自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

開高健 『ベトナム戦記』

2016年01月23日 | Weblog

一九六五年一月二十九日早朝 サイゴンの広場
短い叫び声が薄明を走った
十人のベトナムの憲兵が十挺のライフル銃で
一人の細い青年を撃った 青年はガクリと膝を折った
が うなだれたまま首をゆっくり左右にふった
近づいた将校が回転式拳銃で とどめの一発を撃ち込んだ
私のなかで何かが粉砕され 吐き気がこみあげた

もしこの青年が逮捕されていなければ
手榴弾と地雷で必ず人を殺す
あるいは メコン・デルタかジャングルでマシンガンを乱射する
あるいは 或る日 泥のなかで犬のように殺される
少年のような彼の信念を支持するかしないかで
彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる
それが ここの《戦争》だ
しかし この広場には《絶対悪》と呼んでよいものがひしめいていた
後で 私はジャングルで何人もの死者を見ることになるのではあったが

奇妙な国だ
一日二百万ドルをアメリカにつぎ込んでもらって
ジャングルや泥のなかでは毎夜死闘が繰り返されているのに
このサイゴンの輝かしいこと!
戦争があって初めて豊かになる都
何がどうなって こうなっているのやら

社会の不平等を失くし 矛盾を克服し 平和を求め
外国の干渉から独立し 貧窮を失くしたい
ベトナム人の八割を占める仏教徒たちは言う
しかし べトコンも同じ事を言います とも
農民とべトコンの区別はつきません
仏教徒の活動は農民を それ故べトコンを助けることだと
政府は仏教徒の活動を制限してきます
《非暴力》の教義をひたすら死守し
黙々と大地に伏す仏教徒たち
その寡黙な従順さに私は感動した
ベトナムのカギを握るのは 仏教徒たちか?
彼らの思いとは裏腹に 全土が戦争の最前線だった

広漠としたジャングルとゴム林の地下には
クモの網のようにトンネルがめぐらされている
その中に べトコンの南下を食い止めるのが使命の砦
その兵舎で私は二週間余り暮らした
季節を問わず 朝から晩まで
戦争は不死の怪物となって のたうちまわっていた
すでに 枯葉作戦も始まっていた
「いったいあなた自身は誰のために戦っているのですか」と
私はアメリカ人の少佐に訊いた
少佐は何か言いたげだったが口を閉ざした
じっと頬杖をついて 《国家》に押しつぶされているように見えた
このジャングルで 味方が何人死に 敵が何人死んだか
誰にも分らなかった
多くの負傷兵は 不思議なことに 呻きもせずひっそりと死んだ
アメリカが北ベトナムを爆撃したというラジオ放送に
みんなは深刻な沈黙におちこんだ

“I am very sorry.”(たいへんすみません)
満月の夜 中学生のように小さい砲兵隊将校が私にあやまった
“Oh. What has happened ?”(どうしたんです?)
将校はぽつりと ひとこと
“My country is war.”(私の国、戦争です)
とつぶやいた

(本書は、一九六四年十一月から翌年二月にかけての現地取材に基づく記録文学である。
同じ作家に『輝ける闇』という、同じくベトナム戦争を題材にした、この作家独自の
凄まじいまでの文学的表現に満ちた小説がある。)

知里幸恵と 『 アイヌ神謡集 』

2016年01月07日 | Weblog

 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

(僕の提案:『アイヌ神謡集』を世界記憶遺産に!)


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故・西岡常一氏 語録 ( 再掲 )

2016年01月02日 | Weblog

 西岡常一、言うまでもなく宮大工の第一人者だった人物。法隆寺や薬師寺の建造物の建築や修復を見事にやってのけた稀有な人物。この人の木についての話には説得力がある。以下、失礼を顧みず拾い読みする。

 「樹にとって東西南北というのは大事なことだす。樹というものは生えてきたら動けん。つまり樹の命にとって東西南北はこの世から消えて無(の)うなるまでついてまわる。それですから樹の東の部分からとった柱材は、その建物の東のほうの柱に使わなあかん。西も北も南も同じだす。これをいい加減に使ったら、建物は間違いなく捩れてきます。これ、材が生きている証拠だす。
 家に伝わる口伝にこんなんがあります。一、堂塔建立の用材は木を買わず山を買え。一、木は生育の方位のまま使え。峠、中腹の木は構造骨組に、谷間の木は雑作材にせよ。まぁ今の大工さんは普通は山を買うなぞはできんし、材木屋で買うわけですから、その材の生育の方位などわかりまへんし、仕方がないといえばそうやけど、材の命が見えていたらこれは我慢できまへんわなぁ。」

 (「我慢できまへんわなぁ」。樹木の真実について頑固なこと、この上ない。僕なんかはとても真似のできない本当の頑固さである。)

 「法隆寺も薬師寺の東塔も材は千年檜ちゅうもん使うてます。生えて千年経ってる檜ということです。この千年檜の材というものは作ったときは弱い。それが年々強くなって、作ってから千年目が一番強い。」
  「法隆寺修復のときの端材の外側は灰色で煤けた色合いだが、それも一粍足らずで、その中は真っ白できっちりと締まる。」
 「この千年目を境にして材は徐々に弱くなり、二千年目にはじめの建造時の強度に戻ります。それから何とか五百年は持ちますさかい、まぁ二千五百年は持ついうことですな。コンクリートというものは、百年ほっといたら砂になります。・・・とにかく、檜というこんな丈夫な材を使うたさかい、法隆寺も薬師寺の東塔も今日まで持った。それはそうどすけど、それだけではおまへん。」
 東塔の屋根を支えている垂木の二、三寸おきに点々と小さな穴が幾つもあいている。
 「あれは今までの修復のときの釘穴どすわ。つまり修復のたびに、少しずつずらして釘を打ったんどすな。この垂木、まだまだ塔のなかにはずうっとのびてましてな、これを少しずつずらしながら修復していけば、そうどすなぁ、まだ千年や千二、三百年はでけるんとちゃうやろか。」
 「できてから、これから先、全部足し算したら二千五百年。これ、千年檜の材のちょうど寿命になりまっしゃろ。つまり千二百年前にこの東塔を建てた人たちはきちんと千年檜の寿命を識っていたちゅうことですわなぁ。」

 (樹を熟知している人にも、その樹にも、当然の事ながら、とてもとても太刀打ちできない。肯くだけである。)