うことができるであろう。

 これは言い得て妙である。冬彦さんも呆さんもパンダさんも忠さんも、こう言うのは僭越ではあるが、まことに感じがよい。何故感じがよいのか、その理由は上記の通りである。一見したところ、お顔だけを見れば美しいとも感じがよいとも言えぬかも知れない。だが、それぞれのお顔とそれぞれの風情とのあいだには、「えも知れぬ釣り合い」が看取される。「えも知れぬ」である。まことに「えも知れぬ」である。
 人物の感じのよさというものは、言葉では表すことができない。言葉で表すことができて、「さもありなん」と言えば、感じがよいとは言えないだろう。
 知り合いを思い出すと、「えも知れぬ」人物と「さもありなん」人物が居られる。テレビでたびたび見る首相や政治家連中は「さもありなん」人物になってきた。

近代化ゆえの窮乏

2013年11月28日 | Weblog

 柳田国男の民俗学への発心の一つは、日本の近代化への批判的な視点にあると思う。
 農政学を専攻し農政家となった点にも、そこから転じて民俗学を興した点にも、そういう視点が貫かれている。近代化は人々の暮らしに不幸感を蓄積しつつあるという視点。『遠野物語』などの民族学研究にも、このような視点が色濃い。
 その不幸感の源は近代化ゆえに発生してきた窮乏にあった。柳田曰く「昔の貧乏と云えば放蕩その他自ら招いた貧乏か、又は自分の家に現はれて来た一時の大なる災害不幸の結果で稀に起こることでありましたが、現代では此外に真面目に働きつつ尚少しづつ足りないと云う一種の不幸が現はれて来ました」。
 こう述べて柳田は、「是は金銭経済時代の特色で」、「今日の貧乏は自覚しつつ防ぐに術の無い苦しい窮乏」と断定している(『時代ト農政』1901年)。
 100年以上前の警告ではあるが、現代の所謂ワーキングプアを予想していた感がある。「防ぐに術の無い苦しい窮乏」の時代が繰り返すということか。近代化、就中、工業化という事を考え直す時代も繰り返す方が良いと思う。
 第一次産業への立脚を重視すべきだと思う。

パブロ・カザルス(再掲)

2013年11月27日 | Weblog

 カザルスの伝記のような本を斜め読みした。これで何度目か分らない。どのページにも感動的な事が書かれている。一つ引く。
 「私には、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスといういつも変わらぬ友があった。また、演奏旅行には、たいてい音楽仲間で親友のハロルド・バウア、アルフレド・コルトー、ジャック・ティボー、フリッツ・クライスラーが一緒だった。どこの国に行こうと、どこで演奏しようと、それがモスクワの貴族会館ホールであれ、メアリランドの高校の講堂であれ、見知らぬ土地で異邦人だと感じたことは一度もない。モルフィ伯が数ヶ国語を勉強するように言ってくれたことに、いつも感謝していた。私は七ヶ国語は流暢に話せた。しかし、どこでも人々と理解し合えたのは、根本的に音楽を通してだった。国語は違っても、われわれの心を結ぶ言葉は同じであった。国境を越えて異国の町で眠っても、この共通の友愛の精神を常に発見できた。」
 懐かしい演奏家の名前が出てきた。僕の個人的な事を言えば、コルトーのショパンを聴いて、これがピアノ音楽というものかと実感した事がある。それはさて措き、「共通の友愛の精神」、現在の世界で最も求められている精神なのではないだろうか。この精神は平和を希求する精神に通じる。スペインのフランコ軍事政権に追われたカザルスが、いつだったか、おそらく40年ぐらい前に国連総会で感動的な演奏した。その演奏をテレビ報道ではっきりと覚えている。故郷カタルーニャの民謡「鳥の歌」を弾いた。弾く前に一言、「カタルーニャの鳥はピース、ピースと啼きます」。

