自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

2009年12月31日 | Weblog
 生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも珠玉の逸品だと思う。

舞台は 江戸時代 北国の藩
隠居生活に入った清左衛門
隠居するということは
悠々自適の生活ができることだと思っていたが
違った 既に妻は他界していた
孤独感に苛まれ しばし 心が落ち込んだ

だが その落ち込みから立ち直り
新しい人生を生きていく清左衛門
隠居の身でありながら 経験と人柄が慕われて
藩の秘事の相談にあずかる
現職でないから 権力争いに或る程度自由な立場で
重大事に公正に対処できた

封建制度のしがらみの中で
必死に生きる人々の誠実さに打たれ
それを嘲る輩に容赦のない態度で接した
薄幸の女への細やかな心づかい
派閥抗争で犠牲になる若い武士への配慮
中風で倒れた元同僚の歩行訓練を見た時の喜び

この歩行訓練を始めた大塚平八の姿に
清左衛門の心は波打った その時の深い感慨
「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれる
そのときには、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに
感謝をささげて終わればよい。
しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、
人間はあたえられた命をいとおしみ、
力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを
平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。」

表題の「残日」とは
「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」の意である


(今年1年、本ブログを閲覧してくださった方々に深甚の感謝の意を表します。来る年もご厚誼のほど、よろしくお願い申し上げます。皆様のご健康を念願して居ります。)

自殺3万人

2009年12月30日 | Weblog
(朝刊より)
 3万人といえば東京マラソンで銀座通りを埋めるランナーの数にほぼ相当する。今年も11月末時点で全国の自殺者がそれを超えた。12年連続である。
 この年末も自ら死を選ぶ人が増えないか、心配だ。政府は年度末にかけて100日プランで対策を強化するという。策を尽くしてもらいたい。
 同時に見逃してほしくないことがある。自殺者が増えれば遺族も増えることだ。自殺対策のNPOライフリンクなどの推計では、過去40年間に配偶者やきょうだい、父母、子どもが自殺した経験のある人は約300万人いる。
 肉親が突然死ぬ、という体験はどんな場合にも耐え難いことだ。まして自殺は、事故や病気による死と違うかたちで家族の心に深い傷を残す。家族はなぜ止められなかったのかと自分を責めたり、周りからも責められたりしがちだ。
 背景に病気や借金などがある場合、社会的な支援があれば救われた事例も多いだろう。ところが多くの場合は個人の弱さの問題にされてしまう。それをさらに遺族が引きずっていく。
 遺児の支援をしている、あしなが育英会の自殺遺児の文集は「自殺って言えなかった。」と題されている。筆者の若者のひとりは「家でも外でも、死んだお父さんのことは全く話題にしなくなった。最初からいなかったようになった」と話す。友達にも悩みを打ち明けようがない。ライフリンクの自殺遺族聞き取り調査によると、4人に1人は「死にたい」と答えている。
 1990年代にようやく遺族が苦しみを分かち合う活動が広がった。「自分だけではなかった」と知り、心を落ち着ける人が少しずつ増えてきた。
 とはいえ、まだ全国で約80の組織があるだけだ。参加者は数千人にすぎないだろう。遺族が集まる場所や、安心して話し合える雰囲気をつくれるリーダーが求められている。自治体にも手助けしてほしい。
 現実的な支援が必要なことも忘れてはいけない。この十数年、全体の数を高どまりさせているのは中高年男性の自殺者の増加だ。その結果、中高生の子どもを抱える母子家庭が多く残された。あしなが育英会によると、奨学金を受給している母子家庭の平均年収は134万円にすぎない。

(人が自殺に及ぶのは何故か? この「何故」をしっかり考えなければならないと思う。過度に競争させられる社会の是正、いわゆる社会的弱者への優しい眼差しと、それを具体的な形で表す支援などをもっともっと実行すべきだ。)

草履

2009年12月29日 | Weblog
 僕は小学1、2年生の頃、4キロ近い道のりを祖母が夜なべで編んでくれた草履で通学した。が、冬も草履であったかどうか。冷え込む中、草履ではなかっただろう。では、何を履いて通学したのか、憶えがない。足袋に草履ではなかったと思うが。
 草履(ぞうり、わらじ)と言えば芭蕉に

