後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。 1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。
まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。
 
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる 
 
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
 
 はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
 
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
 
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
 
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川 
 
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに 
 
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな 
 
不来方の
お城の草に寝転びて
空に吸はれし十五の心
 
次に石川啄木に関連した5枚の写真をご覧下さい。全ての写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8 です。
1番目の写真は1908年10月4日撮影の石川啄木です。
2番目の写真は盛岡市内に残る「啄木新婚の家」 です。啄木は1905年に満19歳 で堀合節子 と結婚しました。
3番目の写真は啄木(右)と親友の金田一京助(左)です。1908年(明治41年)10月4日、『明星』終刊の際の写真です。 
4番目の写真は1904年(明治37年)婚約時代の啄木と節子です。 2人は啄木の中学生時代から親しかったのです。 節子は明治19年 生まれ大正2年(1913年)に肺結核で没しました。享年28歳。 
5番目の写真は石川啄木一族の墓です。函館の大森浜を望む立待岬 にある一族の墓です。
 
さて石川啄木の有名な短歌を掲載し、関連の写真をご紹介した後は、彼の26歳で夭折するまでの略歴をご紹介したいのです。
一言で言えば彼は円満な穏健な人でなかったのです。転々とした職場で上司と物議をかもし周囲との人間関係も良くなったのです。気が多く小説や随筆や評論も書きました。その上、政治にも関心が強く大逆事件に深い興味を持っていたのです。多くの女性と遊びました。借金を友人知人から繰り返し、返済はしませんでした。そして娘が2人も出来た妻の節子の不貞を疑い離婚を申し渡したのです。
石川啄木の詩は賞賛すべきですが彼の実生活には問題が多かったのです。要するに石川啄木の生活はいろいろな意味で悲惨だったのです。
しかし啄木は天才です。エネルギーに溢れていました。数多くの本も出版しました。
以下の通りです。
(1)『あこがれ』 詩集、1905(明治38)、
(2)『小天地』 文芸誌、1905(明治38)、
(3)『黄草集』 詩稿ノート(詩36篇)1905(明治38)、
(4)『閑天地』 随筆、岩手日報に21回連載 1905(明治38)、
(5)『葬列』 小説、「明星」明治39年12月号掲載 1906(明治39)、(6)『一握の砂』 歌集、東雲堂書店、1910(明治43)、
(7)『悲しき玩具』 歌集、東雲堂書店、1912(明治45)、
(8)『呼子と口笛』 詩集(詩8篇)、1913(大正2)など。
 
このように石川啄木は多くの文学作品を創造した人でした。しかし100年後の現在は彼の短歌だけが有名なのです。彼の詩だけは現在でも輝いているのです。何故か考えさせられます。嗚呼。
 
今日は26歳で肺結核で夭折した石川啄木の詩の世界をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「宮沢賢治の少年の頃の写真」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
岩手の誇りはなんといっても宮沢賢治です。賢治の作品は現在読んでも胸が熱くなります。随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。
賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
宮沢賢治の少年の頃の写真をお送りいたします。宮沢賢治の生家跡と幼い頃や学生の頃の賢治です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は花巻市豊川町にある賢治の生家跡地です。賢治の頃の建物は現存していません。 
2番目の写真は1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左) です。
3番目の写真は盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと一緒の賢治(後列右)です。 
4番目の写真は田の中に立つ花巻農学校教諭時代の賢治です。

「宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』、そして『銀河鉄道の夜』」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』を出版した会社は盛岡の北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。この本が賢治の生前のたった一つの出版本だったのです。
1番目の写真は「注文の多い料理店」の初版本です。
 
さて賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラの水死から始まります。
そしてストーリーは夏の夜空にかがやく銀河の列車に乗ってくるいろいろな人の話として展開して行きます。
人間は死んで天に登り、星になります。ですから銀河鉄道の汽車に乗って来る人は皆な死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年も水死した親友のカンパネルラを探すため銀河の列車に乗るのです。
星祭りの夜にカンパネルラは水に落ちた友人のザネリを助け自分は水死してしまうのです。
川に飛び込み消えてしまったカンパネルラの捜索を見ながら、カンパネルラの父が自分の時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。
 
その後でジョバンニは死んだカンパネルラをもう一度銀河鉄道の中で見つけるのです。そしてジョバンニとカンパネルラは一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つの例だけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時です。他人を助けれために、人で溢れる救命ボートに無理に乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」と書いてありませんが、そのように想像出来ます。
最後に一緒に乗っていたカンパネルラも他の乗客もみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは胸を打ちながらカンパネルラの名を叫びます。銀河鉄道の列車の窓から暗い星空に向かって。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り病気の母親を助けながら真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。
この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。
 
この作品のキーは死んでしまった親友と再会するという奇蹟です。再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。カンパネルラは友人を救って自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。
 
今日の挿し絵代わりの写真としてハップル宇宙望遠鏡から撮った星々の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/327803/040900003/ です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
====下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です====
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)
(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    2012/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  2012/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、2012/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、  12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、2012/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01
(25) 時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている 2015年12月16日

「盛岡と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」

2024年07月29日 | 写真
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら家内が詠います。石川啄木の短歌です。
 
「不来方の
お城の草に
寝転びて
空に吸はれし
十五の心」
 
盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。
 
滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。
「やはらかに
柳あをめる
北上の
岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに      (石川啄木の短歌です。)
 
岩手は宮沢賢治の故郷です。
そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。
写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/ です。
 
1番目の写真は「盛岡城跡公園」です。
盛岡城は、江戸時代の藩主である南部家の居城として嘉永10(1633)年に完成しました。
2番目の写真は岩を割って咲く 「石割桜」 です。盛岡の観光名所です。 
 
賢治に関連した土地をめぐる旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問し、賢治がよく行った小岩井牧場に行き、その後で花巻市の羅須地人協会などを訪ねました。 写真を示します。全てインターネットに出ている写真をお借りしました。
3番目の写真は北上川の流れる盛岡市です。岩手山の見える非常に美しい町です。
4番目の写真は北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。また光原社という社名も宮沢賢治が名付けました。「注文の多い料理店」の初版本が展示してあり、家内は手にとらせてもらって大喜びしていました。
5番目の写真は賢治がよく遊んだ盛岡の郊外の小岩井牧場です。ゆっくり散策して来ました。
ついでに花巻市ある賢治が設立した羅須地人協会も訪問しました。賢治は大正15年に花巻農学校を退職し、花巻市に農業技術などを講義するため羅須地人協会を開設したのです。
 
今日は石川啄木や宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)