自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

地球温暖化は止められるか

2010年11月30日 | Weblog
(朝刊より)
 地球温暖化対策の国際交渉が停滞期を迎えている。メキシコでの気候変動枠組み条約の会議(COP16)も、難航が懸念される。
 現在の対策の大枠となっている京都議定書には大きな問題がある。2012年までの第1期は先進国だけが削減義務を負うが、最大の排出国である中国も、議定書を離脱した米国も削減義務を負っていない。
 昨年、この大問題が解決しそうだった。米国で温暖化対策に積極的なオバマ民主党政権が誕生し、温暖化の国際交渉に復帰した。そして「京都議定書とは別の仕組み」をつくって米国や中国などが相応の規制をもつ方向に議論が進んでいた。
 しかし頓挫した。まず昨年末のコペンハーゲン会議(COP15)で前向きの合意ができなかった。オバマ政権は今年、米国内で野心的な排出量取引法の成立をめざしたが失敗し、中間選挙で共和党に負けた。これで米国と世界の熱気が消えた。
 背景には世界的な経済危機がある。削減義務を課されることに否定的な中国など新興国は「議定書の延長で先進国はさらに削減を」と唱え、日本やロシア、カナダは「自分たちだけが義務を負う延長には反対」である。
 欧州連合(EU)は「米中が入る仕組みができるのなら議定書延長も検討する」との構えだ。米国は「議定書には絶対に戻らない」と繰り返す。
 こんなバラバラな状況では13年以降、国際的な削減義務がない「空白期」が生まれることになる。
 日本やEUだけが新たな規制数値を受け入れるのでは、地球温暖化阻止の展望が開けない。米中がなんらかの形で削減の義務を担う仕組みをつくり出すために、各国が知恵を絞らねばならない。低炭素型社会をめざす国際協調が必要だ。

(しかし、世界はどうやって低炭素型社会をめざすのか。一つの簡単な方法は、それこそ国際協調をして大から小までの武器生産にかかる巨費の、せめて半分を太陽光発電のコストダウン技術の開発に回せばよい。)

久しぶりに、シューベルト

2010年11月29日 | Weblog
『冬の旅』より9番「鬼火Irrlicht」
  深き谷間へと 鬼火は誘う
  われは迷えども 心痛まず
  鬼火の誘いに われは慣れたり
  喜び嘆きも すべて鬼火のしわざなりしか

  水なき川に沿い われは下りぬ
  すべての流れは海に注ぎ
  すべての悲しみは
  墓場につづかん

 (夜の旅は、あてどない道をゆく若者に恐怖を与える。鬼火は彼を深い谷間へと誘う。しかし若者はもう慣れた。この世の喜びも悲しみもすべて鬼火の仕業だと感じる。
 この曲で、若者は一つの思想を初めて抱く。それは「諦観」である。それまでは恋人への執着を歌っていたが、この世は鬼火のようなものだという虚無感に襲われたとき、二十代後半のシューベルトは絶妙な歌曲を産み出した。
 二十代後半、懐かしい。昨晩のこと、もの思う秋であった。)

『木を植えた人』(再掲)

2010年11月28日 | Weblog
(今年のこのブログのモットーは「森の時代へ」。そこで、再掲)

 ジャン・ジオノ『木を植えた人』の物語が実話なのか虚構なのかは不明である。虚構であっても、この短編から大きな感動を受ける。フランス南部のプロヴァンス地方に生まれたジャン・ジオノが、その地方の荒れ果てた高地を森に変えた一人の男を描いているのがこの短編である。
 その男、エルゼアール・ブフィエは毎晩ドングリを百粒を荒地に植えていた。植え始めて三年、十万粒のドングリの内二万本の芽が出た。その半分はネズミやリスにかじられたが、一万本のカシの木が荒地に育った。第一次大戦後五年を経て、「私」が再び訪れると、一万本のカシの木は既に人の背丈を越え、ブナやカバの森も育っていた。広大な荒地が緑の森に変わっていた。
 近くの村には小川が流れていた。そこに水が流れるのは随分と久しぶりのことで、誰も覚えていないくらい昔のことだった。男の育てた森が小川を生み出していたのだ。
 更に二十数年、男は根気よく森を育てた。廃墟だった村に気持ちの良い生活が戻り、「森が保持する雨や雪を受けて、古い水源がふたたび流れはじめ、人々はそこから水を引いている。」
 森が水をつくってくれるのだ。森は薪も炭も与えてくれるが、何より水を与えてくれる。豊かな森には豊かな水がある。
 僕らは森の恵みをどれほど認識しているだろう。文明というものが、森を切り拓くことによって進歩してきたというのが事実であるならば、この事実を反省しなければならないと思う。

