自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

田毎の月

2013年12月30日 | Weblog

 平松純宏『写真集 棚田の四季』をゆっくりと観賞した。棚田(千枚田)に映る田毎の月に見ほれた。「田毎の月」という昔聞いたことのあるような言葉に惹かれて、調べてみた。この言葉は、江戸初期の「藻塩草」(1669年)に表れている。
 「信州更級(科)の田毎の月は姨捨山(冠着山、1252m)上より見下ろせば、・・・」
 姨捨山伝説からも推測されるように、棚田の一つひとつは、食べる米がないという現実から農民が止むを得ず山に登り耕していった労苦の所産である。にもかかわらず、田毎の月を映す棚田は美しい。それは、農民が厳しい自然に素直に従わざるを得なかった結果であろう。
 自然との深刻なかかわりこそが、人の心を打つ美しさを生むのだと思う。大型機械の入らない棚田での作業がどんなにか苛酷であったかと想像していたら、島根県柿木村・大井谷の棚田についての報告書に、当事者たちは「その苦労はなかった」「むしろ後から、動力脱穀機を田から田に担いだときのほうが大変だった、切なかった。」と、微笑む、と記されていた。
 棚田は43道府県の891市町村に残っているそうだ。晴れた夜にはそれぞれの棚田に田毎の月が凛然と存在しているのだろう。

ケヤキ(欅)

2013年12月29日 | Weblog


 ケヤキはニレ科ケヤキ属の落葉樹で、日本に自生するケヤキ属の樹木はケヤキ一種だそうだ。照葉樹林帯から冷温帯広葉落葉樹林にかけての山地に広く自生するが、僕らに馴染み深い樹木だ。
 それは、自然の群生ではなく、街路樹や屋敷林などの植栽された樹木としてのケヤキであろう。
 僕の旧勤務先にも40mぐらいのケヤキ並木があったが、ビルを建てるために7mぐらい削られた。随分と粗っぽいことをすると憤慨したものだ。
 春の芽吹き、夏の緑陰、秋の黄葉、冬枯れの木立と、ケヤキの美しさは四季を通じて際立っているように思う。しかも、材が強靭で木目が美しく、価値がきわめて高く昔から重宝されてきたのは当然のことだろう。
 「けやき」という名も「けやけき木」、つまり「ふつうの木より際立った木」という意味に由来するという。「けやけさ」には「秀でた」「尊い」の意があり、物質的な有用性だけではなく、人々の精神的な拠りどころとして尊ばれてきたのだろう。
 冬の裸木も寂としていいものだ。

自然

2013年12月28日 | Weblog

 だいぶん前から気になっていた言葉の一つに「自然」がある。この言葉を僕らは何気なしに使っているが、nature という言葉が西欧から入ってきたのは勿論明治以降である。それ以前の日本では、漢字の自然はそれほど用いられていなかったようだ。(親鸞の「自然法爾(しぜんほうに)は有名だそうだが、僕は知らない。)親鸞の語法はむしろ例外的で、「おのずから然(しか)ある事柄の相」を指して自然という言葉は用いられていたと思われる。
 現在僕らが用いている自然は「天地」「天地万物」、あるいは山川草木、日月星辰、森羅万象を意味する語として用いられてきたと思われる。
 明治の初め西欧の学問とともに入ってきた nature をどう訳すかについてはだいぶ困ったふしがある。明治14年には、本性、資質、造化、万有などが当てられ、明治44年に初めて「自然」という訳語が追加されている(井上哲次郎「哲学字彙」1881年)。
 そこで、昔の日本人は、自然ということで「おのずから然ある事柄の相」を理解していたようで、自然という漢字で、山川草木、日月星辰、森羅万象を理解するようになったのは、むしろ新しいのでしょう。
 で、何が言いたいかというと、「自然」のむしろ新しい理解に昔の理解を重ねて、「自然」を重層的に理解するのが良いのではないか、ということです。荒廃した山川草木を「おのずから然ある事柄の相」で改めて見直すことが大事だと思う。思うだけでは何にもならないと思うが、そのように見直す姿勢を保っておれば、「自然」の違った相が見えてこよう。

草履

2013年12月26日 | Weblog

 僕は小学1、2年生の頃、4キロ近い道のりを祖母が夜なべで編んでくれた草履で通学した。が、冬も草履であったかどうか。冷え込む中、草履ではなかっただろう。では、何を履いて通学したのか、憶えがない。足袋に草履ではなかったと思うが。
 草履(ぞうり、わらじ)と言えば芭蕉に

