自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

見るという事

2009年05月31日 | Weblog
 昨日は一日ボーとしておりました。不思議なことなのですが、ボーとしている時に限って、教わることに出会います。そこいらにある本の頁をめくっているだけなのですが、ああ、そうだったと気がつくことがあります。ポール・ヴァレリーの『ドガに就いて』(吉田健一訳)の一章「見ることと描くこと」の冒頭は概略次のように始まります。
 鉛筆を持たないまま物を見ているときに目に映っている物の姿と、デッサンしようとして見る物の姿の間には天地雲泥の差がある。普段見慣れている物が、ガラリと様子を変える。物が物の用途から洗われて、物そのものとして目に見え始める。日常の目は、物と私達の間を仲介する役しかつとめていなかったが、いったんデッサンしようと鉛筆を持ちつつ物を見始めたとき、目は意志に支えられた指導権を握る。そして意志して見られた物は、普段見慣れていた物とはすっかり別の物に一変する。
 ヴァレリーの言う通りだと思います。その通りだと普段考えている僕を忘れてしまっています。手に鉛筆をもってデッサンするつもりで見なければ、物の姿は見えないのです。そうすると多少こじつけになりますが、見るという事は看るという事なのです。看護の一歩手前の看るという事なのです。そうして、やがて看護される時期が僕にも訪れます。それまでは看る事に心がけなければならないと思います。思うだけに終わるかもしれませんが。

「偉大な芸術家の思い出のために」 (再掲)

2009年05月30日 | Weblog
 昨晩、何年か前に収録しておいたビデオで、チャイコフスキーのピアノ・トリオ「偉大な芸術家の思い出のために」を聴いた。親友ニコライ・ルビンシュタインへの追悼を延々と五線譜に記した深い哀感と惜別感を表現した曲である。
 ベルリン・トリオの安永徹、その夫人の市野あゆみ、マルクス・ニコシュが、昂揚感をおしころした演奏で、チャイコフスキーの心の深層をよくつまびらかにしている。この曲の第二楽章は、主題に続く十一の多様な変奏と曲全体の末尾を兼ねたフィナーレという形式の長大な楽章で、安易に演奏すると、退屈な反復の繰り返しになってしまう。そこのところを、哀調にしてめりはりの効いた緊迫感をもって粛然と演奏している。プロとは言え、余程の練習を積まねば、これだけの曲想を表出できないだろう。
 チャイコフスキーのメロディの魔力に魅せられてしまうと、昂揚感が出過ぎる。安永徹というヴァイオリニストの構成力に感服した。布団に入ってもメロディが脳裡をしばらく占領した。

(4年ほど前まで僕はビデオテープにしばしば録画した。そのテープが、地上デジタル放送になると使い物にならないそうだ。テープをDVDに振り替えするには大金が要るそうだ。せっかく採ったビデオがゴミ屑になってしまう。あーーあ。)

原爆症訴訟 (社説より)

2009年05月29日 | Weblog
 裁判で負け続けながら責任を認めない。法治国家の政府として、これでいいのだろうか。原爆症の認定をめぐる集団訴訟への対応である。
 昨日の東京高裁判決で、政府は「18連敗」となった。だが、麻生首相は参議院予算委員会で「一連の司法判断を踏まえ、対応を検討させていただきたい」と述べるにとどまった。
 原告306人のうち、68人がすでに亡くなっている。政府は一連の判決を受け入れ、全員救済をはかって訴訟をいち早く終結させるべきだ。
 広島、長崎に投下された原爆の放射線が原因で、癌などになったと認められれば、医療費のほか、治療中は月額約13万7千円が支給される。それが原爆症の認定制度だ。
 認定にあたっては、専門家による認定審査会の医療分科会の意見をもとに、厚生労働相が可否を決める。申請を却下された被爆者たちが処分の取り消しを求めて、03年春から全国17地裁に集団訴訟を起こした。
 当時の認定基準では、爆心地からの距離をもとに被曝放射線量を推定し、病気が起きる確率を出した。一連の判決で「機械的すぎる」と批判され、厚労省は昨年4月に基準を改めた。
 だが、新しい認定基準も、被爆による健康被害の実態を的確にとらえたものとは言い難い。認定の対象を事実上、癌や白血病など特定の五つの病気に限っているからだ。
 新基準になった昨春以降も、特定の5疾病以外の病気で原爆症と認める判決が相次いだ。原告らは再び基準の見直しを求めたが、政府は東京高裁の判決を待って検討するとしていた。
 東京高裁判決も新基準ではじかれた人を原爆症と認めたうえ、新基準を「原爆症認定の判断基準として適格性を欠く」と断じた。原告らが認定対象への追加を求めていた肝機能障害と甲状腺機能低下症の2疾病についても「原爆放射線と関連性があるとして審査にあたるべきだ」と指摘した。
 政府はその言葉通り、認定基準の見直しに着手しなければならない。
 原爆の放射線による健康被害は特殊なものであり、国の責任において総合的な援護対策を講じる。そう宣言した被爆者援護法の精神に立ち返り、政府には救済のための手立てを尽くしてもらいたい。

