後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北海道大学の低温科学研究所と小島先生の思い出」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
寺田寅彦と内田百閒は夏目漱石の門下生でした。この寺田寅彦の門下生に中谷宇吉郎がいました。
中谷宇吉郎は北海道大学の雪の結晶の研究者です。彼が北大の低温科学研究所を作ったのです。

1番目の写真は北大の低温科学研究所です。
続けて美しい雪の結晶の写真をお送りしましょう。写真の出典は以下の通りです。
https://www.gettyimages.co.jp/写真/雪の結晶?sort=mostpopular&mediatype=photography&phrase=%E9%9B%AA%E3%81%AE%E7%B5%90%E6%99%B6
このように美しい結晶が冬の空から舞い降りてくるのです。想像しただけで楽しくなります。
ところで話は変わりますが、私は北大の低温科学研究所で一生研究をしていた小島先生を知っています。懐かしい方です。
1960年から留学した私はオハイオ州のコロンバスで小島先生一家に大変お世話になったのです。
その小島先生夫妻には当時小学生だった治子さんとその弟晶君がいました。この姉弟は可愛い利発な子でしたのでよく一緒に遊んでいたのです。年賀状が治子さんからきます。私たちの思い出も書いてあります。
治子さんは札幌のミッションスクールで38年間英語の先生をし、YWCAの顧問だったそうです。
小島先生一家と別れてから茫々60余年。
私自身はこの間一度だけ北大の低温研究所を訪れ小島先生にお会いしたことがあります。その後、小島先生は旅立ってしまいました。お料理上手でお優しかった奥様も2年前に帰天なさいました。
邯鄲の夢の一つのエピソードです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「哀愁漂う小樽の写真」

2024年07月31日 | 写真
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方にささやかな赤い火がポッと灯ります。
まず暗い運河の写真を示します。2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮りまた。
1番目の写真は暗い運河と石造りの倉庫です。この倉庫の中は土産物屋になっています。

2番目の写真は土産物屋になっている倉庫の外壁です。蔦や雑草に覆われていますが内部には明るい照明が輝き綺麗な商品が並んでいるのです。倉庫群がそのまま商業施設になっています。
小樽のその他の商店の風景を示します。
3番目の写真は石造りの倉庫がそのまま菓子店になっている風景です。内部は明るい色彩に溢れています。
4番目の写真は海運業者のビルをそのままガラス細工の土産物屋に使っている風景です。内部にはベネチアから運んで来たゴンドラが飾ってあり華やかな雰囲気です。

5番目の写真は明治時代の役所のような建物です。中の1階部分は公開してありました。
小樽の暗い印象の原因の一つは1933年に特高に殺された小林多喜二を思い出すからです。享年29歳でした。小林多喜二の『蟹工船』を思い出すのです。
そんなことを思い出したので、小樽では小林多喜二がよく行った店で食事をしました。
私は共産主義は嫌いです。しかし以下は日本の歴史の一つの裏面としてご紹介したいと思います。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。

以上のような暗い歴史を暗示するような小樽の冬景色を示します。

6番目の写真は塔のある古い建物です。雪を被って寒々としています。
写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

7番目の写真は雪のある明治時代の役所のような建物です。冬でも観光客が沢山います。小樽は独特な魅力があるので四季折々観光客が絶えないのです。写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

今日は哀愁漂う小樽への旅をご紹介しました。そして『蟹工船』という小説で有名な小林多喜二をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 


「フランス人が建てた函館のカトリック教会の写真」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

私が好きな教会は、北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。

1969年から70年にかけてドイツで通った教会がゴチック様式の造りでした。帰国して洗礼を受けたカトリック立川教会も木造ながらその古い構造でした。

カトリックでは常に、入り口の扉が開いていて誰でも歓迎しています。内部に静かに入り、しばしお祈りをします。そして教会の中をゆっくり見物して回るのです。

私が好きだと感じ、印象の深かった教会はいろいろあります。

長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そして2度訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。

函館には何度か行きましたがそのたびにこのカトリック元町教会を訪問しています。

この教会は1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。

明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。

新しい明治政府によってもキリシタンが逮捕され、遠方に流され、多数の死亡者も出たのです。特に九州の大浦では多数の隠れキリシタンが逮捕され本州の各地の僻地へ送る流罪になったのです。津和野のように、流された先の人々によって殺された例も多いのです。

明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンがそこを訪れることが出来ませんでした。

そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。フランス人神父によって。

このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。

現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。

この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。

今日は函館のカトリック元町教会をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は函館のカトリック元町教会です。

2番目の写真は内部の左右の壁に飾ってある14個の彫刻の一つです。

3番目の写真は祭壇に向かって右側の壁です。左端のマリア様の像の右側に4つの彫刻が写っています。そして彫刻の下の壁に説明板が張り付けてあります。

4番目の写真は祭壇と左右の壁に幾つかの彫刻が飾ってあります。


「北海道の最果てトドワラ、ナラワラの不気味さ」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の写真をご紹介したいと思います。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。
まず下にの野付湾の全体の風景写真を示します。
1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。
2番目の写真はナラワラの光景です。自分で撮った写真です。よく見ると写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。
3番目の写真はトドワラです。自分で撮った写真です。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。
4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側は野付湾と言います。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の漁期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。
6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟のの風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名なのです。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。
この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から撮った国後島です。自分で撮った写真です。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)