   年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

という句がある。『野ざらし紀行』の一句。芭蕉は貞享元年八月、江戸を発って伊賀へ帰郷の旅に出た。九月八日帰郷。その後、大和、吉野、山城と廻って名古屋、熱田で十二月末まで滞在し、正月は故郷で迎えた。そして、二月には奈良で東大寺二月堂のお水取りを見て、京都、近江から東海道を下って四月に江戸に戻った。あしかけ九ヶ月の長旅で、のちに紀行にまとめたのが『野ざらし紀行』である。芭蕉、四十一歳から二歳にかけての旅だった。
 この句は「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前書きがあって、名古屋から伊賀への旅の途中の句。漂白のうちに年が暮れてゆく。その漂白の旅のなかの自分の姿をありのまま描いた句。旅を続けること半年余り、笠をきて草履のままの姿で、年が暮れてしまうのかという感懐が一句になった。旅の寂しさとともに、故郷へ向かっての旅という気安さもあったのだろう。芭蕉の句にしては、何となく安らかな思いが感じられる句である。

 現代は草履の時代ではない。小学校からの下校途中、雨で濡れると草履が縮み、足の指に食い込んでくる。痛かった。裸足で帰った。そんな記憶が蘇えってくる年の暮である。

伊藤まつを媼 (再掲)

2009年12月28日 | Weblog
 颯爽とした本を読んだのでほんの一部紹介。

 「工場、工場と銭(ぜに)こ取ることばかり考えているから、米の味などわからね(ないべ)。花っこの本当の美しさもわかるはずね。心のないものを扱って、何が楽しいべ。」
 「おら、楽しがったなぁ。米作りは、子育てと同じ。農業者は楽しいよ。いまの人たちは、何を楽しいと思っているのかなぁ。」
 「この植物たちもみな、生命(いのち)と思想を持っているんじゃないか。」
                      (『まつを媼百歳を生きる力』草思社)
 98歳で逝かれた岩手県の伊藤まつを晩年の言葉。田舎での時代を先駆けた恋愛結婚。極度に辛かった農家の嫁つとめ、先に逝った夫の愛情を逝かれた後日記を通して知った感慨、ペスタロッチやルソーに教えられた生活改善運動。自叙伝『石ころのはるかな道』、詩集『白寿の青春』の著者でもあり、晩年になるほど輝いた媼(おばば)である。1993年没。
 真似のできる事ではない。真似のできる事ではない。

死別による心理的ストレス ③

2009年12月27日 | Weblog
  三、病的悲嘆につながる因子
 では、病的悲嘆に関連する因子を何か抽出できるであろうか。病的悲嘆に陥る可能性のある人を早期に発見できれば、死別による様々な苦痛を予防できるのではないだろうか。
 この因子は、死別に特異な因子とそうでない因子とに区別して考える必要がある。遺族の心身の健康を悪化させる最大の要因は、やはり死別に特異な因子による心身への衝撃度だからである。
 死別に特異な因子として最も重要ななのは、やはり死別の状況である。当然のことながら、予期されていた死別より突然の死別の方が、遺族に与えるストレスが甚大なのは明らかであろう。
 社会的経済的地位は、心身の健康と関連するとしても、死別による心理的ストレスを左右することはあまりないと言われている。社会的経済的に恵まれていても、死別後の喪失状況にうまく適応できるとは限らないからである。
 しかし社会的支援の乏しさ(例えば近所づきあいの悪さ、など)は、一般に健康を害する事態につながりやすいのみならず、死別後の適応に関して悪影響を及ぼし、死別後の回復過程を遅らせると言われている。
 子を亡くした親の悲嘆は、配偶者や親きょうだいを亡くした場合よりも重症で長期にわたることが知られている。
 しかし病的悲嘆につながる因子を特定し確定することは困難である。

  四、死別反応への対処プログラム
 遺族ケアに関する報告は少ないが、日本における最初の独立型ホスピスとして1993年に開設されたピースハウス・ホスピス(神奈川県)では、患者の病態カードの送付、追悼会、家族の会といったプログラムにによって遺族ケアを実施しており、多くの遺族がこのプログラムを肯定的に評価した。が、遺族にとって受動的なケアであるカード送付に比べ、辛い看取りを再体験することもあり得る追悼会や家族会のような遺族の能動的な行動を要するケアに関しては遺族の評価はそれ程高くなかった。(遺族が個人的に親しく付き合っている人に悲嘆を打ち明け、打ち明けられた人と適切な会話などが出来れば、悲嘆の軽減につながると考えられる。)
 もちろんその他の施設でも遺族ケアとして様々な取り組みが行われているが、患者の家族や遺族に何らかの効果が実証されたプログラムの報告はない(平成13年の資料で)。
 欧米では、患者だけではなく家族を含めたケア・プログラムの試みとその効果が幾つか報告されている。例えばオーストラリアでは、緩和ケア中の家族やガン死遺族を対象とした家族療法プログラムを推進している。具体的には一家族ずつを対象とした90分のセッションを6ヵ月にわたって継続する。ケアは、①家族の状態を評価し、②家族の問題を抽出し、③集中的なケアを行い、④家族の統合を図る、といったプログラムに沿って行われる。米国でも、類似のプログラムが小児ガンの患者とその家族、あるいは遺族を対象として盛んに行われ、家族や遺族の心理状態を改善させ得ることが報告されている。
 日本でも、死別後の悲嘆に苦しむ遺族へのケア・プログラムの確立は、ガン医療における重要な課題である。もちろんその大前提として、ガン患者の生前からの家族ケアが必要不可欠であり、ガン医療従事者は患者のみならず、その家族をも視野に入れたケア・アプローチを常に検討する必要があることを、最後に強調しておきたい。(終り)

