自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

タンポポ

2014年04月30日 | Weblog

 道端で春の情緒を感じさせてくれるのがタンポポ。あまりに馴染みがあり過ぎて特別に人の気を引くことも少ないかもしれない。
 ものの本によると、このキク科の多年草は北海道から九州までと広範囲に分布。日本には約10種が自生している。
 これに帰化種のセイヨウタンポポが加わる。こちらの方が繁殖力が旺盛で、在来種にとって替わっている。ことに都市部でその傾向が顕著で、造成地など撹乱された土地でいち早く根付き、舗装道路の隙間からなどにもしっかりと顔を出す。
 漢方では蒲公英(ほこうえい)と呼ばれ、ステロールなどによる抗菌消炎作用がある。また、若葉をゆでたり天ぷらにしたり、生のままサラダにしたり、根を煎じると代用コーヒーなど食用としても知られている。今では、こんなふうに用いることは、まずないだろう。こんなことを知らされると、やってみたくなる。セイヨウタンポポの若葉や根でも効能は同じだろうか。
 花として観賞する人も、今では少ないだろう。僕もそうで、タンポポよりアザミの方が好きだ。アザミはわざわざ採りにいくこともあるが、タンポポを採りにいくことは、まずない。子供の頃、タンポポの茎を短く切って草笛にしたことを思い出した。

台湾、第4原発の建設を凍結 住民投票実施へ

2014年04月29日 | Weblog

(昨日の日経新聞朝刊より)
 
 【台北=山下和成】台湾の与党・国民党は27日、台北近郊で進めている第4原子力発電所(新北市)の建設を凍結する方針を発表した。2016年にも商業運転が始まる見通しだったが野党や住民から建設反対の声が強まり、譲歩を余儀なくされた。建設を再開するかは住民投票で決める。
 ほぼ完工した第4原発の1号機は安全検査が終わっても稼働させず、9割がた建設した2号機は工事を中断する。27日には最大野党・民進党や住民らが台北市内で数万人規模の建設反対デモを実施していた。
 第4原発は出力135万キロワットの改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)2基を備える。日立製作所や東芝の原子炉など日本製の設備を多く採用している。1990年代末に着工したが工事のトラブルなどが相次いだ。さらに11年の福島第1原子力発電所事故後は、安全への懸念から建設反対の声が強まっていた。
 馬英九政権(国民党)は「第4原発の建設を中止すればエネルギー不足に陥る」などと説明し、建設・稼働の是非を問う住民投票を実施する方針だった。ただ台湾では11月末に統一地方選挙、16年初めに総統選挙が控える。原発を争点にしないためにも建設凍結で早期の幕引きを図った形だ。住民投票も次期政権の誕生後に実施される可能性が高い。

(日本もいつまでも原発に固執していてはダメ!!!)

人間、生きている限り

2014年04月28日 | Weblog

 「人間、生きている限り、希望をもつべきだ。」(ゲーテ『ファウスト』より)

 余りにも平凡で、巨人ゲーテの言葉としては拍子抜けするではないか。しかし、作家として超一流の道を歩んだゲーテでさえも、涙せざるを得ない日は少なくなかったのだ。
 よほどの悪党でない限り、永い人生で、苦悩・苦難の日々を経験しなかった人は居ないだろう。特に年齢を重ねるごとに、親や友人との永久の別離を経験し、悲しみから立ち上がりにくい時もあるだろう。それでも、希望を捨ててはならない。そうすれば、いつの日か絶望の淵から戻れる。このことを体現したのがゲーテの生涯だと言えるのだろう。
 四月も最終日に近く五月を迎えるに当たり、「希望」という言葉を記す。しかし、僕はといえば、そう簡単には希望をもつ訳にはいかない。何故なら、希望をもつには、それだけの努力が必要な訳で、それだけの努力を僕がしているとは言えないから。

