自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

偽装ばやり

2007年10月31日 | Weblog
近頃、偽装ばやりである。朝刊によると、住宅の軒裏などに使われる防火材が偽装されていたとのこと。次から次へと出てくる。振り返れば戦後ずっと偽装、偽証の連続ではなかったのか。

   あやまちはくりかへします秋の暮     三橋敏雄

もちろん原爆の碑に刻まれた言葉のパロディである。戦後の政治や社会の有り様を見れば、敗戦で何かが決定的に変わったなどとは、とても言えないではないかという作者の冷徹なまなざし。
言うまでもなく戦前も偽装、偽証の連続であった。

ふるさとの山

2007年10月30日 | Weblog
   ふるさとの山に向かひて
   言ふことなし
   ふるさとの山はありがたきかな

   汽車の窓
   はるかに北にふるさとの山見え来れば
   襟を正すも

この啄木の詩に初めて接した時のことを思い出す。あの頃は、啄木の山が有名な岩手山であるからこそ、彼はひとしおの感を抱いたのだと思った。だが、今はそうは思わない。
他郷の人から見ればどんなにつまらない山であっても、ふるさとの山には幼い日の思い出が浸みついている。
啄木の山がたまたま岩手山であって、汽車の窓から臨み見えたのであって、名もない山でも啄木は同じ気持ちで詠んだに違いない。僕もふるさとを離れて久しい今、そう思う。
ふるさとは確かに実在するものに相違ないが、永く離れている者にとって、心の中で美化され育まれてきた一種観念的な存在でもある。永く離れていればいるほど、空想の部分が膨れあがり、ふるさとは温かみと輝きを増し、懐かしさに充ちたものへと変わっていく。
子供の時の「山の神」行事が限りなく懐かしい。松明を掲げて夜の山を駆け巡った心地よさは、他に喩えるものがない。
誰にでも在るふるさとを僕が今日いつもよりも愛おしく懐旧するのは何故だろうか。

沖縄戦集団自決「軍強制」復活申請へ

2007年10月28日 | Weblog
(新聞記事より)

沖縄戦での「集団自決」をめぐり、教科書検定で「日本軍の強制」が削除された高校日本史の執筆者で、高校教諭の坂本昇さん(51)が27日、日本軍による強制で集団自決が起こったという趣旨で、教科書会社が文部科学省に訂正申請する見通しを明らかにした。他の教科書会社も同様に、強制性を記した訂正申請を検討中という。

坂本さんが執筆する教科書会社の編集者との打ち合わせは終わっており、会社が30日をめどに最終判断し来月初めにも申請する予定という。

訂正申請では、伝聞で日本軍の命令を聞いたという生存者の証言を追加し、集団自決は「強制集団死と言われることもある」という趣旨の脚注も入れる。さらに、07年のできごととして、検定が問題となり、沖縄で反対運動が起きたことにも触れるという。

坂本さんは、こうした記述を入れる理由として、検定で削除が明らかになって以降、新たな証言が出たなど状況の変化を挙げ、「『日本軍の関与』なら認められるだろうが、強制だったことをはっきりさせたかった」と説明した。

検定の規則では、申請者は、検定が終わるまで内容を明らかにできない。坂本さんは「検定の密室性に一石を投じたい」と、教科書会社とは別に一執筆者として申請前に修正案を明らかにすることにしたという。


(この復活申請に対して文科省は消極的だとのこと。いいのかねー? 文科省さん。
上に出ている、検定に反対する沖縄県民集会参加者の数は主催者発表では11万人だった。ところが、教科書検定委員の一人は2万人と臆断した。主催者発表は概して多めだとしても、2万人ということはないと憤慨したことがある。)

秋霖

2007年10月27日 | Weblog
霖とは、長雨のこと。秋霖(しゅうりん)は秋雨の別名。霖という漢字が何ともいい情趣を表している。

今日は秋雨が降ったり止んだりの一日でした。
秋雨とは、日本において9月中旬から10月上旬にかけて降る長雨のこと(年によりズレがある)。秋霖(しゅうりん)ともいう。
今年は猛暑が長かったせいか、秋雨の日が少なかったように思う。それに、今日のように10月下旬にまで秋雨の季節がずれ込んだように思う。
梅雨と違って、秋雨は北海道でも降るそうで、今年は北の大地で大雨をもたらした。
大雨は困るが、今日のような小雨の日は気分が落ち着く。霖、林に小雨の如くに静かでしんみりとする。いい夜だ。