   年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

という句がある。
 『野ざらし紀行』の一句。芭蕉は貞享元年八月、江戸を発って伊賀へ帰郷の旅に出た。九月八日帰郷。その後、大和、吉野、山城と廻って名古屋、熱田で十二月末まで滞在し、正月は故郷で迎えた。そして、二月には奈良で東大寺二月堂のお水取りを見て、京都、近江から東海道を下って四月に江戸に戻った。 あしかけ九ヶ月の長旅で、のちに紀行にまとめたのが『野ざらし紀行』である。芭蕉、四十一歳から二歳にかけての旅だった。
 この句は「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前書きがあって、名古屋から伊賀への旅の途中の句。漂白のうちに年が暮れてゆく。その漂白の旅のなかの自分の姿をありのまま描いた句。旅を続けること半年余り、笠をきて草履のままの姿で、年が暮れてしまうのかという感懐が一句になった。旅の寂しさとともに、故郷へ向かっての旅という気安さもあったのだろう。芭蕉の句にしては、何となく安らかな思いが感じられる句である。

 現代は草履の時代ではない。小学校からの下校途中、雨で濡れると草履が縮み、足の指に食い込んでくる。痛かった。裸足で帰った。そんな記憶が蘇えってくる年の暮である。

たまには音楽の時間です~。

2013年12月25日 | Weblog

 フランス音楽が苦手の僕にも例外的に好きな曲がある。フォーレとフランクは若い時からしばしば聴いている。中でも、フランクのヴァイオリン・ソナタは好きを通り越して、この曲を弾きたいがために、ヴァイオリンの猛練習をしたことがある。(今は全く弾けない。)
 何処に魅力があるのか。ドイツの古典にのっとった構成を堅持し、その上でフランス風な感覚が楽想となっているが、その感覚が極度に純化されている、そんなところに魅力の源泉があるのではないかと思う。
 19世紀最後の四分の一世紀に、ブラームスのヴァイオリン・ソナタと並んで一般に高く評価されているのは、豊かな旋律形態と、和声の色彩の豊かさ、説得力の強い形式の故であろう。
 第一楽章は4小節のピアノの前奏に続いて、何とも美しく感動的な主題が始まる。この感動をどう表現すればいいのか。この品の良さは、白い服の女性が、少しだけ、ほんの少しだけコケティシュに、透き通るような森の中で舞っている、そんな光景を思い浮かばせる。これは、第二楽章の一種のスケルツォと対照的である。第三楽章は幻想曲風で、第四楽章はカノン風な主題で、対位法を完全に使いこなしている。もったいぶった表現主義に陥ることなく、古典的楽想とロマン的楽想が融合している。
 この曲が好きだという人が多いと聞く。人は何かしら共通感覚というものを共有しているのかもしれない。

奈良・冬の風物詩

2013年12月24日 | Weblog



 奈良・冬の風物詩【三輪素麺の天日干し】

 Wiki.より
「乾麺(かんめん)は生麺と異なり、乾燥させた麺類のこと。その種類は、うどん、そば、パスタ、ラーメン、素麺、冷麦、春雨、ビーフン、葛切りなど多岐にわたる。
食味に関しては、調理法(茹で戻し方法)にもよるが生麺にくらべ、一般に麺のコシが強いことが多い。また、乾燥している事によって高度の保存性を有し、食感向上の工夫をしているものもある。

想像するだけで心和む風景

2013年12月23日 | Weblog

 北国に餅花という風習があるそうです。編んだ藁に搗いたばかりの餅を一握りずつ巻きつけるように着けて、寒風に晒し、保存食にするそうです。
 晒された白い鈴なりの餅が花のように見えるそうです。
 今もこの風習が残っているかどうかは分かりません。(小奇麗な土産物、飾り物として売ってはいます。)
 稲作文化圏の僕らの祖先は五穀豊穣を旨とし、食を大事にしてきました。
 飽食の時代とも言われる現今において、一方では、国の内外を問わず、特には途上国と最貧国で飢えに苦しんでいる人々が居ます。そのような人々の事を忘れてはならないと思います。世界市民が連帯して飢餓状態を無くさなければならないと思います。その一つの手立てが保存食の復興と工夫にあるのではないかと思います。
 想像してみてください。夕刻や朝明け時、軒下につなげて干してある餅花の美しさを。僕は本来が田舎者ですから、特にそんな美しさに惹かれるのかもしれません。食が美しければ、こんな贅沢はないでしょう。
 日本の食料自給率38パーセント。地に足が着かない国になってしまいました。
 地球規模でも日本でも様々な課題を残したまま今年も暮れていきます。