(今日は仕方なく遠出してきます。)

「謙虚と傲慢」久しぶりにラ・ロシュフコー

2010年11月27日 | Weblog
 「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙しとおせることはない。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)

 僕は時々、むきになって直言することがある。他人様から見れば傲慢なヤツだと思われていることだろう。直言した後、もう少し謙虚な物言いが出来なかったものかと忸怩たる思いをする。しかしながら、上の箴言によれば、傲慢が謙虚を装えば騙しになる。それでは、言うべきことがあるとき、どんな態度や言葉遣いで話せばいいのだろうか?
 箴言というものは、物事の一理を鋭く説く言葉である。そこには時代を超えた真実が表現されている場合も多い。気がついた箴言を傾聴していると、身動きがとりにくくなる。
 高ぶってもへりくだっても傲慢の偽装となる。それでは、どうせよ、というのだろうか。謙虚と傲慢という言葉を僕の辞書から無くせばいいのだ。だが、そんなことが出来るはずもない。困ったことだ。

やったね、福島千里君!

2010年11月26日 | Weblog
(朝刊より)
 アジア大会陸上の女子200メートルで福島千里(22)が23秒62で優勝し、日本女子で初めて100メートルとの2冠を達成した。
 新アジア女王の勢いは誰にも止められなかった。女子200メートル決勝。スタートから飛び出した福島は高速ピッチでコーナーを抜けると、大きくリードして直線に入った。日本勢28年ぶりの金メダルへ残り50メートルから「脚が全然動かなくなった」と少し慌てたが、前半の貯金で逃げ切った。
 テーピングを施した左足首は万全でなく、指導する中村コーチは「8割程度の状態」と言う。100メートルとの2冠は日本女子初の快挙。22歳のエースは「どんな状態でも走れることを証明したかった」と誇らしげだった。
 北海道で生まれ、創意工夫が躍進の支えだ。130メートルの直線トラックを備えた練習拠点の屋内施設では、壁に立てかけたマットにタッチして戻る「往復走」と呼ぶ230メートルダッシュを繰り返す。「雪深い冬こそ速い動きが大切」と低いハードルを小刻みにまたぐ動作を繰り返し、高速ピッチを体に染み込ませた。
 レース後に「世界で戦うにはもっとしっかり体力をつけていかないと」と課題を挙げた。5月に22秒89を出して23秒の壁を破った日本記録保持者は、アジアの頂点で満足するつもりはない。

(今日は400㍍リレー決勝がある。4人で取るメダル、出来れば金メダルはとりわけ嬉しいはずだ。期待しすぎるのもどうかと思うが、期待してしまうのも人情というものだ。ついでに、人体の美しさは短距離走で最も発揮されるというのが僕の考え。千里ちゃん、美しかったよ。)

たきび~さざんか~こがらし

2010年11月25日 | Weblog
一 かきねの かきねの まがりかど
   たきびだ たきびだ おちばたき
   「あたろうか」「あたろうよ」
   きたかぜぴいぷう ふいている

二 さざんか さざんか さいたみち
   たきびだ たきびだ おちばたき
   「あたろうか」「あたろうよ」
   しもやけ おててが もうかゆい

三 こがらし こがらし さむいみち
   たきびだ たきびだ おちばたき
   「あたろうか」「あたろうよ」
   そうだん しながら あるいてく


(四季ごとに童謡があって、いいですね。猫の額に一輪二輪、山茶花が。
今朝はさぶっていう感じ。昼間は暖かくなるとか。京都へ行ってきます。)