(今日はちょっと遠出してきます。)

死別による心理的ストレス ②

2009年12月26日 | Weblog
  二、死別反応の類型
1.通常悲嘆
 死別体験後の悲嘆反応は、通常、当初のショック状態(レベルは様々)から、不安定な時期(期間は比較的短いが様々)を経た後、その家族の死に何らかの意味づけがなされることによって、様々な苦悩から次第に回復し、現実の生活に適応していくと言われている。
 .初期
 死別後、数時間から数週間にわたって、一種のショック状態が持続する。患者が死んだことなど到底信じられない(不信)、患者が死んだなんてあり得ない(否認)といった気持ちにとらわれてしまう時期。喜怒哀楽の感情がわかない、いわば無感情状態を訴える遺族も少なくない。
 .悲嘆期
 死別後のストレス状態によって、様々な身体症状、精神的不快感が生じ、気力減退、意欲低下から一種の引きこもりに陥る時期。死者とともにあった頃の生活習慣を維持・再現しようとしたりする。例えば死者が生前使っていた茶碗を生前通りに用意する、など。死者の持病の症状を遺族が同じように引き起こしてしまった例も報告されている。遺族にとっては最も辛い時期である。
 .回復期
 遺族は、患者との死別という冷厳な事実をそれぞれの仕方で受け留め、いつしか元の生活に戻ろうとし始める。死者との思い出も、現在の孤独感も現実の生活の一部であり、死者の存在は既に現実ではないことに気づき、もう充分に死者を悼み嘆いてきたと自分に折り合いをつけ、元の仕事や日常の活動に戻り、仲間とのふれあいを求める自分本来の能力を取り戻す時期である。
2.病的悲嘆
 病的悲嘆と言われる重度の心身の不調を呈する遺族が少数ながら存在し、最悪の場合には死亡することすらある。なかでも「遅発悲嘆」と「慢性悲嘆」に関しては多くの臨床家や研究者が、非公式にではあるが、その存在を肯定している。
 ・遅発悲嘆
 .死別後2週間以上の潜伏期を経て出現
 .通常悲嘆とほぼ同様に経過
 .ただし、潜伏期は数年間の場合もあり
 ・慢性悲嘆
 .一進一退を繰り返し長期にわたって遷延
 .抑うつ、罪悪感、自責感、顕著な悲哀感、引きこもり、死者への強い執着など
 しかし、遅発悲嘆も慢性悲嘆も精神医学的には不安状態(高じるとパニック障害)や気分障害(軽いうつ状態から重度のうつ状態まで)、あるいは心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断されることが多い。(ごくまれには躁状態も生じる。) 精神科診療基準にも「病的悲嘆」は一つの疾患としては採用されておらず、医療現場でも慣用的にこの用語が使用されているに過ぎない。通常悲嘆と病的悲嘆とを区別する一定の見解がないのが実情である(平成13年の資料で)。(続く)

死別による心理的ストレス ①

2009年12月25日 | Weblog
(11月と12月に試みに考えたことを試みに記す。考えたといっても参考文献をまとめたに過ぎない。女房の母親をホスピスで看取った娘たちの心理的ストレスを垣間見たことが、考える契機になった。母親の場合は92歳という高齢であったためか、心理的ストレスもおそらく一時的なものであったろう。しかしもしかすると今もある程度は続いているかもしれない。ここでは、特にはガン死との関連での死別による心理的ストレスを念頭においているが、ガン死でない死別の場合にもあてはまると考えられる。)

