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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「感動的な箱根の彫刻の森」

2024年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根に行くと必ず「彫刻の森」という近代彫刻の野外展示場を訪問します。起伏のある緑の芝生の上に大きな彫刻が展示してあります。作品群が周囲の山々の風景と響き合って作品の美いさを引き立てています。
それでは私どもが撮った写真でこの「彫刻の森」をご紹介致します。

1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。

2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。

3番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブルーデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。

4番目の写真は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。

5番目の写真はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。

6番目の写真はイタリア人のジュリアーニ・ヴァンジ(1931年生まれ)の2004年作の「偉大な物語」という彫刻です。

7番目の写真はフランス人のオーギュスト・ロダン(1840年ー1917年)の1898年作の文豪バルザックのブロンズ彫刻です。

彫刻の森に展示されている作品は膨大です。その作品一点、一点の詳しい紹介は、https://www.hakone-oam.or.jp/permanent/?id=2 に掲載されています。
例えばヘンリ-・ムーアについて以下のように書いてあります。
「ムーアは彫刻を野外に展示することを好みました。そして、「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」と語っています。彫刻の森美術館の緑陰広場の庭園には、ムーアの彫刻作品11体のコレクションがゆっくりと時間を刻んでいます。
四季を通じて、彫刻の堅固な形態とその空間が作り出すコントラストはとても魅力的です。」

そして1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」については以下のような解説があります。
「・・・人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に坐っているもの、そして横たわっているものである。3つのポーズのうちで、横たわる人体像は、最も自由がきき、構成しやすく、また空間性を持っている。坐っている人体像には腰掛けるためのものが何か必要になる。彫刻を台座から解放してやることができない。横たわる人体像はどんな床面にも横たえることが可能だ。自由がきくと同時に安定性もある。・・・」

一般に大型の彫刻作品は、風景の良い屋外に展示したほうが良く見えると思います。そして「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ像の前にしばらく立っていると何とも自然なやすらぎを感じます。

そしてバルザックの像については次のような説明があります。
「ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼され、肖像写真をもとにして制作した。1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表したが、これが雪だるま、溶岩、異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した」と、協会から作品の引き取りを拒否された。
ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかった。彼の死後、1939年になってパリ市内に設置、除幕された。
ガウンによって写実的なディテールが覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じるものである。」

この解説を読んで初めてこの彫刻の意味が分かるのです。しかしこの像の前に立つと人間の苦悩の深さと、それを克服しようとする人間の勇気を感じます。
さて、彫刻の森美術館と言えば思い出すことがあります。
西洋の彫刻を見ながら、家内は日本の彫刻家の高村光太郎や舟越保武の作品をも説明してくれます。萩原碌山の魅力も私に説明してくれます。

それはさておき箱根の「彫刻の森」は間違いなく素晴らしい美術館です。その姉妹館が「美ケ原高原美術館」です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「美しい蓮の花と行田への旅」

2024年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
何故か分りませんが私は蓮の花が大好きです。色合いが心を誘い大輪の花が初夏の風に揺れている光景は幻想的です。一面に広がる蓮田の中に花が咲いています。大きな葉が揺らぎ涼しい香が漂って来ます。
そんな風景は埼玉県の行田の「古代蓮の里公園」でも見ることが出来ます。
今日は「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花の写真をお送りいたします。写真は小生と家内が2008年の6月に写したものです。
「古代蓮の里公園」では10万株も植えてありその上、世界中の蓮の花を集めています。以前に3,4度訪れたことがあります。
1番目の写真は行田にある「古代蓮の里公園」です。
2番目の写真は「古代蓮の里公園」に咲いていた蓮の花です。
さて蓮の花には数種の色合いがあります。それらの花の写真を示します。
写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292 です。
3番目の写真は薄いピンク色の花です。
4番目の写真は白い蓮の花です。
5番目の写真は薄いピンク色の花を横から撮った写真です。
 
古代蓮の里のハスの見頃は、例年6月下旬から8月上旬頃です。
この「古代蓮の里公園」では蓮の花だけでなく、広大な芝生と高い展望台も楽しめます。
都内の公園とは異なり、展望台は建物に取り囲まれていません。ですから周りの水田が見渡せ、その先には日光連山まで見えます。
行田市は東京から日帰りで観光旅行に丁度良い所と思います。東京の人は行田にあまり観光に行きませんが隠れた観光名所名所です。大きな無料駐車場もあります。
 
