箱根に行くと必ず「彫刻の森」という近代彫刻の野外展示場を訪問します。起伏のある緑の芝生の上に大きな彫刻が展示してあります。作品群が周囲の山々の風景と響き合って作品の美いさを引き立てています。
それでは私どもが撮った写真でこの「彫刻の森」をご紹介致します。
1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。
2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。
3番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブルーデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。
4番目の写真は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。
5番目の写真はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。
6番目の写真はイタリア人のジュリアーニ・ヴァンジ(1931年生まれ)の2004年作の「偉大な物語」という彫刻です。
7番目の写真はフランス人のオーギュスト・ロダン(1840年ー1917年)の1898年作の文豪バルザックのブロンズ彫刻です。
彫刻の森に展示されている作品は膨大です。その作品一点、一点の詳しい紹介は、https://www.hakone-oam.or.jp/permanent/?id=2 に掲載されています。
例えばヘンリ-・ムーアについて以下のように書いてあります。
「ムーアは彫刻を野外に展示することを好みました。そして、「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」と語っています。彫刻の森美術館の緑陰広場の庭園には、ムーアの彫刻作品11体のコレクションがゆっくりと時間を刻んでいます。
四季を通じて、彫刻の堅固な形態とその空間が作り出すコントラストはとても魅力的です。」
そして1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」については以下のような解説があります。
「・・・人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に坐っているもの、そして横たわっているものである。3つのポーズのうちで、横たわる人体像は、最も自由がきき、構成しやすく、また空間性を持っている。坐っている人体像には腰掛けるためのものが何か必要になる。彫刻を台座から解放してやることができない。横たわる人体像はどんな床面にも横たえることが可能だ。自由がきくと同時に安定性もある。・・・」
一般に大型の彫刻作品は、風景の良い屋外に展示したほうが良く見えると思います。そして「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ像の前にしばらく立っていると何とも自然なやすらぎを感じます。
そしてバルザックの像については次のような説明があります。
「ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼され、肖像写真をもとにして制作した。1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表したが、これが雪だるま、溶岩、異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した」と、協会から作品の引き取りを拒否された。
ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかった。彼の死後、1939年になってパリ市内に設置、除幕された。
ガウンによって写実的なディテールが覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じるものである。」
この解説を読んで初めてこの彫刻の意味が分かるのです。しかしこの像の前に立つと人間の苦悩の深さと、それを克服しようとする人間の勇気を感じます。
さて、彫刻の森美術館と言えば思い出すことがあります。
西洋の彫刻を見ながら、家内は日本の彫刻家の高村光太郎や舟越保武の作品をも説明してくれます。萩原碌山の魅力も私に説明してくれます。
それはさておき箱根の「彫刻の森」は間違いなく素晴らしい美術館です。その姉妹館が「美ケ原高原美術館」です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日は「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花の写真をお送りいたします。写真は小生と家内が2008年の6月に写したものです。


写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292 です。



チベット仏教の風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。
チベット仏教は7世紀以来、チベットで独自に発展した仏教で、現在もチベット民衆に根強く続いている。
インドで起こった仏教の中で、北伝仏教とも言われる大乗仏教が、7世紀ごろ、チベット(吐蕃)に伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受け、チベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達し、チベット仏教となった。
吐蕃王朝は衰退したが、チベット仏教はその後モンゴルやネパールにも広がった。特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護したため、チベット仏教はモンゴルにも定着した。
現在もチベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどに信者がひろがっている。17世紀からはチベット仏教の教主としてダライ=ラマの権威が確立し、その転生による継承は現在に至っていが、チベットが清朝の滅亡後は一時独立を宣言したものの、中華人民共和国に編入されたため、チベットの政治的独立と共にチベット仏教のあり方も大きな転機を迎えています。