雑木林

2013年11月26日 | Weblog


 落葉樹が殆ど裸木になった。その鋭角的な枝の群越に青空がまぶしい。
 僕のひ弱な文学遍歴の最初と言えるものは、独歩や蘆花の随筆だった。この二人が見出したのが、雑木林の美しさだった。ツルゲーネフなどのロシア文学にも負うているのだが、それまでの日本人が殆ど見落としていた雑木林を、美しいものとして、心を動かすものとして、初めて積極的に認めたのだ。これは一つの心象革命と言ってよいと思う。
 松や桜や梅、また杉や桧と違って、せいぜい炭焼きの材料にしかならない雑木林にその美をたたえることはなかった。
 蘆花と独歩が、明治30年代、つまり明治維新という政治革命から30余年を経た時代になって、美意識の変革、自然を見る目の変革にとりかかったのだった。『自然と人生』や『武蔵野』に自然の美しさを見る新しい目が生まれた。
 『自然と人生』の中に「雑木林」という文もある。
 「東京の西郊、多摩の流れに到るまでの間には、幾箇の丘があり、谷あり、幾筋の往還は此丘に上がり、うねうねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流れあり、流れには稀に水車あり。丘は拓かれて、畑となれるが多くも、其処此処には角に画(しき)られたる多くの雑木林ありて残れり。余は斯(この)雑木林を愛す」。
 楢や橡やハンノキなど、それまでは雑木として見かえられることのなかった木々の林の四季折々の美を描き出した。
 『武蔵野』では「美といはんより寧ろ詩趣といひたい」と言って、新しい自然美を打ち出した。
 明治30年代は自然美の維新時代だった。今は昔の物語にはしたくない。

ヒトの厚み (再掲)

2013年11月25日 | Weblog

 生態学の本には興味深いことが一杯載っている。次はその一つ。
 地球という生態システムにおけるヒトの占める位置の量は極めて小さい。地球の半径は約6400km。その周囲に生物は貼りつくようにして生きている。生物が生存する範囲は、高さがせいぜい数千m、深さは最深の深海生物が棲む所でも10km。この範囲に生きている生物を全部集めて地球の表面に均等に並べると、その厚みは(驚くなかれ)1.5cmにしかならない。
 しかもその90%は植物で、動物だけの厚みは1.5mmにしかならない。動物の大部分は海の動物で、陸上動物はその250分の1、つまり0.006mmの厚みにしかならない。
 現在、陸上動物の中で量的に最も繁栄しているのはヒトである。勿論個体数だけをとれば、バクテリア、微生物などはヒトより遥かに多い。が、重さを含めて計算すると矢張りヒトが一番である。大雑把な計算によると、ヒトの総重量は約1億6000万トン。これは陸上動物のほぼ4分の1だと推定される。だから厚みにすれば0.0015mmぐらいになる。半径6400kmの地球に対して0.0015mmの厚み。
 この微小なヒトの存在が地球という生態システムに甚大な悪影響を及ぼしてきて、この生態システムが後100年もつか否かという事態を引き起こしているのだ。

木の葉の時雨

2013年11月24日 | Weblog

 季語としての「落ち葉」と「木の葉」とはほぼ同じ意味らしい。しかし、落葉樹についてのみをいう「落ち葉」に対して、「木の葉」はそれも含めて、さらに常緑樹の落ちた葉、落ちんとして樹上に残っている葉も含めていう。
 「木の葉の時雨」とは実際に落ちる葉の雨ではなく、木の葉の落ちる音のこと。
 近くの小さな鎮守の森を歩いてみた。ここは常緑樹が多いが、もはや冬枯れも同然。参道の脇は一面の朽葉。誰も居ないのをみはかっらて、比較的葉を残した木に登った。登ってもいいよ、といかにも言っているような登りやすい木に。気分がいい。枝を揺すると、落葉。その音に安堵する。
 『万葉集』などでは、木の葉といえば、紅葉が散る様子をいうことが多い。つまり、紅葉を愛でる心が、そのままそれが散っていく凋落、消滅への愛惜の心へと連なっていったのだと思う。
 林床を歩くとカサカサと響く。僕だけにとっての響き。

妻の存在の重み

2013年11月23日 | Weblog

 太宰治『ヴィヨンの妻』は、妻という他者から夫を眺めた作品であるが、夫婦関係という点では夫の存在はいかにも軽い。

 あわただしく、玄関をあける音が聞こえて、私はその音で、目をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引き出しや本箱の引き出しをあけてかきまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろしてすわったような物音が聞こえまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、
 「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか?お戸棚に、おむすびがございますけど。」
と申しますと、
 「や、ありがとう。」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。

