後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「200年前に全国を測量した伊能忠敬の日本地図」

2024年07月07日 | うんちく・小ネタ

上総の佐原の商人、伊能忠敬が隠居後、幕府の許可と支援を得て、自費で北海道から始めて、全国を測量したのです。歩いた距離は約五千万歩と言われています。

測量は1800年から17年かかりました。作成した大図、中図、小図を精密に復元し、2010年の5月3日に東京都小金井市総合体育館に展示しました。靴下を履いた足で踏みながら地図を見れるのです。

展示会には驚きました。感動しました。凄い探検旅行です。55歳で引退した後の、伊能忠敬の情熱に圧倒されました。いろいろな理由で衝撃をうけました。

(1)自分が実際に測量した所だけを精密に描いています。想像したことは絶対に描いていません。実験実証主義の権化のような人です。私は職業として実験科学を30年以上して来ましたので彼の実験科学者としての天才的才能が少し分かります。まずその事に感動してしまいました。

(2)文明開花以前の日本の風景が歴然と見えてくるのです。都市も自働車も新幹線も無かった時代です。全国によく手入れされた田園風景が広がり農村や漁村が散在していたのです。このことは当たり前で皆が良く知っていることです。しかし伊能忠敬が歩いて測量して、地名を克明に書き込んでいるのです。それを見ると、自分がその測量隊に参加しているような錯覚を覚えるのです。そして地名から当時の農村や漁村の風景が彷彿としてくるのです。

(3)1800年の頃の地名は現在へ繋がっています。漢字が少し変わっている所もありますが全て理解できます。現在重要な都市や町があった所が単なる雑木林だったり淋しい海岸だったりしているのを見てその変化に驚きます。例えば現在自分の住んでいる小金井市は武蔵野の林だったらしく何も描いてありません。府中、日野などの宿場は明記してあります。自分の山小屋のある北杜市の武川やその牧原や小高い山になっている中山などは地名も明瞭に描いてあります。

江戸時代の東海道、中山道、甲州街道の宿場の付近は詳細に描いてあります。

(4)蝦夷地の地図が驚きです。松前の近辺だけに漢字の地名がありますが、他は全てアイヌ語をカタカナ表示で書いてあります。上の写真にあるように国後島も踏破して、海岸の地名が克明に書いてあります。これを見ると1800年当時は北海道は完全にアイヌ民族のものだったと理解できます。現在ある札幌も旭川も釧路も存在していないのです。

(5)国破れて山河あり、という唐詩があります。幾ら戦乱があっても自然の風景は変わらないと言います。しかし文明開化後の日本の風景は激変したのです。

富士山の風景は変化しませんが、手前に高圧電線が見えます。新幹線の列車が遠方にみえます。東名高速道路が見えます。静岡市のビルも見えます。風景をそのようなもの全てを含めると日本の風景は激変してしまったのです。当然住んでいる人々の心も変ったに違いありません。そん事まで考えさせる感動的な展示会でした。入場料金は500円です。「完全復元伊能図全国巡回フロア展」は各地で開催されました。

その写真をお送り致します。

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「中国や韓国の七夕祭り」

2024年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム
七夕は神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う中国の祭りでした。中国の旧暦7月7日に行われました。
このお祭りは中国の神話に由来しており、機織りの少女織女と牛飼いの牛郎という2人の恋人のロマンチックな伝説を祝うものです。
牛飼いと機織り娘の物語は漢の時代から七夕祭りで祝われてきたのです。古い文献は2600年以上前にさかのぼり、『詩経』の詩の中で語られています。
台湾では、7月7日は七娘媽(織女)の誕生日とされています。幼児の守護神のを祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭のを焼く風習があります。
近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされています。
 
韓国では七月七夕(칠월칠석)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられています。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙です。夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われています。
その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らは醤油がめやみそがめを置く高台の上に井戸水を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願するのです。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう祈ります。
写真は日本の京阪土居駅前・旭通り商店街の笹飾りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

「我が故郷仙台の七夕の思い出」

2024年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は7月7日、七夕の日です。そこで仙台の七夕祭りについて書いてみたいと思います。
仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が婦女子の文化向上を奨励するために始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事として民衆に広まり現在に至ります。 故郷の仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏が来ると思い出します。
毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。
結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。
ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。
それではその七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。
1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.html です。
2番目の写真の出典は、、http://colocal.jp/news/35321.html です。
3番目の写真の出典は、http://www.hoso0907.com/blog/archives/2007/08/09-021827.php です。
4番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kokomo21jp/33777367.html です。
5番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/kuwayamatadashi です。
 
七夕飾りが風に揺れ、その下を家族連れが楽しそうに歩いています。帰省した私も妻や子供たちを連れて歩いた思い出がよみがえって来ます。
夏ですから東一番丁や大町通りは暑いのです。通りの両側にはかき氷やアイスクリームを売る店がありました。家族連れが座って、団扇であおぎながらかき氷を食べていました。
 
そして何処からともなく、さとう宗幸の「青葉城恋唄」が流れて来ます。
その声は、 https://www.youtube.com/watch?v=u-GYBCktieU  から聞けます。
 二番
七夕の飾りは揺れて 想い出はかえらず
夜空輝く星に願いをこめた君の囁き 
時はめぐりまた夏が来て
あの日と同じ七夕祭り
葉ずれっさやけき杜の都 あの人はもういない
 
ご存知のようにこの唄は星間船一が作詞し、さとう宗幸が作曲したのです。仙台在住のさとう宗幸が仙台の広瀬川と七夕飾りを唄ったのです。
 
今日は7月7日、七夕祭りの日です。仙台の七夕飾りの写真をお送りいたしました。
そして「青葉城恋唄」をご紹介しました。
七夕飾りに、人はそれぞれいろいろな想いを浮かべるのです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)