ミミズ

2014年04月27日 | Weblog

 これから暑くなるとミミズが道の上に出て来る。理由は定かではないが、雨水が巣穴に流れ込み、避難して路上に出て来るという説がある。
 どちらかというと、ミミズは嫌われ者の生き物かもしれない。だが、ミミズたちは農業の縁の下の力持ちである。土中を縦横無尽に動き回ることで土が柔らかくなり、酸素も行き渡る。土と有機物を体内に通し団粒をつくる。その糞はカルシウムに富み、弱アルカリ性の土壌を生む。肥えた土にはミミズがいるというのは、多くの人が知るところである。(要らぬことを言えば、ミミズのような役割をする人々が居てこそ、社会は維持される。そういう人々の役割が十二分に認められる社会であってほしい。)
 ものの本によると、かつて東京の某デパートでミミズが売り出され、長野県産の5万匹のミミズがあっという間に売り切れたという。買った人々は家庭菜園に放したに違いないが、ミミズたちは元気に活躍しただろうか。
 進化論のダーウィン(2011年、生誕200年)の晩年の研究テーマは「ミミズと土壌の形成」(1881)だった。ミミズの棲む畑に産出される有機成分と量を算出し、その有用性を説いている。ダーウィンを持ち出すまでもなく、古くから世界各地でミミズの能力は知られていた。土や植物に関わる神話や伝承も多い。
 稀有壮大な神話の一つに、台湾の創世神話がある。大洪水の後ミミズが無数に現れ土を食らい、糞を出して肥沃な大地をつくったというものだ。おそるべきミミズの能力。
 さて、僕はと言えば、ミミズは嫌いではないが、好きだと言うほどでもない。だが、ミミズには感謝しなければならない気がする。梅雨に入ったら、雨水に耐え切れず路上に出て来るミミズも多かろう。元の土中に戻れることを願う。

緑化

2014年04月26日 | Weblog

 緑は災害時の防火壁となり、あるいは防風林となってくれる。
 緑は日陰をつくり、涼風を生み、水分を蒸散し、寒暑をやわらげ、人に安らぎを与えてくれる。
 緑は土壌の生産力を高めてくれる。
 緑は大気を浄化し新鮮な酸素を吐き出してくれる。
 地球上最大の森林、アマゾン流域の森林が伐採、不法伐採で毎年、日本の四国の面積分ほど減っていると昨日のテレビで報道されていた。
 クウェートの砂漠の緑化に取り組んだ植物生態学者、清水正元氏の著書『砂漠に緑を』の中で興味深い計算が見られる。石油王国クウェートでは、天然ガスの火炎が夜空を焦がしている。ガスの燃焼などで使われる酸素の量は1日約7千4百万キログラムにもなる。この酸素を補うにはどの程度の緑が必要か。1万平方メートルの森林が1日に吐き出す酸素の量は約50キログラム。天然ガスの燃焼で消費する酸素の補給を緑に頼るとすると、約1,5万平方キロの森林をつくらねばならない。つまり、クウェートの国全体を森林にする必要がある、というのだ。
 勿論、クウェートだけの問題ではない。地球上の緑が減れば、「酸素の赤字」に直面する。緑は大気中の汚染物質を吸い込み、酸素を供給する。国立公害研によると、首都圏内の大気中の二酸化炭素を浄化するには、圏内の35%を緑地帯にする必要があるという。浄化作用の高いプラタナスを植えると仮定した場合の話だ。この35%を一つの基準にすると、東京の緑は絶望的に少ない。23区内の緑地面積はわずか2,8%だという。僕の感じでは大阪はもっと少ない。
 都市化にともなって、緑地が減った。様々なクリーンエネルギーの開発とコストダウンも必要だが、緑地を広げることが焦眉の問題だと思う。

ヤマアラシ・ディレンマ

2014年04月25日 | Weblog

 人間関係をうまく続けていこうとするとき、場合によっては様々な軋轢が立ちはだかる。そんな時どうすればいいのか。
 二匹のヤマアラシが寒さのなかで、身を寄せ合って温めあおうとしていた。ところが、ヤマアラシは背中から尻尾にかけて鋭い長いトゲが生えているので、密着しすぎると傷つけあってしまう。しかし、痛いからといって離れてしまうと寒くて凍えてしまう。そこで、くっついたり離れたりしているうちに、あまりひどく傷つけず、適度に温めあう、程よい距離を発見した。
 これは心理学者がよく用いる逸話で、元は19世紀の哲学者ショーペンハウエルが書いた寓話に出て来るそうだ。
 精神医学者フロイトが、この寓話からヒントを得て、人と人が親密さを維持するための距離の取り方の難しさを表すキーワードとして、ヤマアラシ・ディレンマという用語を作った。
 近すぎると傷つけあい、離れすぎると凍えてしまう。では、どうすればいいのか、ということでディレンマと言ったのだろう。
 何らかの問題を抱えながらも、何とか二人でやっていこうという暗黙の前提が人間関係にはある。この前提を言い換えたのがヤマアラシ・ディレンマという用語に過ぎないのだが、この表現が面白い。
 しかし、面白いと言ってばかりでは収まらない人間関係もあるのかも知れない。場合に応じて変身の術を器用に使う輩がいる。政界や財界にのみならず、自称他称・学者の間にも。