今日は埼玉県の「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「チベット仏教の風景」

2024年07月22日 | 写真

チベット仏教の風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。

チベット仏教は7世紀以来、チベットで独自に発展した仏教で、現在もチベット民衆に根強く続いている。
 インドで起こった仏教の中で、北伝仏教とも言われる大乗仏教が、7世紀ごろ、チベット(吐蕃)に伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受け、チベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達し、チベット仏教となった。

吐蕃王朝は衰退したが、チベット仏教はその後モンゴルやネパールにも広がった。特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護したため、チベット仏教はモンゴルにも定着した。

現在もチベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどに信者がひろがっている。17世紀からはチベット仏教の教主としてダライ=ラマの権威が確立し、その転生による継承は現在に至っていが、チベットが清朝の滅亡後は一時独立を宣言したものの、中華人民共和国に編入されたため、チベットの政治的独立と共にチベット仏教のあり方も大きな転機を迎えています。


「『仏教』を分かりやすく書いた資料の紹介」

2024年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

欧米人とビールを飲んで雑談していると、よく仏教とはどんな宗教ですかと聞かれます。仏教の教義はどのようなものですかと聞られます。答えに戸惑う問いです。困った質問です。仏教の全体を分かり易く説明することは容易ではありません。

そこで今日は『仏教』を分かりやすく説明しようと思います。分かりやすい資料をご紹介したいと思います。

さて日本ではお盆になると墓参りをします。春、秋のお彼岸にも墓地の掃除をして先祖の供養をします。みな仏教の風習です。
私は仏教のことが好きでよく仏教に関連した記事を書いています。そんな場合参考にしている資料があります。
それは『仏教へのいざない』というホームページ、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html )です。
大変分り易く仏教全体のことを過不足無く説明した優れた文献です。東京大学仏教青年会が作った文献資料です。
この『仏教へのいざない』というホームページをかいつまんでご紹介したいと思います。
まず目次をご覧下さい。

第01回ブッダの悟りから仏教へ

第02回 原始仏典とは何か
第03回 原始仏典を読む
第04回 原始仏教の様相
第05回 大乗仏教の発生
第06回 龍樹の思想
第07回 大乗仏教の展開
第08回 密教の世界
第09回 インド仏教の滅亡と再興
第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
第11回 シルクロードの仏教
第12回 玄奘三蔵の旅
第13回 チベット仏教の形成
第14回 ダライ・ラマの誕生
第15回 中国に伝わった仏教
第16回 中国仏教の広がり
第17回 漢訳仏典を読む
第18回 隋・唐の仏教
第19回 宋代から清代まで
第20回 朝鮮半島への伝来
第21回 朝鮮仏教の展開
第22回 戦後の東アジア仏教
第23回 南伝仏教とは何か
第24回 スリランカの仏教
第25回 タイの仏教
第26回 ミャンマーの仏教
第27回 日本への仏教伝来
第28回 旅する僧侶たち
第29回 南伝仏教との出会い
第30回 日本仏教のゆくえ

第01回「ブッダの悟りから仏教へ」の書き出しはこんな具合です。
・・・仏教はブッダ(仏陀・仏)の教えに由来する。ブッダは「悟った人」の意で一般名詞に近く、特定の一人に限らない。その中でも歴史的に実在し、仏教の開祖とされるのは、紀元前五または四世紀にインドに現れた人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(シッダッタ)と言い、そこからしばしばゴータマ・ブッダとも呼ばれる。その出身の種族はシャーキャ(釈迦)族で、そこからシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼。釈迦族の聖者)、あるいは釈尊とも呼ばれる。また、如来・世尊などとも呼ばれる。その伝記は伝説的な色彩に彩られているが、北インドの王族の出身で、出生の地は現在のネパール南部のルンビニーであったという。世俗の生活に満足できずに出家し、はじめは当時の修行者の常として厳しい苦行を行った。しかし、それでは悟りは得られず、二九歳、あるは三五歳の頃、苦行を捨ててブッダガヤーの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。・・・

そして第30回の「日本仏教のゆくえ」にはこんなことが書いてあります。


・・・日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。・・・

否定でも惰性でもなく、仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交流しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
 このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。・・・