 予期せぬ進行ガンで短期間で家族の一員を失った遺族、あるいはガンとの長い闘病の果てに家族の一員を失った遺族の悲嘆と苦悩は、そうした体験をもたない者の想像を超えて深刻であろう。近年、緩和ケア病棟あるいはいわゆるホスピスが整備されつつあるが、ガン患者の遺族に提供し得る医療サービスは残念ながら非常に乏しい。死別による心理的ストレスへの支援が、今後、重要な課題になると思われる。
 ガン死による死別を体験する家族としてまず着目すべきは、小児ガンの子供を持つ親、そして働き盛りの中高年でガンに罹患した夫(あるいは妻)を持つ妻(あるいは夫)とその思春期・青年期の子供である。が、老齢の母親や父親との死別、あるいは親友をガン死で失った場合に関しても、人によっては相当の心理的ストレスにさいなまれる。(僕個人の場合を言うと親友をガン死で亡くした時は、自分の高齢の母親を亡くした時より心理的ストレスが強かった。)
  一、死別が心身に及ぼすストレス
1.身体面への影響
 死別体験が身体に及ぼす影響については、神経内分泌機能、免疫システム機能、睡眠などの視点から多くの研究がなされており、死別体験によって人間の生理的機能が変化することは明らかとされているが、その変化には多くの因子が関連しており、全体のメカニズムは解明されてはいない。 
 最も基本的には、死別前の予期悲嘆の時期や死別後数ヶ月の間に、ストレス関連物質の増加、免疫機能の変化、不眠などが観察されることが多い。さらに軽度の変化は死別後数年持続すると言われている。
2.心理面への影響
 死別体験後に生じる主な感情としては、悲しみ、怒り、後悔、不安・恐怖、喪失感、罪悪感、圧迫感、孤独などが挙げられる。(生前の闘病期間が長かった場合には、ある程度の安堵感が生じる場合もあろう。)
 これらの感情が数年にわたって持続したり、理解できるレベルを超える激しい心理反応が生じることもある(この病的悲嘆については後述する)。
 身体面への影響と心理面への影響が相互作用することは言うまでもない。(続く)

帚木蓬生『アフリカの蹄』

2009年12月24日 | Weblog
(ホームページの新着情報のコーナーに読書の跡を記すことにしています。読んだ文庫本の粗筋だけを、ほんの粗筋だけを不定期に記しています。このブログを閲覧して頂く方々は案外に、本当に予想外に多いのですが、ホームページまで足をのばして頂ける方々は少ないようです。今日はホームページの宣伝を兼ねて。)

  帚木蓬生『アフリカの蹄』

「ドクター、この国がどうして<アフリカの蹄>と言うか教えてやろうか」。
白人支配からの解放運動家ニールが言った。
外科医の作田信(シン)は黙って頷く。
「エチオピアやスーダンは<アフリカの角>と呼ばれるね。アフリカ大陸は牡牛の形をしているだろう。この国はちょうどその足にあたる。だからアフリカの蹄。しかし、この国はまた別の意味で蹄なんだ。白人が我々黒人を牡牛の蹄で蹴散らし、踏みにじっている場所なんだよ」。
黒人に一人一票の市民権が与えられる日をニールは目ざしていた。

作田がこの国に来たのは心臓移植の研修のためだった。
だが、目もあてられない国状を見聞する。同僚に
「僕は医者だ。患者のいるところには行く義務がある」と言って、黒人居留区に入るようになった。
スラム街の診療所の黒人内科医サミュエルと親しくなった。
スラム街に来て、皮膚病の患者が多いのに愕然とし、不勉強を後悔した。
二歳ぐらいの男児の全身を小豆大の水疱が覆っていた。
「水痘じゃないのか」「いや違う。水痘ならこんなに皮疹が一様ではない」「ウイルス性の感染症だと思うが」

褐色の肌に緑のブラウスと黒のスカートが似合うパメラと作田はお互いに惹かれるようになった。
彼女はニールの妹だった。
この国で黒人の抵抗が成功した歴史はない。でも、駄目だといって初めから抵抗をやめれば黒人の歴史は終わりね。自由のために徹底的に闘う、とパメラの意志は固い。
「ンコシ シケレリ アフリカ(主よ、アフリカに祝福を)」と二人は語り合った。

スラム街を往診する作田。
三角テントのような小屋の中で六歳とは思えない女の子の身体を大豆大の丘疹が覆っていた。
微熱と皮疹があるだけで全身の衰弱が激しいのが特徴だ。
作田の脳裡で病気がはっきりと輪郭を見せたのは、水疱を全身にまとったまま死亡した例を耳にし、水疱が濃疹に変わった子供を診察してからだった。
伝染病だ。これから死者が次々と出るかもしれない。

作田の行動が衛生局長によって制限されるようになった。なぜだ?
WHOや国際赤十字に何とか連絡がとれないものか。
天然痘という病名が作田の頭をよぎった。天然痘の絶滅が宣言された後なのに。
黒人居留区をつぶすのにウイルスを極右の白人が撒いたのでは、とニールが不安がった。

