自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

「要心」

2014年07月31日 | Weblog

 幸田文の『木』に次の一文がある。
 「去年の晩秋にも、ここへ檜を見にきているのだが、その時から夏にもぜひもう一度と思っていた。そういう思い方は私に、抜きがたい家庭人の癖がついているからだとおもう。若い頃にしみこんだ、料理も衣服も住居も、最低一年をめぐって経験しないことには、話にならないのだ、と痛感したその思いが、今も時にふれて顔をだすのである。檜のような、いつ見ても同じような姿をしている木を、秋にみただけでは済まされずに、夏もまた見ようという気を起こすのは、植物を丁寧に見ようとする心掛けからというより、家事業で身につけた経験から出てくる、いわば要心みたいなものである。一年めぐらないと確かではない、という要心である。」
 秋に見た檜は「静かに無言に、おとなしげ」であったが、夏の檜は「音をたてて生きている」と言う。季節毎に同じ木を見て、木の命に触れたという事だろう。
 木への思い遣りからも教わるところが多くあるが、ここで言われた「要心」を僕は忘れていたように思う。家事業から身につけるという事はないが、四季毎に同じ自然を熟視するという、四季があればこその営みを忘れていたのではないかと反省せざるを得ない。ゆっくりと生きるという事だと思う。これが出来れば、「要心」が知らず知らずの内に身についたという事だろう。さて、出来るだろうか。

原民喜 『鎮魂歌』 (簡単に過ぎる要約)

2014年07月30日 | Weblog

(もうすぐまたあの日がやって来る。)

めらめらと火 噴き上げる血 もぎ取られた腕 死狂う唇
痙攣して天を掴もうとする指 糜爛した死体

それでも 僕の眼の奥に涙が溜まったとき 焼け跡は
優しくふるえて靄に覆われていた
「自分のために生きるな
死んだ人たちの嘆きのために生きよ」
そんな声が聞こえてくる

美しい嘆きが僕を抱きしめる
靄にふるえる廃墟まで美しく嘆く
死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きが響き合う
僕は還ってゆくところを失った人間だった

水 水 水 僕は水になりたいと思った
青い蓮の葉の上で転がる水玉
蜘蛛の巣をつたわる水滴
そんな優しい小さなものに そんな美しい小さなものに
僕はなれないものかしら

「自分のために生きるな
死んだ人たちの嘆きのために生きよ」
僕は僕のなかで嘆きを生きるのか
隣人よ 君の唇に胡瓜の一片を与えたとき
君の唇のわななきは
あんな悲しいわななきがこの世にあるのか
僕は僕のなかで嘆きを生きる

あの時 僕は死んでしまったが ふとどうしたはずみか
また地上によびもどされているようだ
だが 還ってゆくところを失った人間だ
僕には無数の嘆きがある
一つの嘆きが無数の嘆きと結びつく
無数の嘆きが一つの嘆きと結びつく
嘆きが響き渡る

そして 僕には祈ることができた
明日 太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ
明日 小鳥たちは晴れやかに囀るだろう

(広島出身の原民喜が大正13年に上京して以来、広島に住んだのは昭和20年1月から昭和21年4月にかけての一年数ヶ月だった。原爆に遭遇。
廃墟と化した広島を詠った美しい散文詩のような小説。理解しようとすると、するっと樹影に隠れるような小説。
原民喜の小説としては『夏の花』を挙げるべきだろう。しかし『鎮魂歌』の方が彼の想念を深く表しているように思われる。)

美術書からスキャンした下の画像は文とは殆ど無関係です。
平和を祈る画家ジョット(1267頃-1337)の『小鳥に説教する聖フランチェスコ』は無信心の僕にとっても最も好きな絵のひとつです。

