後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「平安時代に創建された松島の瑞巌寺の写真」

2024年07月17日 | 写真
仙台で生まれ育ったので松島の瑞巌寺へは何度か行きました。松島の瑞巌寺は国宝で伊達家の菩提寺です。瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。
懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。
写真は順に、本堂、庫裏,総門、お寺の前の杉並木です。

「東京には75の曹洞宗のお寺がある」

2024年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、日本の仏教は八つの宗派があります。天台宗・真言宗・浄土宗・浄土宗真宗本願寺派・真宗大谷派・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗です。宗派の違いによって焼香の方法や葬儀でのマナーなどが異なります。

そして東京には75の曹洞宗のお寺があるのです。その幾つかを以下にご紹介いたします。

恵比寿台雲寺

恵比寿台雲寺
所在地
東京都渋谷区恵比寿1-18-1

1番目の写真は台雲寺の本堂です。

東長寺結の会納骨堂 龍樹堂

東長寺結の会納骨堂 龍樹堂
所在地
東京都新宿区四谷4-24-3

杉並 下高井戸駅近永代供養付墓所

杉並 下高井戸駅近永代供養付墓所
所在地
東京都杉並区下高井戸2-21-2

曹洞宗雲居山 宗参寺

曹洞宗雲居山 宗参寺
所在地
東京都新宿区弁天町1

心源院 のうこつぼ

心源院 のうこつぼ
所在地
東京都八王子市下恩方町1970

泉岳寺

泉岳寺
所在地
東京都港区高輪2-11-1

普門山 慈眼寺

普門山 慈眼寺
所在地
東京都港区三田4-3-24

明王山 威徳院

明王山 威徳院
所在地
東京都三鷹市新川2-1-17

慈眼寺 のうこつぼ

慈眼寺 のうこつぼ
所在地
東京都港区三田4-3-24

嶺雲寺

嶺雲寺
所在地
東京都品川区東大井2-15-10

「曹洞宗の大本山、永平寺を訪ねる旅」

2024年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
兵庫県で祖父が住職をしていたお寺は曹洞宗でした。毎年夏になると仙台から一家5人で帰省し数日泊まったお寺です。曹洞宗のお寺の本山は福井県の永平寺です。そんなことを思い出したので15年位以前に私は妻を伴って永平寺を訪ねる旅に出たのです。
今日は曹洞宗の本山の永平寺をご紹介したいと思います。
曹洞宗の大本山は永平寺と神奈川県にある総持寺の2つです。それぞれ西日本と東日本を担当しています。
永平寺は1万5千の末寺を持ち信徒800万人です。曹洞宗のお寺の住職などが毎年100名以上の人が修行僧として入山してくる修行道場です。永平寺ではこの修行僧のことを雲水(うんすい)と呼びます。この雲水の修行の日課は次の通りです。 
3:30 振鈴(しんれい)~起床~
3:50 暁天坐禅(きょうてんざぜん)朝の坐禅
5:00 朝課(ちょうか)朝のお勤め
7:00 小食(しょうじき)(朝食)
8:30 作務・坐禅
11:00 日中諷経(にっちゅうふぎん)昼のお勤め
12:00 中食(昼食)
13:00 作務・坐禅
16:00 晩課(ばんか)晩のお勤め
17:00 薬石(夕食)
19:00 夜坐(やざ)夜の坐禅
21:00 開枕(かいちん)(就寝)
1番目の写真は永平寺の雲水たちです。
2番目の写真は雲水たちが雪の中を托鉢に出て行くところです。
さてここで永平寺の歴史を簡単に書いておきます。
永平寺は道元禅師が1244年に作りました。九頭竜川支流の永平寺川上流に作ったのです。他宗派の迫害があり京都には作れなかったのです。
創建以来の火災でたびたび焼失しましたがその度に再建されます。現存する多くは近世から近代にかけて建てられた建物です。
一般の拝観ルートにある建物は国の重要文化財に指定されています。それでは私どもが入った拝観ルートの建物をご紹介したします。今日の写真はすべてインターネットの写真をお借り致しました。
3番目の写真は永平寺の正面入り口の山門です。この奥の山の斜面に20棟以上の建物がある規模壮大なお寺なのです。
4番目の写真は入ってすぐ通される大広間です。写真は座禅体験コースの様子です。一般参拝の場合は座禅をしないで座って人々が満員になるまで待っています。満員になると人品卑しからぬ高僧が静かに出て来て広い寺の中の参拝コースを説明します。曹洞宗の宣伝めいた話は一切しません。感じの良い高僧でした。
5番目の写真は広い参拝コースの中で私が一番感動した階段です。仏殿に登って行く階段ですが広いうえに傾斜が絶妙で楽にのぼれます。大げさ言えば仏の慈悲が自然に感じられるような傾斜なのです。登高の緊張も少しまじる傾斜です。この階段の上に本尊を祀る1902年完成の仏殿があります。
永平寺は門や堂が回廊で結ばれた七堂伽藍から出来ています。
6番目の写真は永平寺の主要な建物の写真です。手前が入り口の山門で一番上が本尊を祀る1902年完成の仏殿です。仏殿の左右に仏殿に登って行く階段が写っています。
 