文化とか文明とかではなく、呆然と・・・(再掲)

2014年04月24日 | Weblog

 僕らは生まれてこの方「おまえは人間だ、おまえは人間だ」と暗黙の内に言われ続けてきた。そういう教育も受け、自発的に人間としての文化・文明を得ようともしてきた。
 思うに、時にはそういう文化・文明から自らを解放してみては如何であろうか。そういう文化・文明は僕ら人間にとっての好都合な作業であり、その成果である。しかし蛙やドジョウやメダカやその他、無数の野生の(野生の、というのも人間から見てのことである)動植物にとっては有害でさえある。
 ところが、そういう無数の動植物が心地よく生活してくれていないと、巡り巡って、僕ら人間の生活も疲弊する。だから(という訳ではないが)、身近の動植物になったつもりで、人間の文化・文明の本性を想像してみる事が大切なのではないだろうか。そんな想像はできないと言われるかもしれない。
 僕は時たま、例えば倒木に座って、木々の間を過ぎ行く風の音を聴く。その風がどんな経験をして、今ここを通り過ぎていったのかを想像してみる。大阪上空で汚染されて、生駒山で濾過されて、・・・もし風に感情が備わっていたら、喜怒哀楽を経験するのではないだろうか。
 僕ら人間は、時には文化とか文明とかに距離を置いてみるべきだと思う。という事は、時には人間を止めてみるべきだ。文化・文明によって飼育されている秩序を離れて、ただ単に呆然と空とか山とか海とかを眺めてみる事を経験してみては如何であろうか。

イギリスから返還の高レベル放射性廃棄物

2014年04月23日 | Weblog

(YAHOO!ニュースより)
 英国からの返還ガラス固化体(高レベル放射性廃棄物)132本を積んだ輸送船「パシフィック・グリーブ号」が22日朝、六ケ所村のむつ小川原港に到着した。同国からの返還は2010、11、13年に続き4度目。同日中に同村の日本原燃高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターに搬入される見通し。固化体は同センターで一時貯蔵した後、最終処分場に搬出する計画となっているものの、処分地選定は難航しており、先行きが見えない中での搬入となる。
 同船は午前7時45分ごろ、同港に接岸した。今回到着した固化体は、英国への使用済み核燃料再処理委託で発生した中部、関西、四国、九州電力それぞれ28本、中国電力20本。今回の搬入分を含め英国から戻った固化体は計264本になった。既に終わったフランスからの返還分を含めて、同センターの固化体の保管数は1574本となる。
 原燃によると、英国での搬出時の放射線量検査では固化体周辺の線量に大きな変化は見られなかったという。
 固化体は同センターで30~50年貯蔵した後、地中深く埋める最終処分場に搬出される計画。政府は11日に閣議決定したエネルギー基本計画で、国が前面に立って選定に取り組むことを明記したが、現段階で処分地選定の見通しは立っていない。
 22日は港周辺で、核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会などが、本県がなし崩し的に最終処分場にされかねないとして、抗議集会を開いた。
 日本の電力会社は、原発から出た使用済み核燃料の再処理を1969年から01年にかけて英仏両国に委託した。フランスからの固化体返還は07年に終了、英国からは19年度ごろまでに計約900本が返還される予定。

(東奥日報社)

草花

2014年04月22日 | Weblog

 
 道端の草が一斉に萌え、花を咲かせている。律儀に去年と同じところにナズナが咲き、ハコベが咲いている。
 山の花、野の花の多くは人の目にふれることが少なく咲き、そして散る。
 「それもよからう草が咲いている」
という山頭火の、定型を破った句がある。名誉利己を望まず、雑草のように野辺に散る、それもよかろう、と自分に言い聞かせているようだ。
 山頭火の句をもう二つ。