ワクチンを各国の研究機関に精製してもらう他はない。
天然痘絶滅宣言後も研究用にウイルスを保管している国もある。
だが、保管されていたのは似て非なるウイルスだった。
じゃ、残された方法は一つ。患者から採取したウイルスでワクチンを作るやり方だ。
だが、どこが作ってくれるのか。
作田は友人のウイルス学専門のレフ助教授に相談した。
白人の極右グループによって引き起こされた可能性がある。
原因はともかく、今はこの疫病をどうくい止めるかだ。
しかしレフ助教授は、それ以上の協力を心ならずも拒んだ。身の安全に保証がないからだ。
だがレフは「ここへ行けば何か手を打ってくれるはず」と国立衛生研究所の部長を紹介してくれた。

部長からアタッシュケースを渡された。痘瘡ワクチンのアンプルがが入っていた。
しかし、とても足りる量ではなかった。
黒人のリーダーたちはWHOや国際赤十字にワクチン作りを依頼したが、
痘瘡ウイルスが国外にないので作りようがなかった。
ウイルスを国外に運び出してワクチンを作る他はない。
ボツアナまで運び出せば、各国の研究所がワクチンを作ってくれる。
運ぶ適役は黄色人種で<名誉白人>の日本人・作田をおいて他には居ない。
「ドクター・シン サクダ、黒人の解放に命をかけた日本人として、俺たちはあんたの名前を決して忘れない」。ニールの目が潤んでいた。

作田は息の続く限り走った。行き当たりばったりにトラックにも乗せてもらった。
・・・・・・・・・・
大量のワクチンが届く準備が出来た。

何日かかったのか。
サミュエルの診療所の灯が見えた。パメラが胸に飛び込んできた。
「ンコシ シケレリ アフリカ」

数日後、黒人全員ガ参加するゼネストが挙行された。いま、ここで、すべての権利を与えよ!
捕獲されたニールは「ワクチンなぞ俺は知らぬ」と言って、拷問の末、極右白人に殺された。
ゼネストは続いた。感動的な人の厚みだった。
「これがアフリカの蹄だわ」とパメラが目に涙を溜めて言った。
情報が入った。世界の主要都市でも応援デモ行進が始まった。国連事務総長も賛同した。


(小説の表だった主人公は作田信だが、実質的な主人公は国境と人種を超えたヒューマニズムである。)

ウォルフ・エックハルト・マテウスさん(69)

2009年12月23日 | Weblog
(朝刊より) 
 ベルリンの壁ができた1961年、東西を結ぶ鉄道網は分断された。東ベルリンから西へ行く乗客は、唯一残された線の駅で厳しい検問を受け、乗り換えさせられた。
 89年11月9日夜、東独は突然、西独への旅行自由化を発表した。市民が駅に押し寄せてきた。テレビには壁に殺到する人々が映し出された。
  「賽は投げられた」
 東ベルリン近郊鉄道の責任者として臨時列車のダイヤを徹夜で書いた。当局との協議、西側交通機関との調整・・・。シャワーを浴びるためだけに帰宅する日々が続いた。
 この年のクリスマスには、子どもを乗せた分断後初の直通列車を走らせた。疲労は極限に達したが「初めて誰の命令でもなく、正しいと思うことができた」。
 事務所の戸棚に鉄道網の分断工程の記録が残っていた。壁崩壊の数年前、同僚が捨てようとしたのを「いつか必要になる」と思ってやめさせた。この記録が役に立った。統合は、分断の作業を一つひとつ逆に辿ることだったからだ。
 祖父は日本を「親友」と言っていた。その親友を知りたくて70年代に妻とシベリア鉄道で日本を目指したが、途中、旧ソ連の秘密警察に止められ果たせなかった。冷戦終了後、JRとの交流を通して日本の鉄道の精密さに敬意を抱き、日本で暮らしたいという思いが募った。
 「これも壁の崩壊がなければかなわなかった夢」。昨年から神戸で暮らしている。

(分断から統合へ。様々な人々が献身的に努力した。日本の鉄道技術の高さが旧東独の鉄道技術者にまで知られていたとは。かといってJRよ、奢るなかれ! 安全第一だぞ。)

柊(ひいらぎ)

2009年12月22日 | Weblog
 柊の葉には独特のトゲがあり、これを鬼の目突きというそうだ。節分の日、魔よけのために柊の小枝をイワシの頭とともに門口に立てる慣習はかなり古くからあるそうだ。
 ものの本によると、面白いのは、柊が五十年から八十年ほど成長すると、葉のギザギザが自然に消えることだ。年輪を刻んで、次第にトゲがなくなる。角がとれて丸くなる。柊に学びたいと思うが、僕なんぞはなかなかこうはいかない。
 葉にトゲがある若木をオニヒイラギ、年を経てトゲがなくなった老木をヒメヒイラギと呼ぶのもいかにも面白い。日本産ヒイラギ人種は、とげとげしい過密国で暮らさねばならないせいか、五十歳を過ぎても、六十歳を過ぎてもヒメヒイラギのように角がとれない。(畏友の呆さんはすっかりヒメヒイラギになられた。これはまた珍しけれ。)
 先日、所用で奈良県南部の市に足をのばした。電車の中で樹についての本を読んだ。着いた先の市役所の傍に、冬空を背にして、葉をあらかた落としたケヤキが厳しい姿で立っていた。宙に描かれた梢の線は、繊細でしかも力強く、野放図のようでいて、ある調和を保っている。そのケヤキにトゲ葉をつけた柊が寄り添っている。その姿が、なんとなく面白く感じられた。
 今日は昨日までと比べると少しは暖かい。