 太宰の性分と実生活を象徴的に表現しているのであろうが、こういう小説を書ける事が太宰の夫としての強みなのかもしれない。だいたいにおいて夫は強がりを言うが、妻の存在は重い、と言って間違いはないだろう。

ピエタ (再掲)

2013年11月22日 | Weblog

 美術の写真集を見ていたら、目が釘付けになった。ミケランジェロの「ピエタ」。30数年前にバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中で迷いながら殆ど極彩色の壁画などを眺めていた時、「ピエタ」に出会った。あの時も言うに言われぬ不思議な感情に駆られた。
 十字架から降ろされた死せるイエスを抱くマリアの悲哀(ピエタ)。近距離からは見られない実物よりもリアルに接写された「ピエタ」像の皮膚や着衣の細部。その迫真性に心を奪われる。その美しさは言葉では表現しようがない。
 それにしてもマリアの何と若いことか。どう見ても20代だ。イエスが十字架に架けられたのは30歳代である。とすれば、マリアは50歳前後だろう。そして、このマリアが抱くイエスは50歳を超えているように見える。イエスの方が生母より老けている。しかし、そんな不合理は少しも気にならない。それほどに、この「ピエタ」は美しい。
 僕は思った。本当の悲哀というものは美しいのではないか。あるいは同じことだが、本当に美しいということは哀しいことなのではないか。死せる我が子を抱いてマリアは慟哭も号泣もしていない。哀しみを抑え、むしろ静かさと安堵に満ちている。これはどういうことなのだろうか。無信心の僕には分からない。しかし、ピエタに見られる美しさは、例えば聖林寺の十一面観音像にも見られるように思う。
 美について語る資格は無いが、美と悲哀とは表裏の間柄にあるように思われる。

先入観

2013年11月20日 | Weblog

先入観は、
それぞれの人の性格に由来する。
それ故、先入観は、
人の境遇と密接な関わりがあり、
これを乗り越える事など、出来はしない。
分別だろうと、常識だろうと、理性だろうと
歯が立たない。
          (ゲーテ『箴言と省察』より)

 思うに、他人の先入観に、なるほどと、納得することがある。フム、フムそうなのかと苦笑しながら、納得することがある。
 しかし、僕の先入観も、同じように僕の境遇と性格に由来し、これが分別や常識や理性では、どうにもならない、と知らされると、ゾッとする。
 思うに、自分自身の誤まった先入観に気づき、是正することが、誇らしく生きるということなのかも知れない。ゲーテの句は反語的に解釈しなければならない。

浅田次郎 『終わらざる夏』

2013年11月20日 | Weblog


 東京外国語学校で英語を修め、東京で翻訳書籍編集者としてモダンな生活をしていた片岡直哉。岩手医専卒業後、東京帝大医学部に進学し、将来を嘱望された若き医師・菊池忠彦、「鬼熊」とあだ名され、満州事変で手柄をたてた伝説的な英雄・富永熊男。
 三人は太平洋戦争末期、まるで運命の糸にたぐり寄せられるようにして「北部軍第一七八部隊」に入営、千島列島最北端の占守(シュムシュ)島へと向かう。
 この島では、1945年8月15日の無条件降伏直後の8月18日、本格的なソ連軍との戦闘が始まる。そして同年9月2日、占守島はソ連の支配下に置かれる。
 浅田次郎は、玉音放送の後に起きた実際の悲惨な戦闘の記録を調べあげた上で、三人の主要人物によるフィクションを成り立たせている。
 浅田の力点は具体的な戦闘場面より、彼らをめぐる人間たちのドラマに置かれる。45歳という徴兵年限ギリギリになって召集された片岡、女性のように優美な顔立ちのエリート菊池、三度の軍隊経験の果てに老いた母親と静かに暮らしていた鬼熊、彼らには夫々愛する家族があり、命よりも大切なものがあった。
 三人はフィクショナルな存在であるが、彼らのような人々は確かにいたと、浅田は繰り返し語っている。理不尽な戦争に蹂躙される市井の人々を描く浅田戦争文学の集大成。(上中下、2010年刊行。毎日出版文化賞)