民話の説得力

2009年05月28日 | Weblog
 僕は柄にも無く(?)宮崎アニメのファンです。大抵の作品は読んでいる。初期のものと思われるが、『トトロ』よりは後かもしれない『シュナの旅』という、映画化されていないアニメがある。これは、チベットの民話『犬になった王子』が元になっている。穀物をもたない貧しい国民の生活を憂えた或る国の王子が、苦難の末、竜王から麦の粒を盗み出し、それがために魔法で犬に変えられてしまうが、ひとりの少女の愛によって救われ、ついに祖国に麦をもたらすという民話である。王子や少女の姿は、『ナウシカ』などの主人公とそっくりに描かれている。
 現在、チベットは大麦を主食としている唯一の国だが、大麦は西アジアの原生地から世界に伝播したそうだ。だから、王子が西に向って旅をしたというのは歴史と符号しているとも考えられる。ただ、この民話は本当にあった出来事というより、チベットの人々が農作物への感謝を込めて生み出した、優れた物語だと考える方が夢がある。その方が、民話に説得力がある。
 僕ら、都市部に住む者は農作物への感謝を忘れてはいないか、と気がかりになった。気がかりになったが、ただそれだけのことだった。こういったことについて、どうも鈍感になっているような気がする。

ベートーヴェンの自然観

2009年05月27日 | Weblog
 ベートーヴェンの「田園」交響曲のリストによるピアノ編曲版の楽譜が友人の手を介して僕の手に入って久しい。ピアノに向かっても歯が立たないが、久しぶりにピアノを触ってみよう。
 ところで、ベートーヴェンにとって「田園」(Pastorale)はどんな意味における「田園」であったのだろうか。解説を参考にして僕なりに少し考えてみる。
 パストラーレとは本来牧歌を表し、牧歌にはイエスの降臨を喜ぶクリスマス音楽としての役割と、牧人の音楽としての役割と二つの側面がある。「田園」交響曲の終章に「牧人の歌」と記されているのは後者の意味である。だが、牧人の歌は単に羊飼いの音楽なのではなく、ヴェルギリウス以来西欧に流れているアルカディアにおける牧歌であろう。アルカディアでは神と人が調和した生活を営むことができる。僕には実感できないが、神の恩寵に満たされた安らぎの場、調和した生活の場がアルカディアであるなら、ベートーヴェンの「シンフォニア・パストラーレ」は音楽における「田園(アルカディア)の生活誌」である。
 「田園」は神の創造になる自然である。「嵐」は神の怒りの象徴であり、終章の「嵐の後の感謝の念」が「牧人の歌」であることが、神の創造たる自然を表していると考えられる。
 概略以上のようなことは僕には実感できないが、この曲の美しさは、やはり自然の秩序を表す、ただならぬ美しさである。現代文明が忘れてきた自然である。 

木の「昼寝」

2009年05月26日 | Weblog
 深い森林の上層部を「林冠」という。そこは、枝葉が繁り光合成が盛んだ。林冠の調査研究の先鞭をつけたのは、今は亡き井上民二だった。この調査研究はその後急速に進み、最近分かった面白い事がある。マレーシア・サラワクと北海道・苫小牧の森林での比較調査での事。苫小牧ではイタヤカエデ、ミズナラなど6種、サラワクではナンヨウクスなど2種を調査。日中には光合成が鈍る、木の「昼寝」の仕組みが解明されたという。
 光合成には光、二酸化炭素、水が必要。だが、光が強まると光合成が盛んになり、木の上部への水の供給が追いつかなくなる。葉からの水分蒸発を防ぐために気孔が閉じ、その結果、気孔からの二酸化炭素の摂取量も不足する。こうして、測定された8種すべてで、午前10時から午後3時頃に光合成の量が大きく落ち込んでいた。この現象を木の「昼寝」という。5時間もの「昼寝」。うらやましい。
 うらやましいとばかりは言っておれない。「森林、とくに熱帯雨林の破壊は急激で、現状では研究が追いつかない」そうだ。森林破壊が警告されて何十年経つのだろうか。地球温暖化が進む一方だ。「林冠」研究で分かった事は面白い事だけではなかった。

