草履で歩きながら考える

笑う門には福来たるで、マイペースでやりたいこと やってみよう♪基本PTAブログですが、日常やがんのことも綴ります。

『自分たちよ!』伊丹十三:著

2010年01月15日 | おすすめ本
知人に勧められて、図書館で
借りた本です。

あの映画監督、伊丹十三氏の著書。

思索の深さに脱帽です。


 『自分たちよ!
 著:伊丹十三
 文春文庫、1988年


本を開いてまず目を惹くのは、
フォントの小ささ。
2段組、3段組の構成。

本のコンセプトが、
「多角的な視点から自分自身に出会うための
ヒントを考えてみました。」
と、文庫の裏表紙にあります。

人生相談から、インタビューから、
潔癖性の女性が語る、から
日本語の特質を考える、から
読書案内(心理学・精神分析的なもの)、
「旗」で黒澤映画を語る、まで

その視点はバラエティに富んでいて

「自分とはは何か」、という
思春期から青春時代頃には
誰でも一度は考える(考えたことあるよね?)

一大疑問の答えを導くためのヒントが
てんこもりになっています。

・・・ひいては、日本人の特質
(考え方の癖)までもが
浮き彫りになっています。


      



中でも、精神分析をフランスで受けてきた
佐々木孝次氏との
対談「一人称について」は必見!

日本人の意識のあり方と
コミュニケーションの癖を、
言語学的なアプローチで考察しています。


すこし難しい概念ですが

「我」という一人称は
「汝の汝」という意味になってしまう。

  対して、フランスは、一人称と三人称が
  成立しているのだそうです。


日本人の特質として
幼い頃の母子一体となった感覚のままで
相手とコミュニケーションしてしまう、
というのだそうです。


つまり、日本人のコミュニケーションの特徴は

  主語を略しがち

  「言外の意」
  「察する」

ということにある、と。



佐々木氏は、フランスで精神分析を受けるという
過酷なご経験の中で、

「日本人というのは最小単位が二人であって、
一人という経験がない」

ということを発見されたそうです。


すなわち、日本では「相手がどう思うか」を
常に配慮して言葉を発する。
コミュニケーションをする。

相手があっての言葉なので、
日本語の一人称は、二人称的性格を帯びる、
ということのようです。

例えば
「This is a pen.」
という文を訳すと、

「これはペンです。」
「これはペンだ。」
「これはペンでございます。」
「こいつはペンだ。」

等々、
無数のバリエーションが出来るそうで、
絶対正解、という訳は存在しないそうです。

  なぜなら、どれも正解で文意は通るから。


つまり、日本人は、常に「受け手」のことを
意識して、言葉を使うのです。

  そのような言葉の使い方をしていると
  「自分」が薄まっていくような
  気がいたします。


そうして、日本人は
個人として自立していられず
「AはBです」と言い切ったままでは
いてもたってもいられず

つい「AはBですね」、と「ね」を
付けてしまう傾向がある、とのこと。

自分と他人の考えが同じであることを
「ね」で確認して安心する傾向を
指摘しています。


      



以上のことはほんの一例です。

ですが25年前の本、
今の日本人の考え方よりは丁寧だ、と
思いますし、

英語が日常に浸透してきている昨今
発想方法や物事の考え方が、当時とは
変質している部分もありましょう。

とはいえ、とにかく、おもしろい!
入手困難ですが欲しくなりました。


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