私は仏教に関するいろいろな本を読んできました。しかしこの電子化された文献資料ほと客観的に、そして公平に仏教を説明した資料は見たことがありません。
以下はこれを参考にして書いた記事です。
「愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅」、2014年08月29日掲載。
「聖徳太子の師は朝鮮の慧慈・・・朝鮮仏教の日本への深い影響」、2014年08月30日掲載。
以下にこれら2つの記事で示した写真と図表をお送りいたします。

1番目の写真は玄奘三蔵法師のインドへの旅の道程です。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は玄奘三蔵法師の遺骨があるという埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の入り口です。私が2009年の9月に訪ねて撮った写真です。遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。

3番目の写真は慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。

4番目の写真は埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の周囲の風景です。

5番目の写真は三国時代の朝鮮半島と日本への仏教伝来を示す表です。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。しかし538年という説も有力です。そうして朝鮮半島出身の慧慈(えじ)が聖徳太子の師になっていたのです。

6番目の写真は朝鮮の仏教の変化を示す表です。676年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせました。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめるのです。中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていったのです。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称します。

7番目の写真は韓国・慶尚南道にある世界遺産に登録されている海印寺の伽藍全景です。802年の創建で、13世紀半ば制作の「高麗八万大蔵経」の版木が1398年以来、所蔵されています。伽藍は1817年の再建されています。

日本の学校では遣隋使や遣唐使だけを強調して教えています。盲目になっても日本へ渡来した中国僧、鑑真のことを教えます。
聖徳太子の師が朝鮮の慧慈であったことや、朝鮮仏教が日本へ深い影響を与えたことを教えません。公平を欠いています。これは日本人が伝統的に朝鮮半島を軽視する精神文化を持っていたためです。

今日は『仏教へのいざない』という優れたホームページをご紹介致しました。そしてこの資料にもとずいて玄奘三蔵法師のインドへの旅と朝鮮の仏教にまつわる写真や図表を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「フィリピンのミアガオ教会の写真」

2024年07月21日 | 写真

パナイ島イロイロ市の西方にあるミアガオ市にあるローマ・カトリック教会で、イロイロの人気観光スポットの一つです。「サントトマスデヴィラヌエバ教会」としても知られています。

1797年に建てられ、要塞としての役割も果たしていた場所でもあります。

バロック様式に中国・フィリピンの様式が混ざった他に類を見ない教会で、その古い構造と歴史から「フィリピンのバロック様式教会群」のひとつとして、1993年12月11日、マニラのサンアグスチン教会とともにユネスコ世界遺産に登録されました。
https://philippinetravel.jp/miag-ao-church/


「東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

2024年07月21日 | 日記

東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信です。

https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/

写真はイグナチオ教会です。

聖イグナチオ教会
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1
JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
 電話 03-3263-4584
 ファクシミリ 03-3263-4585


「夏になると妻が思い出す群馬県の下仁田小学校」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になると妻が思い出すのは群馬県の下仁田小学校のことです。それは小さい、小さい昭和の歴史の一駒です。
昭和20年7月頃、当時海軍の文官だった家内の父は、鎌倉の海水浴場にアメリカの上陸用舟艇が砂浜につき海兵隊が襲って来ると予想したそうです。
当時、家内の一家は鎌倉に住んでいました。まだ少女だった妻は鎌倉の御成小学校に行っていました。
そして1945年の夏に妻の一家は、群馬県の山の中のネギで有名な下仁田町に疎開しました。終戦後も進駐軍の横暴を恐れて昭和22年夏まで山国にひそんでいました。
下仁田国民学校に転校した家内は海浜の生活から山里の生活に変わり、毎日が新鮮で楽しかったそうです。
しかしそこは米が一切採れず、麦と芋と野菜しか採れない山里でした。
ある地主の家に疎開したのですが、その家の毎日の主食はオキリコミでした。小麦粉を練って薄く伸ばし、それを味噌汁に入れて食べるのです。苦しい生活でしたが子供だった妻は頓着せず、学校の同級生とともに野山を駆けて遊び回っていたそうです。
特に学校の傍を流れれる鏑川(カブラ川)は格好の川遊びの場所で、家内は流され溺れかかったことがあったそうです。
その下仁田小学校の同級会が数年前にありました。家内を関越道路と信濃道路を経由して車で送って行ったのです。そんな様子を写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真は昭和22年(1947年)に撮った下仁田小学校4年2組の家内の同級生達の集合写真です。小さくてよく見えませんが、当時の小学生は貧し気な身なりながら希望に溢れた活き活きした表情をしていたことに驚きます。この集合写真に写っている幾人かがの数年前の同級会に集まったのです。茫々、79年後の同級会です。
2番目の写真は現在も同じ場所にある下仁田小学校の校門と校舎の写真です。裏の方へ回ってみると清潔そうな給食センターが建っています。毎日栄養士が考え、美味しい給食を子供達が食べているのです。終戦前後は小麦粉か芋が主食でした。
3番目の写真は家内が溺れかかった鏑川の深みです。この上流の浅瀬で遊んでいましたお転婆の家内が遊びに夢中になり過ぎて流されたようです。3歳上の姉がこの岩の上から跳びこんで助けてくれました。ここは現在、青岩公園になっています。
4番目の写真は家内の一家が疎開していた家の隣の清泉寺です。このお寺の境内は家内の遊び場でした。当時は神社やお寺の境内は子供達が走り回る遊び場でした。
5番目の写真は下仁田町にある妙義山の写真です。
同級会をしている間、私自身は暇です。そこで下仁田町ジオパークを見物して時を過ごしました。古代の地層が露出し興味深い地形になっています。風穴などもありました。
 