出征の様子 (再掲)

2009年05月25日 | Weblog
 僕(ら?)の知識は殆どが受け売りだと言ってよい。受け売りなんだけれど、受け継ぐべき重い知識は記憶しておく方がよい。以下は今日の大新聞に挿まれたミニコミ紙からの抜粋である。

 昭和12・13年頃までの出征の様子はお祭りのようだった。出征兵士の名前を書いた幟を何本も立て、楽隊と提灯行列を従えた「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のこの兵」はまさに「歓呼の声に送られて」出征していった。・・・しかし戦争が激しくなり、出征していった人の数だけ白木の箱が還ってくるようになると、召集令状を渡す側と貰う側の、「おめでとうございます」「ありがとうございます」の挨拶も寒々しくなってくる。出征する者の知り合いは、街角に立って「千人針」を募るようになる。街行く女性たちに、晒(さらし)の布に赤い縫い糸で結び目を作ってもらうのだ。「千人の女性に縫ってもらった胴巻きを着ければ戦場で弾に当たらない」というおまじないである。・・・「千人針」には「五銭玉」を縫い付ける事が多く、「五銭は四銭(死線)を越える」という語呂を合わせてげんを担いだ。
 当時男子として生まれたからには、召集から免れるすべはなく、・・・大陸に送られ、南方に送られ、内地を恋しく思いながら、たまに送られてくる慰問袋を心待ちにしていつまでも続く行軍に耐えた。「敵の屍と共に寝て、泥水すすり草を喰む」こともあれば、「背も届かぬクリークに三日も浸かって」いることも・・・。いつ死ぬかも知れない恐怖と、残してきた両親や子供、家族など山ほどの「後顧の憂い」に兵士たちは苛まれた。

アウンサン・スーチー

2009年05月24日 | Weblog
 ミャンマー(軍政下での国名で、本来はビルマ)で、近頃またスーチーさんを追訴し、自宅軟禁を続行するという動きがあるそうだ。去年、巨大サイクロンに見舞われた後、その消息が公表されていなかったのだが。
 彼女の名誉を讃えるために、改めて1991年のノーベル賞委員会の発表を記しておく。
 「ノルウェー・ノーベル賞委員会は、1991年度ノーベル平和賞を、民主化と人権回復を目指す、その非暴力主義の戦いに対して、ビルマ(ミャンマー)連邦のアウンサン・スーチー女史に授与する事を決定した。(中略)スーチーは暴力を用いないマハトマ・ガンジーの抵抗運動を早くから心に留めてきた。
 1988年、それまで政治運動にたずさわる事の無かった彼女が、第二次ビルマ独立運動に参加した。平和的な手段で暴政に対抗する野党民主化勢力のリーダーになったのである。同時に、国内で激しく分裂している民族間の融和も呼びかけた。
 そして、1990年5月の総選挙では野党勢力が圧勝した。しかし、政府側は総選挙の結果を無視した。スーチーは祖国を離れる事を拒み、それ以来厳しい自宅拘禁状態におかれている。
 スーチーの活動は、近年のアジアにおける勇気ある市民運動の最もすばらしい例である。彼女は抑圧に抵抗する戦いの輝かしいシンボルになった。
 1991年度ノーベル平和賞をアウンサン・スーチーに授与するにあたり、ノルウェー・ノーベル賞委員会は、この女性のたゆまない努力に敬意を表すとともに、平和的な手段で民主化と人権向上と民族和解を勝ちとろうと懸命に戦っている世界中の人たちにとって、彼女の受賞が励ましとなるよう願っている。」