ショパンの葬儀で

2014年07月29日 | Weblog

 1849年10月17日、パリのマデレーヌ寺院で行われたショパンの葬儀で同寺院の風琴で演奏されたのは、24の前奏曲の第4番。アウフタクトを含めて僅か26小節の小曲。高音部の2音を動機とし、それを伴奏の和音を変えながら反復して全曲を作り上げている曲で、その間に転調によって哀切きわまりない感情を見事に表現している。
 本来、24の前奏曲は24曲全部を弾くこと(聴くこと)によってショパンの人生観が活き活きと表出されるが、この第4番は、僕でも弾くことができるほどテクニックを要しないので、時々悦にいって弾く。この第4番のみで完結した曲と見ることもできるだろう。最後がピアニッシモで消えるように終わるから。ショパンの葬儀での曲として選ばれたのも分るような気がする。
 (心臓だけは姉によってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められている。)

時代錯誤だろうか。

2014年07月28日 | Weblog

 荘子の有名な「はねつるべ」を、少し長くなるが引く。
 子貢は旅の途中でひとりの老人に出会った、その老人は畑つくりをするために、坂道を掘って井戸の中に入り、瓶に水をくみ、かかえて出てきては畑に水をそそいでいる。
 そこで子貢は老人に声をかけた。
 「水をくみなさるなら、よい機械がありますよ。一日のうちに百ほどの畦に水をやることができ、労力はたいへん少なくて能率があがります。あなたは欲しいと思いませんか」
 「そりゃ、いったい何だね」
 「それは木を細工してつくった機械で、後ろが重く、前が軽いようにできています。これを使うと、まるで軽い物を引き出すように水をくみあげることができ、しかも速度が早いので、あたりが洪水になるほどです。その名は、はねつるべといいます」
 すると、老人は、むっと腹をたてた様子であったが、やがて笑って答えた。
 「わしは、わしの先生から聞いたことがある。機械をもつものには、必ず機械に頼る仕事がふえる。機械に頼る仕事がふえると、機械に頼る心が生まれる。もし機械に頼る心が胸中にあると、自然のままの純白の美しさが失われる。純白の美しさが失われると、霊妙な生命のはたらきも安定を失う。霊妙な生命のはたらきの安定を失ったものは、道から見離されてしまうものだ、と。わしも、その機械のことなら知らないわけではないが、けがらわしいから使わないまでだよ」(天地篇三、森三樹三郎訳)
 この老人のように機械を否定することや、総じてテクノロジーを否定することは不可能である。可能だと言ったら時代錯誤だろう。ただ、問題は、機械の有用性を認めつつも、それに自らの心身を委ねることが人間にどんな影響を及ぼすかを顧みる知恵をこの老人から学ばなければならない、ということだと思う。

シソ

2014年07月27日 | Weblog

 僕は梅干が苦手なんだが、かつて姉が送ってくれた梅干が食卓にあると一つは食べた。
 梅干の色つけに欠かせないのが赤ジソだが、刺身のつまでおなじみなのが青ジソだ。ものの本によると、どちらもシソの栽培品種で、アントシアン系の色素ぺリラニンを含むのが赤ジソ、含まないのが青ジソ。白身魚の刺身には赤ジソを、赤身魚には青ジソを用いるのが基本だそうだ。そういえば、カツオの刺身やタタキには青ジソがつきものだ。
 利用するのは葉だけではない。花も実も薬味として使われるのは周知のところだ。夏の終わり頃、淡紫色の小さな花をつける。そして実を結ぶ。熟した実は、葉と一緒に佃煮にする。この佃煮は僕の好物だ。たぶん一年中ある。食べ過ぎると舌がしびれる。
 シソの香りのもとになるシソ油は殺菌力が極めて強く、20グラムのシソ油で醤油一石(180リットル)を完全に防腐できるそうだ。シソ油は青ジソの方が多く含んでいるそうだ。この殺菌力を利用して、葉、茎、種子までもが薬用として用いられたらしい。
 薬効はともかく、シソの葉がビタミンA、ビタミンB、カロチンを多く含み、栄養価が高いことはよく知られている。
 3週間ほど前、友遠方より来たりて天王寺の居酒屋で楽しく団欒した。一品料理の最初に頼んだのがカツオのタタキ。当然ながら青ジソの葉が一枚添えてあった。その一枚を僕は遠慮して友に譲った。友はタタキと共に美味しそうに食べた。僕も食べたかった。あの青ジソの葉一枚を忘却することはないだろう。