欧米人とビールを飲んで雑談していると、よく仏教とはどんな宗教ですかと聞かれます。仏教の教義はどのようなものですかと聞られます。答えに戸惑う問いです。困った質問です。仏教の全体を分かり易く説明することは容易ではありません。
そこで今日は『仏教』を分かりやすく説明しようと思います。分かりやすい資料をご紹介したいと思います。
さて日本ではお盆になると墓参りをします。春、秋のお彼岸にも墓地の掃除をして先祖の供養をします。みな仏教の風習です。
私は仏教のことが好きでよく仏教に関連した記事を書いています。そんな場合参考にしている資料があります。
それは『仏教へのいざない』というホームページ、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html )です。
大変分り易く仏教全体のことを過不足無く説明した優れた文献です。東京大学仏教青年会が作った文献資料です。
この『仏教へのいざない』というホームページをかいつまんでご紹介したいと思います。
まず目次をご覧下さい。
第01回ブッダの悟りから仏教へ
第02回 原始仏典とは何か
第03回 原始仏典を読む
第04回 原始仏教の様相
第05回 大乗仏教の発生
第06回 龍樹の思想
第07回 大乗仏教の展開
第08回 密教の世界
第09回 インド仏教の滅亡と再興
第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
第11回 シルクロードの仏教
第12回 玄奘三蔵の旅
第13回 チベット仏教の形成
第14回 ダライ・ラマの誕生
第15回 中国に伝わった仏教
第16回 中国仏教の広がり
第17回 漢訳仏典を読む
第18回 隋・唐の仏教
第19回 宋代から清代まで
第20回 朝鮮半島への伝来
第21回 朝鮮仏教の展開
第22回 戦後の東アジア仏教
第23回 南伝仏教とは何か
第24回 スリランカの仏教
第25回 タイの仏教
第26回 ミャンマーの仏教
第27回 日本への仏教伝来
第28回 旅する僧侶たち
第29回 南伝仏教との出会い
第30回 日本仏教のゆくえ
第01回「ブッダの悟りから仏教へ」の書き出しはこんな具合です。
・・・仏教はブッダ(仏陀・仏)の教えに由来する。ブッダは「悟った人」の意で一般名詞に近く、特定の一人に限らない。その中でも歴史的に実在し、仏教の開祖とされるのは、紀元前五または四世紀にインドに現れた人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(シッダッタ)と言い、そこからしばしばゴータマ・ブッダとも呼ばれる。その出身の種族はシャーキャ(釈迦)族で、そこからシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼。釈迦族の聖者)、あるいは釈尊とも呼ばれる。また、如来・世尊などとも呼ばれる。その伝記は伝説的な色彩に彩られているが、北インドの王族の出身で、出生の地は現在のネパール南部のルンビニーであったという。世俗の生活に満足できずに出家し、はじめは当時の修行者の常として厳しい苦行を行った。しかし、それでは悟りは得られず、二九歳、あるは三五歳の頃、苦行を捨ててブッダガヤーの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。・・・
そして第30回の「日本仏教のゆくえ」にはこんなことが書いてあります。
・・・日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。・・・
否定でも惰性でもなく、仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交流しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。・・・
私は仏教に関するいろいろな本を読んできました。しかしこの電子化された文献資料ほと客観的に、そして公平に仏教を説明した資料は見たことがありません。
以下はこれを参考にして書いた記事です。
「愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅」、2014年08月29日掲載。
「聖徳太子の師は朝鮮の慧慈・・・朝鮮仏教の日本への深い影響」、2014年08月30日掲載。
以下にこれら2つの記事で示した写真と図表をお送りいたします。
1番目の写真は玄奘三蔵法師のインドへの旅の道程です。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。
2番目の写真は玄奘三蔵法師の遺骨があるという埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の入り口です。私が2009年の9月に訪ねて撮った写真です。遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。
3番目の写真は慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。
4番目の写真は埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の周囲の風景です。
5番目の写真は三国時代の朝鮮半島と日本への仏教伝来を示す表です。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。しかし538年という説も有力です。そうして朝鮮半島出身の慧慈(えじ)が聖徳太子の師になっていたのです。
6番目の写真は朝鮮の仏教の変化を示す表です。676年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせました。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめるのです。中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていったのです。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称します。
