自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

出征の様子 (再々掲)

2014年08月31日 | Weblog

 僕(ら?)の知識は殆どが受け売りだと言ってよい。請け売りなんだけれど、受け継ぐべき重い知識は記憶しておく方がよい。以下は今日の大新聞に挿まれたミニコミ紙からの抜粋である。

 昭和12・13年頃までの出征の様子はお祭りのようだった。出征兵士の名前を書いた幟を何本も立て、楽隊と提灯行列を従えた「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のこの兵」はまさに「歓呼の声に送られて」出征していった。・・・しかし戦争が激しくなり、出征していった人の数だけ白木の箱が還ってくるようになると、召集令状を渡す側と貰う側の、「おめでとうございます」「ありがとうございます」の挨拶も寒々しくなってくる。出征する者の知り合いは、街角に立って「千人針」を募るようになる。街行く女性たちに、晒(さらし)の布に赤い縫い糸で結び目を作ってもらうのだ。「千人の女性に縫ってもらった胴巻きを着ければ戦場で弾に当たらない」というおまじないである。・・・「千人針」には「五銭玉」を縫い付ける事が多く、「五銭は四銭(死線)を越える」という語呂を合わせてげんを担いだ。
 当時男子として生まれたからには、召集から免れるすべはなく、・・・大陸に送らられ、南方に送られ、内地を恋しく思いながら、たまに送られてくる慰問袋を心待ちにしていつまでも続く行軍に耐えた。「敵の屍と共に寝て、泥水すすり草を喰む」こともあれば、「背も届かぬクリークに三日も浸かって」いることも・・・。いつ死ぬかも知れない恐怖と、残してきた両親や子供、家族など山ほどの「後顧の憂い」に兵士たちは苛まれた。

 こういう類の経験談が完全に過去のものにならなければならない。日本においてでだけではなく、世界において。

真山民(南宋) 「山中月」

2014年08月30日 | Weblog

 
  山中月   真山民(南宋)

我愛山中月   我は愛す 山中の月
烱然掛疎林   烱然として疎林に掛かるを
為憐幽独人   幽独の人を憐れむが為に
流光散衣襟   流光 衣襟に散ず
我心本如月   我が心 本(もと) 月の如し
月亦如我心   月も亦た我が心の如し
心月両相照   心と月と両(ふた)つながら相照らす
清夜長相尋   清夜 長(とこ)しえに相尋ぬ

 僕はこの詩が好きなんです。子供の頃、山の神の行事で夜中に山中で眺めた月の光が今も僕の心の中に居ついています。

ゲーテ 『ファウスト』 より

2014年08月29日 | Weblog


お金も医者も魔法も使わないで済む方法があります。
すぐ畑に出て、鋤や鍬を握ることです。
身も心も限られた世界において、
わき見をしないで生活することです。
自然のままの物を食べ、
家畜と一緒に、家畜のように生活し、
自分が収穫する畑に自分で肥料をやることをいとわない。
これが一番良い方法なんです。
これなら、八十になっても、若さが保てること請け合いです。

(『ファウスト』第一部「魔女の料理場」における台詞。ローマに滞在中に書かれたものと推定されている。窮屈なワイマール宮殿を脱し、イタリアへ長期旅行に出かけたゲーテは、土に親しむ生活を経験した。自由な天地を旅して真に健康な生活を礼賛したくなったと思われる。思うに、農業を初めとする第一次産業の大切さと楽しさをあらためて直視しなければならない。)

萩の花

2014年08月28日 | Weblog

 萩の花の季節。
 近所の大寺の垣根沿いに、こんもりと茂った萩の花木が1メートルぐらいの間隔で見事な花をつけている。
 萩は7月ごろから咲いているが、やはり秋の花である。萩という漢字からして秋の花である。
 よく見かける萩は枝垂れている。これは大抵が宮城野萩である。宮城野というところが仙台市内にあり、枝垂れた萩はこのあたりが原産であろうか。薄紫の小さな小さな花が小さな一枝に幾つも咲き、集まって早くも秋の情緒を誇らしげに醸している。
 昔々、大昔、花をつけた小さな枝を手折って、美しい女性の髪に挿したことがある。正確に言うと、挿そうとした。恥ずかしくて挿せなかった。手に持った小枝が髪に触れるところで、はい、そこまで、という声が内心から聞こえた。昔々、大昔の淡い思い出である。
 僕は花は白が好きなのだが、萩に白があっても、萩はやはり薄紫が似合う。薄紫のひとは今何処、なんちゃって。