吉野林業の父・土倉庄三郎

2010年11月24日 | Weblog
 掲示板に土倉庄三郎という人物の名前が登場した。全く知らない人物なので、ネットで検索した。
  http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-rin/j-rin.htm
 このページは奈良県川上村の林業に関するホームページです。それによると、次のように書かれています。

 吉野林業の中興の祖と呼ばれる土倉庄三郎は、天保十一年(1840)年に川上村大滝の山林地主の家に生まれました。16歳で家督を継いだ彼は、林業の発展に力を入れ、後に苗木の密植とていねいな育成で優れた多くの材木を生産できるように工夫した「土倉式造林法」という独自の造林法を生み出しました。そして地元の吉野だけではなく全国各地(群馬県伊香保・奈良公園・兵庫県但馬地方・滋賀県西浅井町・台湾など)にその技術を広め、各地で成果をあげていきました。また借地林業や村外地主の森林所有者による経営、これに伴う山守制度(管理制度)などの基礎を築くなど、吉野林業の父といっても過言ではありません。
 土倉庄三郎は、事業のかたわら、道路の整備や吉野川の改修などの推進や日本赤十字への寄付など社会貢献にも努めました。また、私費によって奈良県初の小学校を川上村に開校したり、同志社大学や日本女子大学の創立にも一役かっています。板垣退助の洋行を援助するなど自由民権運動にも力を注ぐなど、林業以外の分野でも多大な功績を残しています。
 土倉庄三郎は、吉野大滝村で生涯を過ごし、1917年7月に78才で多くの人々に惜しまれながら死去しました。1921年10月には生前の功績を記念して、川上村大滝の鎧掛岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立されています。
 川上村の山の緑がいきいきと輝くのは、今も土倉庄三郎の熱い魂が村に息づいているからでしょう。そして、木を愛し、木と生きた偉人伝は語り継がれ、その魂は山を、そして自然を愛する川上村の人たちに受け継がれています。

(江戸から明治に変わる頃には日本各地に偉人が現れた。今では余り知られていない偉人について知ることは、今後の日本のあり方を考える上で大いに役立つものと思う。ついでながら、僕の遠い祖先と遠い関係にあった竹川竹斎などに関しても掘り起こしてみるべきかもしれない。)

振り返るという事

2010年11月23日 | Weblog
 『「がん告知」をこえて』という癌の外科医松岡寿夫氏の本を読んで一種の感動に近い感慨を覚えた。次は、乳がんが再発し骨に転移し43歳で亡くなった女性患者との会話の一部である。

 彼女の胸に聴診器をあて、腹部を触診しました。その日も変わったことはありませんでした。私は彼女の寝巻きの前を結びながら、
 「今から胃の手術があるんですよ」と言いました。
 帰りがけに、病室のドアに手を掛け振り返ると、病床の花山さんが声を掛けてきました。
 「いってらっしゃい」
 それは夫を見送る妻の言葉のように感じられました。その日家を出る夫に言いたかった言葉だったのかもしれません。私は病にある妻の心を垣間見る思いがしました。
 一ヵ月後、花山さんは愛する家族に囲まれて静かに旅立ちました。

 僕が感慨を覚えたのは、「振り返る」という何気ない行為についてである。医師が診察を終えて病室を出る時、患者を振り返って見るという事、その事によって患者は安堵を覚える。見放されてはいないという心情をもつのであろう。一般に、弱い立場にある人に対して、世話をする人が「振り返る」という行為をする事によって、弱い立場にある人は、その弱みを共有してくれる人が居るという安心感を覚えるのだと思う。今日の世の中で、仕事を終えたら、さっさと立ち去るのが殆どではないかと、ふと思った。(但しまた、余計なことであるが、次のようにも思った。ふられた女性を振り返るのは未練がましく惨めだ、と。)

山と海

2010年11月22日 | Weblog
(このブログの今年の総合テーマを「森の時代へ」とした。)
 