下仁田町は山に囲まれた静かな町です。特産品は美味しい下仁田ネギとコンニャクです。それから奥の神津牧場のジャージー種の牛の乳製品です。
 
このように79年経過しても家内を暖かく迎えてくれる下仁田の人々に感謝しています。下仁田を私の故郷のように想うこともあります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると感動する冷蔵庫と冷凍技術の進歩」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、夏になると感動することがあります。冷蔵庫と冷凍技術の進歩です。戦後の日本の技術革新の成果です。おかげで私どもの暮らし方が随分と変わりました。
戦前に家庭の冷蔵庫と言えば断熱材の木で出来た箱で中の上の段に大きな氷を入れ下の段に食品を入れておきました。しかし戦後、冷凍技術が次第に進歩して安価な冷蔵庫が出来るようになったのです。
気体を圧縮して急に膨張させると温度が下がる原理を利用したのです。しかし気体を圧縮すれば温度が上がります。温度が上がった部分を外気で冷やし、温度が下がった部分を冷蔵に利用するのです。文章で書けば簡単そうですが、温度が上がった部分と下がった部分を分離するのが技術的に難しいのです。この困難を克服したのが現在の家庭用の冷蔵庫です。
中の上の段は氷が出来る氷室なっていて下が食品を冷蔵するスペースになっています。
上の段の氷が出来る氷室を大きく作り車に積んだものが冷凍車です。列車に積んだものが冷凍貨物列車です。
従って野菜や魚肉を新鮮なまま遠方から近所のスーパーや商店まで届けることが出来るのです。
一例として近所のある鮮魚店に並んでいる活きの良い魚の写真を示します。写真は小金井の駅前の魚屋で自分で撮ったものです。
このような写真を撮りなが私が愕然としました。ひどく驚いたのです。終戦後の魚屋は大変臭かったのです。魚の腐った臭いがフンプンとしていました。それが驚いたことにまったく無臭なのです。無臭なので隣には肉や野菜が何事も無かったように静かに並んでいます。感動します。
こんな事情なので私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることになりました。活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。
戦前、戦後に塩釜漁港に近い仙台で育ったせいでイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。当時は肉が貴重で魚しか食べれなかったのです。
ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。

この私の趣味は幼い頃に魚をあまり食べなかった家内には理解しにくい趣味です。家内は利尻コンブや三陸のワカメを買って喜んでいます。
趣味ですから外国に行っても魚屋を見に行きます。圧巻はバンクーバーやシアトルの魚市場、フィッシャーマンズ・ワーフでした。売り場の規模が大きくて種々の魚が無造作に並んでいるのです。感動ものです。
アメリカではキャット・フィッシュというナマズを何度も食べました。白身で上品な味です。キングサーモンもよく食べました。
ドイツに住んでいた頃は、淡水のマスやドイツ鯉やウナギもよく食べました。水桶に生きたまま売っているのです。ニシンやキングサーモンも美味しかったです。
 
それにしても日本で売っている魚の全てが活きが良いのです。冷凍運送技術の驚異的進歩が活の良さを保っているのです。技術の進歩に感慨無量です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「元気が出る富士見高原花の里の写真」