久方ぶりに、竹内浩三 「むすめごをうたい」

2014年08月27日 | Weblog

 「このたび、ぼくにもおおきみ(大君)よりのおおみこえ(大御声)がかかり、ぼくはいら(答)えたてまつろうと、十月一日に久居聯隊に入営することになりました。
 このときにあたりまして、べつにこれという決心はありません。
 うまれ変わったつもりにもなりたくありません。
 いままでしてきたような調子で・・・

 むすめごをうたい
 むすめごをえがき
 うやい えがきて
 はつるわがみは

 うたいえがくを
 なりわいとして
 ひたぶるにただ
 生くるわがみは」


 1942年(昭和17年)9月頃の竹内浩三、二十一歳の本心であろう。
 「昭和二十年四月九日時刻不明、陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」と公報。
 何をかいわんや。

(三重県宇治山田市出身の竹内浩三が全国的に知られるようになったのは、2003年に岩波現代文庫の一冊として『戦死やあわれ』(小林察編)が出て以来のことである。それまでは小さな出版社が取り上げていた。)

知里幸恵と『アイヌ神謡集』 (再々掲)

2014年08月26日 | Weblog

 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えとが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。

 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚にまだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸が過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うのも当然であるが、『アイヌ神謡集』が読まれる機会は案外少ない。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

自然という言葉

2014年08月25日 | Weblog

 だいぶん前から気になっていた言葉の一つに「自然」がある。
 この言葉を僕らは何気なしに使っているが、nature という言葉が西欧から入ってきたのは勿論明治以降である。
 それ以前の日本では、漢字の自然はそれほど用いられていなかったようだ。(親鸞の「自然法爾(しぜんほうに)は有名だそうだが、僕は知らない。)
 親鸞の語法はむしろ例外的で、「おのずから然(しか)ある事柄の相」を指して自然という言葉は用いられていたと思われる。
 現在僕らが用いている自然という言葉は「天地」「天地万物」、あるいは山川草木、日月星辰、森羅万象を意味する語として用いられてきたと思われる。
 明治の初め西欧の学問とともに入ってきた nature をどう訳すかについてはだいぶん困ったふしがある。明治14年には、本性、資質、造化、万有などが当てられ、明治44年に初めて「自然」という訳語が追加されている(井上哲次郎「哲学字彙」1881年)。
 そこで、昔の日本人は、自然ということで「おのずから然ある事柄の相」を理解していたようで、自然という漢字で、山川草木、日月星辰、森羅万象を理解するようになったのは、むしろ新しいと考えられる。
 で、何が言いたいかというと、「自然」のむしろ新しい理解に昔の理解を重ねて、自然を重層的に理解するのが良いのではないか、ということです。
 荒廃した山川草木を「おのずから然ある事柄の相」で改めて見直すことが大事だと思う。思うだけでは何にもならないと思うが、そのように見直す姿勢を保っておれば、自然の違った相が見えてこよう。

「山津波」、大震災と同じ 大船渡の男性、現地で支援

2014年08月24日 | Weblog

(Facebookで知った「岩手日報」の今朝の記事)

 「地獄絵図だよ」。土砂災害で甚大な被害が発生した広島市安佐南区へ支援に入った大船渡市三陸町越喜来の飲食店経営新沼暁之さん(39)は22日、岩手日報社の電話取材に「山津波」の惨状をこう表現した。突然、家族を奪われた悲しみ。家族や知人の安否を知るため、避難者の名簿に見入る姿。先が見えず、ぼうぜんと立ち尽くす人々の表情。3年半前、開店したばかりの店舗を津波で奪われた新沼さんの目には、「みんな、東日本大震災と同じだ」と映った。

 避難所の雰囲気は、震災時の大船渡と似ていた。壁に張ってある避難者の名簿や、新聞を食い入るように見入る人もいた。「明日が見えず、不安そうな表情の人。動揺して、何をしていいか分からない人。全部が、あの時の三陸と一緒だ」

 新沼さんは東日本大震災後、「支援を受けているばかりではいられない」とボランティア団体「311karats(カラッツ)。」を立ち上げ、竜巻や台風など、全国各地の災害現場の初動支援を継続。震災で得たノウハウを新たな被災地に伝える。

 今回も「居ても立ってもいられない」と21日に駆けつけた。山口県内に拠点を設け、広島に通い、土砂の片付けを行っている。「土にやられた」被災地は、「これまでの現場よりもひどい」ように映る。

 
現地は土砂を撤去する人手、土のうなどの物資が足りない。「誰もが現地入りできるわけではない。50円、100円の寄付でもいい。何かしたいと思う気持ちが必要だ」と訴える。