 平成2年の或る雑誌に次のような広報記事が載っていた。「森は海の恋人」というキャッチフレーズが生まれたのは、岩手県室根村と宮城県唐桑町の協力による植樹活動が始まつた平成元年以来のこと。室根村は県境にある典型的な山間地域で、村のランドマーク、室根山(859m)から東へ20キロも行けば、宮城県気仙沼市である。気仙沼湾ではカキ、ホタテの養殖が盛ん。その美味しい貝を育てる養分は海水そのものにあるのではなく、室根山から注ぐ「大川」の水が運んでくる。カキやホタテに限らず、海の豊かな貝や魚を育てているのは、山からの水である。室根山にはミズナラ、トチ、ケヤキなどが毎年植林されている。こうして、山と海が再び結ばれ出している。
 ところで、思い付きを言うと、山伏が海のホラ貝を用い、交通安全のお守りを出している熊野神社が山と海の両方を鎮守してきた事は、山と海がもともと不可分の間柄にあることを示しているのではないだろうか。
 山と海の大事な間柄に無頓着であり続けてきたように思う。荒れた山は海の幸にも被害を与える。だから、この点からだけでも、木を植え森を育てることが要石なのだ。

(今日は、奈良県中部の市の「個人情報保護と開示運営審議会」に出席してきます。)

(再掲)ガン患者とその家族 ③

2010年11月21日 | Weblog
 【家族による支え】
 Aさんとその家族はお互いにかけがえのない関係にある。ガン診療における家族による支えにおいても、かけがえのない関係にある。Aさんは家族がそばに居るだけで心が落ち着き安堵する。家族による支えは、入院以前から日常の生活において培われてきた支えである。この支えは、医療者による問診などより濃密な関係である。この関係を保証する時間と空間を医療機関は提供する必要がある。
 【ネットワーク】
 Aさんとその家族を情緒的に支えるためのサポート体制が考えられる。しかし、核家族化や高齢化社会の進行で家族の姿が変化しており、親戚や友人から成るネットワークがAさんにとって重要な支えとなる場合がある。ソーシャル・サポートと呼ばれるもので、臨床的にも必要になってくる場合があると考えられる。医療者だけの連携を強調する医療チームだけでは不十分ではないかと考えられる。つまり、Aさんとその家族の状況を総合的に把握して接していくために、Aさん・家族・親戚・友人らも医療チームに間接的にであれ参加し、ガンと闘う「支え」が必要になってくると考えられる。
 ここで問題となるのは、そのような医療チームの中での親戚や友人の位置である。家族はAさんに親しい二人称で接することが出来るが、親戚や友人はAさんからすると三人称の彼・彼女である。その彼・彼女はAさんに対して三人称で接するべきであろうか。まるっきり三人称で接すれば、よそよそしい関係になってしまう。かと言って二人称の関係になりきることは出来ない。そこで、2.5人称の関係が浮上する。つかず・はなれずの関係で、二人称の関係の近くにあって、二人称の関係を補強し支えるネットワークを形成する。(Aさんとその家族がそのようなネットワークを必要としないならば、話は別である。)
 医師から治療の選択肢を説明されて、どの選択肢で同意するか、Aさんもその家族も同意に自信がない場合、ネットワークの中に医師の説明をきちんと理解できる人がいれば、心強い。
 治療中、長く続く鈍痛や脱毛や食欲不振などで時には悲嘆に暮れるAさんをとことん支えるには可能な限りの情緒的支援が必要である。(終り)

(今日は、在勤時代に顧問をしていた野球部のOB戦。現役とOBが死力を尽くして仲良く野球を楽しみます。その後、今年は55周年だとかで、記念式典にも出てきます。)