「閑さや岩にしみ入蝉の声」

2014年07月26日 | Weblog

 この句の意味について面白い知見を得た。作曲家の小倉朗の『日本の耳』に次のような記述があった。
 「夏の山の中などで聞くその声は、とても『閑さ』などといえたものではない。けれどもそうして激しく耳を打っているうちに、やがて耳鳴りのような無感覚になって、いつの間にか深い静寂にとり囲まれていく。だがその静寂を意識すれば直ちに蝉の声が耳にもどってくるといった、意識と無意識の間を去来する遠近の感情を僕らがよく知っているから、『岩にしみ入』という句に圧倒されるのではあるまいか。」
 なるほど。無意識というのは言い過ぎで半無意識と言ったところだろう。著者はこれを「日本の耳」だと言う。古くから日本人の耳はそういう静寂を聴いてきた。その耳は「近代音楽を生み出したヨーロッパの耳」とも、「好んで打楽器の刺激的な響きを打ち鳴らすたぐいの東洋の耳」とも異なる独自の耳である。
 日本の耳は自然の音と、そこにある静寂を聴く耳だと言えるのかも知れないと考えさせられた。
 しかし、都会で聴く、群れを成すリュウキュウクマゼミの大声は自然の音ではあっても、そこにとても静寂は聴こえない。都会の気温がそれだけ上昇したと言える。もしかすると、芭蕉の時代にはリュウキュウクマゼミの声は聞こえなかったのではないか?
 日本列島が次第に亜熱帯になってきたとも考えられる。2050年には完全に亜熱帯になっているだろう。その頃、「日本の耳」はどんな風に変質していることだろう。

自然の美と神秘

2014年07月25日 | Weblog

 水越武の写真集「BORNEO」を観る。ボルネオ島の、命の煮え立つような熱帯雨林に昼も夜もカメラを手にして分け入り貴重な写真を撮る。木生シダの多い森に出会う。木々がスコールの激しさに揺れ動く森に立ちすくむ。宝石とみまがう蝶にシャッターを押すのを思わず忘れる。木の幹から直接生える花や果実がある。擬態の昆虫たちが居る。毒蛇も毒蛙も居る。オランウータンやスローロリスも森にひそんでいる。
 写真集に添えてこんな文が書かれている。
 「科学者はこの熱帯雨林に関して、「我々はまだほんの少ししか知らない。むしろ、我々は月面についてはるかに多くのことを知っている」と言う。遥かな宇宙よりも、この地球上の熱帯雨林の方が、未知と不思議で満ちていると言うのだ。」
 この写真集を観ながら、雪氷科学者の中谷宇吉郎の言葉を思い出した。多くのエッセーに書かれていることを煎じ詰めれば、宇吉郎先生は科学を、自然の中にひそんでいる美と神秘を発見する試みだと考えていた、と言えるだろう。
 自然は美しい、神秘な自然、不思議に満ちている。ここまでは殆どの人が肯くだろう。だが、自然には人間が気づいていない美と神秘がどんなに沢山あることか。科学が進歩するほど、それらが見えてくる。自然の細部や自然の精妙な仕組みが分かれば分かるほど、自然の神秘、自然の不思議が増える。そういう自然の美と神秘に触れて感動するのが科学者だ、と宇吉郎先生は考えていた。
 一流の写真家も一流の科学者も同じことを憧憬しているのだ。こういう憧憬に都会人の多くは気づいていないのではないか。皮肉なことに、気づいていないからこそ、文明の進歩を謳歌しているが、ヒートアイランド現象にあえぐ季節が今年もまた来た。