2024年07月20日 | 写真
暑いと何となく体を動かすのがおっくうになります。今日も朝から太陽が照りつけて暑い日になりそうです。
そこで元気が出る花園の写真をお送りいたします。標高1250mの富士見高原花の里です。

ここに示した写真は「富士見高原花の里の写真」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。
富士見高原花の里の住所です。
〒399-0101長野県諏訪郡富士見町境12067
中央道・諏訪南I.C から約15分
中央道・小淵沢I.C から約8分

「白鳥は人に懐く、仲良くなった不思議な体験」

2024年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
白鳥は人に懐く野生の鳥のようです。今日は私自身が白鳥一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介したいと思います。
日本で見られる白鳥は冬になると遥々シベリアのアムール河の河口付近から飛んで来ます。しかし幾羽かの白鳥は日本に棲みついています。春になってもシベリアに飛んで行かないのです。
私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、そこで白鳥の4羽の一家と仲良くなったのです。それは不思議な体験でした。
白鳥は霞ヶ浦だけでなく猪苗代湖や屈斜路湖など全国の湖や川に沢山来ます。白鳥のいる風景は日本の冬の風物詩です。
さて仲良くなった4羽の一家は夏になってもシベリアに帰らないで霞ヶ浦にとどまっていたのです。
当時私は土浦港にヨットを係留していました。その係留していた岸壁から湖沿いに600mほど歩いた芝生のところに2007年の春から白鳥4羽がいたのです。
 
1番目の写真は2羽の親の白鳥の写真です。子供2羽はすでに巣立って沖に遊びに行って姿が見えません。2007年の晩秋に撮った夫婦の白鳥です。
白鳥は草食性なので岸辺の草を食べていました。
この写真に草原の向こうに黒っぽい堤防のようなものが写っていますが、そこは浮島になっています。4羽の白鳥一家は夜になると寝る浮島です。野犬や野良猫の行けない安全なねぐらです。
白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。成程、2羽の大きな白鳥の夫婦が何時も仲良くしています。人間に慣れていて、傍に行っても平気です。何度も白鳥の夫婦の傍により話しかけて遊んでいました。この白鳥一家とはは2007年12月から2013年と末まで6年間仲良くしていました。
私どもが沖でセイリングを楽しんで係留する岸壁に帰ってくると4羽の白鳥がお帰りと言って迎えてくれます。
2番目の写真はそんな4羽の白鳥をヨットの上から撮った写真です。
好奇心が強くて船の傍に寄ってきて何か話しかけてきます。残念ながら白鳥語は理解出来ないので、何を言っているのかは分りません。
ある時ヨットに泊まりました。そうしたらその夜にこの4羽の白鳥が遊びに来ました。
3番目の写真はその時の写真です。家内が手を伸ばしてパンを食べさせています。
キャビンの中で作った夕食を食べた後で、後ろの甲板で夜景を楽しんでいたら来たのです。いろいろ話しかけると分かったように首を振ります。それでつい話し込んで1時間以上も一緒に居ました。
さて上で「4羽の白鳥一家」としきりに書きましたが、それは夏と秋に間だけで晩秋から初冬になると親鳥だけの2羽になってしまうのです。
子供の2羽は毎年親を離れてシベリアのアムール河の河口付近に飛んで行ってしまうのです。
夫婦の白鳥だけが残って毎年2羽ずつ子供を育ていたのです。
私は2011年、75歳の時ヨットを止めました。霞ヶ浦へも行かなくなりました。しかしあの4羽の白鳥一家が気がかりで2013年11月に車で霞ヶ浦に行きました。白鳥一家が巣にしていた浮島の傍に行ったのです。
そしたら同じ草原に4羽の白鳥一家が居たのです。4羽の白鳥一家に近づくとただ小首をかしげてくれるだけです。それが久しぶりに会った私への挨拶なのでしょう。
あの白鳥の夫婦に最後に会ったのは2013年です。その後も子供を育てて元気にしていると思っています。それにしても美しい白鳥一家と仲良くなったのは不思議な体験でした。
 
今日は私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、白鳥の4羽の一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「白鳥などの渡り鳥のロマン」