(再掲)ガン患者とその家族 ②

2010年11月20日 | Weblog
 【家族の「患者的な役割」】
 Aさんのガンを告知された家族もショックを受ける。大切な人を失うのではないかという不安がこんなにも情緒的な面に影響を与えるのかという体験をする。医師には精神的に追い込まれた心情を分ってもらえず、結果的に医療者不信につながる場合もある。そうではなくても、家族の心情とAさんの心情とはオーバーラップし、Aさんといわば同じ立場・心情でAさんを情緒的に支える役割があることを自覚することになる。
 【家族の「治療者的な役割」】
 家族は様々な役割を務めてAさんを支援できる。
 ●告知直後の衝撃段階の時期に、Aさんが泣いている時には一緒になって泣き、呆然としている時には静かに見守る。
 ●治療プラン、治療費、職場のこと、家庭のことなど、Aさんが考えなくてはならない事柄が出てくる。Aさんが混乱しないように「これは、こういうことね」などと、内容を整理しながら、話を聞く。
 ●例えば、痛みでつらい時は、「がんばって」ではなく、「つらいんだね」と体をさすってあげる。つらさを分ってくれる家族がいると思えることがAさんにとって励ましとなる。
 ●ガンに対して悲観的、否定的な情緒に陥っているAさんは、例えば「全部は摘出できないから手術ではなく、抗ガン剤にしましょう」と言われた場合、「完治する方法がないのだ、こんなことなら死んだ方がましだ」と思ったりもする。そんな時には「本当にそうなのかな? 別の考え方について一緒に考えよう」と家族が言葉をかけ、Aさんの考え方を修正する。
 ●尾ひれのついた噂からAさんを守る。見舞い客などに適切な説明をする。

 ◎それでは、医療者はAさんの家族をどう支援するのか。
 【患者としての家族への情緒的支援】
 ●先述の【心理状態】第一段階の時期には「まだこれから長い期間、Aさんを支えていかなければなりませんから、今からそんなに緊張しないでいいですよ」という指示が必要である。
 ●「ガン=死」のような固定観念を修正する。
 【治療者としての家族への情緒的支援】
 ●家族の緊張を緩和すると同時に、Aさんを支えていく役割を明確にする。
 ●Aさんの怒りや抑うつ(PTSD)の意味を家族に知ってもらい、具体的な対応の仕方を教示する。(続く)

(再掲)ガン患者とその家族 ①

2010年11月19日 | Weblog
(去年の記事で比較的アクセス数が多かったものを再掲します。というのも、近頃、新規投稿する内容がなかなか思い浮かばないからです。)

 家族の一人がガンで入院する。これは避けたい出来事である。しかし現実はこうした危機に満ちている。そのガン患者を家族はどう支援すればいいのか。情緒的(精神的)な支援について考えてみる。Aさんがガンを告知された時、Aさんとその家族はどのような心理状態に陥るのかということを先ず理解しておかねばならない。(ガンの種類は度外視するが、相当の重篤度にある。)
 【心理状態】
 第1段階 不安・混乱・興奮など
 第2段階 否認・現実逃避・無口・無関心・多弁など
 第3段階 怒り・悲しみ・抑うつ(PTSD)・合理化(仕方ない)・承認
 第4段階 適応
この4段階は、Aさんとその家族に、程度の差はあっても共通である。(Aさんの年齢・性別など、その家族の収入などは度外視する。)
 【対象喪失】
 Aさんとその家族は様々な意味での喪失を体験する。例えば乳房切除とか人工肛門装着による体の機能喪失とか。それらに伴って家庭での役割喪失、社会的地位喪失など。その家族が今までに描いてきた家族の姿を変更せざるを得ない状況になる。このような対象喪失に際しては、時間をかけて様々な心理状態が繰り返され、対象喪失を知的に理解するだけではなく、失う対象を情緒的に断念することになる。
    対象喪失
    ↓
    否認・怒り・執着・悔やみ・自責・抑うつ、等
    ↓
    再適応
 【ガン診療における家族の役割】
 近い将来大切なAさんを失うかもしれないという傷つきやすく自ら情緒的な支援を必要としている「患者的な役割」と、精神的な危機に陥っているがAさんを支える「治療者的な役割」とを担っている。(続く)

お茶の効能 (再掲)