無題

2013年11月19日 | Weblog



 ココロがこんがらがっているから
 みけんにシワがみっつもできるんだ

 この間 友だちにもらった
 りんごのお茶がまだあるよ

 だから 君
 ボクんちへおいでよ

 カレーでよければ
 カレーもあるよ・・・

 ん?
 君とボクと どっちがボクなんだ

4号機燃料取り出し 福島第1、規制庁が監視強化

2013年11月18日 | Weblog

(新聞より)
 東京電力は18日、福島第1原発4号機の使用済み核燃料プールに保管している燃料の取り出しを始める。午前中からの作業で燃料輸送容器をプールに沈め、午後3時ごろから燃料を取り出し水中で輸送容器に装填する。原子力規制庁は現地の原子力保安検査官に加え、緊急事態対策監らを派遣し、作業を監視する。
 廃炉が決まっている1~4号機のプールからの本格的な燃料取り出しは2011年3月の事故以来、初めて。4号機での作業は来年末まで続く。
 東日本大震災発生時、定期検査中だった4号機は原子炉建屋が水素爆発で大破。大地震などでプールが崩壊する危険性を指摘されており、東電はプールの燃料を早急に取り出すことでリスク低減を図る。原子炉内に燃料は残っていない。
 東電は建屋の爆発でプール内に落下したがれきのほとんどを取り除いたが、細かいコンクリート片などがまだ残っているとみられ、取り出しの際に燃料を破損させないよう作業を慎重に進める。
 18日は午後7時ごろまで作業を続け、19日中には輸送容器に22体の燃料を装填し終わる。初回は全て未使用燃料となる。

(首尾よく進むことを祈るばかりである。)

久方ぶりに竹内浩三、「むすめごをうたい」

2013年11月17日 | Weblog

 「このたび、ぼくにもおおきみ(大君)よりのおおみこえ(大御声)がかかり、ぼくはいら(答)えたてまつろうと、十月一日に久居聯隊に入営することになりました。
 このときにあたりまして、べつにこれという決心はありません。
 うまれ変わったつもりにもなりたくありません。
 いままでしてきたような調子で・・・

 むすめごをうたい
 むすめごをえがき
 うやい えがきて
 はつるわがみは

 うたいえがくを
 なりわいとして
 ひたぶるにただ
 生くるわがみは」


 1942年(昭和17年)9月頃の竹内浩三、二十一歳の本心であろう。
 「昭和二十年四月九日時刻不明、陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」と公報。
 何をかいわんや。

(三重県宇治山田市出身の竹内浩三が全国的に知られるようになったのは、2003年に岩波現代文庫の一冊として『戦死やあわれ』(小林察編)が出て以来のことである。それまでは小さな出版社が取り上げていた。遺品は松阪市・本居宣長記念館にある。)

狐 ・ 晩秋

2013年11月16日 | Weblog

 日本の自然を解説なしで映像する番組に本土狐が出て来た。狐とはどんな動物か、気になった。ものの本で見ると、面白いことが載っていた。
 秋、狐は子別れの儀式をすませるという。或る日突然、優しい母狐は狂暴なアカの他人(狐)に豹変する。子狐はかみつかれ、追い回されながら、生まれた故郷を去っていく。厳しい冬を前にして、なんともむごく思える。雄の子は雌にくらべると早々と古巣を捨てて、新しい土地をめざす。あきらめがいいのか、それとも行動力があるのか。いずれにせよ、晩秋にさすらいの旅を続けている内に新開地に定着するようになるのだろう。
 狐を人間はあまり好まない。何故だろう。明確な理由もないのに、「狐につままれる」というような表現もある。あらぬ濡れ衣を着せられて、スケープゴートに祭り上げられている。しかし、稲荷信仰の神の使者でもあるわけだから、いくら化けるのが得意でも、さぞかし忙しいことだろう。その昔、狐に対して、敬して遠ざけるという気持ちもあったのかも知れない。
 僕は野兎や狸にはお目にかかったことはあるのだが、狐にはまだ出会ったことがない。狐に敬遠されているのか、嫌われているのか、一度近くで会いたいとも思うが、先入観によるのか、狐には会いたいという気持ちにはなれない。
 晩秋の今頃、野山の子狐は新しい巣を見つけたであろうか。