  雑草よこだわりなく私もいきている
  生きられるだけは生きよう草萌ゆる

 山頭火のように、生涯、漂白の旅を続けることは、今となっては物理的に不可能だが気持ちは彼の様でありたいと思う。

執心、妄心

2014年04月21日 | Weblog

 時々、日本の名文を読み返すことがある。その一つ、鴨長明『方丈記』の末尾から引く。
 「・・・一期月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。・・・しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。・・・もしこれ、貧賤の報のみずから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。」
 高貴の身を捨て、世俗を去り、山中に六畳ぐらいの草庵で暮らせば、現世でのしこりを忘れ、木々のざわめき、小鳥の声、虫たちの戯れなど、時には読書など、誰からも干渉されることなく、気ままに生を楽しみ営むことができる。しかし長明は心静かに安楽としておれなかった。「執心なかれ」と思っても、妄心に至る。仏の教えを求むるも、達っせざる自らの「心は濁りに染め」る。これが、我が心が「よどみに浮かぶうたかた」であるという事実なのかもしれない。
 事実なのかもしれない。事実なのだ。

泣き言 & 穀雨

2014年04月20日 | Weblog

 自遊想を毎日休み無く書くことは、本心を言うと、辛い。
 徒然なるままにとはとても言えない。深刻な時事問題を追うのは易しいかも知れないが、僕本人に関わる話題が日々ある訳ではなく、いわば捏造するしかない日もある。
 それでも、奇特な人あって、拙文が読まれると考えると、書く方がいいのかなあ、と思いもする。しかし、重ね重ね言えば、辛い。それでも、書く方がいいのかなあ、と思う。
 こんな泣き言を書くことは、もっと辛い。でもねえ、辛さに耐えていつまで続くか、見てのお楽しみというところだろうか。誰が楽しむって? 勿論、僕自身。そう、辛さを楽しむ。自遊想を記すことは自虐的なんだ。
 本心を言うと、自虐は僕の性格ではないのだけれど。僕の本性はボーとすることだ。だけど、何を言っても単なる泣き言に過ぎない。泣き言ねえ、本当に泣きたくなってきた。ま、明日があるさ。

 以上のことは兎にも角にも。
 今日は穀雨。
 清明から数えて15日目頃。春季の最後の節気。
 春雨が百穀を潤ことから名づけられたもので、雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。この時季に、特に雨が多いというわけではありませんが、穀雨以降、降雨量が多くなり始めます。
「清明になると雪が降らなくなり、穀雨になると霜が降りることもなくなる」という言葉があるように、南の地方ではトンボが飛び始め、冬服やストーブとも完全に別れる季節です。
 変わりやすい春の天気もこの頃から安定し、日差しも強まってきます。
 昔から、この日に合わせて田畑の準備をします。
 穀雨が終わる頃に八十八夜を迎えます。

「百年の孤独」のノーベル賞作家、ガルシア・マルケス氏が死去

2014年04月19日 | Weblog

 小説「百年の孤独」などで知られるノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスが17日、メキシコで死去した。87歳だった。
 家族と関係者が明らかにした。感染症と脱水症状で治療を受けていたという。

 南米コロンビア出身。「魔術的リアリズム」の旗手として知られ、1982年にノーベル文学賞を受賞した。スペイン語世界において、「ドン・キホーテ」で有名な16世紀のスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテス以降最も重要な作家とも評されている。

 ガルシア・マルケスはコロンビア北部の町アラカタカで生まれた。「百年の孤独」や「落葉」、「悪い時」に登場する架空の町、マコンドはアラカタカがモデルとなっている。

 幼少期は両親とは離れ、祖父母のもとで暮らした。祖父母はともに話を聞かせるのがうまく、元軍人の祖父は軍人のあり方やコロンビアの歴史、殺人が心に残す重荷について、祖母は民話や迷信、幽霊を孫に語って聞かせたという。特に祖母の話は「百年の孤独」に大きな影響を与えた。

 その後はジョイスやウルフ、カフカやフォークナーの作品にも影響を受けた。大学卒業後は、新聞記者やコラムニストとして活動する一方で小説を書くようになり、67年発表の「百年の孤独」で名声を確立。同書はこれまでに20数カ国語に訳され、2000万部を超える世界的ベストセラーとなった。