2010年11月18日 | Weblog
 14年前に(一過性の?)病を得てからできるだけ水分を摂るようにと言われ、そのように心がけている。近頃は色々なお茶が出回り、外出時に試飲している。お茶博士を自認する人からお茶の効能についての蘊蓄を聴いた。
 1.美容=ビタミンAと同じ働きをするカロチンとビタミンCが含まれ、カロチンは皮膚や粘膜の細胞の健康維持に役立ち、ビタミンCはメラニン色素の沈着を防ぐ。
 2.老化防止=老化物質の活性酸素の生成を抑えるカテキンが含まれ、ビタミンとの相乗効果で、その作用が高まる。更にアミノ酸の一種テア二ンはアルツハイマー型のボケを抑制する。 
 3.疲労回復とストレス解消=カフェインには疲労回復のほか、強心作用、利尿作用などがあり、またお茶を楽しむ事により気分に潤いをもたらす。
 4.整腸作用=カテキンには腸内のビフィズス菌の増殖を助ける効果がある。
 5.ガンの予防=カテキンには発ガン抑制効果がある。最近の研究では転移を抑える効果もある。
 6.コレステロール値を下げる=カテキンには悪玉コレステロールだけを減少させる効果がある。
 7.血糖値の上昇を抑える=カテキンには血液中の糖濃度を低下させる効果がある。
 その他、風邪の予防など諸々。僕の場合は特には血流をよくする為にお茶をよく飲むことにしている。皆様もお茶をどうぞ。

(今日は木曜日。京都へ行ってきます。この日は帰りの京都駅でお茶を買い飲むことにしているのですが、今日はどんなお茶を飲もうかなあ。ただ、もう殆ど飲んでしまったので、迷うだろうなあ。今日は12月初旬の寒さだとか。着る服に困る。ついでに、京都行きは今年度で終えることにしました。)

亭主と女房

2010年11月17日 | Weblog
 ほぼ毎日慣れないことをしている。小説らしきものを少しづつ書いている。書いていて気になることがしばしば出てくる。妻が自分の夫を主人と呼ぶのは封建制度の名残ではないか、とか。亭主と呼ぶのは、何処に由来するのだろうか、とか。そこで、ものの本で調べた。
 今の時期なら濃い青紫色のリンドウの花などを茶花に飾って、茶会が催される。亭主は茶道から出た言葉で、一間四方ぐらいの狭い茶室に客を招き、茶を供応する人のことであった。茶室には○○亭とか○○庵とか、名前がついていた。その○○亭の主というわけだ。
 一方、女房という言葉は、宮中に仕える女官の部屋のことを意味したが、それが転じて、そうした部屋を賜った高位の女官を意味するようになった。
 つまり、亭主は茶道に通じた趣味人であり、女房は宮廷で裳裾をひるがえす高貴の人であった。ところが、いつのまにか「うちの宿六」になり、「うちのカミさん」になってしまった。
 宿六を辞書で調べると、妻が自分の夫を卑しめたり、親愛の意を込めたりして言う語とある。卑しめられるのか、親愛の意を込められるのか、どっちなのか、僕としては個人的に気になった。「カミさん」の場合は、親愛の情をこめて妻のことをそう呼ぶ。
 日本語という代物は厄介ではある。一人称を表す「わたし」でも、方言などを加えると200ぐらい別の言い方があるそうだ。意味深長な日本語を達意の小説家は使いこなしているのであろう。

介護の原風景(再掲)

2010年11月16日 | Weblog
(2年前に3回に分けて書いた記事を一挙に再掲します。)
 『痩せ我慢』(僕の短編小説)に出てきた下宿の主人は25年ぐらい前に亡くなったが、その連れ合い、おばさんは今は関東に居る息子さん夫婦の世話になりながら老人ホームで暮らしている。毎年の年賀状だけの付き合いだが、おそらく90歳に近い。おばさんの事を思い出しながら、ケア(介護)について少し考えたい。
 今、僕の前に竹久夢二の「病むおじいちゃん」と題された挿絵がある。座敷に敷かれた布団に寝ている老人。枕元の薬の瓶と袋。その病気の老人にそっとよりそい、声をかけようとしている少女。孫娘だろうか。
 この挿絵に描かれた風景は失われて既に久しい。だが、いつの頃までかは定かではないが、このような風景は殆どの家庭で日常的に見られた。今日よく言われる「在宅ケア」の原風景ではないだろうか。
 「病むおじいちゃん」の座敷は、臥している老人と孫娘?の自宅の一室であることは言うまでもない。その一室は一家にとって、今はおじいちゃんの「病室」なのである。現代では「病室」と言えば、病院か老人ホームかホスピスの「病室」しか思い浮かばないが、かつては多くの家に、いざというときに「病室」になる一部屋があったものである。今日の日本では、どこの家庭でもリビングルームや子供部屋はあっても、病人が寝る部屋を「病室」とすることを日常的に考える、そんな生活意識は失われてしまった。
 たぶん20年ぐらい前までは、病人や老人を看とること、今日言うところの「介護」は、人々の日常の暮らしのなかに組み込まれていて、血縁・地縁によって担われていたのである。
 文学作品に例を見る。川端康成の最初の作品『十六歳の日記』は、両親や姉と死に別れ、祖父と二人になった十四歳の川端少年が、大正三年七十五歳の祖父を看とった時の経過を綴ったものである。その書き出しは、「門口の戸は訪問客を避けるためにしまってゐる。祖父が唯一人寝てゐるのだから、人が来ては困る」とあり、祖父は白内障で失明していた。そして次のように十四歳の少年が死に近い祖父の排泄の世話をする光景が活写されている。
 