 もしかしたら、僕は彼女と同時期に同じキャンパスに居た。彼女の健康を祈り、彼女の希望が出来る限り早く叶う事を切望する。

泣き言

2009年05月23日 | Weblog
 自遊想を毎日休み無く書くことは、本心を言うと、辛い。徒然なるままにとはとても言えない。日々話題がある訳ではなく、いわば捏造するしかない日もある。それでも、奇特な人あって、拙文が読まれると考えると、書く方がいいのかなあ、と思いもする。しかし、重ね重ね言えば、辛い。それでも、書く方がいいのかなあ、と思う。こんな泣き言を書くことは、もっと辛い。でもねえ、辛さに耐えていつまで続くか、見てのお楽しみというところだろうか。誰が楽しむって? 勿論、僕自身。そう、辛さを楽しむ。自遊想を記すことは自虐的なんだ。本心を言うと、自虐は僕の性格ではないのだけれど。僕の本性はボーとすることだ。だけど、何を言っても単なる泣き言に過ぎない。泣き言ねえ、本当に泣きたくなってきた。ま、明日があるさ。


(今日は僕としてはメチャメチャ早くからちょっと遠出してきます。)

陜川

2009年05月22日 | Weblog
 数年前に見たテレビ・ドラマ『されどわが愛・広島から韓国へ』に出て来た地名が気になっていた。被爆後遺症患者の専門医が、広島で被爆した朝鮮人の行方を追って韓国のある地方を訪問する。その地方の名前が分からなかったのだが、ある雑誌を読んでいたら、そこが陜川という所であることが分かった。陜川はハプチョンと読む。ドラマではその発音が聞き取れず、韓国からの在外研究者に「ハクチョイという所がありますか。」と訊ねたこともあった。
 記憶を辿ると、ドラマでは、陜川から約6000人の男が強制連行され、多くは広島で軍需産業に就いた。その内約4000人が被爆して亡くなった。陜川に赴いた専門医が資料館を訪れて被爆者名簿を見せてもらうと、およそ2000人の名簿しかない。「おかしいですね。後約2000人の名簿がありませんが・・・」と言うと、資料館の人が「2000人では不足ですか!? 日本人が被爆したのと朝鮮人が被爆したのとでは意味が違うんです。日本こそが我々の同族の名前を明らかにすべきではないのですか。」と応える。良心的な専門医はこの言葉の重みに気がつく。
 実はこの専門医の父親が朝鮮総督府の役人で、陜川で朝鮮人連行の任についていたことをも、彼は明白にしたかったのだが、父親との確執で真相が分からず、父親が留めるのを振り切って陜川に来たのであった。途中、朝鮮総督府を訪れ、帰途に就こうとした時、父親が土下座して「私は朝鮮総督府の役人をしておりました。」と告白する姿を見る。そしてドラマは終わる。
 このドラマのすべてがフィクションではないことが判明した。

木耳 茱萸

2009年05月21日 | Weblog
 掲示板に蛍を見たという投稿が昨日あった。蛍の季節として何となく早いような気がするが、僕の気のせいなのだろう。沖縄や九州は梅雨期に入ったそうだ。これから真夏まで梅雨がなければいい季節だと思うが、梅雨のおかげで稲作が首尾よくいくわけで、天は二物を与えずの好例なのだろう。
 昨日、緑陰で木耳を見つけた。梅雨の頃、桑やニワトコなどの朽木に生える、耳たぶに似た茸である。肉質が海月(くらげ)に似ているので木耳(きくらげ)という字を当てる。これの佃煮は僕の好物だ。緑陰でもうひとつ懐かしい実を見つけた。茱萸(ぐみ)の赤く熟した実。この実を僕は子供の頃よく食した。あるところには幾らでもある実で、食べて食べ尽くせるものではない。桑の実とサクランボを足して二で割ったような味で、慣れると美味い。慣れないと酢っぱい。こういう実に喜喜とするのは僕が田舎者である証しだ。ほおばっている時、田舎者でよかったとつくづく思った。
 それにしても夏独特の暑さの到来が早いような気がする。

(今日はおもしろくないのですが、京都へ行かざるを得ません。)

杉の森

2009年05月20日 | Weblog
 杉の森が、神々の住むところだという考えは昔から日本人の心に根差していたようだ。
   石上布留の神杉神さびし
       恋をも我は更にするかも
万葉の古歌にも、神杉という言葉があり、杉の樹が神と崇められていたことを示している。
 同じく万葉に、三輪山の杉が出て来る。
   昧酒を三輪の神が斎(いわ)ふ杉
       手触れし罪か君に遇いがたき
三輪とは大神(おおみわ)神社(桜井市)のことで、この社には本殿がなく、三輪山を神体とする。現在の三輪山はアカマツの山林となっているが、遠い昔は杉で覆われていた。この杉が神木で、この樹に触れることはタブーだった訳で、この恋歌は、神の禁忌を侵した報いかと、恋人に遇えぬ心を詠っているのだろう。30年ぐらい前から三輪山に登ることが許可された。案外に急な山で汗をかいた覚えがある。当然のことながら、「遇いがたき」人に遇えぬ。