陽の光させば・・・

2007年10月26日 | Weblog
「陽の光させば、泥水だって美しく輝く。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

近頃は、うわべの美しさを競う浅薄な世の中だ。例えばブランド商品にうつつを抜かす輩の多いこと。いや、昔だって、同じようなものだったらしい。
泥水と聞けば、眉をひそめる。撥ね上がって、衣服を汚しはしないかと気遣う。「砂を撒いて、泥水を覆え」との声もここかしこから聞こえてくる。とかく泥水は嫌われものだ。
しかし、その泥水だって、陽の光がさせば美しく輝く。
我ら齢を重ねようと、うらぶれようと、陽の光を浴びて美しく輝こうではないか!
ゲーテはこのように言いたかったのだと思う。

されど、心が曇天のままだったら、陽の光が届かないであろう。されば、心のカーテンを開くことが先決だ。
ところが、この先決事項の解決が至難の業であることは言うまでもない。
今夜の僕はどうも後ろ向きのようだ。明日があるさ。

草刈り十字軍

2007年10月25日 | Weblog
 徒然想で昨日野菜づくりの際の草むしりの苦労について触れたが、そんな苦労はほんの序の口で、山の木々の下草刈りは並大抵の苦労ではないと思われる。思われると言ったのは、銀さんや呆さんやパンダさんの現実の苦労を僕が知らない訳で、その苦労は想像するしかないからである。
 ところで、確か1970年代前半に富山県で始まった「草刈り十字軍」という一種の市民運動がある。始まった頃はいわゆる学園紛争の最中で、山の下草刈りという地味な運動が話題にのぼった。この運動のそもそもの始まりは、造林地への除草剤大量撒布への反対運動である。杉や檜の造林地では、植林後何年間かは毎年下草を刈らないと苗が枯れてしまう。ところが、山村の過疎地では人手が足らない。そこで、除草剤に反対する以上、有志の若者に頼らざるを得ないという事情があった。この事情に応える若者も次第に増え、愛知県や滋賀県にも全国から有志の若者が集まるようになって、毎年夏の盛りの頃、その苦労が話題になる。
 それこそ大変な苦労らしい。朝五時に起きて山へ入る。二時間も山道を歩く場合もあるそうだ。炎天下、人の背丈ほどの大ガマで1メートルぐらいの草を切る。蜂や蛇がいる。しかし、途中で下山する若者は少ないらしい。市民運動の言い出しっぺの人曰く「今時の若いもんの中にも性根の座った連中」がいる。近頃はフリーターという「仕事」があるが、そんな中からも性根の座った連中が出てきて欲しいと、僭越ながら思う。

手紙をもらった。

2007年10月23日 | Weblog
「ギンガ・ソレムニス」を知っている人の友人から手紙をもらった。その友人と称する人を僕は知らない。ちょっと嬉しいので、記すことにする。「樹のための二十四の前奏曲の15、晩夏、午後、草いきれ」についての感想である。

「前略、・・・うだるような暑さの午後、草いきれの古墳の跡に腰を下ろす。茫々と伸びほうだいの草と、その上に伸びる落葉照葉樹林。毎年生まれ変わるそれらの生物と、たった一度の命しかない自分を比べてみる。かれらは、自分の生活の何たるかをよく知っているように思えるのに、比べて自分はどうか。徒に生命を浪費しているだけではないか。自分の生活の何たるかを掘り起こしてみることもせず、余儀なく計画された明日の生活を当てにしている。何故に生きんとすか。」
「この問いに答えを見つけることは大変難しい。しかしこのような問いを発することは重要であると思う。私たちは忙しい日々の生活に追われて、習慣の虜となり、自分の生について反省したり、深く意義を問うたりすることが難しくなっている。・・・短略的な思考と行動が常になってしまっている。・・・今、こういった態度を問い直す必要がある。」