散歩の術

2014年08月23日 | Weblog

 孫引きなんですが、ある旅人が、詩人ワーズワースのメイドに「ご主人の書斎を見せてください」と頼んだところ、彼女は「書庫ならここにありますが、書斎は戸外にあります」と応えたそうだ。詩人にとっては散策する野や森、風や光こそが書斎だったのであろう。
 『森の生活』を書いたH.ソローは、「僕は一日に少なくとも四時間、普通はそれ以上だが、あらゆる俗事から完全に解放されて、森の中や、丘、野を越えてさまよわなければ健康と生気を保つことは出来ない」と書いている。ソローにとっては、森や野を彷徨することは生きることと同義語であった。
 散策を人生の糧にしていたソローは、また次のようにも書いている。「僕はこれまでの人生において、歩く術、散歩の術を心得ている人には、一人か二人しか会ったことがない」。
 こんなことを記しながら、この3年余り、僕は歩くことを忘れているようだ。足腰が弱くなっている。その分、頭もずいぶん老化しているに違いない。

尾崎一雄 『虫のいろいろ』 (再掲)

2014年08月22日 | Weblog

 尾崎一雄という作家についてはいつか記すことにするが、この作品は小説というよりもエッセイの名作の一つだと思う。
 そこに描かれているのは、生活者の目線で書かれた哲学だと言ってよい。
 生きるということはどういうことなのか。虫であれ人間であれ、生きるものにとって自由とは何であるのか。
 こういう根源的な問いかけが作者自身の日々のなかで行われていて、読者に深く染み透ってくる。言うまでもないが、ここには哲学用語は見つからない。それだからこそ見事な哲学の営みを記したエッセイである。
 この作品が文庫本から消えて長く経っていたが、数年前に装いを新たに文庫に入った。僕が持っているのは昭和30年代の古ぼけた文庫本であるが、いつの頃からか文庫から消えた。何しろ易しい言葉で易しい文章で書かれているので、逆にその良さに気づく人が少なかったのかも知れない。新たに入手し易くなったことは喜ばしい。
 『虫のいろいろ』なんていうタイトルの文庫本にその特有の良さを見出すのは時代遅れかも知れないが、もう一つ『虫のいろいろ』以上にすごいと思っている作者晩年の作品がある。
 『退職の願い』。この作家の生き方の歴史を描いたもので、思想というものが頭ではなく体を通して造型されている。六十四歳になった作者が、「雄鶏という地位身分から去るの好機である。退職したい」という。親爺であることからも亭主であることからも退職して本来の自分に戻りたいという。その宣言が、この作家独自の上等なユーモアと共に語られている。

ヒグラシについて(笑)

2014年08月21日 | Weblog

 ヒグラシの声には、どこかもののあわれを感じさせる趣があり、あの声を聞くと一句ひねりたい気分になるそうだ。
 ある会社の退社時間の頃、日ごろヘタな俳句を作っては得々ととしている一人の社員が、紙切れに一生懸命何か書き付けている。こういう場合には漢字の方が感じが出ると思ったのか、そばの同僚に「ヒグラシってどういう字だ」と訊ねた。
 「虫ヘンに、中国の王朝の名の周という字だよ」と答えると、「シュウってどういう字だ」と訊いてきた。
 「調べるという字のゴンベンのないヤツ」と言うと「シラベルって?」と訊く。「ああー、面倒みきれないなあ。鯛のツクリの方だよ」と同僚が言うと、折りしもヒグラシがカナカナカナと澄んだ声で鳴き始めた。するとその男、「そうか、カナで書こうか」。
 こういう話があったかどうか。今ではヒグラシに教えられるまでもなく、もうほとんどカナ書きで立派な俳句が作れるようだ。
 僕はというと、鯛のツクリが食べたい。

『 赤毛のアン 』 について

2014年08月20日 | Weblog

        

 『グリンゲイブルズのアン』(赤毛のアン)が出版されたのは100年ほど前の1908年、モンゴメリー三十四歳のときだった。

 孤児院から男の子を引き取ろうとした子は偶然にも女の子だった。赤毛でそばかすだらけで、生き生きと輝く大きな目と澄んだ声の少女アンは、マシュウの馬車の上でしゃべり続け、空想を広げ続けます。

 着古した服は、空想のおかげで空色の絹に変わり、色あせた帽子は羽飾りで華やかなものになります。

 女の子を引き取るはずではなかったとなじるマリラに、AnnではなくAnne、語尾に e のついたアンと呼んで、その方が上品だから、と言い張る。

 おおらかでユーモラスで、たいていのことではへこたれないのが、プリンス・エドワード島の人々の気質なんですが、アンもマシュウもマリラも夫々目を見張るほどに自分に正直で頑固です。頑固なくせに素直です。そう、驚く程に素直なんです。