 「ししやつてんか。ししやつてんか。ええ。」
病床でじつと動きもせずに、こう唸ってゐるのだから、少々まごつく。
 「どうするねや。」
 「尿瓶持って来て、ちんちん入れてくれんのや。」
仕方がない。前を捲り、いやいやながら注文通りにしてやる。
 「はいつたか。ええか。するで。大丈夫やな。」
自分で自分の體の感じがないのか。
 「ああ、ああ、痛た、いたたつたあ、いたたつた、あ、ああ。」
おしっこをする時に痛むのである。苦しい息も絶えさうな聲と共に、しびんは谷川の清水の音。
 「ああ、痛たたつた。」
堪えられないやうな聲を聞きながら、私は涙ぐむ。

 現代なら、この寝たきりで失明した老人は「要介護5」と認定されてヘルパーや訪問看護師による介護を受け、十四歳の少年は祖父から引き離されるのであろう。
 しかし、川端少年の時代、十四歳の少年でも病気の祖父を一人で「介抱」していた。祖父はこの日記の二十日後に亡くなる。このとき食事の世話などには近所の五十前後の、おみよという女性が手伝いに来ていた。昭和前半まではこうした風景は変わらなかった。
 さて、今日、介護は極めて日常的な話題であるにも拘わらず、僕らは病人や老人を看とるということを日常的なこととは考えなくなったように思われる。それは、経済の高度成長期以来、人の生老病死が暮らしから遠ざけられてしまったからである。そのため僕らにとって看とりは国の制度に基づく「介護」という非日常的な出来事になってしまった。
 たぶん二十年ぐらい前までは、病人が出れば自宅の座敷が「病室」になり、家族は病人や老人の死に寄り添い、死後の取り扱いから埋葬まで執り行っていた。つまり現代において介護と言われている看とりは暮らしのなかにあり、看とりはいわば文化として成立していたのである。
 今日の僕らが介護というと当惑し狼狽するのは、介護の労力や経済そして住居の制約などの問題もあるが、それ以前に、人が病み人が死を迎えるとき人はどうなるのか、それにどう対応すればいいのかという知恵も体験も持ち合わせていないからではないだろうか。二十年ぐらい前までは男も子供も看とりを生活の一部として日常的に見聞し体験していたのである。
 そして、看とりのなかに子供たちが組み込まれていたことは、子供たちが「命とは何か、死とは何か」を学ぶまたとない機会となったという意味で、子供たちにとってはかけがえの無い人生体験であったと思われる。命の大切さを身をもって知るには、人の生老病死をじかに見つめじかに立ち会う体験以上のものはないだろう。
 看とりには、血縁・地縁という「縁」とでも言うべき命のつながりが備わっていたはずである。『十六歳の日記』に出てくる、おみよという女性は、「お互いに因果とおもて世話してますのや」と言っている。この場合、因果とは原因としての「因」と条件としての「縁」によって生まれる結果という意味であろう。
 今日、血縁・地縁にあった家族や隣人ではない介護士やヘルパーや看護師や医者という他人と制度や組織のなかでどうやって新しい「縁」を築いていけば良いのか。この問題に応えようと試行錯誤を経て応えに近づこうとすることが、高齢化社会の暖かい風景を生み出すと思われる。