(昨日、旧友と囲碁、2連戦。3段はゆうにある相手。まあ、初めは互い戦でということになり、当然、僕が先。序盤は互角。次第に地合が足らなくなる。終盤、弱く見えた10数子の石の中に打ち込み。相手がしくじった。心中、勝った、勝った。喜び勇んだ。次、相手が大模様。その中に打ち込み。苛められることはなはだしい。何とか小さく生きる。地合が足らない。初戦と同じく弱そうに見える石を攻めた。首尾よくいった。勝ち。この旧友、昨日は「うっかりさん」だった。僕は気分上々。しかしながら偶々の勝ちでしかない。)

干潟を守れ!(新聞記事から)

2009年05月19日 | Weblog
 日本では70年代半ばからクルマエビの稚エビが毎年3億匹ほど放流されている。しかし、最新の漁業・養殖業生産統計年報によると、07年のクルマエビ漁獲量は1271トンと40年前の3分の1でしかない。日本の海はクルマエビ資源の維持もおぼつかない状況に追い込まれている。
 他国の海では反対のことが起きている。インドでは、80年代半ばのトロール漁導入後、クルマエビ科のエビ漁獲量が15万トンから8万トンに減ったが、今は20万トンを超えている。エビ漁の主要国である中国、インドネシア、タイでも同じ傾向で、世界の漁獲量はここ10年間で190万トンから260万トンに増大している。
 日本だけが何故激減したのか。理由は、稚エビの生活場所の多くが破壊され、消滅したためである。日本の海に棲むクルマエビは、ハゼなどの外敵を避けるため、体長10センチほどになるまでは干潟の潮溜まりや澪(みお)で過ごす。ところが、干潟は利便性の高いところにある為、工業団地や住宅団地、さらにはゴミ処理場、リゾート施設、さらには河口堰建設や海岸整備の名の下に次々と埋め立てられているのが現状である。
 青々としていても、干潟のない海はクルマエビにとっては死の海である。砂泥質の干潟は既に日本の海から約8割も消滅した。このまま埋め立てが進めば、10年を経ずして、日本の海からクルマエビは消えるだろう。
干潟が無くなることで悪影響を受けるのは、勿論、クルマエビだけではないだろう。自然界の生態系サイクルに対する考え方を根底から見直しする必要があると思う。


(今日は久方ぶりに旧友と天王寺の碁会所で囲碁を打ってきます。負けることは先刻承知なんですが、何とか一矢報いたいと。。ちょっと迷っているのはインフルエンザ対策でマスクをして行くべきか、どうか、です。)

兄のこと

2009年05月18日 | Weblog
 15歳年上の実兄の17回忌も無事終えた。兄は戦前、学徒動員で工場で働かされていた時に結核になり、戦後サナトリウムで(たぶん)5年間ぐらい療養した。その後は文字通り片肺飛行の生活で、僕が子供のとき見た兄の背中には長くくっきりと手術跡が残っていた。何故か胸は見た記憶がない。苦学して夜間高校を出た後は社会保険労務士をはじめ、いろんな資格をとり、いろんな職場で重宝され、懸命に働き、僕の大学生活を支えてくれた。
 60歳を迎えた頃から家の中での仕事に切り替えたが、65歳で亡くなる半年ぐらい前から呼吸困難になり始め、酸素ボンベを傍に置いていた。残った片肺の機能が弱まったのであろう。たしか亡くなる半月ぐらい前に訪ねた折りには、相当に弱気になっていた。横になったままの応対だった。
 僕の従兄弟や叔父は多くが戦争で亡くなっている。兄も、戦争がなかったら、結核にならなかったと思われる。そういう意味でも戦争が憎い。
 兄に向かって不戦を誓う五月である。近頃、憲法改「正」の動きが陰に陽に強まっているが、その必要は全く無いと思う。日本の憲法の基本を諸外国が模倣すれば良い事である。日本は、我が憲法を諸外国にもっと売り込めば良い話である。かく言う僕は憲法を擁護する団体には入らない。良きにつけ悪きにつけ、徒党を組む事を好まないからだ。団体に入らない事は兄から受け継いだ事であるかもしれない。

風呂敷

2009年05月17日 | Weblog
 一昨昨日、高橋和巳について触れた。その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。