さてもう少し詳しい話をしましょう。比叡山を下りた道元は建保5年(1217年)に建仁寺へ入り、栄西の直弟子である明全に師事しました。その後道元は真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと考えたのです。貞応2年(1223年)に宋に留学します。
道元は中國の景徳寺の如浄に入門します。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものでした。
道元は4年あまりの中国滞在を終えて帰国します。
日本へ戻った道元は初め建仁寺や興聖寺で説法と著述に励みます。しかし旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭って京都にいられなくなったのです。
迫害を避け新たな道場を築くため道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の武将、多野義重の援助で越前に行ったのです。寛元元年(1243年)のことでした。
道元は翌寛元2年(1244年)に傘松峰大佛寺を建立し、これが永平寺の開創であり寛元4年(1246年)にお寺の名前を吉祥山永平寺と改めたのです。
永平寺へは福井駅から「えちぜん鉄道」の電車に乗りました。 そして「 永平寺口駅」で下車しバスで「大本山永平寺前」まで行きました。
7番目の写真はバスの終点、「大本山永平寺前」にある門前町です。
 
蛇足ながら永平寺の仏殿や法堂など主要19棟は国の重要文化財(建造物)に指定されています。禅宗寺院の基本的な建物配置である七堂伽藍を残しています。建物は雄大な規模で壮麗な意匠です。山の自然と一体となって魅力的な所になっています。

曹洞宗の大本山の永平寺をご紹致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「山里のお寺の子供僧になった思い出」

2024年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム

誰でも子供の頃の思い出は懐かしいものです。それは人生のとっても大切なものです。今日は私がある山里で子供僧になった思い出を書いてみたいと思います。そして父の弟の孝元和尚のことも書きたいと思います。父の実家は兵庫県の田舎のお寺だったのです。

まず子供僧の写真をご覧ください。

1番目の写真は東京のあるお寺が企画した子供のお寺の生活体験の写真です。子供が袈裟を着て檀家回りに出発しようとしている場面です。写真の出典は、https://www.hongwanji.or.jp/project/report/000842.html です。

私も子供僧になった体験がありました。それは小学生の4,5年の頃、終戦直後のことでした。父方の祖父が住職をしていたお寺の小僧になったのです。夏の1ケ月の間だけ毎日意味も分からないお経を本堂で唱えるのが日課でした。
誰もお経の意味を説明しないのでチンプンカンプンの呪文のようでした。大人になってから思い出して調べました。般若心経と観音経と大悲心陀羅尼 の3つを唱えていたのです。
特に大悲心陀羅尼 はインドの古語の音を漢字で表現したものなので今でも意味が分かりません。
そのお寺は曹洞宗で兵庫県の山里の小さな集落にありました。
小高い場所に建っていたので集落の農家や水田が箱庭のように見下せました。
集落の農家は全てお寺の檀家です。家々には金色に輝く立派な仏壇があります。そんな風景写真を示します。