予想外の手紙で、僕はあっけにとられると同時に寂しい嬉しさを感じた。

初めから言わなきゃいいのに・・・。

2007年10月20日 | Weblog
(新聞記事より)

 DNAの二重らせん構造を発見して1962年にノーベル医学生理学賞を受けた米国の分子生物学者ジェームズ・ワトソン博士(79)が英紙とのインタビューで、黒人が人種的に劣っているという趣旨の差別発言をし、大きな波紋を呼んでいる。

 同博士は14日付のサンデー・タイムズ紙で「アフリカの将来を悲観している」とし、「社会政策はすべて、彼ら(=黒人)の知性が我々の知性と同じだという前提を基本にしているが、すべての研究でそうなっているわけではない」と語った。さらに「黒人労働者と交渉しなければならない雇用主なら、そうでないことを分かっている」と続けた。

 この発言に対して、同博士が所属する米ニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会は18日、「遺憾だ。我々は、ワトソン博士の発言につながるような研究は一切行っていない」と厳しく批判。博士を停職とすることを決めた。

 ワトソン博士は新著の宣伝活動で英国を訪れていたが、講演のキャンセルが相次いだ。博士は18日、「ただただ謝るのみ。発言は私の本意ではない。もっと大切なことは、発言に科学的な根拠がまったくないことだ」と謝罪し、宣伝活動を中止して帰国した。

(原文を読んでいないので、はっきりしたことは言えないが、博士の発言が上の通りだとすると、何百万人の人々が落胆したことだろうか。初めから言わなきゃいいのにと思ったが、最高の知性の持ち主にも偏見は付きものなのだ。)

虚飾

2007年10月19日 | Weblog
「虚飾を捨てさえするならば、人間はなんとすばらしい生物であることか。」(ゲーテ『箴言と省察』より)
つまり、人間の諸悪の源は虚飾にある、ということなのだろうか。もっともなことであるとは思う。
だが、反面、人間を人間らしくしているのも虚飾だと言えよう。場合によっては、この虚飾が、人間の生き甲斐になっている事も大いにあるだろう。
虚飾がなければ、文化も貧弱なものになっていたかも知れない。
虚飾を捨て切れない人間! 人間とは哀しくも、面白い存在である。
だが、過ぎたる虚飾は人間とその文化をつまらなくしてしまう。これも事実であろう。
最近、反則を犯した若いボクサーと彼のトレーナーである父親の言動がメディアを席巻している。過ぎたる虚飾に彩られた試合はボクシングではないと言わなければならない。

コスモス

2007年10月18日 | Weblog


別名:アキザクラ(秋桜)
熱帯アメリカ原産で、菊科に属します。日本名の「秋桜」というのも趣のある名前です。
cosmos とは(秩序のある調和のとれた体系と考えられた)宇宙のこと。cosmos に対応するのは chaos。
宇宙を表す言葉は space,universe があります。space は、(地球の)大気圏外,宇宙であり,universe は the を冠して使われる、というように若干ニュアンスが違うようです。
universe は uni-verse で、一行の詩という意味があり、秩序のある調和のとれた体系としての宇宙は一行の詩で表現できると、昔の誰かが考えたようです。

坐る

2007年10月15日 | Weblog
 坐るという字は、土の上に人が二人すわっていることだ、という解釈がある。その二人とは自分と自分である。土に坐って自分と自分が対話し、自分の内面を見つめる、それが瞑想や坐禅につながるのだという仏教者は言う。
 無信心の僕は、仏教のことは知らないが、坐るという字を見つめていると、何となくそんな解釈がもっともらしく思えてくる。
 土の上、石の上、草の上、畳の上に黙って坐っていると、自分自身の喜怒哀楽を見つめることが出来るように思える。思うに、これは、椅子に座ることでは出来ない。椅子に座って事務や読書は出来るが、自分との対話は出来ないのではないか。
 ひょっとしたら、坐ることで自分との対話が可能になるということは、日本文化の特徴であるかもしれない。旅館の畳の上に坐って、窓越しに紅葉を見ているうちに自分と自分との対話が進む、そんな旅をしたいものだ。今年は紅葉狩りとしゃれこもうか。まあ、無理だろうな。近くの林の枯れ草の上に坐ってこようっと。