 だが政治的左派でキューバのカストロ政権を支持する姿勢から、米国からは何度も査証(ビザ)の発給で制限を受けたり拒否されたりした。これは「百年の孤独」のファンだったクリントン元大統領が規制を解くまで続いた。

亭主と女房

2014年04月18日 | Weblog

 ほぼ毎日慣れないことをしている。小説らしきものを少しづつ書いている。書いていて気になることがしばしば出てくる。
 妻が自分の夫を主人と呼ぶのは封建制度の名残ではないか、とか。亭主と呼ぶのは、何処に由来するのだろうか、とか。そこで、ものの本で調べた。
 今の時期なら山吹の花などを茶花に飾って茶会が催される。亭主は茶道から出た言葉で、一間四方ぐらいの狭い茶室に客を招き、茶を供応する人のことであった。茶室には○○亭とか○○庵とか、名前がついていた。その○○亭の主というわけだ。
 一方、女房という言葉は、宮中に仕える女官の部屋のことを意味したが、それが転じて、そうした部屋を賜った高位の女官を意味するようになった。
 つまり、亭主は茶道に通じた趣味人であり、女房は宮廷で裳裾をひるがえす高貴の人であった。ところが、いつのまにか「うちの宿六」になり、「うちのカミさん」になってしまった。
 宿六を辞書で調べると、妻が自分の夫を卑しめたり、親愛の意を込めたりして言う語とある。卑しめられるのか、親愛の意を込められるのか、どっちなのか、僕としては個人的に気になった。「カミさん」の場合は、親愛の情をこめて妻のことをそう呼ぶ。
 日本語という代物は厄介ではある。一人称を表す「わたし」でも、方言などを加えると200ぐらい別の言い方があるそうだ。意味深長な日本語を達意の小説家は使いこなしているのであろう。

ヒトの厚み(再掲)

2014年04月17日 | Weblog

 生態学の本には興味深いことが一杯載っている。次はその一つ。
 地球という生態システムにおけるヒトの占める位置の量は極めて小さい。地球の半径は約6400km。その周囲に生物は貼りつくようにして生きている。生物が生存する範囲は、高さがせいぜい数千m、深さは最深の深海生物が棲む所でも10km。この範囲に生きている生物を全部集めて地球の表面に均等に並べると、その厚みは(驚くなかれ)1.5cmにしかならない。
 しかもその90%は植物で、動物だけの厚みは1.5mmにしかならない。動物の大部分は海の動物で、陸上動物はその250分の1、つまり0.006mmの厚みにしかならない。
 現在、陸上動物の中で量的に最も繁栄しているのはヒトである。勿論個体数だけをとれば、バクテリア、微生物などはヒトより遥かに多い。が、重さを含めて計算すると矢張りヒトが一番である。大雑把な計算によると、ヒトの総重量は約1億6000万トン。これは陸上動物のほぼ4分の1だと推定される。だから厚みにすれば0.0015mmぐらいになる。半径6400kmの地球に対して0.0015mmの厚み。
 この微小なヒトの存在が地球という生態システムに甚大な悪影響を及ぼしてきて、この生態システムが後100年もつか否かという事態を引き起こしているのだ。

うたたね

2014年04月16日 | Weblog

 明の高啓は僕の好きな詩人。以前にも引いたことがあるかもしれないが、好きな詩なので再度引く。

  偶 睡

竹間門掩似僧居   竹間 門は掩(とざ)されて僧居に似たり
白荳花開片雨余   白荳(はくとう)花開き 片雨の余(よ)
一楊茶煙成偶睡   一楊(とう)の茶煙 偶睡を成し
覚来猶把読残書   覚め来たれば猶お把(と)る読残の書

(竹林の中に、ひっそりと門のとざされている家のたたずまいは、まるで僧の住いのようだ。
 通り雨のあと、白い豆の花が咲く。
 茶を煎る煙をみているうちに、長椅子でついうたたねをした。
 目がさめてみると、読みさしの本をまだ手に持っていた。)

 ごく普通の田舎家。穀雨の頃、竹林の豆の花を舞台にしている。悠々自適の生活の一コマ。こんな暮らしをしたいと思うのは、まだまだ早いのかもしれないが、いつかこんな生活ができるのであろうか。ただ、うたたねはお薦めです。

(こんな悠長なことを言っておれない状況が今日もフクシマ原発大事故やウクライナなどで続いている。)