今日は冬至

2013年12月22日 | Weblog



 
 今日は★冬至★
 無病息災を祈って風呂に柚子を浮かべるのが【 柚子湯 】

   柚子湯沁む 無数の傷あと あるごとく   岡本 眸

 風呂の蓋を取ると柚子の香気が湯気とともに立ちのぼる。
 冷えた体を沈めると、湯の熱さが沁みこんでくる。
 「無数の傷あとあるごとく」は身体の傷ではない。湯の熱さが沁みることの形容だが、しかし、心の傷かも知れない。
 湯の心地よい熱さと柚子の香りが、皮膚を通して心の傷に沁みる。そして、その傷を癒してゆく。
いい句だ。今年も残り少なくなった。埋まるほどの柚子は無理だが、2、3個の柚子を浮かべた風呂で過ぎ去った今年の心の傷を癒せるものなら癒そうか。

知里幸恵と『アイヌ神謡集』(再掲)

2013年12月21日 | Weblog

 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

 (僕の提案:『アイヌ神謡集』を世界遺産に!)

(再掲) 神さま 仏さま

2013年12月20日 | Weblog

 僕のような無心信者が宗教について云々するのは僭越である。僭越なんだけれど、ほんのちょっとだけ宗教について記すことにする。積極的に記す気はないんだけれど。
 思うに、日本人は、個々人の生き方に関しての平安や救いについて仏さまに期するところが大きいように思われる。
 一神教の国では、生活の繁栄も個々人の安心立命も自然の恵みも神に祈り、神に感謝する。
 古代インドの悠久の大地で成立した(と思われる)、途方も無い大きいスケールの輪廻の宇宙観は、小さな島国たる日本にはそれ程根づかなかったように思う。むしろ、西方浄土で現世の苦からの解脱を期待することが主要な関心事となったように思う。そして、願わくば現世での苦から少しでも解脱すること(この言い方は本来はおかしいのだが)を望む人々が日本の仏教を支えてきたように思われる。
 ところが、日本人の多様な信心は神さまにも向かった。五穀豊穣を祈るのは田の神さまに対してである。山には山の神さまがおられる。海には海の神さまがおられる。
 神仏習合は、それ程の褐藤もなく成立したのではないだろうか。それは、個々人の信のあり方としてだけではなく、境内に七福神を祭ったり、お稲荷さんを祭ったりしている寺院があることからも肯ける。仏壇と神棚をお祭りされている家々がある。(一神教の国の信心深い友人をかつて京都の神社仏閣にお連れした時、彼は手を合わせていた。仮に手を合わせたのだとは思われなかった。)
 僕は特別に宗教を意識することはないが、もって生まれた血の中に、そういう、苦からの解脱や平安を与えて欲しいと願う仏さまと、山の神さま、田の神さまが棲んでおられるのではないかと思う時がある。

雪の結晶

2013年12月19日 | Weblog

 僕んちの地方では年々降雪の機会が少なくなっているような気がする。地球温暖化も手伝っているのだろう。
 ところで、雪の結晶が六角形をしていることはよく知られている。昔、ジャジャウマやクモガクレの為に買った子供向けの『科学のアルバム』をめくっていたら、相当高度なことが書いてあった。
 2千年以上前の中国で、雪の結晶は六角形だと知られていたそうな。ヨーロッパでは13世紀ごろに、星型だと書かれていたそうな。17世紀にはケプラーが六角形であることに気づいていたそうな。日本では江戸時代に下総の国古河(今の茨城県古河市)の土井利位という殿様が、顕微鏡で見たスケッチ『雪華図説』という本を残しているそうな。
 雪の結晶の科学的な研究が本格的に始められたのは、中谷宇吉郎によってである。人工的に雪の結晶をつくる実験によって、自然の雪の結晶と同じ形のものをつくることに成功した。それだけではなく、決まった温度や湿度の時には、決まった形の結晶が出来ることを明らかにした。そこで、雪の結晶の形を調べれば、その結晶が出来た上空の気象も分かるというわけだ。このことを宇吉郎先生は「雪は天から送られた手紙」と呼んだ。しかし、実際に地上で観察される雪の結晶は、落ちてくるまでの間に風に流されてくるから、その結晶の形が、即座に上空の気象を表しているとは言えない。天からの手紙は、旅をしながら落ちてくる間に書き綴られたものだと言える。
 ところで、僕が思うに、なぜ六角形なのか?ということだ。この問いにはまだ答えが出ていないのではないか?結晶構造の多くが六角形をしているのは何故だろう。僕に分かるはずがないが、専門家が究明すれば、ひょっとしたらミクロの世界の謎が一つ解けるかもしれない。
 ものが最も多く入るのも、蜂の巣を見れば分かるように、六角形を口とする袋の集合などである。

見るという事(再掲)