執心、妄心

2014年07月24日 | Weblog

 時々、日本の名文を読み返すことがある。その一つ、鴨長明「方丈記」の末尾から引く。
 「・・・一期月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。・・・しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。・・・もしこれ、貧賤の報のみずから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。」
 高貴の身を捨て、世俗を去り、山中に六畳ぐらいの草庵で暮らせば、現世でのしこりを忘れ、木々のざわめき、小鳥の声、虫たちの戯れなど、時には読書など、誰からも干渉されることなく、気ままに生を楽しみ営むことができる。しかし長明は心静かに安楽としておれなかった。「執心なかれ」と思っても、妄心に至る。仏の教えを求むるも、達っせざる自らの「心は濁りに染め」る。これが、我が心が「よどみに浮かぶうたかた」であるという事実なのかもしれない。
 事実なのかもしれない。事実なのだ。

ブナと文字

2014年07月23日 | Weblog

 昔々、ドイツ人やイギリス人の祖先ゲルマン民族やフランス人の先住民族ケルト人は文字を知らなかった。
 紀元直後の頃、アルプスの南から文字の存在を知ったらしく、24個のルーネ文字を作った。
 鋭い刃物の先で呪文のような記号文字を、滑らかなブナの樹皮や板に引っ掻くようにして記した。だが、ルーネ文字は不便なのでまもなくラテン文字に変わった。
 ところが、「書く」という言葉は残った。鋭い刃物などで「引っ掻く」ことをラテン語でスクリーベレというが、これをそのまま借用したのがドイツ語のシュラィベン(書く)、英語のスクライブ(掻く、書く)、スクリプチャー(文章、聖書)である。
 エジプト産のパピルス紙やギリシャ産の羊皮紙も持たない貧しいゲルマン民族は、もっぱら滑らかなブナの樹皮や板にルーネやラテン文字を引っ掻いて書いた。そこで、ドイツ語では「文字・字母」のことを今でも「ブナの枝」(ブーフシュターべ)という。「本・書物」を表す英語のbook、ドイツ語のBuchは、「ブナの木」Bucheの語そのままだとも言える。
 北ヨーロッパの文字文化は、ブナの木とともに始まった。ドイツ人にとっては大切な木なのだ。

 こういう話を本で読むと、何故か嬉しくなる。僕らの文化というか生活が木ときってもきり離せないということが、とにかく嬉しい。何故かというと、僕は木の味方だからである。

心の礼儀

2014年07月22日 | Weblog

心の礼儀というものがある。
それは、愛に似ている。
表面の礼儀の感じの良さは、
そこから自然に溢れ出るのである。
       (ゲーテ『箴言と省察』より)

 昨日今日に始まったことではないが、現代は無礼・非礼がまかり通る時代なのであろうか。例えば、公務員の裏金作り、等など。人を貶める蛇蠍(だかつ)のような輩の存在、等など。まずは形としての礼儀を身につけさせねばならないのではないだろうか。しかし、形としての礼儀を内面から支える心の礼儀が浸透していなければならないのではないだろうか。しかしながら、僕自身の体験から言って、この浸透が、なかなかに困難を極める。だから、心の礼儀という「愛に似ている」ものを我がものとすることは至難の業である。ただ、至難の業だということを弁えることは大切なことなのではないだろうか。単に僕自身の問題としてだけではなく。あるいは単に僕自身の問題としてだけでも。