2024年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

冬の日本の風物詩はシベリアから渡って来るハクチョウ、ツル、カモ、ガン、カモメなどの冬鳥が湖沼河川に群れ遊ぶ風景です。国境を自由に越えて、はるばる4000キロメートルくらいも飛んで来るそのロマンを感じ心が楽しくなります。
私はカモメ類は漁港に棲んでいて冬になると内陸の湖や川に飛んでくると思っていました。しかし冬鳥、夏鳥、留鳥、漂鳥などの分類を調べてみると大部分のカモメ類は日本とシベリアの間を渡っている冬鳥なのです。毎年毎年、悪天候の中長距離を飛んで来ることを想像すると胸が締め付けられる感慨も覚えます。

1番目の写真は霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。私の車を覆うように沢山のカモメが舞っていました。

2番目の写真もは霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。

岸辺の地面には鳩の大群がまかれた餌をしきりについばんでいました。
さて日本各地に渡来する冬鳥の詳しい種類と名前は検索すると出ていますので詳細は省略します。

しかし日本に来るハクチョウはコハクチョウで、オオハクチョウは霞ヶ浦にはほとんど来ません。カモ類はマガモ、カイツブリなどなど数種類が大群で飛来します。カモメも数種類が来ているようです。
それらの渡り鳥の群れ遊ぶ光景を見ると私はロマンを感じます。それは鳥たちが数千キロメートルの海を越えて飛んでくるからです。春になると、本州から北海道、そこで一休みして、サハリンの渡り、大陸側のアムール河の下流の湿地帯でまた一休みします。そしてさらに北に向かいカムチャッカやその付け根のシベリアの大地で夏を過ごします。
最後の写真にその経路を示します。

3番目の写真は渡り鳥の飛ぶ経路です。

なおハクチョウ・カモ類の飛来経路及び移動状況については、
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.html をご覧ください。

 新潟県で越冬していた1羽は3月中旬から下旬の間に越冬地を出発して北海道に渡りました。サハリンを経由後オホーツク海を越え、5月中旬にロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して6月上旬にロシア北東部の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。その白鳥は9月下旬に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後アムール川河口付近を経て、10月下旬に日本に到着しました。
 北海道で越冬していた2羽は4月下旬から5月上旬にかけて春の渡りを開始しました。1羽はサハリン、1羽はサハリンとアムール川中流部を経てオホーツク海を縦断しました。

サハリン経由の1羽は5月中旬、アムール川経由の1羽は6月上旬にそれぞれロシア・マガダン州に上陸しました。その後内陸部を北上し、6月上旬から下旬にかけてコリマ川河口付近の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。

2羽は9月下旬から10月上旬にかけて秋の渡りを開始し、10月30日の時点で、1羽はサハリン北東部沿岸、もう1羽はアムール川河口まで南下してきています。
このように渡りの経路は鳥によって違います。しかし概略は日本とシベリア北部の間を行ったり来たりしているのです。
そこには日本とロシアの国境がありますが鳥たちは一切お構いなしに悠々と飛んでいるのです。何か人間の愚かさを感じざるを得ません。
ご興味のある方は参考資料もご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========
東京近辺でも見られる!関東甲信越主な白鳥の飛来地7か所;
http://find-travel.jp/article/27418
特別天然記念物に指定されている白鳥は、現生の空を飛ぶ鳥の中では最大級の重量を有しています。 日本には越冬のために渡ってきて、北海道や本州の湖沼、河川等で過ごすのです。晩秋から初冬に渡来し、春には飛去してしまいます。今や越冬場所が少なくなりましたが、その希少な場所をご紹介します。
1.白鳥の郷(千葉県)
印西市本埜村の田んぼの中にある白鳥の郷です。オオハクチョウとコハクチョウが1000羽以上飛来してきます。
2.瓢湖(新潟県)
新潟県阿賀野市にある瓢湖は人造湖なんです。しかし!貴重な湿地ということでラムサール条約にも登録され、国際的にも重要な湿地と認定されています。そして飛来数は・・・ものすごい数らしいです。もう、白鳥だけではないく水鳥も!後ろから右・左からとどんどん飛んでいくさまが見られます。
なので、時間のない方でも遭遇のチャンスはかなり期待できますよ。東京から少し遠いいですが行って見て見る価値は大です。飛来数最大5000羽には驚きです。
3.白鳥の里(茨城県)
茨城県潮来市の北浦湖岸の白鳥の里です。渡りをしないコブハクチョウも住み着いているので、昼間行ってもコブハクチョウは観られますね。白鳥は餌の米など持って岸辺に行くとワンサと鳥達が集まってきます。集まるというより、囲まれてしまします。
4.川島町(埼玉県)
5.安曇野犀川白鳥湖(長野県)
6.山中湖(山梨県)
7.千波湖(茨城県)



