後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇

2016年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
奥多摩湖は多摩川を遡った山の奥にある雄大な湖です。昨日、朝起きてみたら風薫る皐月晴れです。新緑に囲まれた奥多摩湖は美しいに違いありません。行く決心をしました。
自宅から立川、福生、羽村の堰、青梅、御岳駅前と旧奥多摩街道を根気よく2時間余ドライブすると山奥にある奥多摩湖に着きます。
予想していたとうり新緑に囲まれた湖は碧く輝いています。入り組んだ湖水に若々しい緑が覆いかぶさり夢幻の世界です。新緑のほのかな佳い香りが風に乗って車の窓から入ってきます。
この湖は高速道路も無い山奥の不便な場所にあるので数年行きませんでした。しかし若い頃は家族とともに何度も遊びに行った曽遊の地です。湖岸にそった道路をゆっくり走っていると若い頃の楽しい思い出が次々と蘇ってきます。そんな奥多摩湖の昨日の風景を1、2、3番目の3枚の写真で示します。





甲府へ抜ける柳沢峠の街道を脇にそれて入り組んだ湖岸に沿って走ってみました。
そうしたらその奥に普門禅寺というお寺があるのです。急な石段の上を見上げると江戸時代風の山門が若葉に囲まれて見えます。説明板によると寛永年間に建てられた山門です。
4番目の写真にその山門の写真を示します。

身軽な家内は急な石段を登ってお寺の本堂の写真を撮りに行ってしまいました。
静かになったので周囲を散歩しましたら5番目のような石碑を見つけました。

文章を要約すると、岩崎貞夫という共産党員が山村工作員として1951年にこの小河内村の山地に住み込んで、1953年に35歳で亡くなったと書いてあります。
ダム湖の底に沈む村人達を救うためにダム建設に命を賭けて反対運動をしたのです。
その共産主義は別にして他人を救うために35歳の命を捧げたのです。若者の死はいつの時代でも悲しいことです。悲劇です。
この石碑を見ていろいろな事を思い出しました。
この巨大なダムは1936年に着工され1957年に完工したのです。

第2の悲劇は旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられたのです。そして小河内村は、その大部分が水没しました。普門禅寺の山門も湖底に沈む運命でしたが、村人たちの懇願により小高い場所に移築されたのです。
6番目の写真に旧小河内村の風景を示します。

この旧小河内村の悲劇は小説や歌にもなりました。1937年には旧小河内村を歌った「湖底の故郷」(島田磐也作詞・鈴木武雄作曲・東海林太郎唄)がレコード発売され大ヒットしたのです。
そして戦後、ダム建設の工事が再開されると反対運動が激しく燃え上がったのです。
その一つに当時の共産党の山村工作隊があったのです。
1950年に日本共産党東京都委員会は小河内ダム対策委員会を設置しました。そして1952年になると、 日本共産党はダム破壊活動を目的とした山村工作隊を派遣したのです。
上に書いた岩崎貞夫はその山村工作員の先遣隊の一員でした。人間的に立派だったようで普門禅寺の住職に気に入られ石碑が立てられたのです。
しかしダム破壊活動は1952年の3月29日以降警察による一連の逮捕により失敗に終わったのです。

そして第3の悲劇とはダム建設によって下請作業員ら87名が殉職したことです。現在では湖畔に慰霊碑が建てられていますが、その殉難者名を見ると実の多くの朝鮮特有の姓名があるのです。
7番目の写真にその殉難者の慰霊碑の写真を示します。

今日の記事の表題の「新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇」の3つの悲劇とは、
1、ある山村工作員が35歳の若さで死んでしまった、
2、旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられた、
3、朝鮮出身者を含む87名が殉職した、
この3つの悲劇です。
現在、新緑美しいこの奥多摩湖に遊びに来る若い家族連れは多分この湖にまつわる悲しいことを知らないでしょう。
そして戦前、戦後の混乱の日本の歴史のなかの1ページとして次第に忘れられて行く運命にあるのでしょう。
地球は悲しみの満ちた器だという言葉を思い出します。そして新緑と碧い湖を見ながらゆっくりと車を走らせてきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



1 コメント

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Unknown (toboketaG)
2016-05-06 20:51:16
こんばんは。
毎日精力的な投稿に圧倒されます。
その昔小学校時代にNHKの放送番組に「おらあ!さんただ」という放送劇があったことを思い出しました。さんたは三太でしょうか? この舞台が確かダム湖に沈む前のこの辺だと記憶しています。相模湖か津久井湖の辺りかな。はっきりしませんが奥多摩であることは父親から聞きました。
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