学徒動員

2014年07月21日 | Weblog

 僕の15歳年長の兄は呼吸不全で亡くなった。享年65歳だった。片肺が無かったために、歳とともに残った肺の機能も下がっていき、晩年は酸素ボンベを傍においていた。20歳代後半に片肺を摘出された。原因は結核である。結核菌に染まったのは終戦前の軍需産業での学徒動員の最中だったと聞いた。学徒動員がどういうものかは僕には判然としない。
 日本では8月15日の終戦記念日が過ぎると、過去に犯した戦争に関する記事や報道が極端に減る。これではいけないと僕は思う。掘り出し記事でもいいから、ことあるごとに反省の念を公にすべきだ。
 去年の7月11日の夕刊に、軍需工業などに動因され、広島で被爆して亡くなった学徒が新たに約720人居たことが報道されていた。被爆死した動員学徒は計約7200人にのぼるそうだ。「新たに」というのは、何回もの調査にも拘わらず正確なデータが得られないからである。
 広島では被爆当日、約2万6800人の学徒が動員され、4人に1人が亡くなったとされる。空襲による延焼を防ぐため、屋外で家屋を取り壊す作業をしていた学徒に被害が集中し、犠牲者の8割を占める約5900人が被爆死したそうだ。長崎でもおそらく同様の事が起こったことだろう。灼熱を超絶した熱線。僕には想像がつかない。
 想像がつかない恐ろしい事が一番多く起こるのは、おそらく戦争においてであろう。イラク戦争での捕虜に対する残虐行為がそうだった。想像がつかない程恐ろしい残虐な事が起きる戦争をしてはならない。何故なら、人間に特有な能力が想像力であり、この想像力を超えた残虐な事が起きるのは、戦争屋の相手を慮る想像力を欠いた場当たり的な出来心のせいだからである。そこでは通常の想像力が機能していないからである。
 最近読んだ森村誠一『新版 悪魔の飽食』で描かれた日本陸軍第731(細菌)部隊による捕虜3千人もの生体実験などの残虐行為は、僕の想像を絶した。ナチスによる非道も僕の想像を麻痺させる。それらの行為は人道・非人道の区別を越えた超非人道行為である。
 銃後での学徒動員は、そういう超非人道行為を間接的であれ支えていたとも言えよう。何も知らされないまま。

続・台所の知恵

2014年07月20日 | Weblog

 昨日の問題の答えを記します、と言っても僕に分るはずもなく、すべて食の博士・小泉武夫さんの識見です。

①の答え: タケノコにはえぐ味の成分としてホモゲンチジン酸やシュウ酸があるが、タケノコを米のとぎ汁とともに煮ると、水から茹でていく間に、とぎ汁に含まれている酵素がタケノコの繊維に作用して、軟らかくするとともに、多量のえぐ味成分を茹で汁に引き出すため。

②の答え: 干した椎茸は、水温が高いほど速く吸水する。低い水温で戻すのには時間が長くかかり、その間、うま味成分もかなり失うことになる。かといって、熱湯で戻すと、うま味成分の溶け出しが著しい。そこで、ぬるま湯ということになる。砂糖を少々加えるのは、真水より砂糖液の方が浸透圧が高く、うま味成分の溶け出しを抑えるため。

③の答え: 海苔にはタンパク質が30~35%含まれている。これを焼くと、タンパク質が熱で縮減する。両面から焼くと両面から縮減するうえに水分も多く蒸発しボロボロとくずれやすくなる。だから、一方だけをさっとあぶるのが良く、二枚重ねで焼くと、両面の表面だけを焼くことになり、そのうえ、熱によって蒸発する香りや水分を反対側の海苔が吸収するから、逃げる成分を防ぐため。一枚の海苔を焼くときも二つ折りにして焼くのは、そのためである。

④の答え: ワサビの辛味はミロシナーゼという酵素の作用による。目の細かいおろし金でゆっくりとすりおろすのは、細胞組織を砕いて酵素が作用しやすくするため。おろしてからしばらくおくのは、おろしたては、まだ充分に酵素が作用しないために辛味が少ないが、時間の経過とともに辛味が増していくため。大根やニンニクなども同じ作用で辛くなる。

⑤の答え: 真水でも薄い食塩水でも魚からの塩出し速度はそう大差ない。しかし、真水で行うより、塩水中の方がうま味成分の溶け出しが抑えられるため。

 台所には他ににもいっぱい知恵があるそうだ。先人の知恵を後世に伝えることが大切だと思う。

台所の知恵

2014年07月19日 | Weblog

 いつだったか蒟蒻について、蒟蒻は包丁で切って味付けるより、手でちぎって味付けする方が美味だと書いた記憶がある。手でちぎった方が凸凹ができ、蒟蒻の表面積を広げることになり、熱の伝わり方がよく、調味料が浸透しやすいから。蒟蒻の雷煮がその代表例。
 食材の利用法に関して台所には様々な知恵がある。以下、問題を出します。

① タケノコを茹でる時、米のとぎ汁を使うのは何故?
② 干した椎茸を戻す時、ぬるま湯に砂糖を少々加えた液で行うのは何故?
③ 海苔を焼く時、二枚重ねて焼くのは何故?
④ ワサビをすりおろす時、目の細かいおろし金で円を描くようにゆっくりおろし、また、すりおろしてからしばらくして使うのは何故?
⑤ 保存のために塩でからめた魚から塩出しする時、迎え塩またはよび塩と言って、真水ではなく薄い食塩水(0.5~1%)で行うのは何故?

