平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している「海龍王寺」は、飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后の発願で僧・玄のために「海龍王寺」として改めて創建されたあるが、正史に記載がなく正確なところはわかっていない。しかし、海龍王寺境内からは飛鳥時代から奈良時代前期の古瓦が出土しており、平城京遷都以前に何らかの前身建物が存在した可能性が指摘されている。敷地は、平城京の条坊(碁盤目状の町割り)からずれた位置にあり、平城京内を南北に貫通する道の一つである東二坊大路は境内を避けて、東方向に迂回していることから、先に寺があり後から道がつくられたことを意味しているという。
『続日本紀』や『正倉院文書』(もんじょ)などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」などと呼ばれており、天平9年(737)には「隅寺」の存在が確認できるという。「隅寺」というのは、藤原不比等邸の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われており、呼び名の由来については、江戸時代に書かれた『大和名勝誌』にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されているという。
さて、当寺の伝説をいま少しさぐってみると、
遣唐使として中国に渡っていた玄が、天平6年(734)10月仏教の経典を網羅した一切経5千余巻と経典に基づいた新しい仏法との二つを携えて中国の港を出発しましたが、航海の途中に東シナ海で暴風雨に襲われ4隻の船団のうち、玄が乗った舟だけがかろうじて種子島に漂着することができ、翌年3月、無事に奈良の都に帰朝することができた。このとき、玄の乗船に収められていた一切経の中に「海龍王経」といわれる経典が蔵経されており、狂乱怒涛の中、この経典を一心に唱えたことで仏法を守護する善神である海龍王が、我が国に一切経と仏法とを無事にもたらせるために玄の船を護ったのだと人々に信じられた。
無事に帰国を果たした玄が海龍王寺の初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われたとある。
平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退したが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊(えいぞん=字は思円)により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34ヵ寺に選ばれている。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどり、江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受け本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たした。明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失っている。
本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多く見られる。建立年代は寛文年間(1665頃)とも伝えられる。
西金堂(奈良時代・重要文化財)は創建当時からの建物で、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存していないことから非常に価値の高いものと評価されている。また、当堂と向かい合う形で東金堂が建っていたが、明治時代の廃仏毀釈により現在は基壇の跡を残すのみとなっている。
経蔵(鎌倉時代・重文)は叡尊により中興された正応元年(1288)に建立され、高床式で大仏様式の影響を大きく受けているものの、一部に禅宗様式が取り入れられており、寄棟造のおだやかな姿が古代の蔵の面影が最もよく残されている。
本尊である十一面観音菩薩立像(鎌倉時代・重文)は、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造られたという。檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけ、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞(ようらく=珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)、手には臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん=共に環状の装飾)をつけている。衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されている。頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いている。
一方、文殊菩薩像(鎌倉時代・重文)は、目鼻口も小さく作られており、おだやかな起伏をもつ姿が自然な形状で表現されている。
取材で訪ねた日は、境内のユキヤナギが満開で、風に吹かれた白い束の花がゆらゆらと揺れ、まるで本尊の天衣がなびいているようで美しくまぶしかった。清楚な寺院にふさわしく慎ましやかな世界に包まれた。
所在地:奈良市法華寺北町897。
交通:近鉄奈良駅13番のりばより大和西大寺駅・航空自衛隊前行バスで「法華寺前」下車すぐ
『続日本紀』や『正倉院文書』(もんじょ)などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」などと呼ばれており、天平9年(737)には「隅寺」の存在が確認できるという。「隅寺」というのは、藤原不比等邸の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われており、呼び名の由来については、江戸時代に書かれた『大和名勝誌』にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されているという。
さて、当寺の伝説をいま少しさぐってみると、
遣唐使として中国に渡っていた玄が、天平6年(734)10月仏教の経典を網羅した一切経5千余巻と経典に基づいた新しい仏法との二つを携えて中国の港を出発しましたが、航海の途中に東シナ海で暴風雨に襲われ4隻の船団のうち、玄が乗った舟だけがかろうじて種子島に漂着することができ、翌年3月、無事に奈良の都に帰朝することができた。このとき、玄の乗船に収められていた一切経の中に「海龍王経」といわれる経典が蔵経されており、狂乱怒涛の中、この経典を一心に唱えたことで仏法を守護する善神である海龍王が、我が国に一切経と仏法とを無事にもたらせるために玄の船を護ったのだと人々に信じられた。
無事に帰国を果たした玄が海龍王寺の初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われたとある。
平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退したが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊(えいぞん=字は思円)により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34ヵ寺に選ばれている。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどり、江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受け本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たした。明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失っている。
本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多く見られる。建立年代は寛文年間(1665頃)とも伝えられる。
西金堂(奈良時代・重要文化財)は創建当時からの建物で、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存していないことから非常に価値の高いものと評価されている。また、当堂と向かい合う形で東金堂が建っていたが、明治時代の廃仏毀釈により現在は基壇の跡を残すのみとなっている。
経蔵(鎌倉時代・重文)は叡尊により中興された正応元年(1288)に建立され、高床式で大仏様式の影響を大きく受けているものの、一部に禅宗様式が取り入れられており、寄棟造のおだやかな姿が古代の蔵の面影が最もよく残されている。
本尊である十一面観音菩薩立像(鎌倉時代・重文)は、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造られたという。檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけ、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞(ようらく=珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)、手には臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん=共に環状の装飾)をつけている。衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されている。頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いている。
一方、文殊菩薩像(鎌倉時代・重文)は、目鼻口も小さく作られており、おだやかな起伏をもつ姿が自然な形状で表現されている。
取材で訪ねた日は、境内のユキヤナギが満開で、風に吹かれた白い束の花がゆらゆらと揺れ、まるで本尊の天衣がなびいているようで美しくまぶしかった。清楚な寺院にふさわしく慎ましやかな世界に包まれた。
所在地:奈良市法華寺北町897。
交通:近鉄奈良駅13番のりばより大和西大寺駅・航空自衛隊前行バスで「法華寺前」下車すぐ