2013年12月18日 | Weblog

 ボーとしているのが僕の本領なんですが、そのボーが一段落すると、不思議なことなのですが、しばしば教わることに出会います。そこいらにある本の頁をめくっているだけなのですが、ああ、そうだったと気がつくことがあります。
 ポール・ヴァレリーの『ドガに就いて』(吉田健一訳)の一章「見ることと描くこと」の冒頭は概略次のように始まります。
 鉛筆を持たないまま物を見ているときに目に映っている物の姿と、デッサンしようとして見る物の姿の間には天地雲泥の差がある。普段見慣れている物が、ガラリと様子を変える。物が物の用途から洗われて、物そのものとして目に見え始める。日常の目は、物と私達の間を仲介する役しかつとめていなかったが、いったんデッサンしようと鉛筆を持ちつつ物を見始めたとき、目は意志に支えられた指導権を握る。そして意志して見られた物は、普段見慣れていた物とはすっかり別の物に一変する。
 ヴァレリーの言う通りだと思う。その通りだと普段考えている僕を忘れてしまっている。手に鉛筆をもってデッサンするつもりで見なければ、物の姿は見えないのだ。「見る」は「看る」に通じるのだ。
 そうすると、ちょっと飛躍して考えると、見るという事は看るという事なのだ。看護の一歩手前の看るという事なのだ。そうして、やがて看護される時期が僕にも訪れるのであろう。
 それまでは見る事、看る事に心がけなければならない。

或る晴れた冬の日に♪

2013年12月17日 | Weblog


或る晴れた冬の日に
葉を散り終えたナンキンハゼには白い実が鈴なり ♪
かつてはこの実の皮からロウソクの蝋を採取したそうです。
自然の恵みは現代も今後も戴くほうが良いと思う。
家庭内での灯りに!!! 電気やガスだけに頼らずに。

季節の花 300   http://www.hana300.com/nankin.html

柊(ひいらぎ)

2013年12月16日 | Weblog

 柊の葉には独特のトゲがあり、これを鬼の目突きというそうだ。
 節分の日、魔よけのために柊の小枝をイワシの頭とともに門口に立てる慣習はかなり古くからあるそうだ。
 ものの本によると、面白いのは、柊が五十年から八十年ほど成長すると、葉のギザギザが自然に消えることだ。年輪を刻んで、次第にトゲがなくなる。角がとれて丸くなる。柊に学びたいと思うが、僕なんぞはなかなかこうはいかない。
 葉にトゲがある若木をオニヒイラギ、年を経てトゲがなくなった老木をヒメヒイラギと呼ぶのもいかにも面白い。日本産ヒイラギ人種は、とげとげしい過密国で暮らさねばならないせいか、五十歳を過ぎても、六十歳を過ぎてもヒメヒイラギのように角がとれない。(畏友の呆さんはすっかりヒメヒイラギになられた。これはまた珍しけれ。)
 先日、所用で奈良県南部の市に足をのばした。電車の中で樹についての本を読んだ。着いた先の市役所の傍に、冬空を背にして、葉をあらかた落としたケヤキが厳しい姿で立っていた。宙に描かれた梢の線は、繊細でしかも力強く、野放図のようでいて、ある調和を保っている。そのケヤキにトゲ葉をつけた柊が寄り添っている。その姿が、なんとなく面白く感じられた。

「黒い雨」の範囲 (2010年1月26日の記事を再掲)

2013年12月15日 | Weblog

(朝刊より)
 広島への原爆投下直後、放射性物質を含む「黒い雨」が降った範囲が、国が援護対象に指定している地域より大幅に広い可能性が高いことが25日、広島市が実施した被爆者調査結果から分った。同市はこの結果を踏まえ、降雨地域の拡大を改めて国に強く要望する方針。
 「黒い雨」は広島市中心部から北西方向にかけて降ったとされる。国は被爆直後に地元の気象台の技師らが実施した調査をもとに、1時間以上降った「大雨地域」(南北10キロ、東西11キロ)と1時間未満の「小雨地域」(南北29キロ、東西15キロ)を決定。大雨地域在住者のみ公費で健康診断が受けられ、ガンなど特定疾患になった場合は被爆者健康手帳を交付している。
 広島市は2008年、市内と周辺2町在住の被爆者ら約3万7千人を対象に記入式の健康意識調査を実施。約2万7千人の有効回答者のうち、「黒い雨」の体験について記憶が明確な1844人の回答を解析した。その結果、原爆投下から約2時間後の午前10時台には、「黒い雨」が降ったとみられる地域が最も拡大。国の「小雨地域」と比べて、東西、南北方向とも10キロ前後広い円内で降っていた可能性が高まった。
 「小雨地域」に含まれておらず、爆心地の北西にあたる広島市佐伯区中部では「黒い雨が土砂降り状態だった」と答えた人が目立った。同区北部では「3~4時間降った」との回答も多かったという。