2番目の写真は私が夏の間だけ子供僧になった田舎のお寺によく似た寺の写真です。
正面の石段を登ると本堂があり右に庫裏がありました。左には鐘楼があり朝夕鐘の音を下の集落へ送っていました。
この写真は「山里のお寺の写真」を検索して多くの写真から選びました。非常によく似ている寺の写真を選んだのです。

3番目の写真はお寺から見下ろした集落の風景に似た写真です。
この写真は「山里の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。
集落の家は全て祖父のお寺の檀家でした。米や野菜を寄進してお寺の一家の暮らしを支えていたのです。日本の伝統文化です。

4番目の写真は寺の本堂での法要の様子です。
私も小坊主として後ろの方に座り知っているお経を一緒に唱えました。この写真は「お寺の法要の風景写真」を検索して多くの写真から似ているものを選びました。
毎年夏のお盆に行う施餓鬼供養の写真です。近隣のお寺から僧侶に来てもらい太鼓や銅鑼を打ち鳴らし賑やかな供養でした。この写真は「施餓鬼供養の風景写真」を検索して多くの写真から選びました。

さてこの夏の間だけの小僧体験で一番印象深かったのは檀家一軒一軒を回ってその仏壇にお経を上げたことでした。
私とすぐ下の弟が子供用の墨染の衣を着ます。復員してきた叔父の孝元和尚が紫色の豪華な衣を着て小坊主二人を従えて檀家回りをするのです。

5番目の写真は京都のあるお寺で撮った子供の僧たちの写真です。当時私と弟はこんな袈裟姿をしました。子供用の袈裟は優しかった叔父の孝元和尚が仕立て屋に頼んで特に作ったものです。この写真の出典は、https://temple.nichiren.or.jp/5061018-rengeji/event/shamongo/ です。

檀家回りでは集落の家を、一軒、一軒と回りその家の仏壇にお経を上げるのです。お盆の間の重要な行事です。訪問先の家の仏壇へお経を唱えると、その後に冷たいソウメンがでます。
紫色の豪華な衣を着た叔父が気取って少しだけソウメンを食べます。どの家もソウメンを出すので少しだけ食べます。
そしてお布施を3つくれるのです。大きな紙包みの布施と小坊主のための2つの小さな紙包みの布施をお盆にのせて差出します。
どの家も同じように差出します。叔父は手を合わせて拝んで大きな紙包みを取ります。小坊主が真似をしてお布施を頂きます。

こうして私と弟は人生で初めてお金を稼ぎました。
しかし稼いだお金は大阪からから仙台までの汽車の旅で使いはたしたのです。駅駅で弟とアイスクリームを買って舐めて使い果たしたのです。
自分で稼いだお金だったので一層アイスクリームが美味だったのです。あんなに美味しいアイスクリームはその後二度と会えません。当時の東海道線で花形だった流線形の特急つばめに乗って食べたアイスクリームは私の生涯で忘れられないものになったのです。

最後に優しかった叔父の孝元和尚の思い出を書きます。第二次世界大戦の時に孝元和尚は徴兵されレマレー半島で激しい戦闘を体験したようです。しかし孝元和尚は一言も話しませんでした。敵味方双方の悲劇については完全に沈黙を守りました。

人間の悪については沈黙が賢明な場合があるのです。そのことを私は孝元和尚から学びました。いつも穏やかで優しい叔父でした。

今日は私がある山里で子供僧になった思い出を書いてみました。そじて伯父の孝元和尚の思い出も書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)