「豊かな野鳥たちに囲まれている日本人の幸せ」

2024年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

私たち日本人は豊かな野鳥たちに囲まれています。美しい野鳥たちに囲まれています。しかし毎日が忙しくて美しい野鳥たちに気がついていません。

そこで今日は自然界に身を置いて美しい野鳥たちと一緒に遊んでみようと思いました。

1番目の写真は自分で撮った写真です。霞ヶ浦の沖には無数の水鳥が列を作って遊んでいる光景です。

春になるとアムール河のさらに北へ渡っていく白鳥やカモメやカモの群れです。
私たちはこんなにも多くの野鳥たちに囲まれて住んでいるのです。
多くの人々はこの豊かな自然に囲まれていることに気がついていません。しかしバードウオッチングを趣味にしている人々はこの豊かな野鳥の世界を楽しんでいるのです。
その様子は、「日本野鳥の会」のHP(http://www.wbsj.org/about-us/summary/about/ )に明快に紹介してあります。
そしてhttp://www.dia-net.ne.jp/~ubird/Report/Rprt2007/Rprt0703.html には霞ヶ浦の隣の牛久沼での観察結果が次のように出ています。
2007/3/11(日)~3/17(土) 牛久自然観察の森にて、

・・・カイツブリ・オシドリ・カルガモ・コガモ・オオタカ・キジ・コジュケイ・キジバト・フクロウ・カワセミ・コゲラ・ハクセキレイ・セグロセキレイ・ヒヨドリ・ルリビタキ・ジョウビタキ・シロハラ・ツグミ・ウグイス・エナガ・ヤマガラ・シジュウカラ・メジロ・ホオジロ・カシラダカ・アオジ・ベニマシコ・ウソ・シメ・スズメ・カケス・ハシボソガラス・ハシブトガラス。以上33種。
今週に入り、ジョウビタキとマガモの姿がとても減ってきました。
ジョウビタキは春一番が吹いてから10日後に北へ向かうと農家さんが言っていたそうです。ウグイスのさえずりもだんだんうまくなってきました。・・・・

冬鳥は、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥で、ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなどです。
夏鳥は、南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥で、ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなどがいます。
春に美しい声で鳴くウグイスはほぼ全国に分布する漂鳥です。
漂鳥(ひょうちょう)は、暑さ、寒さを避けるため、夏は山地、冬は平地、と言うように繁殖地と越冬地を区別して日本国内を季節移動する鳥です。

ウグイス、ヒヨドリ、ホオジロなどが代表的である。渡り鳥との違いは、渡り鳥がシベリアから日本、というように日本国外から日本へ比較的長距離を移動するのに対して、漂鳥の場合は山地から平地に移動するなど、日本国内を比較的近距離を移動するのみです。
野鳥の世界は渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥などといろいろな鳥たちで成り立っているのです。
以下に美しい野鳥の写真を、http://www.dia-net.ne.jp/~ubird/Report/Rprt2007/Rprt0703.html からお借りして示します。

2番目の写真は日本の国鳥のキジです。
3番目の写真はヨシガモで冬鳥です。

4番目の写真はオオタカです。留鳥として周年生息するオオタカもいますが、一部のオオタカは、越冬のため南下を行います。これを鷹の渡りと言います。日本における鷹類の代表的な種で、昔から鷹狩りに使われました。鷹狩りは仁徳天皇の時代にはすでに行われていたそうです。
現在、国内のオオタカの捕獲が禁止されているため、海外から輸入されるオオタカで伝統技術の承継が行われているそうです。

5番目の写真はルリビタキです。日本では夏季に本州中部以北、四国で繁殖し、冬季になると本州中部以南で越冬します。移動の距離は長くはないのですが渡り鳥です。
この他に旅鳥という鳥もいます。日本より北の国で繁殖し、日本より南の国で越冬するため、渡りの移動の途中に日本を通過して行く鳥のことです。主として移動時期である春と秋に見られ、シギ、チドリの仲間に多いのです。


以上のように野鳥の世界は奥が深く調べれば調べるほど興味が湧いてきます。
野鳥はスズメやカラスだけではないのです。こんなことを調べ、実際に望遠鏡を持って野山に出るもの楽しいものです。
野鳥の世界に遊んでいると時のたつのを忘れます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)