障害者参加

2009年12月21日 | Weblog
(朝刊より)
 障害のある人がみずから、政府の障害者施策づくりに参加する。
 舞台は、鳩山首相を本部長とする障害者制度改革推進本部の下で実務を担う「推進会議」だ。委員の過半数を障害者が占めることになった。
 まず、鳩山政権が早期廃止を明言している障害者自立支援法に代わる、総合的な福祉法制を検討する。
 2006年に施行された自立支援法は障害者にとても不評だ。自律的に生きようと社会に参加するほど、福祉サービスの原則1割負担が重荷にならざるをえないためだ。
 新たな法制にもある程度、自己負担の仕組みは避けられまいが、所得の低い人には十分な配慮が要る。
 欧米諸国では障害者が人口比の1、2割を占めるが、日本は5%ほどだ。難病や発達障害を抱えて支援が必要なのに、認定制度から漏れているからだ。詳しい実態を把握したい。
 そのうえで、入所施設で保護することを中心に考えられてきた障害者福祉政策を再検討してほしい。施設にいる障害者は1割にすぎないが、望まずして何十年も施設で暮らしたり、逆に、自宅で家族だけが重い介護の負担を背負ったりしている例は少なくない。
 地域に暮らしながら、施設に通ったり、自宅で福祉サービスを受けたりできる人たちをもっと増やせるよう、柔らかな制度設計を考えるべきだ。
 3年前、国連で障害者権利条約が採択された。障害者自身の政策立案への参加は、この条約づくりでの合言葉だった。70カ国以上が批准しているのに、日本は国内の立法や対策が不十分なため批准できていない。
 いまの日本では障害者が社会に出ると、まだまだハードルがある。車いすで上れない段差、耳が聞こえないろう者には届かない放送……。
 そんな壁を取り除くことが条約の狙いだ。壁のために障害者が教育や就労の機会を失うことは人権の侵害であり、変わるべきは社会の仕組みだ。条約はそうした考え方を求めている。
 たとえば、企業には、車いす社員のために社内施設の段差をなくしたり、ろうの同僚と情報を共有するため会議メモを作ったりする努力が求められる。過大な負担でないのにそうした配慮を拒むことは差別とみなされても仕方がない。障害を理由に入学や就職、施設利用を断ることも許されない。
 こうした社会の実現に向け、推進会議は5年かけて改革に取り組む。その中では、障害者差別禁止法や虐待防止法の検討も必要だろう。
 障害者にはだれもがなりうる。日本人は、一生のうち平均7年間を病気や障害を抱えて暮らすという統計もある。障害がある人にもない人にも、住みやすく働きやすい社会をつくる努力を重ねたい。

(思うに、現勢能力をますます発揮できる環境を、潜在能力が掘り出され活動できる環境をつくることが必須だ。障害者という呼び方が不適切だとの世論が出てきた。この呼び方に替わる適切な呼び方がないものか。米語ではチャレンジドと呼ばれる場合がある。)

鈴木牧之『北越雪譜』 (再掲)

2009年12月20日 | Weblog
(COP15の「合意」の貧弱さにはあきれざるを得ない。日本は独自に温室効果ガスを25%削減し、世界の動向をリードすべきだ。ついでに、「君たち、そんなに増えたのは何故?」と越前クラゲに訊いてみたらどうか。たぶんこう答えるだろう。「海水温が上昇した上に、大量のプランクトンが中国湾岸から排出され餌となるので棲みやすいの。」)