7番目の写真は韓国・慶尚南道にある世界遺産に登録されている海印寺の伽藍全景です。802年の創建で、13世紀半ば制作の「高麗八万大蔵経」の版木が1398年以来、所蔵されています。伽藍は1817年の再建されています。
日本の学校では遣隋使や遣唐使だけを強調して教えています。盲目になっても日本へ渡来した中国僧、鑑真のことを教えます。
聖徳太子の師が朝鮮の慧慈であったことや、朝鮮仏教が日本へ深い影響を与えたことを教えません。公平を欠いています。これは日本人が伝統的に朝鮮半島を軽視する精神文化を持っていたためです。
今日は『仏教へのいざない』という優れたホームページをご紹介致しました。そしてこの資料にもとずいて玄奘三蔵法師のインドへの旅と朝鮮の仏教にまつわる写真や図表を示しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
パナイ島イロイロ市の西方にあるミアガオ市にあるローマ・カトリック教会で、イロイロの人気観光スポットの一つです。「サントトマスデヴィラヌエバ教会」としても知られています。
1797年に建てられ、要塞としての役割も果たしていた場所でもあります。
バロック様式に中国・フィリピンの様式が混ざった他に類を見ない教会で、その古い構造と歴史から「フィリピンのバロック様式教会群」のひとつとして、1993年12月11日、マニラのサンアグスチン教会とともにユネスコ世界遺産に登録されました。
https://philippinetravel.jp/miag-ao-church/

東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/
写真はイグナチオ教会です。
聖イグナチオ教会
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1
JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
電話 03-3263-4584
ファクシミリ 03-3263-4585










夏の海辺と山の風景です。
夏といえば海水浴と登山を楽しむ人が多いと思います。そこで夏の風景の写真をお送りいたします。
写真はインターネットからお借りしました。
ここに示した写真は「富士見高原花の里の写真」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。
富士見高原花の里の住所です。
〒399-0101長野県諏訪郡富士見町境12067
中央道・諏訪南I.C から約15分
中央道・小淵沢I.C から約8分







冬の日本の風物詩はシベリアから渡って来るハクチョウ、ツル、カモ、ガン、カモメなどの冬鳥が湖沼河川に群れ遊ぶ風景です。国境を自由に越えて、はるばる4000キロメートルくらいも飛んで来るそのロマンを感じ心が楽しくなります。
私はカモメ類は漁港に棲んでいて冬になると内陸の湖や川に飛んでくると思っていました。しかし冬鳥、夏鳥、留鳥、漂鳥などの分類を調べてみると大部分のカモメ類は日本とシベリアの間を渡っている冬鳥なのです。毎年毎年、悪天候の中長距離を飛んで来ることを想像すると胸が締め付けられる感慨も覚えます。
1番目の写真は霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。私の車を覆うように沢山のカモメが舞っていました。
2番目の写真もは霞ヶ浦の岸辺を飛んでいるカモメが群れです。
岸辺の地面には鳩の大群がまかれた餌をしきりについばんでいました。
さて日本各地に渡来する冬鳥の詳しい種類と名前は検索すると出ていますので詳細は省略します。
しかし日本に来るハクチョウはコハクチョウで、オオハクチョウは霞ヶ浦にはほとんど来ません。カモ類はマガモ、カイツブリなどなど数種類が大群で飛来します。カモメも数種類が来ているようです。
それらの渡り鳥の群れ遊ぶ光景を見ると私はロマンを感じます。それは鳥たちが数千キロメートルの海を越えて飛んでくるからです。春になると、本州から北海道、そこで一休みして、サハリンの渡り、大陸側のアムール河の下流の湿地帯でまた一休みします。そしてさらに北に向かいカムチャッカやその付け根のシベリアの大地で夏を過ごします。
最後の写真にその経路を示します。
3番目の写真は渡り鳥の飛ぶ経路です。
なおハクチョウ・カモ類の飛来経路及び移動状況については、
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.html をご覧ください。
新潟県で越冬していた1羽は3月中旬から下旬の間に越冬地を出発して北海道に渡りました。サハリンを経由後オホーツク海を越え、5月中旬にロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して6月上旬にロシア北東部の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。その白鳥は9月下旬に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後アムール川河口付近を経て、10月下旬に日本に到着しました。
北海道で越冬していた2羽は4月下旬から5月上旬にかけて春の渡りを開始しました。1羽はサハリン、1羽はサハリンとアムール川中流部を経てオホーツク海を縦断しました。
サハリン経由の1羽は5月中旬、アムール川経由の1羽は6月上旬にそれぞれロシア・マガダン州に上陸しました。その後内陸部を北上し、6月上旬から下旬にかけてコリマ川河口付近の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。
2羽は9月下旬から10月上旬にかけて秋の渡りを開始し、10月30日の時点で、1羽はサハリン北東部沿岸、もう1羽はアムール川河口まで南下してきています。
このように渡りの経路は鳥によって違います。しかし概略は日本とシベリア北部の間を行ったり来たりしているのです。
そこには日本とロシアの国境がありますが鳥たちは一切お構いなしに悠々と飛んでいるのです。何か人間の愚かさを感じざるを得ません。
