日蓮が流罪になった佐渡の風景の写真をお送り致します。
佐渡流罪、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
・・・文永8年(1271年)10月10日に依智を出発した日蓮護送の一行は、10月28日、佐渡に到着し、11月1日、配所である塚原三昧堂に入った。
野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく、極めて厳しい環境だった。
配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は、今後の布教のためにもこの疑問に答える必要があったのです。・・・・
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE をご覧下さい。
写真はインターンットからお借りしました。
日蓮は承久4年(1222年)に生まれ 弘安5年(1282年)に60歳で没しました。鎌倉時代の仏教の僧で鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖です。日蓮宗は法華経の行者日蓮聖人の教えを信奉する宗派です。 日蓮は釈尊が説かれた多くの経典のなかから『妙法蓮華経(略して法華経という)』を選び根本聖典としました。
その日蓮さんが晩年に身延山にこの久遠寺を作って8年も座主を務めていたのです。そして郷里の安房の小湊に戻る途中、江戸の池上で入寂したのです。以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%81%A0%E5%AF%BA からの転載文です。
・・・・・文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという。
日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。
「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。・・・・・
このような理由で日蓮のお墓は久遠寺にあります。貞応元年(1222年)から 弘安5年(1282年)の60年の生涯でした。
こんなことを思い出しながら鐘楼の下のベンチで長い間、本堂とそれに続く5つの堂宇を眺めていました。身軽な家内は靴を脱ぎ、本堂に上がって続く堂宇の中を歩いていました。
今日は日蓮宗の総本山、身延の久遠寺をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)