 このところの思わぬ寒波襲来で各地のスキー場は喜んでいる。

 大地震の後遺症を未だに脱し得ていない新潟県中越地方は世界的な豪雪地域である。江戸時代の異色の随筆『北越雪譜』はこの地域とほぼ重なる地方の風物誌を描いた傑作である。震災に遭った人々は雪とも闘わなければならない。この闘いは言語に絶する程辛いものであろう。
 名作『北越雪譜』の初めに、牧之は「雪に深浅」と題して、こう書いている。雪一尺(30センチ)以下の「暖国」の人は「銀世界」を花にたとえ、雪見酒に興じ、絵に描いたり詩歌に詠んだりする。「和漢古今の通例」であるが、これは「雪の浅き国の楽しみ」に過ぎない。
 「我越後のごとく、年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽しき事あらん。雪の為に力を尽くし財を費やし、千辛万苦すること、下に説く所を視て思ひはかるべし。」
 雪月花という言葉があるように、雪を愛でる暖国の常識に対して、豪雪地に住む人々が雪を白魔と怖れる心情を突きつけたのは、千年間も続いた日本人の、特に都人の伝統的美意識への挑戦であったと思う。
 「雪掘り」(「土を掘るが如く」家を掘り出す事)、「かんじき」や「すがり」で雪を踏み固めた「雪道」の歩きにくさ、人命を奪う吹雪や雪崩の怖ろしさ、そういったことが哀話を織り交ぜて描き出されている。
 豪雪の怖ろしさだけを伝えるのではない。長い雪ごもりの風土でなければ生まれなかったであろう縮(ちじみ)という織物などについても詳しく誇らしげに書かれている。あるいは越後特産の鮭についての描写などは、殆ど博学をひけらかすに近い。牧之は健康な生活者であった。それが、このベストセラーの魅力の源なのであろう。

(今日も寒さが続いています。ちょっと遠出してきます。)

COP15削減目標示さず

2009年12月19日 | Weblog
(現時点で最新の情報。日経新聞ニュース速報。)
 デンマークで開催中の第15回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP15)は18日に主要国が首脳級会合を開き、京都議定書を引き継ぐ新たな温暖化対策の枠組み「ポスト京都議定書」に向けた政治合意「コペンハーゲン協定」に大筋合意した。来年の早い時期に各国が削減計画を提出し、早期の「ポスト京都」採択を目指す。COP15は19日に閉幕する。
 合意文書は、今後の気温上昇について産業革命前から2度を超えないように抑える目標を掲げた。ただし温暖化を防ぐための各国の国別温暖化ガス排出削減目標は示さず、先進国や途上国全体の削減目標も提示できなかった。先進国は削減目標を約束して実行する一方で、途上国は各国の事情に応じて自主的に削減することとした。
 今後の交渉でこうした要素を盛り込んだ新議定書を決定する。原案にあったポスト京都決定までの過程や時期は削除された。今回決められなかった国別削減目標などについては各国の利害が対立しており、期限までの交渉は難航が予想される。 (09:36)

(決裂寸前で殆ど実効のない合意案がまとまった。「産業革命前から2度超えないように」っだって? もう超えているんじゃないの?)


【NHKニュース 12月19日19時37分】
 COP15は、およそ190の国と地域のすべてが参加する全体会合で、「コペンハーゲン合意」と題する合意案について「留意すること」を決定しました。これについて、日本政府筋は政治合意がなされたとしています。
 COP15は、現地時間の19日午前3時すぎから全体会合が再開され、日本やアメリカ、中国など主要26か国が非公式の首脳級会合で取りまとめた「コペンハーゲン合意」と題する合意案が提出されました。そしてCOP15は、全体会合の再開からおよそ7時間たった19日午前(日本時間の午後7時前)、「コペンハーゲン合意」について「留意すること」を決定しました。これについて、日本政府筋は政治合意がなされたとしています。合意案では、各国が2020年までの温室効果ガスの削減目標を来年の1月末までに定めるとしていて、現段階では京都議定書のような法的な拘束力はありません。また、途上国の削減行動のうち、国際的な支援を受けたものについては、排出量の報告や検証を求めることなどが盛り込まれています。

(朝のニュースでは「協定」となっていたのが、「合意」となっています。さて、この合意をどう評価したらいいのでしょう。「各国が2020年までの温室効果ガスの削減目標を来年の1月末までに定める」ことが出来るでしょうか。おそらく出来ないと思うことが僕の杞憂であればいいのですが。)

鱈(たら)