 答えは明日(になるかな)。

『木を植えた人』

2014年07月18日 | Weblog

 ジャン・ジオノ『木を植えた人』の物語が実話なのか虚構なのかは不明である。虚構であっても、この短編から大きな感動を受ける。フランス南部のプロヴァンス地方に生まれたジャン・ジオノが、その地方の荒れ果てた高地を森に変えた一人の男を描いているのがこの短編である。
 その男、エルゼアール・ブフィエは毎晩ドングリ百粒を荒地に植えていた。植え始めて三年、十万粒のドングリの内二万本の芽が出た。その半分はネズミやリスにかじられたが、一万本のカシの木が荒地に育った。第一次大戦後五年を経て「私」が再び訪れると、一万本のカシの木は既に人の背丈を越え、ブナやカバの森も育っていた。広大な荒地が緑の森に変わっていた。
 近くの村には小川が流れていた。そこに水が流れるのは随分と久しぶりのことで、誰も覚えていないくらい昔のことだった。男の育てた森が小川を生み出していたのだ。
 更に二十数年、男は根気よく森を育てた。廃墟だった村に気持ちの良い生活が戻り、「森が保持する雨や雪を受けて、古い水源がふたたび流れはじめ、人々はそこから水を引いている。」

 森は水をつくってくれるのだ。森は薪も炭も与えてくれるが、何より水を与えてくれる。豊かな森には豊かな水がある。僕らは森の恵みをどれほど認識しているだろう。文明というものは、森を切り拓くことによって進歩してきた。これは歴史的事実である。だが、切り開きすぎて滅んだ文明も、バビロンなど、ある。この事実を反省しなければならないと思う。ブラジルの熱帯雨林が毎年、日本の四国ぐらいの面積、切り開かれている。東南アジアのマングローブを日本の製紙会社が買い占めた時期があったが、現在はどうなっているのだろう。

亭主と女房

2014年07月17日 | Weblog

 ほぼ毎日慣れないことをしている。小説らしきものを少しづつ書いている。書いていて気になることがしばしば出てくる。妻が自分の夫を主人と呼ぶのは封建制度の名残ではないか、とか。亭主と呼ぶのは、何処に由来するのだろうか、とか。そこで、ものの本で調べた。
 今の時期なら濃い青紫色のリンドウの花などを茶花に飾って、茶会が催される。亭主は茶道から出た言葉で、一間四方ぐらいの狭い茶室に客を招き、茶を供応する人のことであった。茶室には○○亭とか○○庵とか、名前がついていた。その○○亭の主というわけだ。
 一方、女房という言葉は、宮中に仕える女官の部屋のことを意味したが、それが転じて、そうした部屋を賜った高位の女官を意味するようになった。
 つまり、亭主は茶道に通じた趣味人であり、女房は宮廷で裳裾をひるがえす高貴の人であった。ところが、いつのまにか「うちの宿六」になり、「うちのカミさん」になってしまった。
 宿六を辞書で調べると、妻が自分の夫を卑しめたり、親愛の意を込めたりして言う語とある。卑しめられるのか、親愛の意を込められるのか、どっちなのか、僕としては個人的に気になった。「カミさん」の場合は、親愛の情をこめて妻のことをそう呼ぶ。
 日本語という代物は厄介ではある。一人称を表す「わたし」でも、方言などを加えると200ぐらい別の言い方があるそうだ。意味深長な日本語を達意の小説家は使いこなしているのであろう。