ご興味のある方は参考資料もご覧ください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========
東京近辺でも見られる!関東甲信越主な白鳥の飛来地7か所;
http://find-travel.jp/article/27418
特別天然記念物に指定されている白鳥は、現生の空を飛ぶ鳥の中では最大級の重量を有しています。 日本には越冬のために渡ってきて、北海道や本州の湖沼、河川等で過ごすのです。晩秋から初冬に渡来し、春には飛去してしまいます。今や越冬場所が少なくなりましたが、その希少な場所をご紹介します。
1.白鳥の郷(千葉県)
印西市本埜村の田んぼの中にある白鳥の郷です。オオハクチョウとコハクチョウが1000羽以上飛来してきます。
2.瓢湖(新潟県)
新潟県阿賀野市にある瓢湖は人造湖なんです。しかし!貴重な湿地ということでラムサール条約にも登録され、国際的にも重要な湿地と認定されています。そして飛来数は・・・ものすごい数らしいです。もう、白鳥だけではないく水鳥も!後ろから右・左からとどんどん飛んでいくさまが見られます。
なので、時間のない方でも遭遇のチャンスはかなり期待できますよ。東京から少し遠いいですが行って見て見る価値は大です。飛来数最大5000羽には驚きです。
3.白鳥の里(茨城県)
茨城県潮来市の北浦湖岸の白鳥の里です。渡りをしないコブハクチョウも住み着いているので、昼間行ってもコブハクチョウは観られますね。白鳥は餌の米など持って岸辺に行くとワンサと鳥達が集まってきます。集まるというより、囲まれてしまします。
4.川島町(埼玉県)
5.安曇野犀川白鳥湖(長野県)
6.山中湖(山梨県)
7.千波湖(茨城県)
私たち日本人は豊かな野鳥たちに囲まれています。美しい野鳥たちに囲まれています。しかし毎日が忙しくて美しい野鳥たちに気がついていません。
そこで今日は自然界に身を置いて美しい野鳥たちと一緒に遊んでみようと思いました。
1番目の写真は自分で撮った写真です。霞ヶ浦の沖には無数の水鳥が列を作って遊んでいる光景です。
春になるとアムール河のさらに北へ渡っていく白鳥やカモメやカモの群れです。
私たちはこんなにも多くの野鳥たちに囲まれて住んでいるのです。
多くの人々はこの豊かな自然に囲まれていることに気がついていません。しかしバードウオッチングを趣味にしている人々はこの豊かな野鳥の世界を楽しんでいるのです。
その様子は、「日本野鳥の会」のHP(http://www.wbsj.org/about-us/summary/about/ )に明快に紹介してあります。
そしてhttp://www.dia-net.ne.jp/~ubird/Report/Rprt2007/Rprt0703.html には霞ヶ浦の隣の牛久沼での観察結果が次のように出ています。
2007/3/11(日)~3/17(土) 牛久自然観察の森にて、
・・・カイツブリ・オシドリ・カルガモ・コガモ・オオタカ・キジ・コジュケイ・キジバト・フクロウ・カワセミ・コゲラ・ハクセキレイ・セグロセキレイ・ヒヨドリ・ルリビタキ・ジョウビタキ・シロハラ・ツグミ・ウグイス・エナガ・ヤマガラ・シジュウカラ・メジロ・ホオジロ・カシラダカ・アオジ・ベニマシコ・ウソ・シメ・スズメ・カケス・ハシボソガラス・ハシブトガラス。以上33種。
今週に入り、ジョウビタキとマガモの姿がとても減ってきました。
ジョウビタキは春一番が吹いてから10日後に北へ向かうと農家さんが言っていたそうです。ウグイスのさえずりもだんだんうまくなってきました。・・・・
冬鳥は、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥で、ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなどです。
夏鳥は、南の国から渡ってきて、夏を日本で過ごし、繁殖期が終わると再び越冬のために南の国に渡って行く鳥で、ツバメ、アマサギ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、ハチクマ、サシバなどがいます。
春に美しい声で鳴くウグイスはほぼ全国に分布する漂鳥です。
漂鳥(ひょうちょう)は、暑さ、寒さを避けるため、夏は山地、冬は平地、と言うように繁殖地と越冬地を区別して日本国内を季節移動する鳥です。
ウグイス、ヒヨドリ、ホオジロなどが代表的である。渡り鳥との違いは、渡り鳥がシベリアから日本、というように日本国外から日本へ比較的長距離を移動するのに対して、漂鳥の場合は山地から平地に移動するなど、日本国内を比較的近距離を移動するのみです。
野鳥の世界は渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥などといろいろな鳥たちで成り立っているのです。
以下に美しい野鳥の写真を、http://www.dia-net.ne.jp/~ubird/Report/Rprt2007/Rprt0703.html からお借りして示します。
2番目の写真は日本の国鳥のキジです。
3番目の写真はヨシガモで冬鳥です。
4番目の写真はオオタカです。留鳥として周年生息するオオタカもいますが、一部のオオタカは、越冬のため南下を行います。これを鷹の渡りと言います。日本における鷹類の代表的な種で、昔から鷹狩りに使われました。鷹狩りは仁徳天皇の時代にはすでに行われていたそうです。
現在、国内のオオタカの捕獲が禁止されているため、海外から輸入されるオオタカで伝統技術の承継が行われているそうです。
5番目の写真はルリビタキです。日本では夏季に本州中部以北、四国で繁殖し、冬季になると本州中部以南で越冬します。移動の距離は長くはないのですが渡り鳥です。
この他に旅鳥という鳥もいます。日本より北の国で繁殖し、日本より南の国で越冬するため、渡りの移動の途中に日本を通過して行く鳥のことです。主として移動時期である春と秋に見られ、シギ、チドリの仲間に多いのです。
以上のように野鳥の世界は奥が深く調べれば調べるほど興味が湧いてきます。
野鳥はスズメやカラスだけではないのです。こんなことを調べ、実際に望遠鏡を持って野山に出るもの楽しいものです。
野鳥の世界に遊んでいると時のたつのを忘れます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)