2009年12月18日 | Weblog
 魚扁に雪と書いて鱈。文字通り雪の降る冬が最も美味で、魚食民族日本人が昔から好んできた魚の一つ。
 鱈には何種類もあるそうだが、食材として大量消費されるのはマダラとスケトウダラ。マダラは体長1メートルもある巨漢で、水深150~200メートルの岩礁などに棲んでいる。東北以北の北洋、北の日本海、アラスカ、北アメリカに分布。繁殖期が12月末から2月ごろまでで、産卵のため浅い海に群遊してくるころが漁期。味も旬。マダラに比べて細身のスケトウダラは、太平洋には少ないが、日本海では山口県以北、北洋、ベーリング海、北アメリカに多く分布。各国の二百カイリ経済水域決定後、双方の鱈とも漁獲高が減り、高価な魚になってしまった。
 日本人の鱈の食べ方には全く驚かされるとは、食の博士・小泉武夫氏の言。身はもちろん、皮も内臓も卵も、一匹全体の殆どを食べてしまう。肝臓は脂肪、タンパク質、ビタミン類に富み、白子には特殊なタンパク質や強壮源が多く含まれることから、肉以上に内臓を大切にする地方もある。
 胃袋、頭、骨、皮はアラ汁に、卵は煮付けにと、日本人はこの魚の持つ調理上の特性をよく知りぬいて、驚くほど多くの料理法で食べ切ってしまう。鱈ちり、寄せ鍋、吸い物などに向くのは、豆腐や昆布との味の調和が良いからである。
 また、白身で淡白な鱈は酒粕とも調和し、食通によると「鱈の粕漬けは鯛の粕漬けに勝る」のだそうだ。身をほぐして「そぼろ」や「でんぶ」も鱈の食べ方である。
 マダラの卵巣は、生鮮のまま「本タラコ」として市販され、煮付けや佃煮にして重宝される。スケトウダラの卵巣は塩漬けされ、赤く着色して「タラコ」として広く食用されている。これに唐辛子を添加した「明太子」も人気が高い。
 スケトウダラのすり身は、蒲鉾などの練り製品に欠かすことが出来ない。しかし最近は例の二百カイリで漁獲量が激減しているそうだ。明太子の高いこと、高いこと。

「第九」現象の源 ③

2009年12月17日 | Weblog
 捕虜たちが祖国へ帰ったのは大正9(1920)年1月のことであり、板東俘虜収容所が閉鎖されたのは同年2月8日だった。さしものヨーロッパ文化の花開いた板東も彼等の帰国とともに静かな農村にもどった。
 しかし、彼等の演奏した「第九」は、二つの点から日本の「第九」の原点になった。第一点は、日本の「第九」の初演に大きな役割を果たした徳川頼貞に深い感銘と大きな影響を与えたこと。第二点は、日本の「第九」の演奏形態の一つである、新しい地域振興を目指す市民ぐるみの「第九」演奏会の源流になったこと。現在、鳴門市では、この収容所の「第九」に原点をおいて、毎年6月1日に「第九演奏会」を行っている。
 日本人による「第九」の初演は大正13(1924)年のことであると言われている。この年号は興味深い。ベートーヴェンが長い歳月と情熱を傾けて作曲した「第九交響曲」は、1824年5月7日ヴィーンのケルントナートル劇場で初演されている。したがって、日本での初演は丁度100年後に当たる訳である。これは偶然かもしれないが、興味深い偶然である。
 大正13(1924)年、日本では三つの特筆すべきことがあった。第一は、ドイツ、イギリスで録音された「第九」のレコードが輸入され急速に普及していったこと。第二は、日本最初の「第九」の解説書が発刊されたこと。第三は、初めて日本で「第九」が演奏されたこと。
 レコードは1897(明治30)年、SPレコードの本流となったシェラック盤による量産体制が確立すると、クラシック音楽のレコード化が進み、この年ドイツではグラムフォンからブルノ・ザイドラー・ウインクラー指揮の「第九」が録音されている。
 日本で「第九」のレコードの普及に大きな役割を果たしたのが野村胡堂である。例の『銭形平次捕物控』の原作者である。彼はまた「あらゑびす」の号をもつレコード評論家の草分けでもあり、『名曲決定盤』などの多くの音楽関係書の著者でもあり、この頃の音楽界の様子や「第九」の感動を書き残している。
 「とに角、結構の壮大なこと、オーケストレーションの見事なこと、旋律の豊富なこと、更に更に深さと強さと、気高さと美しさにおいて比類のないこと、光と力が全曲にみなぎって居ることなど、私がいくら形容詞を並べても際限がありません。(中略)
 第四楽章のアレグロ・アッサイの軽快な美しさ特にセロの軸奏部はふるひつき度くなる程すばらしい。曲はだんだん白熱して「さらば、更に楽しく喜びに満てる他の歌へ」と、驚く可き「歓喜の歌の合唱」に入ります。(以下略)」(報知新聞大正13年7月7日)
 野村あらゑびすや堀内敬三や、その他多くの批評家の名文が「第九」を日本に普及させたことは間違いのないところであるが、「第九」の日本での原点は、板東俘虜収容所での殆どが素人による演奏にあったと言ってよい。このいわば素人性が「第九」を日本に根づかせたと言える。最近では日本各地で12月に700回以上演奏されている。この「第九」現象は素人性によるものと言わざるを得ない。(まだ続くのですが、長々と書きつらね、疲れてしまいました。終わりと致します。)

(今日は京都に行ってきます。)