「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「石上神宮」「いそのかみじんぐう」

2010年02月16日 17時31分00秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 現存する書院が日本住宅建築史上最古という神社があるといこので天理市まで車を走らせた。

 石上神宮の書院は建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築といわれ、日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の傑作と評されている。その一つの「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えており、きわめて古風な「後醍醐天皇玉座」 は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院でたいへん興味深いものがある。

 神宮は元吉水院と称し今から凡そ1300年前、白鳳年間(650~54)に役行者の創立と伝えられ、布都御魂剣に宿る神霊「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」を主祭神としている。
 明治の初めまで修験道の勢力と共に発展して来たが、明治維新の神仏分離の際(明治8年)神社と改まったものである。当宮は南朝の元宮で、後醍醐天皇を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠正成、吉水院宗信法印を合祀している。

 また、当宮は源義経と静御前の悲恋物語としても知られている。
 文治元年(1185) 源義経は兄頼朝の追手を逃れて静御前、弁慶等と共に吉野に潜人し当宮に匿われていたが、しかしすぐに知られるところとなり吉野を離れ奥州へ落ちのびた。
「吉野山 峰の白雪ふみ分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と歌われたように義経と静の哀しい舞台となった情景が目に浮かぶ。保存されている「義経潜居の間」「弁慶思案の間」など数々の遺物を見ることができる。

 さらに豪華絢爛を誇った太閤秀吉の花見の地としても名高い。
文禄3年 (1594)豊臣秀吉が当宮を本陣として盛大なる花見の宴を催し、徳川家康・伊達政宗・加藤清正・前田利家・宇喜田秀家等が勢揃い、数日間滞在して歌の会、茶会、能の会を開き豪遊、その権勢を示したことは、「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」の歌で伺い知ることができる。天下をとり春を謳歌した秀吉の威勢が現われている。

 この他、水戸光圀(水戸黄門)直筆の書が保存されており、光圀が大日本史を書くにあたって南北朝の歴史を調べるために「佐々助三郎(助さん)」を吉水神宮に派遣したとあるが、この書状でにその証がみられる。
 また、369年に百済王が倭王に贈ったと伝わる「七支刀」(しちしとう/国宝)」が所蔵(非公開)されており、古代日朝関係を解明する手がかりとなっているという。飛鳥時代から、当時の有力な豪族で軍事面を司っていた「物部氏」(もののべし)の総氏神として繁栄し、大和朝廷の武器庫としての役割も担っていたことから残されていたのだろうという。
 1300年ごろの建造という「摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)」は国宝に指定されているが、廃寺となった内山永久寺から1914年に移築されたものだそうだ。両脇が板張りで、中央は土間になっており、建物の中央がやや上がっているが、これは馬道(めどう)という造りだそうだ。「楼門」は重要文化財、本殿は禁足地となっているため見ることができない。

 深い歴史の中にほんわかとする光景を境内にみることができる。なぜかニワトリたちが雄々と闊歩しているのだ。話をきけば20数年ほど前に誰かが捨てていったものだったそうだが、現在は神の御遣いとして大事に扱われているのだそうだ。

 所在地:奈良県天理市布留町384。
 交通:天理駅から奈良交通バス「石神神宮前」下車すぐ。
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