 アンは、プリンス・エドワード島の自然の素晴らしさや、腹心の友ダイアナを得た喜び、にんじん頭とからかうギルバートへの怒り、生まれて初めて食べたアイスクリームのおいしさ、どんなささやかなものにも、いつも新鮮な好奇心と嬉しさを感じ取り、さりげない事をさえ、わくわくする程の幸福感に変えてしまう。素朴で素直に生きる勇気が全編にみなぎっている。

 僕がずっと長い間忘れていた事は、生きる素朴で素直な勇気だと気がついた。ただ、気がつくのが余りに遅かった。でも、まあ、アンの輝く瞳を時々思い出すことにしよう。

「 最も美しい幸福 」

2014年08月19日 | Weblog

 ものをよく考える人間の最も美しい幸福は、
 究明できるものは究明する一方で、
 究明できないものに対し、静かに敬意を表すことである。
                     (ゲーテ『箴言と省察』より)

 自然科学の研究者でもあったゲーテの探究心が並々ならぬものであったことは周知のところである。
 だが、何よりも詩人であった彼は、科学ですべて解明できると考える貧弱な合理主義には懐疑的で、科学的究明以外に、芸術的なあるいは神秘的な世界を静かに受容することの大切さを脳裡においていた。そこにこそ最も美しい幸福があると考えていた。
 幸福を、ありきたりの「満ち足りた幸福」などと言わず、「最も美しい幸福」と表現したところに、優れた人間観察者としてのゲーテの真骨頂があるように思う。
 最も、と言うことはできないが、美しい幸福を夢見たいと思う。夢で終わるであろうが。

大岡昇平 『 野火 』

2014年08月18日 | Weblog

初版 1952年。
作者のフィリピンでの戦争体験を基にし、死の直前における人間の極地を描いた戦争文学の代表作。
以下は簡単に過ぎる要約。


なぜ私は食人をしなかったのか
飢餓で死ぬに極った臨界状況で
「俺の肉を喰ってもいいぞ」と
言い残して逝った見知らぬ友兵
私は右手で
彼のやわらかい肉をさわった
食べる意図を自ら感じた

ジャングルの奥深い木々がざわめいた

私の左手が右手を捉まえ
止せ と
言った 弱々しい声だった
しかし至上命令のように響いた

私は敵兵に捉まってもいい
とにかく水が欲しい 水を渇望して
捉まるのを覚悟の上で草叢を
川を目指して歩いた
途中 肉片のない人体があった
水にありついた
私は敗残兵として生き残った

あの至上命令を下した左手は何だったのか
人智を超えた何者か・・・
それは道徳といったものではない
左手に神が宿ったのか という考えに
一瞬とらわれた 宿ったかもしれない 
だが脳にまで達しない神だった
正体不明の畏怖すべき何者かだった



思索もしくは理路

2014年08月17日 | Weblog

 思索とは、理路を追う考えである。理路とは?
 「索」は、漢和辞典によると、太い糸のことらしい。
 そうすると、理路とは太い糸を比喩的に表したものだろう。
 思索するとは、糸を辿るように考えることなのであろう。ちょうど、カジキマグロを狙い一人で海に出た老人のように、釣り糸を手繰る行為なのであろう。思索する(釣り糸を手繰る)値うちは、その糸の先に居るかもしれない獲物(答え)の値うちであり、運良くマグロ(特定の答え)が掛かれば、糸を手繰る(思索する)行為に大きな値うちがあることになる。何も掛からなければ、その行為は全く無駄だということになる。
 このように言うことが出来るだろうか。出来るとすると、僕は随分と無駄な行為をしてきたことになる。 自己弁護する訳ではないが、結果として答えが出ない思索でも、別の糸につながるかもしれない。別の糸につながつても、答えが出ないかもしれない。
 あの老人も獲得したマグロをサメ(別の糸)に食べられ、得たものは骨と疲労感である。思索の褒美は、殆ど、あるいは全く役に立たない答えと疲労感だけかもしれない。
 「だけかもしれない」という事でもあるまい。それ以外に何かあるはずだ。思うに、先頃は答えとか成果とかを求め過ぎてはいないか。思索の場合は、釣り糸と違い、見えない糸を手繰り寄せなければならない。さて、これから先どんな見えない糸を手繰り寄せられるであろうか。(こんなことを考えている人(僕)を、人は閑人と言うらしい。)